第三話 シロ

「願いは、叶えないのか」


 この粗末な社であれば、外でも件の会話は聞こえたであろうに、白髪の青年は今までの経緯を理解していないかのようにそう尋ねた。己の内面を掻き出されたような体験は、少年の脚を揺らがせ、まともに胡坐もかけない。生まれたての小鹿のような状態に嫌気が差しながら、少年は白眼で青年を見つめる。


 なんでわざわざ、もう一度聞くんだよ。と言いたかった。それが言えなかったのは、青年の風采が異質なためか、それとも単に自分より大きな大人だからか。どちらにせよ、少年はより情けない気持ちを覚える。問いについては黙殺を決め込み、赤ん坊のようにはいはいの体で濡れ縁の際まで移動し、脚を放り投げた。やっと、脚が自由になったような気がした。


 少年は、ちらと隣に座る青年を盗み見る。文美子もだったが、この青年も何か古めかしい服装だと思ったのだ。歴史の教科書に載るような、和服のようなものだ。盗み見ていることに気づいたのか、青年と目が合った。居心地が悪く座り直してみたが、青年はなにも言わない。沈黙の、どこかもどかしい嫌な気まずさが辺りを支配し始め、恐る恐るもう一度青年を見る。


「ねえ、あんた、名前なんていうの」


 母親が今の尋ね方を聞いたら、すかさず張り手が飛んできそうだな、と思った。年上の人には礼儀正しくしなさい。母はいつもそう言うのだ。だがこのような異質な場所で、少年の中で礼儀を守る気持ちは生まれなかった。青年も特に気を悪くしたような風もなく、名を名乗った。シロ、という名前なのだという。犬みたいな名前だな。というのが正直な感想だったが、さすがにそれをそのまま本人に伝える気には、なれなかった。


 少年はぼんやりと、来た道を眺めていた。重苦しい霧とは反対に、何ゆえか緩やかな風が吹くこの場所で、鳥の囀りも虫の鳴き声も聞こえないのは、不気味だった。時が止まったというよりかは、ここだけなにか息づくものがない、墓地のような重苦しさだった。

 これからどうしたらいいのかも、風に乗って答えがやってくればいいのに。と思ったが、答えは反対方向に逃げていくかのように、流れてはくれない。そんな物思いに耽っていると、唐突にシロは問うた。


「いつまで、お前はここにいるんだ」


 早くここから出ていけ、とでも言わんばかりの言い方だった。最初に訪ねてきたときもそうだが、どうしてこの人はこうも、つっけんどんなんだろう。と少年は思う。自分の態度とお相子なのは少年の脳裏にちらりともよぎらなかったが、シロの言葉通り、元来た道を今すぐ戻る気には到底なれなかった。意地のせいだった。願い事が一度しか、それも今しか叶えられないなら、よく考えてやる。その意地だけが、少年を踏みとどまらせるのだ。


「文美子様は、考える時間をくれたよ」


 実際には、「是」とも「否」とも答えなかったが、「否」とは言わなかったのだ。居てもいいと同義だと少年は小賢しい答えを伝えると、ぶすくれた表情でシロはそっぽを向いた。なにが嫌なのかもわからない。面倒そうな奴だな、とまた白眼を向ける。それすらも意に介さぬように、シロはそっぽを向いたままだった。


 それから、どれほどの時間が経っただろうか。少年がここを目指したのは授業が終わった放課後だったので、夕方のはずだった。そろそろ空は夜の帳を下ろしても良いはずなのに、一向に曇り空のままだった。いくら霧が深いこの場所とは言え、どうにも様子がおかしいのだ。そして、相変わらず自分の中で答えが出てこなかったのも、いらいらした。

 少年のポケットに突っ込まれた文明の利器たるスマートフォンで、時間を確認しようとも思ったが、悲しいことに電源が切れて少年の困った顔を黒い画面が反射するだけだった。あれだけ移動中に電池が切れないよう、入念に毎夜、充電ケーブルのチェックをして、学校の休憩時間にいじりすぎたらすかさず携帯用バッテリーに繋いでいたのに、どうして。実際に携帯用バッテリーに繋いでみても、黒い画面の冷たい機械は、無反応の限りだった。


 少年のスマートフォンが目の端に移ったのか、シロが興味深そうに覗き込んできた。どこまでも不躾な奴だな、と言いたかったが、シロと言い文美子と言い、時代錯誤な服装からすると、これを見たことがないのだろうかと考えた。


「スマホ、見たいことないの?」


 シロはかぶりを振った。


「たまに、ある。来る人間によって持ってる物が違うな。でも、お前みたいな服の奴は、みんな持ってるのは知ってる。いつも大事そうに持っているのもな」


 少し得意げにシロは言った。誰でも持っているのが当たり前なのも、人によって選ぶ機種が違うから持っている物が違うのは当たり前のことだ。だが、シロは知らないのか。やっぱり変な感じだ、と少年は思う。前に来た人に見せてもらったりしてないのか、とも聞いたが、大体の人間はここを早々に立ち去るのだと言う。少年のように、居残る人間は初めてだとも。概ね、この青年に追い出されるような口ぶりと目つきに怯えて、皆尻尾を巻いて逃げるのだろうと検討はつく。


 ただ、疑問であったのは神様だと呼ばれる文美子の、従者なのかなんなのかはわからないが、そういった、なにかとてつもなく偉い者であろうシロが、このスマートフォンが全くどういったことに使うのかも理解していないのか。問うてみると、シロは肩をすくめて言い放った。


「俺のような化生けしょうのものに、わかるものか」


 なんだって? と少年が聞き返す。ケショウのもの、と少年は頭の中で反芻する。女の人のお化粧のことじゃないことぐらいはわかるが、一体全体どういうことか。少年の疑問符を砕くように、シロはただ冷淡に呟いた。


「俺は、化け物だと言っているんだ」


 化け物。言葉の意味がすっと少年の心の中に入り込む。


 確かに、老人ではない年齢であるのに、まるで漫画やゲームのキャラクターのような真っ白い髪は気になった。だが、生まれついてそういう人間がいるという知識が少なからず少年の中にもあり、またこの不可思議な場所の為、その容姿に驚きはしても、そういうものだろう。という便利な言葉で片づけていた。


 だが、化け物だ、と言われると否応なしに驚きを隠せず、距離を取ろうと身動ぎしてしまう。そんな様子をシロは、氷のような情感が伴わぬ冷たい眼差しで追っていた。その眼差しに少年は総毛立ち、緊張感から痺れるような心持ちでシロの眼を見つめた。白い髪とは正反対の黒い眼は、やはり何も物語らない。少年は意を決した。恐怖はあれど、それでは、彼が何者であるのかを知りたいという欲求に突き動かされたのだ。


「じゃあ、あんたは何の化け物だっていうのさ」


 少年の言葉にシロは瞑目して、どこか懐旧の念を込めるかのように、こう返した。


「俺は、文美子の飼い犬だった」


 飼い犬、という言葉に少年は首をひねった。化け物だというのに、飼い犬。シロは、確かに少し人と違う姿をしているが、飼い犬とはなにか。なんだか上手く繋がらないような気持ちでいる少年の心内を見透かすように、シロは口にした。


「俺は、今はこうして人のような形をとっているが、昔は文美子に飼われた、ただの犬だった。文美子の、遊び相手だった」


 懐旧の念を強めて、シロは言った。


 それから、訥々と語り始めた。当時は野良犬で、瘦せっぽちだったこと。食べ物を探していたら、村に迷い込んだこと。村をうろうろしていて、文美子の家の庭に入り込んでしまったときに彼女が見つけて、餌をくれたこと。それから自分の住む屋敷に住まわせてくれたこと。親に駄目だと叱られても、この時ばかりは頑として譲らず、なんとかシロを飼えるようにしてくれたこと。そしてそれから、と語ろうとした直後、がちゃがちゃと金属が重なりあう音がし、少年はぎょっとして振り返る。文美子が身を捩らせたのだろうということを察した。そしてそれが、今の話を続けることに拒絶を示していることも感じ取れた。どうしてよいのかわからず、シロと社の戸を目が右往左往する。

 緩やかだった風が、霧が晴れないまま、急に荒れ狂うようになり、突風が少年の髪をさらうように抜けていった。


 そんな様子を見て、シロは目を細めて小さく唸る。犬の鳴き声のようだった。そして、少年を一瞥すると、思い出したようにつぶやいた。


「お前も人を殺したいと願っていたな」


 事実ではあるのだが、正直なところ、そんなことを考えていること自体に後悔の念が湧いていた頃合いだった。しかし、事実でもあった。渋面で頷くと、シロは押し黙る。そして、まだその願いを叶えたいのかと、問うてきた。迷っていること、正直なところ、叶えてもらっても意味がないことを感じていること、だからこそ今なにが自分に必要なのかを考えていることを素直に伝えた。


 すると、シロは突然立ち上がった。少年の後ろまで歩み寄ると、戸を勢いよく開いた。あまりに勢いよく開いたもので、少年は思わずのけぞりながらもその様子を、シロ越しに呆然としながら透かし見た。そして、中で囚われている文美子が驚いたような、それでいて見てはいけないものを見てしまったような顔をして、凍りついたようにシロを見上げていることに気づいた。シロはさして気にせず、少年へと顔を向けた。


「文美子に、教えてもらえ」


 常に言葉少ななシロを見上げながらも、なにをだよ。と食って掛かると、シロは平淡に言葉を綴る。


「俺は、文美子と会う前は、食うために獣を殺したことが何度もある。だが人は、人を殺してはいけないんだろう?」


 その言葉を聞いた時の文美子の相形が、印象的だった。“文美子”とは、つい先ほどまで少年の中でずっと、神様かなにかのような、安易に近づくのも躊躇われるような存在だったはずだった。それなのに、今はあえかに咲く花のような、ただの少女へと変わり果てていた。本当にただの、小さな、女の子だった。

 少年が思うに、文美子が懸命にピンと張り詰めていた膜のような物があり、それが彼女を神様のような物に見せかけていたのが、プツンと切れてしまったことにより、小さな女の子が現れてしまったのは、確かだった。


「俺も、文美子も、お前たちが来る度に言う、神様なんかじゃあ、ない」


 シロは変わらず訥々と喋る。きっと、犬だったから、人間の喋り方ってのがわからないんだ。などと少年が思いながらも、文美子の様を見て、なにをどうしていいのか、やはりわからなかった。ただ、文美子が可哀相だった。鉄枷に囚われて、大きな大人を恐々と見上げて震えている様が、悲愴に見えて仕方なかった。

 文美子は一度深く息を吸うと、冷静さを少し取り戻したようだった。厳しい目つきで、シロを今度は真正面から見据え、憎々し気に吐いた。


「見るな、けだもの」


 それでも、シロは動かない。横目に少年は見上げると、その顔は、今までの不愛想な表情ではなく、やるせなさを交えながらも、眦を決した表情だった。

 風が、荒れ狂っている。シロの白く長い髪が、それになびいて顔にかかっても、気にする様子もなく、文美子をじっと見据え返す。


「俺は今まで、化生の分際でもお前のそばにいれたら、それでいいと思っていた。だから、なおざりにしてきた。だが、文美子。もう、終わりにしよう。千の願いを叶えたとて、お前は解放されないんだから」


 千の願い。その言葉に、文美子がびくりと反応した。床にいくつも書かれた、正の字をぐるりと見て、それからシロの後ろにいる少年を見て、どこか諦めを含むように静かに言った。


「千の願いを叶えたら、お前をそこから出しましょう。それが、わたしと誰かとの約束」


 その瞬間、花火のように弾けるように、鬼気迫る形相で、文美子は勢いよく筆を投げつけた。投げつけた筆は、見えない壁にぶつかるかのように空で跳ね返って、結局文美子の手の届くところに落ちた。それと同時に筆が含んでいた少量の墨が、ぱっと舞い床を少し汚した。文美子の着物にもそれはついてしまったが、着物のしみとなった黒い点は水底に沈むように、すうっと消えてしまった。それを見ると、また、小さな少女に戻ってしまった。ついには、ぽろぽろと涙をこぼし、悄然とうなだれてしまう。

 少年は、なにか声をかけてやりたかった。だが、なにも言葉が出てこなかった。


「シロ、お前はなにがしたいの」


 か細い涙声で、文美子は問う。シロは、ゆっくりと言った。


「お前がどうして、ここにいるのか。昔、なにをしたのか。それを、この子に教えてやれ。この子は、人を殺すことをためらったから」


 その言葉に、文美子は面を上げて、遠いものを見る目つきになった。そして、どこか心の深いところから浮かび上がってきたかのような虚ろな声で呟いた。


「……そんなの、なんの意味があるの? 文美子は、一生、与蔵にも謝れないまま、ずっとずっとずっと、ここにいて、願いを叶え続けるしかないのよ。生きていた頃と同じように……!」


 シロはかぶりを振った。風がまた強くなる。社が倒壊するんじゃないかと、少年はなんとか柱に縋りつくことしかできなかった。


「俺は、この風はお前の心だと思っている。お前の心が荒れると、今のように風が吹くから。人が来るときはどうも違うようだが。

 ――お前は、過去をずっと胸に秘めてきた。俺に一度たりとも、今思っていることも、あのときのことも、なにを思っているのか明かさなんだ。誰かに聞いてもらえ。お前が、どうしてこうなったのかを」


 それはきっと、お前がここを捕らえる呪縛を解き放つ、鍵になるやもしれん。とシロは言った。少年はただそれを聞いていることしかできなかった。自分にいったい、なにができるというんだろう。文美子を縛るなにかに、自分が関係しているとは思えなかった。

 文美子はぼうっとしたまま、少年を目の端に捉えると、じっと見つめてきた。そして、質問を投げかけた。


「人を殺すの、やめるの?」


「うん……それが、僕の幸せに通じるように、思えないとは、思う。どうしていいか、やっぱりまだ、わかんないけど」


 シロのことを言ってらんないな、と思った。つっかえながらも、思いを伝えると、文美子はそう、とうなずいた。


「……昔話を、しましょうか。文美子が生きていた頃のこと。今は、どうしたって、与蔵に会えや、しないんだもの」


 文美子は、ぽつり、ぽつりと自分のことを語り始めた。その言葉の連なりに合わせるように、少しずつ風は収まっていき、ついには止んだ。

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