海の匂いの人々 2/10

 ことの発端は、学校で流れたうわさ話だ。怪談の一種らしく、学校中で我こそはと大仰に噂を語る吟遊詩人が出現した。もちろん、矢淵の友人である金本もその一人だ。

 昼食時のざわついた教室でハムカツパンをかじりながら、金本は矢淵にべらべらと喋りはじめた。


「女バスの子がさ、夜まで一人で居残り練習してたんだと。そうしたら、体育館の入り口から誰かがこっちを見てることに気づいたわけだ。忘れ物でもしたのかな、と思って気にせず練習を続けてたらしいんだけど、しばらくほっといても、まだそこにいるんだよ」


 キャベツが服にこぼれているが、矢淵はいちいち指摘しない。彼を止める方法がなんてないと、長年の付き合いで学んでいるからだ。


「なんでずっとここにいるんだコイツ、って思った子がそこに歩いてったら、目を離したほんの一瞬のうちに消えてたんだってよ。その子もさすがに怖くなって、電気を消して体育館から出ていこうとしたんだよ。そうしたら、後ろでボールが跳ねる音がした」


 今までのとぼけた口調から一転、最後だけ囁く。懐かしい感じの怪談だな、と矢淵は思うが水は差さない。


「そんで振り返ったら、真っ暗な体育館の中に誰かがいるんだ。その子が目を凝らしてみると、やけに赤黒い水たまりの上に、女子が立ってたんだと。目を凝らしてみると、水たまりじゃない、血溜まりだった! そりゃーもうびっくらこいて急いで逃げだしたんだけど、出口で何かにぶつかって転んじまったんだ」


「……それで?」


「尻もちついて見上げてみたら、そこにいたのはさっきまで体育館の真ん中に立ってた女の子なんだと。思わずびびったけど、優しく笑って手を差し伸べてきた! 『ああ、多分さっきのは見間違いだったんだな』と安心したその子が手を握った……ア、次の瞬間!」


 教室に金本の芝居が轟く。

「その子の手首がもげて、血が吹き出したんだとよ……」

「グロい話かよ」


 矢淵は弁当箱の中のウィンナーを見て、箸を置いた。血まみれの指に見えてしまったからだ。


「それで、その子は?」

「そのあと職員室に駆け込んで教師を呼んだけど、体育館には何もなかったんだと。……終わり」

「なんだかよくわからない怪談だなあ」


 矢淵はそういったものの、いまいち否定しきれずにいる。ここ2週間で2回も意味のわからない出来事に巻き込まれたばかりだ。それに比べればありえる話だ。逆さまに言えば、それと比べると怖くない。

 矢淵は木鳩を見やる。彼女は女子グループの中でコンビニ弁当を食べながら、いつも通りにテンション高く笑っている。ふと矢淵と目が合うと、彼女は目をそらした。矢淵もなんとなくそうした。


「クハハ、現場にいなかったくせに話は合ってるじゃん。えーと、誰だっけ」


 矢淵の後ろから笑い声があがった。


 二人は恐る恐る振り返る。眠っていたのだろう、そこには腕枕の跡がくっきりとついた胡乱げな少女の顔があった。淡い紫色の前髪の狭間から、淀んだ灰色の瞳が矢淵たちに向けられている。


「矢淵です」

「俺はかね……」

「金本っしょ、あんたは知ってる。うっせーからな。あたしは荻野流依おぎの るい

 尊大に自己紹介した彼女は、腕枕を崩さずに二人を見上げる。


 男二人はお互いに目線だけで『ヤバい』と伝えあう。

 流依は学校では有名な不良だったからだ。授業中に起きていたことは数えるほどだし、派手に染まった紫色のロングヘアーに、剣呑とした目つき、そして絶妙な口の悪さは定評がある。


 さらに、学校で起こした不祥事は入学して数ヶ月しか経っていないにもかかわらず、誰もが知っている。剣道と柔道の教師を悪辣な技で怪我させたり、寝ているのを注意した教師をぶん投げたり。かと思いきや世界史の授業で間違っているところをあげつらって教師を閉口させたりと、まあ人並みではない。

 それらの現場にいた二人は、自分の真後ろに座っている彼女について、話題にしたことはない。眠れる獅子は起こすな、それが共通認識だった。


「荻野さんは現場にいたんですか?」

 矢淵は平静を装って聞く。

「名字とか、かてぇなあ」と彼女は矢淵を睨みつける。

「いやそんな喧嘩腰にならないでくださいよ」

「そうじゃなくて下の名前で呼ばね? 流依でいいし」


 金本が矢淵にやるじゃん、とアイコンタクトする。確かに普通に話しているだけ快挙だ。

 今までの態度を改めるべきなのかも、と矢淵は先入観に囚われていた自分を恥じた。


「あー、えっと……。流依さんは何を見たんですか?」

「正確には見てねえけどさ、現場にはいたよ」

「そうだぞ矢淵。見たとはおっしゃっていなかったぞ」


 舎弟じみたへりくだりかたをした金本に、矢淵が振り向く。彼がこんなまともな言葉づかいができるなんて全く知らなかった。


「あーしもそんときその場にいてさぁ。悲鳴が聞こえたと思ったら教師がぞろぞろ走っててよー。なんつーか、マジでヤバそうな顔しててけっこーウケたんだよな」

 流依は腕枕に顔を横たえると、げらげらと笑った。


「夜だったんですよね。流依さんは何をしてたんですか?」

「んー? あーしはタモクの非常階段にいただけだよ。影になってて涼しいんだよ、あそこ」


 金本と矢淵はピンときた。いつかのホームルームで吸い殻が見つかったと教師が言った場所だ。あのときは、まさか犯人が自分の後ろに座っているなど思いもしなかった。


「それよりさぁ、確かめてみたくね?」

「え?」

「本当に幽霊がいんのか、だよ。あーしそういうの見たことないからさー」

「いいっすね! ぜひやりましょう! 肝試しだ!」


 勢いよく椅子から立った金本を仰いで、矢淵はぽかんとする。

 びびっているとはいえ、自殺行為かどうかの判断すらできない人間だとは知らなかった。


「まさか。冗談ですよね」


 流依に向かってそう口にしたのと同時に、金本は器用に机の間を縫って女子グループの方へ走っていく。そっちを誘う口実か、と矢淵は納得した。


「木鳩さーん! 今夜肝試しやるんすけど来ませんか!?」


 早い、強い、うるさいと三拍子揃った金本の呼びかけに、女子グループ全体が反応する。どちらかといえば否定的な作り笑いが彼女らの顔に張りついていた。


「えー、でも……」


 矢淵はひっそりと聞き耳を立てる。

 そのうち木鳩がスマホをいじりだしたので、矢淵は少しほっとした。これは断る口実を探していると直感したのだ。


 実際のところ、それはほとんど当たっている。木鳩は加賀崎とベルタに、肝試しに代わりに参加してほしい、とメッセージを送っていたのだ。木鳩は加賀崎から矢淵を監視するよういいつけられているが、今の関係性で二人きりになるのは望ましくない。

 まあオーケーしてくれるでしょ、と甘い見通しで返事を待つ。しかし、返ってきたのは無慈悲な内容だった。

『残念ですけど今夜は予定が入っています。ベルタも私についてきていただきますから、交代は無理です』という返事だ。

 木鳩は小さく舌打し、自分はさんざん呼びつけるくせに、と恨めしく呟いた。それから金本にため息交じりで告げる。


「わかった、私も行く」

「っしゃおら!」


 ガッツポーズを決めた金本に木鳩は肩を落としてついていく。


「あーその、木鳩さんが来てくれるなら頼もしいよ」

「あー、うん。いやー、イベントに誘われることは多いけどこういうのは実は初めてかな」


 木鳩と矢淵はぎこちなく言葉をかわす。木鳩は醜悪な姿を見られてしまったことに引け目を感じている。矢淵はそれに気づいていながらも、励ますタイミングを測りかねている。


 そのうち、木鳩はむしゃくしゃしてきた。肝試しなんて木鳩からすればただの散歩だ。そういうことを楽しめない自分の生い立ちや境遇が、ひたすらに恨めしい。


「なに? どしたん?」


 そんな木鳩の感情を見抜いたのか、流依が話しかけてくる。ほとんど話したことのないクラスメイトなのに鋭いなー、と木鳩は内心驚いた。


「いやー実は肝試しってしたことなくて。ちょっと怖いかな? なんて」

「幽霊が? 違うんじゃね?」


 流依はそう言って木鳩の瞳を見つめた。すると、なぜか木鳩は安心した。どこかで味わったことのある感覚だが、どこでだかはわからない。


「んじゃ、今夜決行。いいっしょ金本」

 木鳩から視線を外した流依が、そう言って話しあいをまとめる。


「もちろんです」

 すっかり従者が型にはまった金本が答える。流依は目を細めて「くるしゅうない」と答える。


「いやいや、急すぎますって」

「んー? 聞こえんなぁ。金本、なにか聞こえたかぁ?」

「いいえ」

「いきなりすぎるって言ってるんですよ」

「あー?」


 矢淵が口を挟むと、流依が低い声で威圧し、彼をにらみつける。元々彼女の声は女性にしては低いほうだが、今は唸るトラのようだ。

 流依は矢淵の前に回り込み、机に手をついて見下ろす。金本はたじろいでいたが、矢淵は椅子に座ったままじっと流依の瞳を睨み返す。すると流依の瞳が細められる。


 最初は威嚇かと思ったが、どうも様子がおかしい。それどころか、涙が滲んでいるようにすら見える。

「そうだよな。あーしと一緒じゃつまんねえよな……悪かったよ」

「い、いやそういうわけじゃなくって」


 ぼそりと呟く彼女に、矢淵は焦った。


「あーし、友達と遊ぶの初めてだったから。ちょっと悪ノリしすぎたわ。やめよっか。ってか、友達でもないっしょ、ごめん」


 流依はそう言って、駆け足で教室から出ていこうとする。

 それを見ていた木鳩は嫌な予感がした。矢淵との付き合いは浅い。だけれど、彼がこういう時どんな行動を取るかくらいは想像がつく。


 矢淵は彼女を追いかけると、手を引く。うつむいている流依に、矢淵はこう言ってしまった。


「一緒にやりましょう。クラスメイト……いや、友達、友達です!」

「言ったなぁ。楽しみにしてるわ」 流依は勝ち誇った笑みの浮かんだ顔を見せつけた。


 ああ、やっぱり。騙されちゃった。と木鳩は心中で吐き捨てた。

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