第23話 神様のお話。
渾沌は青蓮を背に、宮城までの距離を駆け切ったが、その具合はたいそう悪く、途中、息を切らせる時もあった。
「渾沌様、どうぞご無理をなさらずに」
背を降りて歩くという青蓮をかたくなに離さず、足を休めている時でも傍に侍らせている。
「お前が傍にいれば、それだけで大丈夫だ」
渾沌を案ずる度にそういって鼻先を寄せてくる。
青蓮もその度に、そっと頭を抱きしめるようにして、その毛並みを優しく手で梳いてやった。
銀狐とともに宮城を出て、やっと渾沌の元に戻ってきたのはいいが、敵か味方かもよくわからない青竜を伴っての帰還は、青蓮にとっては躊躇われるものだった。
光る何かを求めて銀狐と共にあの亀裂に飛び込んだ時には、光る何かは悪いものではないと思っていた。
青蓮にかけられた穢れにあるような憎しみや苦しみなどはなく、ただ純粋に強く輝くものだった。それが渾沌の影と同じように怯えるべきものではないと思えたのだ。
しかし、銀狐に憑依した光る何か――青竜は渾沌と対となる存在だという。
渾沌が獣人の加護と繁栄、青竜は人間の加護と繁栄。そうやって釣り合いが保たれ続けてきた。
そんな存在を連れてきてしまった青蓮としては、もし二人が戦うようなことがあれば、自分の命を懸けてでも青竜を止めなくてはならない。
青蓮はちらりと傍に立つ兄の顔をした青竜を伺い見て、慌てて目を伏せた。
涼しげな顔をして、青竜もまたこちらを見ていたのだ。
宮城に戻ると、先に戻った銀兎が万全の支度を整えて待ち構えていた。
「お戻り、お待ちしておりました」
渾沌、青蓮、青竜の三人は、本営のある広間に落ち着いた。
青竜が連れてきた桔紅はまだ意識を取り戻していないが、今は見張りの厳重な地下牢に入れられて、騒ぎのあった国境近くの村へも渾沌たちと入れ違いに増援部隊を向かわせてある。
国境の状況をざっと確認して、渾沌はもう一度出ると言ったが、それは銀兎が止めた。
「あと一押しではございますが、何が待ち受けているかわかりません。増援が向かっておりますので、渾沌様はまずはお体をお休めください」
「この位の傷は……」
「それは我の血の障りであろう?」
人の姿に変化もできず身を横たえている渾沌に青竜が声をかける。
「青竜様の血の?」
清浄な水と布で渾沌の傷口を清めていた青蓮が顔を上げた。
「なぜ、青竜様の血が渾沌様に?」
「あの女が宿しているのは我が半身。それに
青竜はそう言うと、じくじくと焼け爛れた渾沌の傷口に手を当てる。
「血が流れた故、獣の穢れが大分薄まったな。この位であればこの身であっても祓えよう」
そう言って、青竜がその手で傷口を拭うように撫でると、まるで汚れが落ちるように傷口が消えた。
「ありがとうございます! 青竜様!」
血が滲むのを止めることすらできなかった傷は、青竜のひと撫でできれいに癒えてしまった。
「我と渾沌では反発が強い故な。獣の穢れで弱らされた上に我が血の呪いではつらかろう」
「青竜様……青竜様はどうして渾沌様をお助けくださるのですか? 青竜様は渾沌様を倒すためにここへ来られたのでは……」
渾沌に対し敵意を一切見せない青竜に、青蓮は思い切って疑問をぶつけてみた。
世の釣り合いを保つため、青竜と渾沌は相反する存在として在ることで世界を保っている。
「我は人間の信心に応じ僅かながら助けの手を差し伸べた。しかし、人はそれを歪め、
レンザを見て青竜は今の事態をすべて悟ったのだろう。
「元より
「では、青竜様は渾沌様と戦うことはないのですか!」
「そうなる」
青竜は鷹揚に頷いた。
「良かった……」
青蓮は手にしていた布をぎゅっと握りしめて涙ぐんだ。
青蓮と銀狐が招いたものが渾沌を害することになったら、後悔してもしきれない。
「ありがとうございます……青竜様……」
「例には及ばぬ。お前の兄の体を借りているのは私の方だ。依り代の願いはお前を守護り、手助けをすることだ。それを叶えねばならぬ」
「どうして、そんなに……」
「お前たちだけの問題ではない。半身を奪われ、呪いに使われて歪められたことで、四神としての力の殆どを失ってしまった。地上に上がることも叶わず、あの亀裂の底で衰弱して消えるのを待つばかりとなっていた」
青竜はすっと膝を折り、青蓮の前に膝をつくと、その目の前にそっと手をかざした。
一瞬、隣にいた渾沌が警戒するようにぐるるっと喉を鳴らしたが、害意はないと見たのかそっと青蓮に顔を寄せるだけで黙った。
「我が血の穢れを受けたせいで、お前の目に映ることができたのは僥倖であった」
「いいえ、いいえ。渾沌様と敵対しないのだとわかればそれだけでいいんです」
「欲のないことよ。依り代は体を貸すには代価を寄越せとはっきりと言っておったぞ」
「に、兄さん……」
確かに銀狐ならば相手が神だとわかっても臆さずに交渉するだろう。
現に交渉してくれたから、青蓮は視界を取り戻せた。
「これからどうするつもりだ?」
話が落ち着くのを待っていたのか、渾沌が口をはさんできた。
「戦が落ち着けば俺も力が貸せる。それまで我が廟にいれば良い」
「うむ。それはありがたいが……我が半身を持っているあの娘がある限り、お前の力は奮えまい。我が半身を取り戻すのが先であろうな」
「そもそも、お前は何故、人間風情に半身を奪われるまでのことになったんだ?」
「我が廟に千夜通いをした者があったのだ。その信心に応じて、力を貸してやろうと手を差し伸べたのだが……」
千夜通いは文字通り神様をお祀りする祠や廟に千夜お参りに通うことだ。
青竜の廟はあの森の奥深くにあり、どんなに近い村から通いに来ても騎獣に乗って半日かかる。千夜通いを果たした人物は千夜の間、ずっと森の中で暮らし、一日中祈りを捧げ続けたのだそうだ。
「それだけの祈りをもって我に望んだのは我が力のすべてだったのだ。我はその者の獣の穢れによって囚われてしまった」
「え? 青竜様にも獣の穢れが影響するのですか?」
「我は鱗あるものの始祖故、わずかではあるが影響を受ける。わずかでも生まれた隙をつかれ、半身を奪われ、魂魄のみの姿となってしまった」
青竜は淡々と語るが、それは凄まじく計画的で渾身を込めた計画だったに違いない。
神の半身を奪うなんて。
「なに、簡単なことよ。千夜通いをした信心のある女を仮初めの妻とした。そしてその女は我を裏切り半身を奪ったのだ」
「え……」
「我らは現界に顕現しているときには妻を必要とする。渾沌にお前がいるように。……妻は我に毒を盛り、眠りに落ちたところで獣の穢れによって身を縛った。後はもうあっという間よ。気づけば我が廟は破壊され、我は廟と共に亀裂の底に沈んだのだ」
「それは……」
「その女もこの依り代の手によって罰せられた。お前たち兄弟には大きな貸しができたな」
「あっ、ロッタ……」
黒い獣の耳、褐色の肌、濃い穢れに身を穢して、その毒で渾沌を殺そうとした女。
ロッタは渾沌たちの目にも穢れを隠しきったように、青竜にも本当の姿を隠して近づいたのだろうか。
なんと強かな女だだろう。
「今、奪われた半身はあの同じ顔の女が持っているようだったが、あの女に我が血は重かろう」
「人の身には過ぎたる力だ。自滅するのも近いだろう。……だが、それを待つ気はないのだな?」
青蓮の膝に頭をのせてじっと話を聞いていた渾沌が、頭を上げて青竜に問う。
「自滅まで待てば、魂魄が救われまい。人への慈悲だ。その前に我が下そう」
「では、あの女を倒すために俺も力を貸そう。目的は同じだ。あの女を打ち倒せば我が国の勝利だ」
そして、釣り合いは取り戻され、歪みは正される。
「そうか、人間であるはずのレンザが人の身を超えた力を持ったから、世界の釣り合いは崩れてしまったんですね……」
青蓮の言葉に渾沌は深く頷く。
「そうだな。俺が天に起こされたのはこのことが原因だったのだろう」
「そう言うのって最初に天啓があったりしないんですか?」
「ないな。あっても無くてもやることは変わらん。俺は敵を屠り、獣人の国を護りぬくだけだ」
渾沌はぐるると喉を鳴らす。
「獣の王らしい言葉よな」
青竜が銀狐の顔で微笑む。
「あ……」
それは青蓮が初めて見た、青竜の感情のこもった表情だった。
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