聞こえる
清水優輝
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誰かの口笛が聞こえてくる。シャボン玉が割れるように、目の前の仕事に集中していた意識が弾け、私はこっそり音楽に耳を澄ませた。
懐かしさを感じる。でもなんて曲か分からない。音程はあっていなかった。高い音になるとかすれてか細くなってしまう。素早く吐き出される息の音が時折、混じる、とても上手とは言えない口笛がどうしてこんなにも私の心を惹きつけるのだろうか。私は体をひねり、腰を伸ばす振りをして口笛が聞こえてくる方向に顔を向ける。みんなパソコンの前にきちんと座り、忙しなく手を動かし続けている。口笛を吹いている人などいなかった。窓でも開いているのだろう。しばらくすると口笛の音色は止み、私は気を取り直して目の前の仕事に戻る。が、数分もしないうちにまた口笛が聞こえてきて私の手は止まる。突然私の動きが硬直したので、隣に座る先輩が心配して声をかけた。
「田村さん、何かあったの?」先輩はボールペンを器用にくるりと回した。
「あ、いや、口笛が聞こえたんです」
「んー、僕には聞こえなかったなあ」
先輩は不思議そうに首を傾げて作業に戻った。
私の聞き間違えだろうか。電話の音や、インターフォンの音が何か音楽のように聞こえただけかもしれない。最近残業多いし、疲れているのよ。と、思っている間にも下手くそな、素人が吹く口笛ははっきりと聞こえてくるのである。
どこから聞こえてくるのか。それは、私の頭の後ろから聞こえる。だからさっき後ろを確認したのが。目を閉じて音を聞く。口笛の音だけを聞く。やはり、頭の後ろの方から聞こえる。でも、それは後ろではなく中かもしれない。頭の中の深く、普段使わないような部位。(普段、脳みそを使って生きているかさえ怪しい)そこから口笛が聞こえてくるようだ。
口笛の音が徐々に遠くなっている。どこかへ行ってしまう。もう少し聞いていたいけれど、もう時間が許さない。先輩が私の体調が悪いのではないかとこちらの様子を伺っている。
口笛はどんどん音を外していく。下手になっていく。ああ、私はこの曲を聞いたことがある。とても幼い頃、ピクニックに行った。草木の香り。サンドイッチを食べた。私の頭を撫でる。その口が奏でていた。口笛が奏でる曲は原型を留めない。安定しないメロディーに、毎回初めて聴く感動を覚えた。それが初めて触れた音楽だった。格好つけて上手に吹こうとすると、私は興味を失った。どんなに聞こえが悪くとも、生まれたくて生まれた音楽に私は心を揺らした。とんぼが頭に止まり、私を囲う人々が笑う。そのときに生まれた。この曲を、今、聴いている。
ペンが落ちる音がした。
「田村さん、申し訳ないんだけど今日中にやらなきゃいけないこと増えちゃった」
先輩がペンを拾いつつ、私に話しかけた。
「え、あ、わかりました。資料共有してもらえますか」
「いつもごめんねー」先輩の手の中でボールペンがまた回る。
さっきまで、なにを考えていたんだっけ。まあいいか。今日も帰りが遅くなりそうだ。私はフリスクを食べ、キーボードを叩き始めた。
聞こえる 清水優輝 @shimizu_yuuki7
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