海の匂いの人々 4/10

「えーと……。つまり、ベルタさんの魔術は時限爆弾みたいなものだってことですか? それって危なくないですか?」

「そうさあ。だからベルタは魔術を使いたがらねえ。……つっても、どんな魔術でもバックファイアは起こりうるんだけどなあ。風邪っぽい時に使っただけドカンってこともある」

「じゃあ、もしも僕が魔女だとしても、魔術は使わないほうがいいんですね」


 矢淵のいうことには一理ある。だが流依はそれを聞くと「バーカ」と言い放って呆れる。


「ケースバイケース、メリットとリスクの話っしょ。どっちにしろ、使わなきゃわかんなくね。ってかさ、本当に使ったことねーの? ちょっとくらい、不思議なことが起こったりしなかったか?」

「流依さんとこんな話をしているのが一番不思議ですよ」


 不意を突かれたのか、流依はげらげらと笑った。


「確かにそうかもしんねえなあ! あーしにとっちゃこっちが当たり前だから、なんか笑っちまったわあ。なかなかおもしれえこと言えるじゃねえか」


 流依は腹を抱えて学校中に響きそうな大声で笑う。あんまりにも笑うものだから、矢淵はバツが悪くなった。


「そんなに笑わなくても……」

 気恥ずかしさから弁解しようとした矢淵は、声を失った。視界の端っこで、階段の吹き抜けの隙間を何かがするりと落ちていったのだ。


 本来、自分たちは誰もいないはずだ。何かが落ちてくることだけでもおかしい。

 それなのに、落ちてはいけないものが落ちていったのだ。それは本来、重力にまかせて落下してはいけないものだ。その現場に居合わせたら、と考えただけでぞっとするものだ。


 虚ろな〝それ〟と目が合ってしまった。


 奇妙で単純で、身の毛がよだつ音が階下から響く。彼の脳裏に、スイカを落とした記憶が蘇る。真っ赤な果肉が、焼けついたアスファルトのざらざらした表面にこびりつく光景だ。


 それに似たことが階下で起こっているに違いない。


 落ちていったのは、人だった。学校の制服を着た、女生徒だった。血だらけのワイシャツに、スカートを履いていた。

 自分の記憶を再生しながら、矢淵は血の気が引いていく。


 鼓動だけがやけにうるさく聞こえる。上手く空気を吸い込めない。どうしても自分が見たものを信じられず、彼は手すりから身を乗りだして下を見る。


「どーした?」


 異変に気づいたのか、流依も覗き込む。しかしそこには、何もなかった。スマホのライトでは底まで光が届かないのか、闇が広がっているだけだった。


「ひ、人が落ちてったんです」

「はあ? どこに?」

 矢淵の隣で、流依は口元を吊りあげる。おののく矢淵を小馬鹿にしているのだろう。


「この階段の吹き抜けを、女子が落ちてきたんですよ」

「少なくともあーしの目はなんも見てねえけどなあ」


 流依は何事もなかったように階段を進む。釈然としないまま、彼もそれに続いた。怖がりすぎて見てしまった幻覚だ、と自分に言い聞かせながら。

 5階にたどり着いた二人は、本館からタモクへの渡り廊下へと足をすすめる。タモクとは別館のことで、そこに体育館や特別教室が集められているのだ。高い場所にある渡り廊下はデパートのようで面白いが、使う生徒は少ない。


 教室4つ分ほどの長さの渡り廊下を、流依が歩いていく。窓からは月光が差し込み、雑木林よりも高い場所に来たのだと教えてくれる。見晴らしがよく、この前の繁華街が遠くに見える。明るいせいか、空までぼんやりと白んでいる。


 彼はそこでしばし景色を眺めていた。周りが田んぼばかりだと、高いところから見下ろすというのは新鮮だ。深夜ということも相まって、特別さすら感じられる。

 その景色の隅っこで、また何かが動いた。そこにはさっきまでいた本館の校舎があった。そこの窓際からこちらを見つめる人影がある。木鳩と金本かと思って手を触ろうとした。


 彼は、そのままの姿勢で硬直した。

 人影の上半身が真っ赤だったからだ。俯いていて顔はわからない。だが木鳩じゃないことは、髪の色ではっきりとわかった。

 矢淵が目を凝らすと、彼女の立っている場所がどこだかわかった。

 わかった途端、ぞっとした。

 そこは例の階段だった。目を瞬くと、そこには誰もいなかった。

 やっぱり、きっと、絶対に見間違いだ。


 自分に言い聞かせて息をついた矢淵は、別の場所にその少女を見つけて絶句する。場所はさきほどよりも渡り廊下に近い。

 少女の首には傷があった。割かれた皮膚は無残にめくれ、月の灯りでもわかるほど鮮明な赤い液体が、じんわりと染みだしている。

 少女を見つめ続けることしか矢淵にはできない。死んでいるのか、生きているのか。もしかして助けを求めてるんじゃないか、疑問が彼の頭蓋の中で跳ねまわる。


 とにかく恐怖から逃れたい彼は、ここなら絶対に大丈夫だ、と確信して視線を落として床を見る。

 誰かのローファーの靴先があった。


「……っ!!」思わず腰が抜けた矢淵は転んでしまう。


 彼の数歩先で少女は相変わらず俯いていた。矢淵が怯えていると、少女は手を差しだした。血にまみれた指先から、ぽたりと血が垂れる。それは床に触れた途端、一瞬だけ緑色に光ると跡形もなく消え去る。


「た……助けて……ほしいんですか?」


 彼女はより深く頷く。首の傷口から、血がさらに溢れ、ぱたたたと床に落ちる。

 差しだされた手を握ってみると、それはちゃんと暖かい、生きた人間の手だ。

 落ち着いた矢淵の耳に、かちゃんという金属音が届く。音がした方を見ると、触れてもいないのに窓が開いた。


 だがなぜ? 窓の外からカエルの鳴き声と、生暖かい風がいっせいに飛び込んでくる。


「いっしょに」


 少女が言うやいなや、風船のごとくふわりと浮かんで窓の外に流れていった。矢淵の手が引かれる。手をほどこうにも、くっついてしまったかのように離れない。


 少女は窓の外でおどろおどろしく浮かび、何を言うこともせず俯き続けている。


「いつまで景色眺めてんだあ? ……なにやってんだお前!」


 渡り廊下の奥からひょっこりと顔をのぞかせた流依が、最初はからかうように、次に危機感を孕んだ大声をあげて駆けだした。

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