第四話 冀うひと

 生前、山間の村に、文美子は住んでいた。


 小さな村で、皆で畑を耕し、竹が豊富に生えていたので、大人たちはそれらを使った細工物や、タケノコを町まで売りに行くこともあった。文美子の他に、弟と妹もいたけれど、弟と妹は病で文美子より小さいときに死んでしまった。どの家も裕福ではない暮らしで、父は頑健だったが、母が病を患うようになってからは、余計に暮らしは苦しくなった。町の薬は高く買えないと父はぼやき、山にある薬効のあると思われる植物を煎じて飲ませたりしていた。


(おっ母も、チビたちみたいに死んじゃうのかもしれない)


 そんなくらい気持ちを慰めるときに文美子が行くのは、村のお寺だった。小さいお寺だったが、住職は気の優しい人で、小さな文美子が遊びに来ても――静かにして、住職の邪魔をしないことを約束すれば――嫌な顔せず、迎えてくれた。最初は住職が写経をしているのを隣で見ていたのだが、自分も書いてみたいと言ってから、合間に学のない文美子にわかりやすいように丁寧に字の書き方を教えてくれた。自分の名前の書き方を教えてもらったときに、文美子が生まれて、両親がどうしても名前を決めかねていたところを、代わりに考えてくれたのも、住職だったそうだ。


 住職は、人が考えた文字というのは、ただ書き連ねただけなのに、書き手によってはどうしてかようにも美しいのか。そして同じく文章というのも、時に人の心を傷つけ、人の心を癒し、希望をもたらす。それのなんと不思議なものかと感じていた。


 己が書く字は、決して美しいと思ったことはないが、仏の教えは人の心を救う。昔、教えを乞うた師匠はとても美しい字を書いた。教えを聞くときも、仏の教えとともに、その美しい言葉遣いに、とても感銘を受けた。いつか己も、それに近づくことができないだろうかと、文美子が生まれたとき、そんなことを考えていた折だった。なので、これもなにかの縁と、いつかこの子も美しい字や文を愛し、そして同じように人を愛せればよいと、文美子と名付けてくれたのだと教えてもらった。そんな文美子が字を習いたいというのは、願ってもないことだったとも言ってくれた。


 文美子が、己の才能を開花させたのは、初夏の頃、母の病状が悪化したときだった。以前、町へ売り物を売りに行った三軒隣のお清姉ちゃんが、町では七夕という祭りをしていて、短冊というものに願い事を書くお祭りをしていたと教えてもらった。それを聞いて文美子も、七夕はとうに過ぎてしまっていたが、母の病状がよくなるように願いたいと思った。


 紙など持っていないので、近くに転がっていた大きな石に尖った太い枝で、一生懸命願いを込めて書いた。そうすると、あれほど体を起こすのも難しかった母が、みるみる元気になった。父も、村の人も、薬も買えないこの状況では、きっと冬までもつまい。誰もがそう思っていたのに、母は、また畑仕事に出れるほど回復した。皆驚いたが、この小さな村で働き手が増えるのはありがたかったから、誰もなにも言わなかった。


(きっと、天の神様が文美子の願いを叶えてくれたんだ!)


 母が回復してくれたのが嬉しくて、前と同じように文美子のことを温かい腕で強く抱きしめてくれるのが嬉しくて、そのことを口にすることはしなかった。


 それからしばらくして、村では今度は別の悩みが起きた。雨が止まないのだ。今年は、ずいぶんと良い出来になりそうだったせっかくの畑の実りが、雨でやられる。大人たちがしきりに嘆くのを聞いて、文美子は母のときのことを思い出した。また大きな石を見つけて、雨で湿気って枝が使い物にならないので、小さな石で削るように試してみたが、それも上手く字が書けなかった。仕方なく、地面に指で文字を書くことにして、雨が早く止みますようにと、願った。


 その晩、ぴたりと雨は止んだ。次の日には、今までとは正反対の汗をぐっしょりかくような、真夏の晴天だった。また天の神様が、文美子の願いを叶えてくれたのだと、嬉しかった。その日、両親にそのことを言ったら笑われたが、文美子は絶対そうだと信じた。


 それからも、小さな願いごとを書くと、叶うようになった。一度、住職にもそのことを話したら、少し考えるような仕草をして、どうして文美子にそんな力があるのかはわからないが、正しいことに使いなさい。とだけ、言われた。

 その後、決定的なことが起きた。


 こんな小さな村でも、ある限りは奪っていく盗賊もいるようで、ある夜半に盗賊たちが村を奇襲した。

 誰かの悲鳴で一斉に皆目を覚ましたが、既に盗賊たちが村を徘徊していた。父が農具を片手に戸を開けられないように押さえつけて、母が文美子を抱きしめてくれていた。


 家の外に出たら、それこそ殺されてしまう。火を付けられたらどうしよう。外の叫び声が文美子は怖くて、母の腕から身を乗り出し、土間に指で一生懸命、盗賊たちがいなくなってほしい、盗賊たちはみんな地面が割れてそこに落っこちてしまえばいい、地面にいないやつは、家で潰されちゃえばいいと、そう願いを書いた。


 すると、突然、地面が大きく揺れて、外で襲っていた盗賊は地割れがそこだけ深く起きてその中に落ちて行き、そして地面は自然ともとに戻った。家の中に侵入していた者は家が崩れて潰された。潰れた家の住民は、全員無事だった。

 文美子の家は崩れることもなく、揺れが収まると、文美子が土間で字を書いているのを見ていた両親は、驚いた顔で文美子を見ていた。


 村の被害は、それほど大きくなかった。盗賊たちはみんな地震で死んでしまったし、盗賊と戦って怪我を負った男が何人かはいても、さほど重傷ではなかった。唯一、三軒隣のお清姉ちゃんが乱暴されて、殺されたとだけは聞いた。きっと叫んだのが、お清姉ちゃんだったんだろうと、皆、暗い面持ちで葬儀を行った。


 それから、文美子の生活は一変した。この子は、天が遣わした神の子だと、両親が言い始めたのだ。

 一斉に、いろんな人が、文美子に願いを叶えてほしいと言った。それを文章に起こすと、それが叶った。最初は嬉しかった。皆が喜んでくれるのが、単純に嬉しかった。こいねがう者には叶えてと、そんなことをずっと続けていると、気が付けば、家は大きな屋敷になった。屋敷には召使いがたくさんいて、毎日、自分は綺麗な着物を着て、綺麗な部屋で正座して、住職でも持っていないような高価な筆と紙を使って文字を書いている。両親は偉そうになっていた。


 ある日、人さらいが文美子を襲うこともあって、そのときは事なきを得たが、それ以来、文美子は部屋からほとんど出られなくなった。家の門や、文美子の部屋にはお金で雇った傭兵が番をするようになった。


 いろんな人がお金を持って、文美子を訪れる。こんな願いを叶えてほしい。と言いに来た。時には、こんなはした金じゃあ、ぜんぜん足りないと、両親が願いを叶えに来た人を突っぱねているのを見た。


 その頃になって、文美子の中で、なにかが虚ろになっていくのを感じた。けれど、それが一体なんなのかは、わからなかった。お寺の住職が、両親を諫めに来たのも見たけれど、両親がけんもほろろに追い返しているのを見たときは、余計に心が冷たくなった。


 ただただ、冀われ、それを叶える。どんな願いを叶えたのかも覚えていない。淡々とした毎日が、続いた。最初の頃の喜びは、もう消えていた。


 あまりに毎日、休みなく願いを叶え続けて、ついに文美子は体を壊した。高熱にうなされながら、前みたいに母や父が心配そうに看病してくれることを願ったけれど、召使いが黙々と文美子の額へ、冷たい井戸水で冷やした布を張って、水と旬の水菓子を持ってきて、また布を張り替えてと一定の間隔に来るだけだった。

 両親は、一度も来なかった。


 しばらくして熱は下がり、それからは、少しの休憩が入るようになった。休憩は土塀で囲まれた中庭で取るようにした。中庭は、小さな桜の木が一本と、ツツジの植え込みと玉砂利が敷き詰められただけで、なにも面白い物はなかった。だがそこであれば、人さらいも外からなかなか入ることが難しいし、監視の目も緩んだ。ずっと人に見張られているのは、気づまりだった。


 ただ、高熱を出して以来、文美子の心の中には、冷たい泥のような塊を絶えず孕むようになった。笑うことも、なくなった。お人形のようにかわいいと言われたことがあったが、文美子は本当にお人形になったかもしれないと、感じていた。


 ある休憩のとき、庭を歩いていたら、真っ白い犬が紛れ込んでいた。何日か前に台風が来たときにか、塀の一部が崩れて穴が開いていたので、そこから入り込んだようだった。人懐っこい子で、文美子を見ると遊んでほしそうにくっついてきた。噛みついたり、無駄吠えもしない子で、お腹が空いていたのか、文美子の昼食の食べ残しを与えると、美味しそうに食べていた。


 両親はだめだと言ったが、この子を飼わせてくれなきゃ、もう願い事を叶えないと文美子は初めて口答えした。頭を引っぱたかれたが、それでも嫌だと駄々をこねた。それを聞いて仕方なく、両親は許した。その犬には、シロと名付けて、休憩のときは一人と一匹で遊んだ。シロと遊んでいると、心の中の泥が少し削れていくような気がした。


 願い事を叶えていると、急に苦しくなって泣き出したくなるときがある。願いを叶えているときに泣くと両親が怒るから、休憩のときにひっそりと泣いていると、シロは涙を舐めて慰めるように寄り添ってくれた。シロだけが、文美子の心の拠り所だった。


 それから何年経っただろうか。ある日、商人がやってきた。母が呼びつけたそうだが、呉服屋で、綺麗な衣装を持ってきたと女の召使いたちが喜んでいた。文美子はあまり興味がなかったし、両親はお客と商人の相手ばかりしているので、その日も休憩のときはシロと遊んでいた。そろそろ戻らなくちゃいけない頃合いに、出会ったのだ。シロと出会った中庭で、文美子の運命を変えた、一人の男と。


 その男はかなり若く、髪は総髪にしていて、文美子より四つか五つは年上そうに見えた。困ったようにあたりを見回していて、最初は盗賊かと思ったが、それにしては様子がおかしい。文美子は思わず声をかけた。


「お兄さん、そこでなにしてるの」


 文美子の声にびっくりしたように、男はたじろいだ。そして文美子を見ると、安心したような様子を見せて寄ってきた。シロが警戒して吠えると、歩みを止める。少し距離は離れていたが、男は背の低い文美子と目線を合わすように、少し身をかがめた。


「俺ァ、与蔵っていうんだ。旦那についてきたら、かわやに行きたくなっちまってさ。行ってきたのは良いものの、そしたらこの屋敷、広いのなんのって。迷子になっちまったんだヨ」


 ずいぶんと早口でまくし立てるような言葉遣いだ、と文美子は思ったが、聞き取れないわけではなかった。喋り方から考えると町の人間のように思えたし、男の言う旦那という言葉に、ああ、と呟く。


「旦那って、今日来ている呉服屋さんのこと?」


「そうそう。ああ、もしかしてお嬢ちゃんが、ここのお姫様ひいさま?」


 お姫様、という言葉に文美子は顔を曇らせた。そのことに気づいたのか、与蔵は慌てたように文美子の名前を聞いてきた。


「お嬢ちゃんてェのは、失礼だよな。名前は?」


「文美子」


 ぽつりと返したその言葉に、「良い名だなァ」と、腕を組んで大げさにうなずきながら言う。なんだかその様子が面白くて、思わず文美子は吹き出してしまった。文美子の笑う姿に、与蔵はちょっと目を和らがせた。


「文美子は、笑ってたほうが良いゼ。そのほうが、うんとかわいい」


 明け透けなその言葉に、文美子は顔が赤くなるのを感じた。いつもみんな、「文美子様はお美しい」だとか、そういった類の誉め言葉を言うけれど、その言葉に実感が伴っていないのは、わかっていた。でも、与蔵のこの言葉は、真っ向からきちんと褒めてくれるのが伝わって、嬉しかった。それが知られるのが恥ずかしくて、文美子はつんと顔をそむけた。


「与蔵は、変な人ね。皆、文美子のことをうやまうのに」


 “敬う”という本当の意味がわかっていなかったけれど、いつだったか誰かに「わたしたちは文美子様を敬っております」というようなことを言われたことがあったので、そう言ってみせた。与蔵はちょっと肩をすくめてみせて、軽く笑った。


「俺ァ、しがねェ下仕えだからな。偉いおかみの人のことなんざァ、よくわかンねェけど、文美子みてェなちびっこは、隣に住んでる単にかわいい女の子と一緒だゼ」


 与蔵は、あっさりとそう言いのけたのだった。そして、「いけねェ、これ以上遅れると、旦那にどやされる!」と叫んで、文美子に道を教えてもらうや、駆け抜けるように去っていった。あんまりすばしっこい動きだったので、文美子は半ば呆然とその様を立ち尽くして見つめていた。


 まったく、与蔵は、風みたいな人だ。というのが、文美子の最初の感想だった。そしてとても面白い人だとも思ったものだ。その日は、休憩を終えて、筆をまた執って願いを叶えている間中、ずっと与蔵のことがちらついて、離れなかった。それほど、印象強い男だった。


 それからしばらくしてからも、ちょくちょく与蔵と会うことがあった。母が先日の呉服屋を気に入ったようで、頻繁に呼び寄せるようになったからだった。与蔵は文美子の休憩のときに合わせて、仕事からこっそり抜け出して、他人にばれないよう慎重に身をひそめながらも会いに来てくれた。


 以前、正面きって会いに来ようとしたら、母に冷たく突っぱねられたと愚痴をこぼしていて、その様子も面白かった。それ以外にも与蔵は口が上手くて、面白い話をたくさん知っていた。シロと一緒に縁側に腰かけて、与蔵と話すときだけが、文美子が声をひそめながらも笑えるときだった。


 なにより、与蔵は一度たりとも、願いを叶えてほしいと言わないのが、とても好感を持てたのだ。誰かと喋っているのをばれないように、密やかな声で話すのが常だったが、それでも楽しかった。


「しっかし、文美子はこの屋敷から出たことが全然ねェのかい?」


「そうよ。昔は、お外でいっぱい遊んでたけど。……文美子が願いを叶えられるようになったのを皆が知ってから、気づいたら、ずっとお屋敷にいるの」


 その言葉の裏に、文美子の子供らしさを奪う暗い澱があることを、与蔵は見抜いていた。一日に少しの休憩だけで、あとはずっと筆を握らされて、必死な願い事も、邪な願い事も、淡々と叶え続ける毎日。文美子の今日の一日を聞くと、悲しそうに与蔵は文美子を眺めていた。どこまで、この子は理解しているんだろうか。自分がしていることに。


(どうしてこんな子供に、お天道様てんとさまは、有り余る能力ちからを与えるンだろうなァ……。偉い坊さんだったりすれば、こんなことにもならなかったろうに)


 時折見せる、文美子が静かに庭を眺めるその無表情さに、人形のような生気のなさに、与蔵はひっそりと憂うのだ。


 与蔵には昔、妹がいた。生きていれば、文美子と同じくらいの年だったろう。数年前に流行り病で亡くした妹に、知らず知らず姿を重ねている自分に気づき、思わず嘆息する。だがそれでも、やりきれない気持ちが強かった。死んだ妹は、こんな生気のない表情を浮かべたことなど、一度たりともなかった。妹は自分に似ていて、いつも笑顔でとても口やかましくて、そんな暗い顔をしていたのは、本当に死ぬ間際だけだった。だからこそ、文美子の身の上が哀れでならなかった。


「なァ、文美子。おめェは、外に出たいと思わないのかい?」


「外? ……出れるものなら、出たいな。ね、シロ。ずっと、ここに閉じ込められて、飽きちゃったよね」


 シロはすんと鼻を鳴らして、文美子にすり寄った。慰めにも似たその様を、与蔵は笑う。


「シロは賢いなァ。文美子の気持ちがわかるんだな」


 シロもずいぶんと与蔵に慣れた。一人と一匹。金回りのいいこの家で、ましてや病気をしているわけでもなく、健康な子供で、こんな寂しそうな姿があるだろうか。与蔵は自分の心が揺れるのを感じていた。


 妹が亡くなったとき、同時に両親も亡くした。それからは、生きるために必死に働いて、生来の要領や口の上手さから、運良く大店の呉服屋の下仕えとして働くことができた。今、考えていることはそれを全部、棒に振ることだった。それでも、耐えきれない自分がいた。その気持ちは膨れて、ついには与蔵の決心を固め、口を開かせた。


「なァ、文美子。逃げねェか、俺と一緒に」


「……え?」


 文美子がぱちくりと目をしばたかせる。意味がわからないというように、何度か瞬かせて、その言葉の意味を胸にしみ込ませているようだった。与蔵は辺りを見回し、いつも以上に声をひそめて囁いた。


「俺には、昔、妹がいたのヨ。だから、耐えられねェんだ。文美子が、こんなふうにお家に囚われっぱなしで、自由の利かねェ生活なのが。俺ァ、口が達者だからお役所の奴にも伝手がある。二人でこの村を抜け出して、どっか別ンところ、行かねェか。もちろん、シロも一緒だ。

 今みたいな楽な暮らしはできねェが、なに、俺が二倍働きゃいいだけの話サ」


 その言葉に、大きく文美子は目を見開いた。信じられない、というように与蔵を見上げた。


「ほんと……? で、でも、それなら、文美子が、旅先で、いろいろ願い事を叶えていけば、お金はいっぱい手に入るわ。与蔵が無理に働かなくても」


 その提案に、与蔵は首を横に振った。


「いいや、文美子。俺と約束してくれ。逃げ出したら、おめェはその願いを叶える力のことなんか、すっぱり忘れちまうと。そのほうが、ずうっとお前の為だ。

 その力を使っていれば、きっとまた、別の奴が目をつける。だったら、そんな力のことなんか忘れちまったほう、ずうっといいんだ」


 与蔵の言葉に、文美子は様々な考えで胸がいっぱいになった。


 もう、こんな生活をしなくて済む? 淡々と、ただ願い事を叶えるだけの、まるで贈り物にあった、からくり人形のような生活から抜け出せる? 与蔵とシロの二人と一匹で、今みたいな贅沢はできなくても、楽しく平穏に暮らしていける? こんな状況を、変えられる?


(ここから、逃げ出して、与蔵と一緒に行きたい!)


 文美子の胸にいっそう強く、その言葉が響いた。今の自分を思いやってくれる人がいることも嬉しくて、涙が零れた。泣き出した文美子に気付いて、慌てて与蔵が裾で優しく涙を拭いてくれた。


「約束、する。文美子、もう力を使わないわ。だから、与蔵、文美子を連れて行って」


 小さな声であったが、強く決意を秘めた声音で、文美子は言い切った。そして与蔵と、皆が寝静まる深夜に、この庭で落ち合わせて抜け出す手はずを整えた。その、はずだった。


 いつの間に、後ろで二人の思惑を聞いている者がいたなどと思っただろうか。

 与蔵がいつの間にか仕事を抜けていることに気付いた同僚が、屋敷の傭兵に与蔵を見なかったか尋ね、傭兵が巡回がてらに中庭に来ると、二人が密会していることを目にし、二人に気づかれぬよう忍び寄って会話を聞いていたなど、思いもよらなかった。


 夜半、屋敷に忍び込んだ与蔵は、待ち伏せていた傭兵たちに捕らえられた。そんなこともつゆ知らず、眠い目をこすりながら、必死に起きてシロと共に中庭まで出ると、縄で縛られ二人がかりで痛めつけられている与蔵の姿が目に飛び込んできた。血だらけで、既に顔が腫れあがったその姿を見て、文美子は声にならない叫びをあげた。


「全く、文美子様をさらおうだなんて、とんでもねェ野郎だ!」


 胴間声で傭兵の一人がそう言った。父も傭兵からの密告を受け、起き出していた。庭にやってきた文美子を見つけると、安心したように提灯を片手に寄ってきた。傭兵の片方がまた与蔵を蹴り上げ、与蔵が血反吐を吐く。それからもう、ぴくりとも与蔵は動かなかった。


「ああ、文美子。お前が無事で良かったよ。こんな奴に惑わされないでおくれ、お前は俺たちの大事な娘なんだから」


 大事な、娘なんだろうか。文美子の頭にその言葉は、『お前は俺たちの大事な金づるなんだから』と聞こえた。それは、ずっと耳を塞いで、わざと聞こえないふりをしてきた台詞だった。


 だがそんなことよりも、目の前にいる与蔵が心配でたまらなかった。駆け寄りたくとも、昔はもっと硬い腕だったはずの、いつしか贅をこらした生活で脂肪を蓄えるようになった文美子の知らない父の太い腕で抱えられて近寄れなかった。シロが、父に噛みつこうとしたが蹴られてしまう。


「よ、与蔵、与蔵が死んじゃう!」


「あんな奴は放っておきなさい、さあ早く部屋に戻るんだ」


 与蔵の名を叫びながら、父に無理やり部屋まで引き戻された。呆然としながら、ただ涙が零れていくのを感じた。きっと、与蔵は死んでしまった。文美子の声に反応することなく、蹴られるがままに横たわっていたあの姿が、文美子の目に焼き付いていた。


(文美子のせい? 文美子が、連れて行ってなんて言ったから? だから、与蔵は死んじゃったの?)


 そのあとのことは、あまり文美子もよく覚えていなかった。ただこみあげてくる怒りと怨讐の衝動に身を任せて、父から提灯を奪い、それを部屋に投げつけた。提灯から出た火が畳を燃やして、父が慌てて上着を脱いで火を消そうとしているのを横目に、箪笥にしまわれた筆と紙を急いで取り出して願い事を書き綴った。


(消えちゃえ、全部全部全部! 与蔵を殺したやつも、おっ父もおっ母もみんなみんな、この屋敷も全部、なにもかも燃えて消えてしまえ!)


 いつものように丁寧に書かなかった。のたくるような字で急いで書き記すと、途端に火は油を注がれたように大きくなり、風が吹いて急速に他の部屋まで燃え移った。父が火消しに懸命になっていた小火は、突然父の背を越すように大きくなり、彼の身を焦がした。父の叫びを聞くと、なぜだか笑えてきた。火の手は容赦なく、願った文美子にも襲った。文美子の心を映したような炎は、熱くて痛いなと、ああ、死ぬんだ、与蔵と一緒だ。と身を燃やされながら思ったそのとき、不思議なことが起きた。


 真っ白い光が辺りを包んだと思った瞬間、文美子の体の痛みも、息苦しさも消えた。隣にシロが居た。シロも不安げに鳴きながら、文美子の側に寄った。


――文美子、お前はその力を正しいことに使えなかったのですね。


 男か、女かもわからない、不思議な響きを持つ声だった。その声は厳しさを伴って、文美子を諫めるような声だった。文美子は黙って、そのままその声が続きを話すのを待った。

 悪いことをしたなど、これっぽっちも思わなかった。むしろ、正しいことを為したと思うくらい、気持ちが清々としている。文美子を助けようとしてくれた、あの優しい与蔵を、あんなふうに苦しめる人間に、必要な罰を与えたまでだとすら思っていた。


――お前が起こした火事で、屋敷の人間だけでなく、村の人々も死にました。お前が手に掛けたのは百人余り。お前は、その力を正しいことに使わねばならなかったのに。


 その言葉に、かっとなった。今まで、ずっと他人の思い通りにやってきた。なのに、なぜこうも諫められなければいけないのか。なにより、与蔵を奪った人間が憎らしくて仕方がなかった。その敵を討ったまでだというのに、なぜ? 正しいこととはなにを指すのだと、文美子は叫んだ。


「正しいことって、なに!? どうして与蔵を殺した人たちを、文美子が殺したらいけないの!? それならどうして、文美子にこんな力を与えたのよ!」


 声は黙っていた。そして静かに告げた。


――千の願いを叶えなさい。お前が本当の意味を知れるように。千の願いを叶えたら、お前をそこから出しましょう。


 答えになっていないじゃない。そう叫ぼうと思った矢先に、光が満ち溢れて、目を開けられなくなる瞬間、シロが吠え立てた。異議を申し立てるような、今まで聞いたことがないような吠え方だった。声はそのシロの吠え方に、なにか言葉を聞き届けたのか、また静かに告げた。


――いいでしょう。お前も一緒に、お前の主の行く末を、見届けなさい。その姿ではなく、人として。


 気づけば、狭苦しく、じめじめとした暗い場所に、文美子は四肢を鉄枷で拘束されていた。長く太い鎖は天井に続いている。手元には、見慣れた硯と墨、筆があった。


 状況が呑み込めず、周りを見回していると、四つん這いで呆然としている白髪の男がそこにいた。男は体を起こすと、しばらく自分の両手を見つめ、ぎこちなく己の頬や肩に手を触れていた。その横顔は、まぎれもなく与蔵の顔だった。しかし与蔵はこんな真っ白い髪をしていないはずだった。はたと思いついたのは、いつも隣にいた可愛いあの白い愛犬だった。


「……シロ?」


 恐る恐る声をかけられたその言葉に、男はびくっと反応し、文美子をまっすぐ見つめた。


「文美子?」


 その声は、与蔵と同じ声だった。だがその姿を見ると、声を聴くと、文美子はたとえようもない、怒りに似た感情を抱いた。四肢を拘束されたからか、わけのわからない場所にいるからか、ただ、シロが助けたかった男の姿をしているからなのか、その理由は文美子にもわからなかった。ただ、厭わしいという感情が吹きあがって抑えられなかった。


「こっちを見ないで! 出て行って!」


 叫ぶように放たれた言葉に、シロは肩をまたびくつかせた。文美子の言葉とは反対に、側へと近寄ろうとすると、文美子は硯を投げつけた。それは、見えない壁に跳ね返って、割れることもなく、文美子の手元に落ちた。シロは、本当に人になってしまったのか、それを見た瞬間、とても悲しそうな顔をした。それが、文美子の感情を余計に揺さぶらせた。


「与蔵の顔で見るな、けだもの! 早く出て行け!」


 今までで一番というほど、語気を荒げて、文美子は叫んだ。その言葉を聞いてシロは悄然と、慣れぬ人体からか、這うように戸を開けて出て行った。戸が閉められると、ただ、文美子の心は孤独と侘しさで、胸がいっぱいになるだけだった。


 シロは、きっとわたしと一緒に居たいと、あの声に願ってくれたはずなのに。だが心が抑えきれなかった。文美子が広げたあの炎は、文美子の心も炎のような他人を傷つける心に変えてしまったんだろうかと、涙をこぼした。


 そしてそれ以来、願いを叶えてほしいと、訪ねてくる人々が、文美子が見慣れた着物姿の人や、見慣れない服装の姿など、いろいろな人が入り混じりながら、ぽつりぽつりと、やってくるようになったのだ。


 戸を隔てても、声は聞こえる。シロが、これこれこういう人がやってきたと告げ、その人を文美子の前に通し、文美子が願いを叶える。それ以外は二人は一切の言葉を交わさない。それが、二人の常となった。

 そして、指折り数えるように何回目の願いを叶えたかと床に書き記し、やっと千の願いを叶えたと思っても、なにも起きなかった。あの声が嘘をついていたことに、文美子は深く絶望した。

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