植木鉢のサボテン
ひつじ
植木鉢のサボテン
何もなかった夏が終わった。大学生活二度目の夏。
青空は相変わらず綺麗だったけれど、風はどこか冷たくなっていた。吐く息が寂しかった。新聞をとって、家の中に戻る。
ちょっと早く起き過ぎたので、部屋の椅子にもたれながら、植木鉢のサボテンを眺める。高校生の頃、同級生が誕生日にくれた小さなサボテンだ。
その頃よりはちょっとだけ大きくなっているような、そうでもないような。
サボテンはうまく育てると花が咲くらしい。だけどいまいち育て方がわからないから、僕は少しだけ水をやって、とりあえず眺めている。眺めているからって、何が起こるわけでもない。小さなサボテン。
どこかぼんやりとした頭で荷物を詰め、僕は少し伸びをする。遠ざかっていた日々が戻ってくるようだ。
朝食をとることもしばらく忘れていた僕は、今日もそれを忘れた。坂道を下る。駅までの道。すっかり聞こえなくなった蝉の声。
なんだかつまらないな、と思った。それだけだった。
朝の授業なら、開始十分前には教室にいるようにする。僕の一見真面目に見えるポーズ、その一。特にすることはないから、本を読んでいる。夏休みに課題として出された本だ。けれど、特にそれを読んでどうしようってわけじゃない。だから僕は適当に読んでいる。
十分前を過ぎて、だんだんと教室に人が入ってきた。その中に、やけに急いで駆け込んでくる人がいた。僕は手を振った。彼は近づいてくる。
「はよー、久しぶり」
「おはよう。というかなんでそんなに急いできたの?」
「えっ、授業、始まってるかと思って」
彼は荒い息を整えながら、おかしいな、といったように周囲を見回す。
「まだ十分もあるよ」
僕は本にしおりを挟んで、カバンの中に落としながら、にこりと笑った。彼は頭を掻いて、「あちゃー、間違えたわ」とか言いながら、僕の横の席に勢い良く腰を下ろす。がたいのいい彼は、よく日に焼けていた。
「海行ってたんだっけ」
「友達と泊まりで。めっちゃ焼けた……お前は白過ぎない」
「引きこもってたからね。もやし万歳」
「何? あれか、小説書いてたの?」
「はは、そんな真面目に見える」
彼は大真面目に「見える」と言った。僕はそんな彼に、さもおかしそうに笑った。
「なにもしてないよ。寝て、起きて、ご飯食べて、それだけ」
「嘘つけよ、きっと何かためになることしてるだろ。一見なんでもないようなことでも、脳味噌に栄養は行ってるんじゃない」
彼が教科書を探しながら、こっちを見ずに答えるので、僕は笑みは消して、ぼんやりとなにも書かれていない黒板を眺めた。休み明けだというのに、薄汚れている、かと言って何が書かれてるわけでもない黒板を。じっと。
「本当にそう思う?」
「なに、マジな話?」
ちょっと警戒した声音の彼に、「まさかぁ」と僕は肩をすくめてみせる。
「なにもなかったってのはマジだけどね。小説なんて、頭の一週間で書くのやめた」
「ま、夏休みなんてそんなもんだよなぁ。俺だって友達と遊びに行きまくってた」
いいじゃん、遊びに行ってるなら。誰かと接して過ごしてるなら、脳味噌にきっと栄養は行ってるんだよ。きっと、お前はそうなんだよ。
「そんなもんだよねぇ」
ノートは真面目に取り、授業はしっかりと聞く。席は前の方。僕の一見真面目に見えるポーズ、その二。つまらないような話にも、どこかしら面白いところを見つける。難しければ、その恰好だけでもする。僕はそういう、小手先の暇つぶしと、ポーズは上手かった。
「この先生、面白くないな。なんかわかりづらいし」
授業後のざわつく教室で、彼はため息と一緒に言った。「そうだねぇ」と笑う。
「次も授業なん?」
「僕は次休み」
「どこ行く? 図書館? 途中まで一緒に行かね?」
「おーけー」
彼を追いかけるように、僕も荷物を背負いながら立ち上がる。いつも通りの毎日が戻ってきた。だから僕はいつも通りにならなければいけない。いつも通りに?
「時間が経つのは早いもんだねぇ。この前夏休みに入ったと思ったのに」
「そうだね。この前大学に入ったと思ったのに」
「いや、そこまではいかないわ」
彼が呆れたように返す。僕は「マジかぁ」と驚いてみせる。
「そう言えば僕、家でサボテン育ててるんだけどさ」
「なんでサボテンなんて育ててるの」
「誕生日プレゼントで貰った」
「面白いなぁ、サボテンプレゼントって」
「面白いといえば面白いんだけどさ。そいつは『ほら、そっくりじゃん』って渡してきたんだけど、どういう意味なんだよそれって」
僕が送り主のことを思い出しながら言うと、彼は「うわぁ」と苦笑いを浮かべた。
「悲しいな、お前サボテンにそっくりじゃん! って言われるの。いじめ?」
「いじめでプレゼントまでしてくるのって、そうとう悪趣味だよね。まあ、送ってきたそいつは不思議な奴だったからなぁ」
「へえ」
「ま、そのサボテンなんだけどね。全然育たないし、花も咲かないんだよ」
「愛が足りないんじゃね?」
「またご冗談を」
今度は僕が苦笑いをする番だった。けれど彼は意外と真面目だった。
「サボテンの花って愛情を与えないと咲かないらしいよ。それで、花言葉が『枯れない愛』『暖かい心』っていうことらしい」
「花が咲かないということは、僕の心は冷たく、愛は枯れている、ということ?」
「それはないと思うよ。逆だからこそサボテン送ってくれたんじゃね? お前にそっくりじゃん、ってさ」
「ああ」
僕はなんとなく納得した、というように頷いてみる。
「ずっと育ててるの? 優しいなお前、俺なら捨ててる」
「捨てるのは薄情じゃない?」
「友達思いだなぁ。それさ、卒業式とかで渡される花の贈り物みたいなものじゃないの? ああいうの、すぐ捨てない?」
いつの間にか僕らは図書館のすぐ近くまで来ていて、彼が「あっもうここか。じゃあな」と会話を切って手を振るので、僕も手を振り返して図書館に向かった。向かって、少ししてから踵を返す。別に用事があるわけじゃない。ただ、付き合いで歩いていただけ。
雨でも降りそうな空だった。僕はサボテンの送り主を思い返す。嫌いな奴だった。しかも花言葉なんて、気取ってる。気持ち悪い。
じゃあ、どうして僕はそいつと絡んでいた? 簡単だ。日々を過ごすのに、ちょうどよかったから。にこにこ笑っていれば、向こうは僕を悪い人間だとは思わない。面白いと思いこんでいれば、自然と笑顔は浮かべられる。僕はそういう、小手先の暇つぶしと、ポーズは上手かった。
新学期最初の授業はそう時間がかからずに終わり、僕はいつもより数十分早い帰路についていた。電車が揺れる。静かに物思いに沈んでいく。
僕は一見真面目に見える、らしい。一度も自分を真面目だと思ったことはない。
僕は一見優しく見える、らしい。どこが優しいのか、言ってみてほしい。
じゃあ僕は不真面目か? そうではない。刺々しい性格でもない。
僕はなんだろう。
他人を嫌いながら、好いていると信じ込んで、にこにこ笑って、のらりくらりと毎日を過ごし、栄養を得ることもなく、育つこともなく、花を咲かすこともなく。
枯れない愛なんて、温かい心なんて。
小さな雨が、電車の窓ガラスを叩いた。薄く、自分の顔が映り込んでいる。
最寄駅で電車を降りると、雨は少し強くなっていた。僕は傘を持っていなかったけれど、走る気もなく、家への道を静かに歩んでいく。坂道を上る足が重い。荷物が濡れないように、身体の前で抱え込む。
冷たい風が吹いていた。夏はやっぱり、もう終わっていた。アスファルトは黒く沈んでいる。雨に濡れた景色を見るのは嫌いではなかったけれど、自分がそんな景色の一部だと意識すると、耐えられなかった。
家のドアを開ける。誰もいない家だ。僕は荷物を置くと、手も洗わずに台所で、キッチンばさみを取り出して、そのまま、立ち止まらないまま、キッチンばさみを逆手に持って、
――ほら、あんたにそっくりじゃん?
僕はサボテンの前に立った。植木鉢の中の、小さなサボテン。花言葉は「枯れない愛」「暖かい心」。
けれどそんなもの、見えない。ところどころ棘の突き出した表面だけ。
僕はキッチンばさみを振り上げた。育つこともなく、花を咲かすこともなく。
僕はキッチンばさみを振り下ろした。心は冷たく、愛は枯れている。
僕はサボテンの表皮を突き破る。小手先の暇つぶしと、ポーズは上手くって。
僕は繰り返す。何もない日々。僕は繰り返す。いつも通りの自分。僕は繰り返す。きっと何かためになることがある? 僕は繰り返す。僕は繰り返す。
どろりとしたものが、傷口からぐちゃぐちゃにかきまわされ、流れ出て、そこに色はなく、白濁、後にはきっと、なにもない。空っぽ。
「うそつき」
独りでに言葉が漏れた。もう花が咲くこともないサボテン。植木鉢の中で、のうのうと育てられ、他の何にも触れることはなく、ただ、ぽつんとある、傷ついたサボテン。
「うそつき」
植木鉢のサボテン ひつじ @yu_hitsuji
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