あの噂は本当だったんだ

 千代さんが本殿に運び込んでくれた家具の棚の中に、紅茶セットを見つけた。

 確認すると未使用のカップやポットが一通りそろっている。


 無意識のうちに師匠が好きそうなハーブをこちらに戻ってからも集めていたので、収納魔法からそれを取り出した。


「師匠こちらのハーブティーもなかなかですよ」

「そ、そうか。うむ、では是非頼む」


 ちょっと嬉しそうにそう言うので飲めるかどうか疑問だったが、俺は収納魔法から水やコンロを取り出して、師匠と自分の分のお茶を淹れてローテーブルに並べた。


 気分だけでも味わってもらえれば、落ち着けると思ったからだ。


 ついでに収納魔法から御茶請けのせんべいも用意すると、師匠は興味津々と言った眼差しで眺める。

 俺がその姿を微笑みながら見ると、


「う、うむ、悪夢ナイトメアじゃな」


 師匠はコホンと咳払いして、以前俺に話してくれた悪夢ナイトメアの正体や異世界で起きた出来事を、ソファーに深く腰掛けながらぽつりぽつりと語りだした。


 そもそも悪夢ナイトメアの正体は、


「とある不運に巻き込まれた夢魔サキュバスと運命と正義の神アーリウスの子が悪夢ナイトメアと呼ばれる者じゃが」


 もう魔族なのか神なのか、存在そのものの定義すら困難だそうだ。


「神とはすなわち『概念』が力を持ち、ことわりの中でバランスをとるために生まれた者じゃからな、それを滅することなど不可能な話じゃ」


 全能の神ゲレーデスは『強き男』の概念であって、強さと才能にあふれ、時として強引でわがままな性格を見せる。

 女神の最高神であるリリアヌスは『母』の概念で、母性や慈しみの神であると同時に嫉妬や理不尽さの象徴となることもある。


 そして二人の最高神のただひとりの実子、アーリウスは『正義』と言う不確かなモノの概念で、見方によっては善と悪が入れ替わるため運命の神とも呼ばれている。


 まあ本人も運命を見定めるのが趣味だって、言ってたし。

 そんな悪趣味な神様の子供は、


「奴はそもそも自分の存在が嫌いなのかもしれんのう…… 神としても魔族としてもさしたる行いはせんかった。ただ大きく世の運命が揺れるとき、その力で魔族や人族を『悪夢』に陥れる。魔族の四天王を買って出ておった頃もあったが、自分本位で魔王の言う事なぞ聞いておらなんだようじゃな」


 どうやら自由奔放な性格のようだ。


「そんなフリーダムさんが何故魔王の座に就いたんでしょう」

「まだ確定はしておらぬが、ひょっとしたら人族と魔族のバランスを取る為かもしれんのう」


「バランス?」

「人族に魔族を滅ぼしかねん脅威が現れたと判断したのじゃろう」

「そんな脅威が現れたんですか」


 その言葉に驚くと、師匠は俺の顔を眼鏡越しにマジマジと眺め、


「我はそれが間違いじゃと、今深く理解できたが……」

 少し悲しそうな目でそう答えた。


 なんだかちょっとバカにされたような気がしないでもないが、


「しかしそんな悪夢ナイトメアをどうすれば良いのですか」

 気を取り直して対策を考える。


 肝心なのはその脅威が何かより師匠を助けることだし、その読みが当たっているのならこの世界の危機にもつながりかねない。


「本体はただの下級魔族じゃからな、それを抑えれば何とでもなるが、姿かたちを自由に変えることができる。それに奴の夢の世界にとらわれると剣も魔法も力をなさん。ただ戦える術は夢の世界での『想像力』と、相手の想いをはねのける『強い意志』だけじゃ」


「過去にその夢の世界で悪夢ナイトメアに打ち勝った者はいるのですか」

 俺の質問に師匠は困ったように首を傾げ、


「我の知る限り、奴の夢から逃げ出すことができたのはひとりしかおらん」

「それは誰でどんな戦法ですか」


「一度目は想像力の駆け引きであと一歩まで追いつめたが逃げられ、二度目は意志の強さで奴の策を見破ったが逃げられ、三度目は心のスキを突かれ、我も精神体で逃げ出すのがやっとじゃった」


 そう呟くと師匠は、霊体なのに器用にカップを傾けて優雅にハーブティーを飲み、せんべいを取るとパリッと音を立てて美味しそうに食べた。


「うむ、これはなかなかの珍味じゃな」


 嬉しそうに笑う師匠を見ていると、確かに精神戦でもこれに勝つのは難しいだろうと……



 少しだけ悪夢ナイトメアの苦労が理解できたような気がした。



   × × × × ×



 師匠と一通りの情報交換が終わると、俺はやしろの結界を張り直し、幾つかの罠を仕込んでから稲荷を後にした。


 アリョーナさんに誘われたレストランは、隣町の貿易港にある高級ホテルの中にある。


 俺は転移先のポイントとして良く利用している港の公園へ出ると、周囲を確認して徒歩でホテルへ向かった。


 途中つけられるような気配も感じなかったし、周囲に魔力的な残滓も見当たらなかったが、言いようのないねっとりとした『違和感』がある。


「疑心暗鬼ってやつかな」


 きっと悪夢ナイトメアは相手をそうやって不安に落とし込んでから、夢の世界に引き釣り込んで罠にハメるのだろう。


「まず師匠のように心を強く持とう」

 あそこまでのことができるかどうかは別として、心がけは大事だ。


 俺はホテルの入り口にずらりと並んでいた金髪黒服さんたちを見つけると、とりあえず胸を張ってみた。


「ドン・サイレント、お疲れ様です」


 ミハイルさんが走り寄ってきたのでノリで指を二本出すと、一緒に近付いて来たウラジミーさんが懐から箱を取り出し、その中の物をそっと俺の指に挟む。


「これは?」

「猫屋のスティック羊羹ようかんです」


 ひとかじりすると豊潤な甘さが口の中に広がる。指がねっとりするのが難だが、悪くないセレクションだ。

 俺が「うむ」と頷くと、


「ウラジミー、分かってきたな」

 ミハイルさんは俺とウラジミーさんを交互に眺めて、嬉しそうに呟いた。


「ところで紹介したい相手って、誰なんだ?」

「ドン・サイレント、祖国で我ら同士と共に戦ってくれたある組織のボスです。現在の大統領の後ろ盾で、実質の祖国のトップでもあります」


 レストランまで移動する間、ミハイルさんはそのボスの詳細を教えてくれた。


 いわく、


「その組織に名前は無く、構成員も不明」

 だが、強力な武力を誇っていて、特に暗殺や要人警護にその力を発揮した。


「そしてそのボスの名前や姿も不明」

 だったが、今回の出来事を聞き付け、わざわざ来日してきたそうだ。


 情報があまりにも不鮮明だが、異世界では良くあることだった。

 そう、それは暗殺ギルドの実態とよく似ている。


「同士アリョーナが先に待っております」


 指定されたレストランの前で金髪黒服さんたちが整列する。

 彼らは懇談が終わるまで、ここで警備らしい。


「ありがとう」


 俺がミハイルさんたちに礼を言ってその高級中華レストランに足を踏み入れると、五十人は座れるだろう一般客の席には誰もいなかったが、チャイナ服を着たウエイトレスが駆け寄ってくる。


「こちらの個室でお待ちです」

 どうやら店ごと貸し切りにしているようだ。


 案内された部屋に入るとアリョーナさんが振り返る。


 要人と会うためなのか、いつものビジネススーツではなく黒のシックなドレス姿で、大きく空いた胸元もアップにまとめた金髪も麗しく、色気度同社比二十パーセントアップと言った感じだ。


「今日は来てくれてありがとう、サイトー」


 しかしアリョーナさんの表情は緊張していて、俺の顔を見てホッとしたような雰囲気だった。俺はそんなアリョーナさんに笑いかけてから、テーブルの奥に座る人物に目をやる。


「やあ、初めまして。 ――なるほど、あの噂は本当だったんだね。まさかこんな場所で本物の大賢者様にお会いできるとは思わなかったよ」


 すると流暢な日本語で、どう見ても十歳前後にしか見えない金髪碧眼の少年の姿をした……



 魔族軍の将校服を着た男が、嬉しそうに俺に向かって微笑んできた。

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