それでも大賢者様はささやかな幸せを願う

闇の女王と死の谷 その1

 抱きしめたヘーラーの魔力吸収が始まる。

 記憶の混乱も徐々に収まりつつあるが、同時に体力も奪われて行く。


「無理ばっかりして…… ダーリンのバカ」

「俺はまた魔力の枷を外してしまったのか」


 ヘーラーは悲しそうに俺を見上げると、

「半分くらい外れてるかなー、まあ、でもこれならすぐ落ち着くよ」

 彼女は何とか微笑もうとしたのだろう。


 泣いているのか笑っているのか分からない、微妙な伝説の魔女の顔を見ながら……



 俺は意識を失った。



   × × × × ×



 夢の中で、これは夢だと自覚があった。


 俺は透き通る泉の上に傾れ掛かる枝の上で、獲物を狙うハンターのように息をひそめている。


 そう、師匠と二人で住んでいた深い森の中ある庵の近くには、豊富な湧水がつくるキレイな泉があったが、近隣の集落の人々は恐れをなして決して近付くことはなかった。


 いわく、そこには美しい妖精が住み、男なら一目で恋に落ちて森から出られなくなり、女性なら嫉妬で正気を失ってしまうからだと。


 ――まあ、その正体は師匠なのだが。


 その頃俺は無限回廊図書を出て、森の中で実践的な勉強をしていた。


 図書の中でも体力をつけるために腕立てやスクワットをしながら本を読まされ、回廊をうろつくネズミ型の魔物…… 後で知ったが、ウイッキァーと呼ばれるS級のモンスターを捕獲したり、書庫の整理と言われ、数千冊の本を抱えたまま階段を何度も往復させられたりしたせいか、基礎体力的なものは多少ついていた。


 だから大陸でもっとも危険と呼ばれていたその森も、土地勘さえつけばひとりで歩くことができ、師匠が泉で水浴びをする時間帯は俺のささやかな癒しのひと時だった。


 その時も俺は、師匠にばれないように必死になって泉を覗いていた。


 背の中ほどまである赤茶色の癖っ毛が濡れて、透き通るような白い肌に絡みついている。


 幼さの残る体型だが四肢は躍動感にあふれ、少しくびれた腰の上に、はまだ完熟していない水蜜桃のような胸がピチピチと音を立てて弾んでいる。


「何て美しいんだ」

 心の中でそう呟くと、乗っていた枝がポキリと折れた。


「うわっ、あわわわ!」


 叫び声を上げながら枝ごと泉に落ちると、師匠がこちらを振り返って……

 あきれたように小さく首を振る。


 ――そして、しこたま全裸のままで殴られた。


 色々と見ちゃいけない場所まで至近距離で観察できて、とても素晴らしかったが、しばらくすると俺の体力もつき……


 意識を取り戻してから何とか泉から這い出ると、ドレスを着た師匠が腰に手を当て、頬を膨らましながら待っていた。


「覗いておるのは知っておったが、こう毎日じゃと気が滅入るのを通り越して感心してしまうのう」


 俺は師匠の前で土下座する。


「気付いていたのですか」

「我を誰じゃと思っておる」


 確かにその通りだ…… その気になれば森の一番端にいる羽虫の飛ぶ音を、聞き分けられるって言ってたっけ。


「前々から不思議じゃったが、あの泉の周辺は『国滅ぼしのサル』たちの縄張りじゃろう、一体どうしておるのだ? やつらはその昔幾つかの国を滅ぼし、あの勇猛果敢な帝国の騎士団ですらその姿を見るだけで撤退するが……」


「あのお猿さんたちとは仲良くやってます。最初の頃はもめましたし、集団で襲われたときは手を焼きましたが、今は覗きのポイントを教えてくれますし、今日はこのように果物も頂きました」


 俺がポケットからリンゴのような実を出すと、

「既に奴らのボスになっておったか……」


 師匠はせつなげなため息をもらした。


「では、言いつけた課題はどうした」


「はい、今朝一走りしまして、課題の薬草は全て採取してきました。しかしあの崖は殺人的ですね。もう、何度足を踏み外したか……」


 俺が近くの木の根元に置いてあった薬草カゴを見ると、師匠もそちらに視線を向け、


「一走りで行ける場所ではないし、あの妖魔返しの崖を登り切った人族なぞ、我は聞いたこともないが……」


 籠の中身を確かめると、顔を小さく左右に振る。


「最近良く思うのですが、師匠って無茶振りしますよね」

「ふん、数ヶ月は帰ってこんと思っておったが…… まあ、そのうち折を見て顔を出すつもりじゃった」


 師匠は俺の前まで歩み寄ると、

「しかし、なぜそのような事をする」

 不思議そうに俺を眺める。


「申し訳ありません。ダメだダメだと思っていても、師匠の美しさに負けてしまいます」


 師匠はその精密な陶磁器人形ビスク・ドールのような顔で、バカみたいにあんぐりと口を開け、


「我が弟子入りを認めたのは、稀代の天才か底無しの阿呆なのか…… もう、判断がつかなくなってきたわ」


 そんな事をおっしゃった。


「どうか見捨てないでください」

 もう一度土下座のままで深く頭を下げると、


「ふむ、覗きがどうこうと言う問題ではない。つまりじゃな、あれを見よ」


 師匠は真っ青に晴れた空の中心を指さし、


「どんなに雲一つなく晴れた日差しが全身を包んでも」

 そして自分の足元を指さした。


「影は足元に必ず落ちる。それが世のことわりじゃ」


 俺が首を捻ると、

「人は憎しみや辛さを知らねば、愛を知ることはできん。寒さを知らねば暖かさが理解できぬのと同じじゃ。常に物事には裏と表があり、それがバランスをとって形となっておる。感情も物の成り立ちもじゃ」


 そう言って俺の頬に手を差し伸べ、


「無限回廊図書では性懲りもなく我のスカートを何度も覗き込み、森に出れば毎日のように水浴びを覗きに来たが…… ふむ、すくすくと成長する弟子に喜びすぎて、とんと失念しておった。そう言えば、もう何年も二人きりで居るのに、一向に我を押し倒そうとはせんな」


 俺の瞳を見つめながら、悲しそうな微笑みをもらす。


「何かが欠けておるのは分かっておったが、どうやら致命傷になりかねんモノのようじゃ。どれ、教育方針を変えてみるか」


 そして師匠は何かを思い立ったかのように、スクリと立ち上がった。


「見捨てないんですね」

 俺がもう一度確認すると、


「好いた男を捨てる阿呆がどこにおる」

 やはり悲しい表情のままそう言うと、フンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


「では早速、死の谷まで行こうか」

 そして俺に近付くと、師匠は手を握りしめて飛び上がり……


 森の木々が豆粒のように見える高さまで上昇すると、

「確りとつかまっておれよ」


 普段隠している猿のような耳と尻尾を出して、

「来たれ、キントー!」


 呪文を唱えて足元に雲を集めると、飛行魔法であっさり音の壁を越えた。


「うぎゃー、師匠! 何するんですかー」


 振り落とされないように師匠の細い腰にしがみ付いて数分、やっと地上に降りても…… 全身の血が変に偏り、三叉神経がグルングルンと音を立ててダンスを踊っていた。


 吐き気を堪えながら、ふらふらしていたら、


「無限回廊図書でも読んだであろう、ここが『闇の女王』と呼ばれた伝説の魔女が眠る死の谷じゃ、行って奴と話してこい」


 師匠はポンと俺を蹴飛ばして、その谷に俺を落とした。


「無茶振りが過ぎんだろー!」

 俺は抗議の雄叫びを上げたが……



 その声も深い谷に吸い込まれ、果たしてそれが届いたかどうか、今でも良く分からない。

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