白桃
驢馬
白桃
母を思い出す。
俺が桃を食べたいと駄々をこねて母は業を煮やし、ひとしきり怒鳴り散らした後に、台所へ向かってくれた。桃を食べることのできる喜びよりも、いたたまれなさが勝った。母は癇癪持ちで俺は毎日のように怒られていた。しかし、一向に慣れない。
ぎこちない手つきで桃を剥く母、嵐から打って変わって、落ち着いた冷めた目をしていた。俺は座布団の端をつまんだり伸ばしたりして、気にしていないふうを装った。もう、桃など食べたいと思えない。
八月の半ばのムシムシとした暑い日だ。誰しも短気で気まぐれになる。
母は乱暴な手つきで皿を座卓にのせた。ほのかに黄色く熟れた実が、硝子の器に盛られている。母は今一度台所へ行き、帰って来たかと思うと、フォークを桃に突き刺した。フォークは倒れて皿とぶつかり、ひんやりとした音が鳴った。はずみで水滴が飛び、あごに当たった。
胃を冷たい手で握られたような不快な感覚に襲われた。そんな俺を母はじっと見下ろしている。フォークを持つ手が緊張に震えた。
母は台所へ戻り種に残った実をしゃぶった。茶を啜ったような音がした。
初恋の子の名前は桃佳だった。曖昧な古い感情だけが心に残っていて、姿を上手く描けない。濁った頭から、あの子の顔だけでも引き出そうと海馬を探る。しかし、よく見せた笑顔の背景にある小さな会話や出来事ばかり思い浮かぶ。
小学生の時、休み時間にバトミントンのシャトルを拾った。あの子と一緒に遊んでいた子が遠くへ飛ばし過ぎたのだろう。俺へ向かってあの子が駆けて来た。シャトルを返した時に返してくれた言葉は「ごめんね」と「ありがとう」どっちだっただろう。
確かな感情の記憶がある。その時、俺はおんぼろの靴を履いていた。それが何より恥ずかしかった。あの子が去った後で、俺は隠すように、右足の靴に空いた穴を左足で踏んで隠した。
初恋の終わりも心に残っている。中学生の夏だった。
泥と汗にまみれた野球部員達は、校庭の隅で静かに休憩をとっていた。俺は通学路に面した鉄柵にもたれかかり、グローブを揉んでいた。
大変な練習の合間の休憩は、一瞬のように短かったが、この時だけは少し長く感じた。
ふと振り返ると鉄柵の向こうにあの子がいた。男子生徒と二人で並んで帰っていた。それだけでは、二人が特別な仲だと決めるには早計だろう。俺は二人の関係の、風の便りを耳にしていた。しかし、たかが噂だと高を括っていたため、実際に並んで歩く姿を見てショックだった。
主将が休憩の終わりを告げた。部員達は駆け足でグラウンドへと向かった。
俺は帽子のつばを深く下げて、立ち上がった。
何年もの歳月が経った。
恋人が帰郷のお土産として桃を二玉、テーブルに置いた。
「ありがとう、好物だよ」
「ええ、そうだったの。もっと沢山あったけれど、会社の人や友達にあげちゃったよ」
一つ切ろうか、と訊かれた。俺が頷いたのを確認すると二玉持って台所へ向かった。
桃を剥く手つきをみようと、彼女の後をついて行った。傍によって、嫌がらせのように、手元をまじまじと見つめた。彼女は始めこそ何か言いたそうだった。しかし、すぐに気を取り直し、それからは、こちらに一瞥も与えず手を働かせて綺麗なかつら剥きをしてみせた。
食べた後は空の器を前に、二人で余韻に耽った。
彼女は俺の手に触れて「もう一つは冷蔵庫にしまってあるからね」と言った。
これは二人の最後の幸せな思い出で、残された桃は冷蔵庫の中で腐っていった。
妻は朝早くから出掛けてしまい、数字を覚え始めたばかりの息子と留守番をしていた。昼食をすませ、親子並んで絨毯に寝転がり絵本を読んでいた。
穏やかな昼下がりは、気持ちよく過ぎて行く。息子がふと「おやつ」と呟いた。
ちょうどいいお菓子があればと、戸棚を探ったが何も見つからなかった。俺は何も作れない、外へ買いに出るのも億劫だ。小腹がすいた息子を放っておくこともできない。
どうしようかと、辺りを見回していると、即席ラーメンやレトルトカレーの陰に隠れていた白桃の缶詰が目に入った。
「これでいいかな」
息子は缶詰を撫でたり振ったりした。一しきり遊び、満足すると返してくれた。
缶切りが珍しいらしく、ずっと俺の手元を見つめていた。挑戦させてみようとも考えたが、もし切り口で指に怪我でも負わせれば、妻に何を言われるか分からないのでやめておいた。
缶詰を開けると、プラスチック製の子供用のお皿と先の丸まったフォークを運んできた。
桃をお皿にのせて「どうぞ、めしあがれ」と言った。
生まれて初めて「めしあがれ」という言葉を使った気がする。さっき読んだ絵本に書いてあった。自分の子供を相手に、つい照れてしまう。
煙草を吸おうとして、息子の傍を離れてしまったのが間違いだった。換気扇のうなる中、缶が落ちる音がした。
振り向けば、転がった缶と、指先に膨れる血を呆然とみる息子。
なぜか、おかしく思ってて笑ってしまった。
今、俺は夢心地で桃の皮を剥いている。
不器用な母の血をゆずり受けたためか、シンクに落ちる桃の皮には実が残っている。時々手を止めては、胸の奥底にしまった思い出を取り出して行く。ぼんやりと記憶を巡り、ふと目が覚めたら慎重に手を働かし、少しすると再び夢へと帰る。
しまいには、桃は柔らかい丸みを失い、角ばった石のようになってしまった。母に習い、浅い角度で包丁を入れ、実が皿の形になるようにした。
どんどん実を切り落として行き、果実が薄紅色に染まった種に近い部位まで辿り着いた。
そして、それにしゃぶりついた。
ただただ甘かった。
白桃 驢馬 @adagawa
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