第21話 正しき者よ。
『渾沌様……』
暗く落ち込んでゆく意識の中で、渾沌は青蓮の声を聴いた。
こうして囚われようとしている時でも、気を張り巡らせれば青蓮がいる方角が分かる。
今すぐにも駆け付けたいのを堪え、見送った盲目の青年。
渾沌だけが見えれば何もいらないと震えていた青蓮。
「あれ、は……」
ほんのわずかに感じる青蓮の気配。それがどんどん渾沌のいる方角へと近づいてくる。
その速さは馬や騎獣の比ではなく、まるで空を駆けるかのような速さだ。
穢れを帯びた戒めによって脱力しかけていた渾沌は、もう一度気力を振り絞って体を起こす。
「まだ動けるのか、ケダモノ」
耳元でレンザの声がした。
顔を上げると、いつの間にかすぐそばに来たレンザが、爛々と憎しみに目を輝かせて渾沌を睨みつけていた。
「お前は……「何」だ?」
渾沌は目の前の女に問う。
天月一座の歌姫、獣人を隷属させる術を使う術師の片割れ、獣人を呪い、渾沌を恨み、憎しみに瞳を燃え立たせる女。
「私は緑楼国――いえ、夜楼国の皇妃の血を引くもの。お前たち獣どもに命を奪われ財を略奪された夜楼国皇族の後継者よ」
渾沌ははるか昔の記憶を手繰る。
「そうか、生き延びたものもいたのか」
「ええ、ええ! 生き延びてやったわ。そしてこの日が来るのを待っていた! この身に先祖から受け継いだ神の力を宿してね!」
「神の……力だと?」
確かにレンザからは何か強い力が発せられている。
今も感じているこの強い光だ。
目をくらますようなまばゆさが、渾沌の影を奪って行くようだ。
「お前ら四凶に対するために、私たちは人間の守護者である天の四神に願いとこの身を捧げたのよ」
レンザは美しい顔を歪ませるようにして笑った。
「私は生まれた時から四神召喚のために、この身を依り代とするために、ずっとずっと苦しい思いをしてきた。ロッタが獣人の穢れを一身に受け、黒くその身を染めたように、私は青竜様の叡智を得るためにその丹に身を捧げた」
青竜とは
地の力が弱り人が栄えれば四凶が遣わされ獣の勢力を取り戻すように、天の力が弱り獣が栄えれば四神が遣わされ獣を屠り人間の勢力を取り戻す。
それが釣り合いであり、その釣り合いによって世界は保たれている。
青竜は渾沌と対を成すが故に、渾沌を殺すこともできる人間側の唯一の力だ。
「この鐘は丹を集め、青竜様のお力を引き出すために作られたもの。そしてそれを使う私の体は丹によって清められ、青竜様のお力を与えられた。私はお前を殺すために生き残ってきたんだっ!」
いまだ穢れに囚われ身動きのならない渾沌の鬣をレンザは白い指で掴む。
「青竜様のお力によって、お前に死と苦しみを。そして、私の呪い、ロッタの仇」
赤く紅を引いたような唇からとろりとさらに鮮やかな紅があふれる。
ぼたぼたと唇から吐き出されるそれが、渾沌の上に滴り落ちるたびにジュウジュウと肉が焼けるような音と煙が巻き上がる。
「ぐ、ぅ……」
渾沌は苦痛に身を震わせて悶えるが、戒めがきつく避けることもできない。
その間も絶え間なくぼたぼたと紅が降り注ぐ。
「これは……丹……」
丹は辰砂の毒。金の気を強く帯びて獣の命を奪うとされている。
人間たちは仙術の万能薬として丹を崇めたが、そこから得られたのは人をも蝕む毒であった。しかし、人間はそれでもその毒をその身に呷り続け、神へと通じるための仙薬と信じていた。
遠い昔から渾沌のように釣り合いを保つために神が遣わされることは幾度もあった。
それは天の四神、地の四神ともにあり、その血か呪いを受けて長く引き継ぐものも少なくはなかった。
そういう者たちは人間や獣人から外れた力を持つことが多く、どちらかの支配階級に存在することが多い。
レンザもそんな一人なのだろう。
古の神の残滓を引き継ぎ、その身を毒に捧げることによってその力を増幅させ、今、こうして渾沌に立ち向かってきている。
「青竜様のお力を含んだ呪いよ。お前に抗うことはできまい。完全にお前が動けなくなったら、私がこの手でなぶり殺しにしてやろうね。このロッタの血を吸った刀で」
レンザが手にしている刀からはより濃い穢れを感じると同時に、その穢れは青蓮の目を奪ったものと同じものだとわかった。
「青竜様のお力、私の呪い、ロッタの穢れ、すべてすべてお前に――」
振りかざされた黒い刃が、ギラリとぬめった光を放った。
◆ ◇ ◆
「銀狐神仙!?」
青蓮を片腕で抱き上げた銀狐が亀裂の上に飛び上がると、そこには予期せぬ人物が待ち構えていた。
「銀兎さんっ!」
抱きかかえられたままの青蓮がその存在に気が付き腕を伸ばす。
「銀兎さんっ! 兄さんを……止めてっ!」
「え? な、何事ですか!?」
いきなりのことに銀兎も慌てているようだが、とりあえず青蓮を片腕に抱いたまま、じっとこっちを見ている銀狐に向かう。
「失礼しますよ、銀狐」
そう言うや否や、銀兎の体はぐんっと膨らみ、羽織っていた上衣が弾けるように破けた。
あっという間に体が一回りは大きくなり、その肌の色は美しい玉虫色に変わっている。
オオトカゲの獣人である銀兎の額にあった鱗と同じ色だ。
「……お前は……」
何の表情もなく銀兎を見ていた銀狐の瞳が揺らぐ。
「青蓮様、口を閉じて!」
銀兎は青蓮を抱えたままじっとこっちを見ている銀狐の正面に立つと、その太い腕を伸ばし、黒く鋭い爪をもった両手でガッと銀狐の肩をつかんで持ち上げた。
「ひぃっ!」
銀狐ごと持ち上げられた青蓮が悲鳴を上げたが、銀狐はしっかりと青蓮を抱えたまま話さず、銀兎も二人分の重量を軽々と持ち上げている。
「で、これは一体どういう事態でございますか?」
二人を抱え上げたまま、銀兎が青蓮に尋ねた。
「それより先は我が話そう」
「え?」
見た目は銀狐なのにその口から響く声は甲高い女のもので、それを聞いた銀兎は我が目を疑い抱え上げた銀狐を見上げた。
「我は東方青竜。天の四神にして、渾沌と対なるものだ。協力するならば話をしよう。我が眷属の血を引く末裔よ」
キロッとこちらを見下ろす銀狐の目は右側の目だけが、銀兎を覆う鱗のような鮮やかな玉虫色をしている。
「
「知ってるの!? 銀狐さん!」
「ええ、渾沌様からお伺いしたことがあります……」
銀兎は少し考えてから、ゆっくりと銀狐を下におろした。
話をしようと言ったのは本当だったらしく、別段逃げようという様子もなく、じっと感情のない目で銀狐を見ている。
「申し訳ございません、青竜様。できれば青蓮様をお放しいただけますでしょうか?」
「我は、この依り代に願われてこの者を守護せねばならぬ」
「私は決して青蓮様に危害を加えるようなことは致しません。渾沌様から私に下された命も同じ。青蓮様をお守りすることです」
それでもじっとこちらを見つめるばかりの銀狐に、銀兎はゆっくりと頭を下げ願った。
「私は渾沌様と青蓮様の従者、白夜皇国の
それを聞いて、銀狐――青竜はゆっくりと青蓮から腕を放した。
「兄さん……」
解放された青蓮は一歩だけ体を離したが、それ以上は動かなかった。
「お前の兄は、今、深き縁の底で我の代わりに眠っている。我が
「そんな……」
「私が総身を取り返し釣り合いが戻れば、お前の兄にこの体を返し、お前の兄は解放されよう」
「で、でもダメです! 渾沌様の元へ行かせるわけには参りません!」
青蓮は護身用に懐に入れていた小刀を取り出して、鞘から抜き身構える。
「青蓮様!?」
「釣り合いをとるというのは渾沌様を倒すことですよね……渾沌様が強大なお力をお持ちだから……」
銀狐の体だと思えば傷つけることを躊躇ったが、それでも渾沌を倒そうというものをそのままにはしておけない。
たとえ刺し違えてでも、兄の体を犠牲にしても、青蓮は渾沌を守りたいのだ。
「青蓮様! どうか落ち着いて……その刀を下ろしてください」
「銀兎さんは平気なんですか!? あなたの国の守護者を殺されるかもしれないのに!」
「それは……」
銀兎は青蓮を刺激しないようにゆっくりと近づこうとするが、青蓮は毛を逆立てて威嚇する猫のように近寄ることを許さない。
「俺は渾沌様を守ります! ここで刺し違えても」
「青蓮様っ!?」
青蓮が力任せに小刀を振りかざそうとした瞬間、するんと黒い何かがその腕に巻き付く。
「えっ、な、なにっ!?」
青蓮の腕に巻き付くそれは黒い蛇だった。
その蛇はしゅうしゅうと音を立てながら青蓮の腕に巻き付き拘束している。
「お前の守護をせねばならぬ故、その不敬には目を瞑ってやろう」
「う、くっ……」
青蓮は蛇を外そうと藻掻くがどうにもならず、手にしていた小刀もすんなりと青竜に奪われてしまった。
「気の強さは流石獣の眷属よの」
「離してっ」
「……まだ我が渾沌を滅するべきかどうかはわからぬ」
「え?」
青竜の言葉に、青蓮は身動きを止める。
「それは……如何なことなのでございましょうか?」
銀兎はさりげなく青蓮の隣によって、これ以上無茶をさせないようにしながらも、青竜の言葉に問い返した。
「我がこの世に呼ばれたのは確か。それは世の釣り合いに歪みが生まれたためならば、渾沌と戦い、獣人たちを屠り、世の歪みを正さねばならぬ」
「…………」
「だが、渾沌も同じくこの地に眠っていたのを呼び起こされたのだとこの依り代に聞かされた。それは同じく世に歪みが生まれている故だろうが、遣わされたのとは真逆の事象。本来、我らが同時に遣わされることはあり得ないのだ」
「あ……」
そうだ。
地の四神――四凶は獣人たちの減衰を止めるために人間を屠る。
そして、天の四神は人間の減衰を止めるために獣を屠る。
どちらかに傾いてしまった天秤を正しく均等に戻すだけならば、どちらか片方だけが遣わされるはずなのだ。
天の四神と四凶がぶつかり合う必要はない。
「私は、代々、窮奇様と渾沌様がお休みになられている霊廟に仕え、時来たりと天よりお言葉があれば渾沌様をお迎えするための命を受けて来たものです。そして、天より時来たりとお言葉があり、私は渾沌様のお出迎えをしたのです」
「そうか」
銀兎は渾沌は天啓によってこの地に遣わされたと、暗にそれを伝えた。
「では、やはりかの地に参り、総身を取り戻さねば、結果はわからぬ」
青竜はぼんやりとこっちを見ている青蓮を再び腕に抱える。
「今の我は肉体を失い、神気しか残っておらぬ。肉体に宿りし力を使おうとしている者がいる。その者の元へ参れば、そこに渾沌もおる故、おのずと真は分かろう」
「……はい」
どちらかが過ちで遣わされたのだとしたら、それは正さねばならないこと。
青蓮は自分を抱き上げる青竜をじっと見て、兄の姿をしているのに、兄ではないものの存在について考えていた。
「私も! ご一緒させてください。私は青蓮様の従者でもあります。今こうして在る状態で、青蓮様からお離れするわけには参りません」
「好きにせよ。そなたの騎獣ならば我が後にもついてこられよう」
「はっ、ありがとうございます」
銀兎は青竜に対して恭しく頭を垂れた。
銀兎が乗ってきた騎獣は騎獣の中でも一番移動の早い天馬だった。
天馬は馬のように地を駆けることも、その大きな翼で空を飛ぶこともできるため、移動だけを考えればこれ以上の騎獣はいないだろう。
四つ足の渾沌には及ばないが、この天馬があったのですぐに青蓮の元へ駆けつけることができたのだ。
「青蓮様、お供させていただきます」
銀兎は獣化を解くとすぐに荷を拾い、天馬にまたがり青竜の横に並んだ。
「渾沌様が遣わされたことに疑うことはございません。どうぞ、私の言葉を信じてくださいませ。青蓮様」
「銀兎さん……」
「それよりは青蓮様にお助けいただけねばならぬこともあるかもしれません」
渾沌が青竜と戦うようなことになれば、渾沌も加減ができない分、早く暴走も起こるだろう。その時にそれを止められるのは番である青蓮だけなのだ。
「話は後にするが良い。参るぞ」
甲高い青竜の声がそう告げると、青竜と抱えられた青蓮はふわりと宙に舞い上がった。
そして、鬱蒼とした森の木よりも高く上がると、そのまま西方を目指して滑るように
「置いて行かれてはかないませんね」
慌てて手綱を握ると、天馬を駆り森の上へと駆け上がる。
「渾沌様、青蓮様……」
どうか、どうか、正しきお導きを。
そう祈りながら、銀兎は飛び去りゆく影の後を追ったのだった。
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