第五話 君に、幸あれ


「これが、わたしたちに起こった出来事」


 文美子がぼんやりとした様子のまま、すべてを語り終え、そう告げた。少年も、文美子と同じように望洋とした面持ちで文美子を見つめていた。文美子の両親の身勝手さ、与蔵に対する哀惜の想いや激情、それらが少年の心に重く圧し掛かる。


(この子は、僕なんかよりずっとずっと、辛い思いをしていたんだ)


 文美子が経験した凄絶な人生と、自分の半生とを比べると、なんとちっぽけなことで悩んでいたのだろうかと、恥ずかしさすら覚えた。だが、裏を返せば、自分は文美子の気持ちの半分も理解できることはないし、文美子だって、誰にだって僕の気持ちは、わからない。それは、誰だってそうだ。大なり小なり悩みを抱えて、人は生きている。他人から見たらちっぽけでも、その人にとっては、とてつもない重さを秘めているはずだ。なぜなら、ここに来た自分がそう証明づけているのだから。その思いの強さがなければ、きっと文美子の前に現れることができないんだろう。と、少年は自然と思っていた。


 今、文美子はなにを願っているのだろうか。ふと、少年の心に疑問をわかせた。


「ねえ、文美子、は、自由になれたら、なにをしたいの?」


 文美子様、と呼ぶのは、なぜか憚られた。このあえかな少女が本来の文美子なのに、また神様のように扱ったら、きっと見えない糸を張られてしまうような気がして、それはとてもよくないことのように思い、少年は呼び捨てで呼ぶことにした。文美子は、それに対し気にすることもなく、ぼんやりとした目つきのまま、ぽつりとまた呟いた。


「与蔵に、謝りたい」


 その一言を言い切ると、ぽろぽろと涙をこぼしながら、文美子は両手で顔を覆ってしまった。それを見たシロが、苦々し気な顔をして、手を伸ばした。だが、それでも近寄ることを恐れるかのように伸ばした手を、膝に戻してしまう。シロも、傷を負ってるんだ。大好きな文美子に拒まれて、傷ついているんだなと、少年は思った。それから、文美子は呻くように呟いた。


 ――ただ、謝りたい。巻き込んでごめんなさいと。わたしを慮ってくれたばかりに、あたら命を散らすことになったことを、謝りたい。


 ひたすらに、そう呟いた。自分がこれ以上、他人に利用されないように、もう力を使うなとまで言ってくれた、あの優しい人に、謝りたい。そう、文美子は言い続けた。少年は、その姿を見て、なんだか自分も一緒に泣きたくなるような、そんな気持ちを抑えるのに必死だった。それに、文美子を捕らえたなにか、本当の神様だかなんだかはよくわからないが、その存在が不思議で腹立たしかった。


 文美子は、本当は心根が素直で、悪い大人たちに利用されていただけなのに、どうしてこんなに文美子だけが重い罰を受けなければならないのだろう? 特別な力を持っているから? 文美子が、なにも考えずに、ただ言いなりになって願いを叶え続けたから? だって子供だったら、大人がやれって言われたら、大抵のことは言いなりになっちゃうじゃないか。ましてや、親だったら、反抗する気だって起きないかもしれないのに。と考えるようになりはじめた。そして、最初の頃のあの冷たい氷のような、人を殺しても世界は終わらないと言い切った文美子が居なくなっていることに気付くと、とあることが思い浮かんだ。


「ねえ、文美子。文美子はさ、ここに来てから、今までと同じように、願い事を叶えてきたんだよね?」


 涙で裾を濡らしながら、文美子は少し手をずらして少年を見て、頷いた。


「良いことも、悪いことも、ひとしく叶えてきたんだよね。僕が来るまでの間にも、誰かを殺してほしいって願いも、叶えてきたんだよね?」


 文美子は小さくうなずいた。まるで、親に怒られて小さくなっている子供みたいだった。少年は腹がむずがゆいような、苦しいような気持ちだったが、ここまで来たらやめることはできなかった。もしかしたら、いっそわずかの可能性かもしれないが、文美子をここから出すチャンスがあるかもしれない。それは、今すぐではなくとも、確実に出口に近寄ってきている。文美子も実際は、気づいているのかもしれない。


 本当に、ある意味では難しいが、ある意味では簡単な話なのだ。その神様だかなんだかは、『お前が本当の意味を知れるように』と言った。要するに、『正しいこと』を知れと言っているのだ。正しいことというのは、線引きが難しい。だが、あえてそれをやれと言っているんだろう。いや、もしかしたらその前段階かもしれない。と少年は、ぐるぐると考えをまとめ始めた。


「怒らないで、聞いてほしいんだけど。たぶん、文美子を捕まえている人は、そこが駄目だと思っているんじゃ、ないかな」


 文美子は、なにも言わず、少年の言葉に耳を傾けた。きっと、文美子に願いを叶えること以外の言葉をかけるのは、そのなにか以来なんじゃないのかな、と少年は思いながら、胸の内を一生懸命明かし始めた。


「もし、本当はわかっていたら、悪いんだけど。その文美子を捕まえている人は、文美子が願い事に対して、ちゃんと考えて、考えた結果、願いを叶えるのか、それともそれを取りやめるのか、そこを見ているんじゃないかと思うんだよ。正しいことって、難しい。僕も、きっと大人だって、正直判断がつかないと思う。だって、文美子が言っていた通り、与蔵って人を殺した人は悪い人だし、なんなら文美子を今まで利用してきた大人たちだって、言っちゃえば悪い人じゃないか。じゃあ、それに対して復讐したいって思う気持ちはダメなのかよ、って思う。

 でも文美子が特別な力を持って、それを使って、きっと悪い人だけでなく、関係のない人も殺しちゃったことも、事実、だろ? それに、お寺の人も言ってたんでしょ。『正しいことに使いなさい』って。だから、捕まえてる人も、文美子にそうしてほしいんだよ。人間だから、ぜったい、間違えると思うし、絶対正しいことをしろって言うなら、そこまで厳しいんだったら、自分で言えよって思う。だけど、ええと、必要なことは、そういうことなんだと、思うよ。

 つまり、文美子が、自分で考えて、もし絶対的に悪いことであれば、手を貸さないことと、文美子が願われるままに力を使うんじゃなくて、文美子自身が考えて正しいことをするのを、求めているんだと思う、よ」


 一気に話して、少し最後はつっかえつっかえになってしまった。それでも、今までで一番、少年は情感を込めて伝えた。純粋に、文美子に自由になってほしいと、心から願っての言葉だった。

 文美子は静かに、少年の話を聞き入れていた。シロも、少年が目線をやると静かに頷いた。きっと、二人とも本当はわかっていたんだろう。特に、シロは気づいていたのではないだろうか。だが、与蔵の姿でいるシロを、文美子は受け入れられなかった。二人の確執が、ここまで時間をかけてしまった。


「そう、ね。わたしは、早く自由になりたくて、ここが怖くて、シロが与蔵の姿になって、きっと与蔵が怒っているんだと、思った。人を殺したことを、本当は後悔してた。だから余計に怖かった。だから、ただ躍起になって、なりふり構わず、願いを叶えてた。当然の、結果よね」


 文美子の震えながら涙声で語るその言葉に反し、シロはまっすぐ文美子を見据えてかぶりを振った。


「今から、変えていけばいい。気づいたなら、変えていけばいい。あの日、与蔵と逃げることを決めたとき、お前は変えていきたいと思ったんだろう。なら、今もそうすればいい」


「……そうだよ。文美子が、これからどう思っていくかだよ。それに、文美子が怒ると風が吹くのも気になるんだ。もしかしたら、文美子自身が、ここに自分を閉じ込める理由の一つかも、しれない。あくまで、推測だし、気休めにも、ならないかもだけど」


 シロが言うように怒りで風が吹くのなら、文美子の後悔やなにか、文美子自身の奥底にある強い意志が、どこか自分を赦せないだとか、そういった気持ちが実はあって、それがここに縛る理由の一つかもしれないとも、少年は考えていた。もちろん、神様かなにかが関与していることは否定できない。だが、この四本の鎖のように、文美子を縛るものはたくさんあるのだろう。そしてあとは、文美子がどうしていくかなのだろう。

 それなら、自分はどうなんだろう。なにを、叶えてもらったらいいんだろう。少年はそう思った。だが、先ほどのようには上手くまとまらなかった。それならと、一度外へ出ることにした。文美子とシロも、二人の間の確執を埋めるために、なにか話が必要じゃないかとも思ったのだ。


「僕、もう少しだけ、願い事を考えてもいいかな」


「ええ。あなたの気が済むまで」


 弱弱しい微笑みを浮かべて、文美子は頷いた。立ち上がる少年に続こうと、シロも立ち上がったが、少年は手で制した。


「二人とも、ちゃんと顔を合わせるの、久しぶりなんでしょ。ちょっと話でもしてなよ」


 少年の言葉に、シロはきょとんとした。ここに来て、初めて見る顔だ。だが、シロは優しく笑って、頷いた。二人の邪魔をしないよう、少年は外へ出て、戸を閉めると深く息を吸った。二人の話声は、ぽつり、ぽつりと聞こえてくるが、なるべく耳にしないよう、少年は考え事に専念することにした。


 濡れ縁に座ると足を投げ出して、少年は曇り空をじいっと眺めていた。今まで願おうとしてきたこと、文美子から聞いた話、今の状況。それらが渾然となって、なにかを形作ろうとしている。後ろで文美子とシロの話し声が聞こえてくる。文美子がまた、涙声で謝っているようだった。シロにも悪いことをしたと、泣いている。やっぱり耳に入っちゃうな、と少年は苦笑する。

 どうして神様は、文美子にこんなことを背負わせたんだろう。少年はそれが不思議だった。だが、この疑問が解けることは、きっとないのだろう。


 そんなことを考えながら、どうするかをまた考えに脳を沈ませていると、つい先日の国語の授業のことが、頭の中に急に浮かんできた。そうだ、これがいい。思うとうすぐに、己の中で気持ちが固まるのを感じた。それを文美子に伝えようと、スクールバッグからペンケースを取り出し立ち上がる。一度戸をノックすると、文美子が答えた。戸を開けて中に入ると、シロは脇にどいてくれた。ちょっと会釈して、少年は文美子の前で正座した。涙に濡れた目で、ただ静かに少年を見据えた文美子は、問うてきた。


「決まったの、願い事」


 少年は力強く頷いた。そして、渡していた願い事の紙を一度貸してほしいと伝え、受け取った。ペンケースからシャープペンを取り出すと、書いてきた願い事に大きくバツ印を引き、残っていた空欄に、自分が書ける最大限の丁寧な字で書き記した。それを文美子に渡すと、文美子は驚いたように目を見開いた。困ったような、どうするべきなのかが全くわからないように、不安げに少年の顔を見上げる。


「……こんな願い事を叶えるの、初めてだわ。ねえ、文美子、学なんてない。あなたの思うようなことを叶えられないかもしれない」


「文美子が、思うことで良いよ。なんだって、良いんだ」


「本当に?」


 文美子は確認してきた。少年は力強く頷く。


「うん。それが、僕の願い事だから」


 それでも、迷うように文美子は紙をもう一度、黙読した。迷いはまだ消えないようだった。どうしたらいいのかを考えを這わせて、それでも結論が出てこない。さっきまでの自分のようだと少年は一人心の中で微笑んだ。


「でも、これって、わたしじゃなくても」


 いいじゃない、と言いかけたところを少年は首を横に振った。


「学校で習ったことなんだけど、人の言葉には魂があって、それを口にすると本当になるんだって。言霊、っていうんだけどさ。文美子は、多分、口じゃなくて書くことで本当になるんだと思う。それなら、文美子に僕は書いてほしい。それはきっと、僕の力になるから」


 その言葉を聞いて、文美子の目にまた一滴の涙が浮かんだ。ほんとは、泣き虫な女の子なんだな、と少年は思った。ただ少年としては女の子に泣かれてしまうと、居心地がとても悪くて、思わず困った顔をすると、文美子は慌てて裾で涙をぬぐった。そして、初めて会ったときのような、神聖な、少し冷たいような、触れてはいけないような不思議な雰囲気をまとって彼女は頷いた。


「わかった。あなたの願い事を、叶えます。でも、ここから出ていってから確認してね。恥ずかしいから」


「うん。ありがとうございます、文美子様」


 このときだけ、少年は文美子に敬称をつけるべきだと判断した。その文美子の姿が、とても貴いものに思えたからだった。


 文美子は威儀を正すと、筆を執る。文美子は内心、驚いていた。こんな気持ちで筆を執るのは、いつぶりだろう。初めて筆を執ったときのことを思い出した。あのときは、ただただ、誰かに喜んでほしかった。いつの間に、わたしの心は、こんなにもねじくれてしまったのか。それを思うと少し悲しかったが、それでも気を取り直して、筆に墨を含めた。


 和紙ではない為、滲みやすい真っ白なコピー用紙へ、慣れた手つきで滑らかに文字をしたためると、丁寧に三つ折りにして、少年に渡した。それを大事そうに両手で受け取り、少年は深々と一礼し、社の階段を降りた。シロも見送るように立ち上がり、戸の脇に立った。少年は、再度深く一礼をして去っていった。開けられたままの戸から、文美子は少年の姿が霧の中へと見えなくなるまでじっと注視していた。


**


 社の周りの空気が、いつの間にか変わっていた。霧はあるが、あの息苦しいような重苦しさは消えていた。虫と鳥の声が聞こえ始めた。緩やかに風が吹き、緑の匂いを運ぶ。社の周りが息をしている。墓場のようだったこの場所は、変わり始めている。

 シロも少年が去っていったほうをしばらく眺めた後、また社の中へと戻った。最初の頃と変わらず湿った場所だが、それでも文美子の顔が、涙で濡れてはいても、晴れやかなのが嬉しかった。


「あの小童は、何を願ったんだ?」


 文美子の前であぐらをかいて座りながら、シロは文美子へ質問した。文美子は迷うように目を瞬かせたが、照れくさそうに言った。


「あの子が生きていくための、励ましの言葉が欲しい、だって。文美子、学はないし難しいことは、わからない。あの子が言った、正しいことも。だから、文美子も願ったわ。悪いことが百あるならば、千の良いことがあれば良いなって」


 初めてだった。そんなことを願う人は。いつも即物的なことを願われるから文美子は、正直なんと書いていいかわからなかった。この言葉が正しかったかどうかも、わからない。それでも、あの少年は辛い現実から逃れる術と信じて人を消し去ろうとしたが、その道を一度踏みとどまった。そんな彼に、せめてこの言葉を胸に、少しでも辛い現実に勇気を持てるようになるといい。側で力にはなれないけれど、なにか良きことを与えられたらと、そう願いを込めて、文美子は書き綴った。

 シロは、そうか、と答えた。シロも細かいことや、人間のことはわからなかった。だが、文美子が懸命に考えてくれた言葉なら、やはり正しいんだろうと思うのだ。


 今までは、与蔵と似た姿を取った自分を厭い、目どころか顔も合わせてくれなかった文美子が、まっすぐにシロの目をとらえている。少し、遠慮がちに文美子はシロへのお願いを口にした。


「ねえ、シロ。もう一度、千の願いを、きちんと叶えたいと思うの。まだ、一緒にいてくれる?」


「もちろんだ。気が済むまで、付き合うぞ」


 そんなことか、とシロは笑う。大好きな文美子が、いつか解き放たれるそのときまで、自分は彼女の側に居る。その決意は、文美子を捕らえたあの「なにか」に宣言した通り、今も変わらないのだ。

 少年が少しの間シロと話す時間をくれたが、それでも自分が行ってきた冷たい扱いに、愛想をつかされたのではないかと半ば心配していた文美子の心に、温かいものがあふれた。シロは、本当に優しい。犬のときも、文美子が泣くと慰めるように顔を舐めてくれていたことを、やっと思い出した。


 今までは、がむしゃらに願いを叶え続けてきた。千を超えても、囚われたままの自分に絶望した。だが、少年が言ったとおり、始めにあの誰かが言っていたのは、きっとわたしが今も昔も、なにも考えずに願いを叶え続けてきたことを振り返らせようとしたのかもしれない。もちろん自分が犯した罪は、もう一度、償おう。わたしが考え得る、正しいことを、しよう。決意を新たに、文美子は微笑んだ。


「ありがとう、シロ。――全て終えたら、与蔵に会いに行こう」

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