第二話 僕の願い

 木々に囲まれ、霧も深く仄暗いそこに古びた社があった。

 普段は平穏で風一つどころか木の葉一枚すら落ちないようなこの土地は、今は嵐でも来るかのように強風が吹きつけている。枝葉が風に煽られ重なり合うさざめきは、来訪客というこの土地の変化をもたらすことを意味していた。その異変に気付いた濡れ縁に腰かける長い白髪の青年は、遠くをねめつける。


 目立つ白い髪はざんばら髪で、笑えば優しげに見えそうなのだが、不愛想に真一文字に結ばれた唇と、眉間に刻まれた皺がそれを打ち消し、粗野で険のある青年の性格をより明確に映していた。一定の間を開けると、青年は勢いよく振り返る。


「文美子、来たよ。今度は男の子だ」


 社の中から青年の声に呼応するように、がちゃがちゃと金属が重なり合う音がした。中にいる文美子と呼ばれた者が身を捩らせたのだろう。青年はまた遠くをねめつける。これから来る人間が、どんな人間なのかを判断するかのように厳しい表情だった。長い白髪が風に幾度も煽られても、気にする様子もなく注視している。


 強風が収まり始め、それと同時に砂利を踏みしめる足音が社へと少しずつ近づいてくる。深い霧の向こうからやって来たのは、肩にスクールバッグを掛け、詰襟を着た不安げな表情の少年だった。歳は十をいくつか過ぎたくらいか。あどけなさがまだ残る顔立ちだが、気の強そうな、どこか鼻につく生意気さが顔に現れている。手には封筒を持ち、それは緊張からか握りつぶしてしまっていた。きょろきょろと不安げに辺りを見回しながらも、着実に社へ近寄ってくる。そして、青年に気づくや否や、ぎょっとした表情を浮かべる。それは、青年の真っ白な髪に驚いたのかもしれないし、長い歩みを進めていたところ突然人が現れたからかもしれない。空気を欲しがる魚のように口をパクパクさせ、なんとか緊張を押しつぶすように唾を飲み込む動作をした。やはり目線は不安が拭えない。


 いつもここに訪れる人間と、さほど変わらない。いつも通りだ。と青年は思う。皆、驚いたり不安そうだったり、そんな面持ちでここに訪れる。皆、胸の中には一つのことを抱え込みながら。


小童こわっぱ、お前はなぜここに来た」


 青年は濡れ縁から降りて少年に近寄り、問いを投げかける。本当は理由などわかっていた。ここに来る人間は、一つのことだけを抱えてくるのだから。後ずさる少年を尻目に、厳しい目線を投げかけたままだ。この時点で、恐ろしくなって逃げ帰ってしまう人がいることを、青年は記憶している。けして物覚えは良い方ではないが、幾度も繰り返せばどんな動物でも覚えるものだ。

 少年は後ずさりするも、どうにか逃げ出したい気持ちを抑え込んだようだった。


「ね、ね、願いをっ! 叶えにき、まし、た……」


 始めは勢いがあったが、徐々に失速する。こんな馬鹿げたこと本当にあるのかな、とでも言うように。膨れていた希望の風船が非現実的という針に刺されたようだった。そんな少年の気持ちを汲み取ることもなく、青年はなにも答えず、ただ社を指さした。そこに行けと命じていると少年は受け取ったが、本当に入っていいのか、神社なんて入っていいものだと習ってもいないし、結局、二の足を踏んでしまう。


「あ、あの、ここ、本当に」


「文美子はいる。願いを叶えに来たなら、入れ」


 きっぱりと、いささか切り捨てるように言い切る青年に、少年はたじろぎつつも社を見つめる。そして意を決したよう歩みを進めた。


 引き戸を開くと、日の光を入れる格子もないのか、暗く、じめじめとした部屋だった。社と呼ぶには陰湿なそこには、異様な姿の少女がいた。


 天井から吊るされた鎖に鉄枷で四肢を繋げられ、一定以上の身動きが取れないようになっている。歳は少年とさして変わらないが、時期になると街中で見る成人式の女性や七五三の女の子が着るような、金糸銀糸で刺繍を施された美しい赤い着物を着て、髪はまっすぐに切り揃えられたおかっぱだった。日本人形だ。と言うのが最初の感想だった。そのような出で立ちだが、人形的ではない可愛らしさもった。ぱっちりとした大きな目を、気だるげにこちらへ向ける。視線がかち合う。そして鼻で笑った。それは子供らしからぬ笑い方だった。


「願いを叶えに来たんでしょう。どうして黙っているの」


 放心する少年は、そう言われても言葉が喉に突っかかって出てきてくれなかった。異様な風景と少女――文美子に心を奪われてしまって、なにも言えなかったのだ。視線だけはどうにか動かすことができたが、更なる異様さに身を凍らせた。文美子の手の届く範囲に硯と筆があり、床には大量の紙が散らばり、また恐らく少女の縛られた手が伸ばせる範囲の床にも、正の字が多量に書かれていることに気づいたのだ。


 少年は、息が止まりそうだった。心が竦んで、足元がふわふわしているように思える。それでも、ここまで、なんのために来たんだ。と自問自答すれば、自ずとなにをするべきなのか意外な程に頭の中でハッキリと答えが出てくる。僕は、願い事を叶えてもらって幸せになるんだ。

 握りつぶした封筒を、恐る恐る、文美子へ差し出す。差し出された封筒を、文美子は手を伸ばし受け取った。糊付けされていない封筒から、中に入った二枚の紙を取り出して、白紙ではない、便箋のほうを開くと一読した。書いてある内容は、良心的なお願い事ではない。少年はきっと文美子は嫌がったり、びっくりするだろうと思った。だが、先ほどの笑い顔と同じようにどこか大人びた風情で、しかし無感情に文美子は紙から少年へと視線を移した。彼の願い事など、取るに足らない物だというように。


「どうやって殺すの」


 放たれた言葉に、少年は絶句した。

 クラスメイトを殺して、幸せになりたい。それが少年の願い事だった。それに対する手法の問いに、肺腑はいふが凍てつくような感覚を覚え、少年は硬直する。


「焼き殺すのか、縊りくび殺すのか、それとも溺死か。どんな殺し方がいいの」


 文美子はつらつらと物騒な言葉を、事もなげに話す。まるで自販機の飲み物でどれが一番欲しいのかを聞いてくるかのように、あっさりとした物言いだった。言葉の意味は理解出来ていても、少年はなにを言っていいか分からず、言いよどむ。そんな様を見ると、文美子はまた先ほどのように鼻で笑う。鼻で笑うのは、どうやら彼女の癖のようだった。


「みんな誰かを殺したいとか言うけれど、どうやって殺したいのかも、考えてないのね」


 文美子はまた、おぞましいことを言い放つ。その言葉に、腹にぐるぐると嫌な物が渦巻くのを感じた。なぜ、即答できないのか。いいや、あの子はどうして、そんなことを聞くのか。しかし少年は、聞かれる可能性だって考えていたことを思い出す。まるで、今の今まで清廉な思考でこの場所へ至れたように感じ、己への自己嫌悪に苛まれた。


 改めて、少女の言葉に言い返すべく黙考する。妄想の中でどうしてやろうかと考えたことは、何度だってあった。きっと過去の人物たちも、何も考えていないなど、そんなことはないのだろう。自分と同じように、誰もが誰かを嫌い消してしまいたいと考える時、いろいろと、たとえ人として最低なことであったとしても想像してしまうものだ。だが、この不思議な少女の力で願いが叶うというのであれば、実際どうしたら良いのかわからなくなってしまうのか。そしてなによりも、己の暗澹あんたんとしたその心の内を、見知らぬ少女に明かすことに拒否反応が出たのだ。誰にでも言いたくないことや知られたくないことの一つや二つ、あるのだから。


 少年はそう考えついたが、結果として反論となりそうな良い台詞は出てこなかった。そして逆に、真実この少女が願い事を叶えられるのだとして、今までの人々がどのような願い事を叶えてきたのかを知りたくなった。論点のすげ替えとなることは承知の上で、問いを投げかける。


「じゃあ、今までの人は、どんな願い事を叶えてきたんだよ? 人を殺す以外の願い事も、教えて」


 少年の問いに、文美子は首を傾がせた。そんなことも聞かないとわからないのか、とでも言いたげだった。しかし、過去を思い返すように目を伏せて呟き始める。老いて病気になった母親の寿命が早く来てほしい、大嫌いな上司が不慮の交通事故で死にますように、宝くじで一等を当てたい、大好きなあの人と結ばれたい。聞かされる言葉に、どれほどの人が彼女に願ったのか少年に知らしめる。良いことも、悪いことも等しく叶えられてきたことも。


「それであなたは、この佐藤正之、田中信也、稲口祐樹、飛田智美、この人たちをどう殺して、どう幸せになるの」


 出し抜けに自分の願い事を読み上げられ、少年は狼狽うろたえた。


 読み上げられた人物はクラスの中心人物たちで、特に少年をからかう連中だ。そいつらが自分を蔑みあげつらうのだ。だから、殺す。そうしたら昔みたいに元通りになる。実にシンプルで明快な答えだった。少年の中では。だが他人にそれを言われると、どこか違和感が拭えない。なぜなのかは、わからない。ただ願い事を書いた時も、書く前から考えていたことも、それが正しいと思ったのだ。その違和感の正体に気づけないのは、少年は自分が思うほどよりも幼いからこそだった。自分が良いと思ったが最後、ただひたすらに一辺倒の考えになるのは、一種の熱病のような幼い純粋さからによることを、まだ理解しえない。


 どう殺したらいい、どう幸せになればいい。文美子の言葉を反芻する。考えれば考えるほど、底なし沼に沈むような焦燥感が湧いてくる。そもそも、どうしてこれを願い事として選んだのか。極端な話、殺してしまいたいのなら、その衝動に身を任せ、行ってしまえばよかった。その後に向かい来る罪や罰などを考えずに行ってしまう人間がいるくらいなのだから。少年にそれが出来ないのは、ひとえに、その罪と罰に向かい合う勇気も、それを顧みない衝動も持ち合わせていなかったからだ。だから、得体の知れないなにかに縋って、実行しようとした。この少女に罪を被せて、自分の手は汚さずに。もう一度、何をしようとしているのかを思索する。正しいことをしようとしているはずだ。だって自分を馬鹿にするやつなんて、居ないほうがいい。そういうやつらが、居なくなりさえすれば、そうしたら昔みたいに戻れるはずだ。 そうしたら、そうしたら、そうしたら……。


「ねえ。文美子は一人の人間につき、一度しか願いが叶えられない」


 逡巡しゅんじゅんした様子の少年にしびれを切らしたのか、文美子は正座を整え少年を見据えた。先程より幾分も幼げな喋り方だが、淡々と願い事に対する制約を告げる。


 まず一番重要なことは、一つ。願い事を叶えるのは、彼女の想像を文字に書き起こすことに拠るのだという。そのため、願い事は具体的な内容でなければ、叶わないこともある。ただ漠然とお金持ちになりたい、と言われてもどの程度のことなのかが分からないためだと話した。有り体に言えば、宝くじで一等を当てたい。と伝えてくれれば、安易に想像がつくのだとも。次に、今まで、誰一人として再び相まみえた人間はいない。それは、願い事を叶えるのを止めて、そのまま帰路を辿った者も含めるのだという。やはり叶えてほしい、と思っても二度と会うことは出来ない。その理由はわからない。そして、死者は生き返らせられない。とのことだった。最後に、文美子をここから連れ出して、永遠に願いを叶えられるようにしたい。というのも不可能だと話す。以前、それを叶えたいと言った者がいたが、試してもこの枷は外れず、なにも起こらなかったのだという。


 決まり事を伝え終え、文美子は薄氷うすらひのような笑みを浮かべ最後の台辞だいじを吐き捨てた。


「誰を生かそうとも殺そうとも、文美子には関係ないわ。人ひとり死んだって、世界は終わらないもの」


 だから、叶えちゃえば? 最後に紡いだその言葉に嘲りが込められていたことに、少年は気づけない。打ちのめされたからだ。文美子の言葉は、決定打だった。それは少年の願いを後押しするのではなく、叶えることを躊躇させることのだった。


 立っていられず、膝から崩れ落ち、少年は幾度も考えをまとめようと必死に脳を働かせる。世界とはなにか。この願い事で本当に幸せになれるのか。少年の中の世界は、学校と家族、塾の三つの世界だ。狭い、狭すぎる。それに例えば、少年が死ねば家族は悲しむだろう。だが、その死を悼んでくれる人間はわずかで、駅前のハンバーガーショップも少年が通う学校も、少年が死んでもなにも変わらない。変わりようがない。この閉塞的な、不思議な世界すらも変えられない。ともすれば、自分が殺したいと願った人物達を殺したとしても、答えは明白だ。なにも、変わらない。


 薄々自覚は、していた。この願い事を叶えてもらったとしても、きっと今まで通りにならないということを。きっと自分が殺したい人物と似たような人物が、他にもまた出てくるだろう。そうしたら、今度はもう、文美子は願いを叶えてくれない。


 文美子は蒼ざめた様子の少年を見つめながら、遠い過去の記憶を漁り、そして止めた。繰り言のように、この懐旧には、意味を見出せない。今は、ただ目の前の来訪客がどうするのかを待つだけだ。それでも願いを叶えるのか、それとも取り止めて、日常に戻るのか。

少年は息を大きく吸って、吐き出した。迷いは、消えなかった。そして、この社の主が許す限り答えを見送ることに決めた。


「少し、考えてもいい?」


少年の問いに、文美子は嗤笑ししょうする。意気地無し、と言われているような心地だった。それでも否と言われなかった為、少年は社の外へと引き返した。白髪の青年が振り返る。変わらず厳しい相好に少年はびくつくが、引き戸を閉めるとそのまま頽れる。疲れた、と言うのが本音だった。そして、自分の怯懦きょうだに心底嫌気が差した。なにも決められない自分が、嫌だった。

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