第22話 地の眷属、天の眷属。
「青蓮……」
そこに現れた時は夢かと思った。
赤銅色の髪を獣の尾のようにたなびかせた銀狐が渾沌とレンザの前に飛び降りてきた。
そして、その腕に抱かれているのは――
「渾沌様!」
銀狐の腕を振り払うようにして、渾沌の元へ駆け寄ったのは青蓮だ。
気配が近づいているのは感じていたが、こんなにも早く、躊躇いもせずにここへ現れるとは思わなかった。
「渾沌様、なんて酷い……」
青蓮がレンザの毒を受けて焼けただれた傷にそっと触れた。
「俺にこれを癒す力があったらよかったのに……」
傷を見てはぼろぼろと涙をこぼす。
「青蓮、見えるのか?」
「はい。青竜様に穢れを払っていただきました」
「青竜……そうか」
青蓮の口から青竜と言う名を聞いて腑に落ちた。
レンザも同じ名を口にしていた。
「我が血の混じりが人の子を苦しめていたのでそれを祓ったまでのこと」
銀狐が感情の乏しい眼差しで渾沌をじっと見つめてくる
よく見れば、渾沌の見知った銀狐とはずいぶんと雰囲気が違う。
「なるほど、銀狐を依り代にしているのか……礼を言う青竜」
渾沌は穢れに囚われたままだが、凛とした態度で青竜に礼を述べた。
「さて、礼を言われるにはまだ早いかもしれぬぞ。そに在るは我が眷属か?」
銀狐――青竜が、レンザの方を向く。
「これは、ずいぶんと酷い
「東方青竜様、何卒、お力を賜りたく! どうか、その汚らわしき獣に天罰を!」
レンザはその場に跪いて、額づいて願い乞う。
その声は悲鳴のようで、美しかった歌姫の面影はない。
「こやつは長きに渡り青竜様をお祀りしていた夜楼国を滅ぼしたケダモノ。人の世にありて禍にしかならぬ邪神です!」
「哀れな我が眷属よ。故に我が力を欲し、我が身をその身に取り込んだのか?」
青竜がゆるりとレンザに歩み寄る。その流れるような動きは二本の足で歩いているのに蛇を思わせる。
一歩、一歩、ゆるり、ゆるりとレンザに近づく。
「青竜様! 私はっ……」
レンザの言葉を遮るように、青竜はその口をふさいだ。
「神に言葉は要らぬ。お前が我の半身をその内に持つことは明らか。ならばお前の中の我に問おう」
「っ!?」
青竜はレンザの口を手でふさいだように見えたが、それは手ではなく袖より這い出る蛇だった。
どこから姿を現すのか、女の腕ほどもある蛇がずるずると何匹も這い出てきてはレンザの首に巻かり、その唇をこじ開けて行く。
「う、ぐっ」
レンザは苦悶の声を上げるが、青竜は関せず蛇を送り続ける。
長い蛇が口の中へ入り、レンザの喉を膨らませてその奥へ入りこむ音がする。
その光景を見つめながら、青蓮は渾沌の毛皮に縋りつくしかできなかった。
本当ならば、渾沌の身の潔白をもっと訴えねばと思うのだが、そんなことが許される空気ではなかった。
明らかに、青竜は怒っているのだ。
「ぐ、ぅ……う……」
レンザは卵を呑み込む蛇の腹のように喉を膨らませている。
苦しみに藻掻いても、青竜は決してやめようとしない。
「ほう、ほう、我が身を宿すために竜血を飲んでおったのか。人の身にはさぞ苦しかろう」
ずるりするりとゆっくりと蛇は中に入って行く。
口に入れぬ蛇は喉に絡まり体に巻き付き、鎌首を上げて順を待つようにしゅうしゅうと鳴いている。
レンザの目はもう光を失い、蛇に巻き付かれていることで支えられているが、体中のどこもが脱力して痙攣している。
「青蓮の目を穢しておったのは、我が血を元に獣と掛け合わせた呪い。獣には祓えず、人にも祓えず、穢れを振りまく毒。お前は――」
「レンザ!」
「レンザ様っ!!」
突如、青竜の言葉を遮るように声が割って入った。
騎獣に乗ったシェムハと桔紅が、皆のいる屋根の上へと飛び上がってくる。
「桔紅……?」
自分たちの乗った騎獣を射殺したのは桔紅だと銀狐から聞かされてはいたが、こうして目の当たりにしても青蓮には信じがたいものだった。
しかし、桔紅は腰に佩いた刀を抜くと、青竜の前に立ちふさがった。
「レンザ様! 今、お助けします! ――覚悟! 銀狐!」
桔紅は躊躇うこともなく銀狐――青竜に向けて刀を振りかざす。
「やめて! 桔紅っ!」
青竜は刀を避ける気配も見せず、じっと虚のような瞳で桔紅を見ていた。
「兄さん! 逃げて――」
縋りついていた渾沌から手を離し、銀狐の元へ駆け出そうと青蓮は腰を浮かせたが、大きな影が目の前に現れ行く手をふさいだ。
「渾沌様!」
渾沌は穢れの戒めを引きずりながら、ゆらりと立ち上がり、その身を桔紅の前、青竜を庇うように立ちふさがった。
それと同時に辺りを空気ごと震わせながら低い咆哮が響き渡る。
「ひっ!」
渾沌の咆哮は、人よりも強く獣人に影響する。
咆哮を浴びせられた桔紅は刀を取り落とし、穢れの戒めを放って渾沌を押さえつけようとしていた獣人たちはみな崩れるように座り込んでしまった。
「俺を裏切るのは構わんが、獣人が神を穢すことは許さん」
「渾、沌……」
「くそっ! この役立たずめ!」
「!?」
桔紅を捕らえようとした渾沌に新たな一撃が放たれる。
腕に
「レンザを返してもらうぞ!」
蛇に侵され、もう生きているのかも危ういレンザの体を抱え上げ、絡みつく蛇に矢を放ち引きはがす。
洋弓銃の矢は短いが強い威力によって蛇を撃ち離し、シェムハはレンザを抱えたまま騎獣にまたがる。
「待て!」
渾沌は再び咆哮を上げて騎獣に噛みつこうとしたが、一瞬の隙をついてシェムハはレンダの持っていた鐘を鳴らした。
「退け、ケダモノ。今のお前ではこの鐘の音には抗えん」
軽く響き渡る鐘の音は、決して強くはないが強い光のようなものを放ち獣人たちを苦しめる。
渾沌も例外ではなかった、それでも膝を折ることなく半歩後退るだけだったのは流石と言えよう。
桔紅も他の獣人たちももう座ることもかなわず地に伏していた。
「渾沌様……」
穢れを祓われても、その身に渾沌の血が残る青蓮も苦しそうにうずくまる。
今これ以上は分が悪いと、渾沌は低く唸りながらも青蓮を庇うようにさらに一歩後ろに下がる。
シェムハの腕にある洋弓銃には矢が番えられたまま油断なく渾沌や青蓮に狙いを定めたままだ。
しかし、敵か味方かわからないが、その事態を見つめている青竜もいる。
レンザにあれだけの苦痛を与えたのだからシェムハたちに加勢するようには見えなかったが、かといって渾沌い味方するとは限らない。
そう考えたのはシェムハも同じだったようだ。
シェムハは矢を番えたままでゆっくりと騎獣を立ち上がらせる。
他の騎獣たちがおびえて何もできない中、シェムハの騎獣だけは何とか立ち上がった。
「このままで済むと思うなよ、ケダモノの王!」
動かずじっと見据えている渾沌を睨みつけたまま、シェムハの騎獣は跳躍した。
隣の屋根に飛び移り、こちらを向いて警戒したまま、もう一度別の屋根へと飛ぶ。
そして、鐘の音とともに少しずつ遠のき、やがて溶けるように消えた。
それと同時に気が抜けたのか、渾沌はどさっと体を横たえた。
◆ ◇ ◆
「……渾沌様っ!?」
「案ずるな、青蓮」
渾沌は少し首を上げて青蓮を見ると、その目を笑うように細めた。
「目は痛まぬか? 大丈夫か?」
こんな中でも渾沌は青蓮を気に掛けてくれる。
再び毛皮に縋りつく青蓮に、そっと鼻を近づけ、目元をぺろっと舐めては優しい声で問う。
「主の番か?」
声がして、青蓮が慌てて顔を上げると、青竜が何事もなかったかのようにこちらを見ていた。
「そうだ。改めて礼を言う。我が伴侶の穢れを祓ってもらったこと感謝する」
「なに、先も言ったが、我が血を穢れに使われたのを祓ったというだけ」
「そ、それでも、ありがとうございました。お陰でこうして再び渾沌様のお顔を拝見することができます!」
青蓮は慌てて頭を下げた。
穢れがあったときでも渾沌の魂魄の姿を見ることができたが、やはりこうして表情のある渾沌を見ることができるのは嬉しい。
「その様子であれば、お前が喪心する心配はなさそうだな」
「ああ、青蓮が俺の元にいる限りそれはない」
渾沌はそう言うと、もう一度、青蓮の頬を舐めた。
獣の愛情表現だが、青蓮はこういう渾沌の仕草が好きだ。
神様だと言われるより、ずっと確かな存在として感じる。
(そうだ……神様なんだ……)
青蓮は改めて渾沌と青竜を見た。
青竜は銀狐の体の中にいるのだという。
見た目は片眼の色以外は銀狐と変わりないが、表情や佇まい、雰囲気は明らかに違う。
元の銀狐も相当人離れしたところがあったが、そういうものとも違う、人間らしさのようなものが全く感じられない。
レンザが青竜の力を使っていることに怒っていたようだが、怒りに付随する感情のようなものが見えなかった。
許されないことをしたので、罰を与える。
しかし、そこには感情――温情や憎しみなどは存在せず、せねばならぬという義務だけがあるようだった。
「渾沌様っ!?」
不意に、上空から声が聞こえた。
見上げると、天馬に跨った銀兎が頭上を旋回している。
天馬の足では傾斜のきつい屋根に降りるのは難しいため、どこに降りるか迷っているようだ。
「宮城へ戻れ、銀兎。俺もすぐに行く!」
何とか体が起こせるようになったらしい渾沌が頭上に声をかける。
「で、ですが……」
「大丈夫だ。こいつも共に連れて行く」
渾沌が指し示すのは桔紅だ。
気を失っているのかピクリとも動かない。
「青蓮、お前は俺の背に乗れ」
「でも、桔紅さんが……」
「それは私が連れて行こう」
「青竜様?」
青竜がまるで荷物でも拾い上げるように、ひょいと気を失った桔紅を担ぎ上げた。
「我の廟は地に沈み、人は我を必要とはしておらぬ。このまま廟に戻ってもよいが、我が半身を取り戻さないことにはそれもままならぬ。しばらく、主の廟に仮の宿を求めたい」
「わかった。青蓮の穢れを祓ってくれた恩義がある。客人として我が宮城に迎えよう」
渾沌はそう言うと、もう一度、頭上の銀兎に声をかけた。
「聞いたか! お前は疾く戻り、客人を迎える準備をしろ!」
「御意!」
天馬がばさっと一際大きく羽ばたいて、銀兎は頭上から離れていった。
「さあ、青蓮も早く」
「で、でも、渾沌様、お怪我が……」
「こんなものは傷のうちに入らん。気にせずに乗れ」
渾沌はそう言うと青蓮の胸元にすりっと頭を摺り寄せる。
その様子を見て、青竜は目を眇めたが、何も言わずにゆっくりと桔紅を抱え上げたまま屋根を蹴って宙に浮かび上がった。
「痛かったら、すぐに言ってくださいね」
青蓮も意を決して渾沌の背にまたがる。
あの艶やかだった毛並みが血と誇りに汚れてしまっているのがひどく悲しい。
「宮城に戻ったら、お体清めさせてください……」
血の匂いがする背に伏せて、青蓮は祈るように言った。
「……すべて終わったならな」
渾沌の言葉がぽつりと聞こえて、そのまま力強く地を蹴って渾沌と青蓮も宙に舞い上がったのだった。
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