忘れえぬオサナナジミ 4/5

 日は沈みきり、アパートから見える川向うの空を、紫色ににじませていた。


 夕飯の買出しを終えて玄関のドアを開けた矢淵を待っていたのは、美智留だった。玄関で膝を抱えて座っていた彼女は、矢淵が帰ってくると顔をほころばせた。


「おかえり。遅いから何かあったのかと思っちゃった」

「どうしたんだよ、勝手に入って。風邪は大丈夫なのか」

「大丈夫。お腹すいた。何か食べたい」


 美智留は買い物袋とクッキーのバスケットを持って台所に走っていく。その背中を眺めて、矢淵は内心まんざらでもなかった。


 そんなだらけた顔を晒していると、呼び鈴がなった。美智留の足音がこちらに戻ってこようとする。


「俺がでるよ」矢淵はそう言って美智留を静止する。


 再び靴を履いた矢淵は、ドアノブを回す。その目に映ったのは、淡いピンク色の髪だった。


「こば……」


 名前を口にしようとした矢淵は首根っこを捕まえられ、外へ引きずり出された。驚くほど強い力に、矢淵は声もあげられない。気管を潰されたような圧迫感が彼の首を襲った。そのまま壁際に座らせられ、柔らかな手で口をふさがれる。


「おとなしくしてね。君のためなんだし」


 木鳩はウィンクし、矢淵の足にのしかかる。彼女の柔らかそうな体とは対象的に、発達した筋肉が彼を押さえつけた。もがいていると、蛍光灯の光が遮られたことに気づいた。誰かがこちらを覗き込んでいるのだ。加賀崎とベルタだった。


 服装こそ学校の制服のままだが、ベルタはショットガンを持っていた。加賀崎はスカートの上に太いベルトを巻き、革袋を吊り下げている。なんだかわからなかったが、彼女の手に拳銃が握られているのを見つけると、その革袋が大きなホルスターだとわかった。改めて自分の肩を押さえつける木鳩の手を見ると、そこにも大きな拳銃が握られていた。


「木鳩ちゃんはそのまま矢淵さんを捕まえておいてくださる? 作戦通り、ポイントマンは私で突入いたします。大したことはないと思いますけれど、念の為ですわ」


 こくりとベルタが頷き、ショットガンをスライドさせる。


 音を立てぬようドアを開け、加賀崎、ついでベルタが中に乗り込んでいく。矢淵はやめろと声を上げようとするが、開いた顎に木鳩の二の腕を口に挟み込まれて口を塞がれる。


 美智留が危ない。

 逡巡しながらも、矢淵は木鳩の二の腕に噛み付いた。だが彼女は痛がる素振りも見せずに、平然と彼の口を封じ続ける。女性の身体に歯を立てることに抵抗感を感じていた彼だったが、今度は本気で噛んだ。しかしそれでも、木鳩は何の反応も示さない。


 それどころか木鳩の顔はどこか恍惚としていた。口を大きく開けてあらっぽく息を吐く。その口内からは、ぎらりと光る牙が覗く。人間の歯とは明らかに違う獣じみた牙に、彼は恐怖を覚える。そんな矢淵の足の間に、木鳩は自分の艶めかしい太ももを潜り込ませて耳元でささやく。


「矢渕くん、美智留ちゃんの顔をはっきり思い出せる?」


 矢淵は眉をひそめる。が、おかしなことに思いだそうとしてもぼやけたイメージしか思い浮かばない。あれをやった、これをやった、というイメージだけが湧いてくるが、近くで見た油絵のようにはっきりとしない。

 額にしわを寄せた矢淵に、木鳩は告げた。


「思いだそうとしても無理だよ。君には幼馴染なんていないんだから」




 加賀崎はキッチンからの物音を聞きつけ、別方向を警戒するベルタの肩をとんとん、と叩いた。こくりと頷いたベルタは加賀崎の後ろにつく。体を斜めにして拳銃を胸の上で小さく構えた加賀崎は、物音を立てないようにリビングの中を進んでいく。


 斜め後ろでは、銃口を上に向け、左脇にストックを挟んだベルタが続く。これは前を歩いている人物を即座に撃たない銃口管理であり、いざというときに銃を盾にする副次効果も望める構えだ。


 リビングにはテレビと背の低いテーブルがあるくらいのものだ。テーブルのそばには、座布団が2つ置かれている。加賀崎は訝しげに目を細めた。


「どうやら、ただの記憶の改竄ではなさそうですわ」


 台所へ踏み込んだ二人は、そこにいる物体を見て唖然とした。そこにいたのは、生き物かどうかすら怪しい、コールタールのような粘液だったからだ。それが人の手を模倣した触手を形成し、冷蔵庫の中にせっせと食品を詰めている。

 二人は銃口をそれに向けると、口を開いた。


「動くと撃ちます」


 ベルタがそう言うと、スライムは先の尖った触手を形成し、素早い突きを放った。加賀崎は避けることもせず、左手をかざす。するとその槍が彼女の直前で、眩い緑色の閃光を放つ。触手はそこに灼熱の壁でもあるかのように、切断面を真っ赤に輝かせて焼ききれる。


 スライムは何度も攻撃するが、全て彼女の前で閃光を放って消し飛んでしまう。

 スライムは攻めあぐねたのか動きを止める。そこを見計らって、加賀崎が発砲した。

 同時にベルタも発砲する。ショットガンの銃声はひときわ大きく室内を揺らす。


 弾丸が台所の床ごとスライムをずたずたに引き裂いた。そこら中に弾けとんだスライムは、ぴくりともしない。加賀崎は破片の一つ一つに手をかざし、丹念に焼き殺す。溶接のように断続的な閃光が、台所どころかリビングまで真緑色に染め上げた。


「ベルタ、このスライムのことご存知かしら?」

「いいえ、見たことはありません。下級の使い魔でしょうね」




 轟いた銃声に木鳩は振り向く。

 この数分間ずっと隙を伺っていた矢淵がそれを逃さないわけはなく、木鳩に頭突きを放った。


「ったぁ~! 痛いってば! 君を助けるためにやってるっていうのにもう!」


 今度は不思議と痛がった彼女は、銃を捨てて矢淵を抑え込もうとする。その手を正面から押し返そうと、矢淵は彼女に手を重ねる。力比べのような状況なのに、木鳩は鼻で笑っていた。


「男の子なのにこの程度の力しかないのかなぁ?」


 木鳩の細腕は、矢淵がいくら力を込めようがびくともしない。まるで柱を相手にしているようだ。


「どうして! なんでこんなことをするんですか!!」


 矢淵が叫ぶと、木鳩の筋肉がボコボコと浮きあがった。


「えっ?」


それは木鳩が全く予想だにしていないものだ。体が水風船のように膨れ上がったかと思うと、木鳩は鉱夫のような筋肉になり、制服がびりびりと避ける。脈動した彼女の体は、狼のようともヤギのようとも形容できそうな、奇妙なものへと変貌する。


暴発バックファイア!? なんで……!?」


 木鳩は突如として暴走した自分の体に驚き、立ち上がろうとして尻もちをつく。その間隙を縫い、矢淵は靴も脱がずに中へ駆け込んだ。


 台所に入った彼は、加賀崎とベルタの先にある光景に目を剥いた。そこには倒れ伏して血を流した美智留がいたのだ。腹に銃弾を受け、血溜まりを作っている。


 しかし、加賀崎とベルタから見える景色は無数の穴が空いた床板と、まだ掃除しきれていない黒い飛沫だけだ。そこに人間の死体はない。


 彼は呆然としてその場で膝を屈した。喉が痙攣しているのだろう、泣き声にもならない空気の通る音が漏れる。

 そんな彼の口に指を突っ込むと、加賀崎はためらわずに矢淵の口を開かせる。ポケットから小さな小瓶を取り出したベルタが、中身を口の中へ垂らした。


 矢淵は咳き込みながらそれを飲み込む。するとどういうわけか、美智留の姿が歪み始めた。


 目をこすった彼が目にしたのは、加賀崎とベルタが見ている光景と同じものだった。事態が理解できない彼が落ち着くのを待って、加賀崎が話しかける。


「今飲ませたのは解毒剤……のようなものですわ。あなたは夢を見せられていたんですの、矢淵さん」

「夢? 何が……?」

「幼馴染との生活という夢ですわ」


 矢淵は頭を振る。まだ事態が理解できないのだろう。その時、矢淵のスマホに着信があった。そこには佐藤美智留と表示されている。


「いや、いるんですよ美智留は。ほら見てください!」まるで亡霊のようなそれを見て、矢淵は証拠があるとばかりに色めき立つ。

「原因はそれですのね」


 スマホを取りあげた加賀崎は、スマホについた“ストラップ”を緑色の閃光と共に消滅させる。プラスチックの燻る臭いがあたりに漂った。

 すると矢淵は慟哭するのをやめ、ハッとした顔で二人を見やる。ベルタと加賀崎は頷きあった。


「このストラップを媒介に操っていたようですわね。矢渕さん、このストラップは誰からいただいたものでしたか?」

「えーと、201の部屋の人です。名前は……」

 矢淵は頭をひねる。確かに先程まではそこに佐藤美智留という幼馴染が住んでいた、と思っていたのに今は全然別の名前が出てくるのだ。


「斎藤晴海です」

「そいつが今回の事件の犯人で間違いありませんね、行きましょう」

 ベルタがショットガンを背に回す。


「ちょ、ちょっとまってください。どういうことですか? 一体何がどうなってるんですか!? 美智留って人はどうなったんですか!? さっきまで確かにいたんですよ!」

「あなたの頭の中だけですわ。そんな人は元からおりませんの」

「そんなの納得いきませんよ! いたはずなんですってば!」矢淵は立ち上がって加賀崎の肩を掴んだ。

「でしたら、いま明確に思いだせるかしら? その人との最初の記憶はなんですか。その人の両親の名前は? どんなことをするのが好きな人でしたの?」


 矢淵は押し黙る。記憶の井戸を攫うが、たしかに彼女の言う通り、美智留を思いだせない。薄ぼんやりとした、幸福そうな笑顔が浮かんでは消える。ただ幸せだった記憶だけが去来するが、霧のように消えてしまう。あった、という事実だけが彼の中で現実で、その中身は何もなかったのだ。


「ついさっきまでそこにいたんです。ついさっきまで……」


 加賀崎は黙って矢淵に手をさしのべる。

「これから真相を暴きに参りましょう。201の合鍵、大家さんならお持ちですよね?」

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