第20話 対にある怪異。

「くそっ! いてぇ!」

 着地は上手くやったはずだが、さすがに青蓮の体重を全部受け止めたので足に痛みがある。

「兄さん……大丈夫……」

 銀狐の上に着地した青蓮も苦しそうな声を上げている。

「青蓮、怪我はないか? 痛むところはないか?」

「だ、大丈夫。でも兄さんを下敷きにしちゃったから……」

「俺は何ともない。ちょっと泥で汚れたが気にするな。それより……」

 銀狐は地面に腰を下ろした状態で、青蓮を腕に抱いたまま、自分たちが落ちてきた上空を見上げた。

「なんだか気味の悪い落下だったな。思ったより時間はかかったが、落ちた衝撃はそう強くなかった」

 体感した落下時間が本物ならば、二人が落ちた高さは相当な高さになり、こんな風に打ち身で済むような状態ではなかったはずだ。

「感覚がおかしくなる……」

 おかしなのは時間の感じ方だけではない。

 見上げても明かりは点ほども見えず、まるで墨で蓋をされたかのように真っ暗だ。

 それになんだか空気が異様に思い。

 蜜の壺の中にでも入りこんでしまったかのように、空気がねっとりと体に絡みつくようだ。

「灯火」

 銀狐は初歩的な方術で火を灯せるか試してみた。

 きちんと術が編めれば、狐火が現れ、辺りを照らしてくれるだろう。

「……無理か」

 幾度か術を編むが何も反応はない。

 そして、ここでも手ごたえがおかしい。

 何というか、油の満ちた中で火をつけようとしているようだ。

 火は燃え続けるためには油を要するが、発火のためには空気を要する。

 油の中で火打石を打っても、火花は飛ばないのだ。

「ここは、何が満ちているんだ……?」

 銀狐が独り言ちた言葉に青蓮が応えた。

「気……神気……」

「気?」

「渾沌様に感じるものによく似てる……そわそわする」

「んん?」

 青蓮が渾沌に感じると言ったらアルファのそれではないのだろうか?

「兄さん、ここから歩いて移動できる?」

「どうした?」

「この先……」

 青蓮が銀狐の手をつかみ、ある方角を示すように持ち上げる。

「この先に「何か」がある。――近い」

 青蓮を連れて飛び降りたのは正解だったようだ。


 鼻を抓まれてもわからないような闇の中で、銀狐は青蓮を背負い、青蓮の声に従って歩き始めた。

 泥だと思っていた地面は、なんだかぬかるんでいるようで足が重いが、滑るようなことはなく何とか歩ける。

「まったく前が見えない。気配も何も感じない。いや、感じないんじゃないな……何かが満ちていて目も耳もふさがれている」

 ふわふわと漂うように先に足を進めているが、本当に進んでいるのかも銀狐にはわからない。

 しかし、青蓮には何かが見えるようで、時々右や左と指示を出してくる。

「兄さん! もう少しだよ」

「おう。……ん?」

 青蓮のもう少しという言葉に、さらに前に進もうとしたが、不意に何か前に進んでいる実感が無くなった。

 元々真っ暗で歩いている気はしなかったが、何やら足が空を切るというか、足を前に出して踏み込んでも、地面を蹴れてもいなければ、前に進んでもいない。

「どうしたの?」

 歩みが遅くなったのを感じたのか、青蓮も不思議そうに問う。

「いや、足が進まない。踏み出してはいるんだが、先に進まないんだ」

「進まない? 壁があるような感じ?」

「違うな、壁ではなくて、何というか……空を掻いてしまって先に進まない」

「兄さん! 僕を下ろして!」

「え? ちょっ」

 背中に負ぶさっていた青蓮は、銀狐の隙をついてその背から飛び降りた。

「おいっ! 待て! 俺から離れるな!」

「大丈夫、兄さん! 本当にあとちょっとなんだっ……」

 真っ暗な中で青蓮の声が遠ざかって行く。

 銀狐は慌ててその声の方を追おうとするが、足が滑るばかりで近寄れもしない。

「青蓮っ!」

「兄さんっ!」

 互いにほぼ同時に声を上げたその瞬間――

 辺りが一瞬で明るくなり、目もくらむような広い場所に放り出された銀狐は目を瞬かせて目の前にあるを見た。

「これ、は……」

 それは、青みを帯びた玉虫色の美しい、巨大な隻眼の蛇だった。


「兄さん?」

 青蓮は銀狐の声がした方を振り返る。

 目には何も見えない。

 見えるのは目の前にある美しい玉虫色の光だけ。

 青蓮はもう一度光の方に向き直る。

 両手で閉じ込められそうなほど小さいが強く輝きを放つ光の玉が、青蓮の胸くらいの高さのところに浮いている。その光は呼吸をするように鮮やかな色を閃かせ、美しい揺らめきを作り出していた。

 さっき、青蓮との会話でここに満ちているのは神気ではないかと話したが、神の気を練り集めたものだとしたらこの美しさも納得がいくようだ。

(渾沌様の気もこのようにお美しかった……)

 渾沌は四つ足の獣で、真っ黒い影と赤い瞳と言う禍々しい姿をしているが、実は放たれる気は清涼で美しい。

 発情に苦しむ青蓮に血を浴びせかけて精を分け与えるという力技を受けた時も、そこに感じたのは力強き者の安心感だ。

(神様……)

 青蓮は視力を失って、渾沌の真の姿が見える呪いをかけられたことによって見えるようになったものがある。

 渾沌は本当に恐ろしい四つ足で四対の目を持つ怪異だけれど、その姿の恐ろしさに反して、内から溢れるものに穢れは一切ない。

 純粋に強い生命力溢れる力のようなものを感じる。

 野分のわきのような災害もそれ自体は穢れではない。

 大きな力が壊すものもあるが、そこから新たに芽吹くものもある。

 そういうものを穢れとは呼ばない。

 渾沌は野分のように人間にとっては圧倒的な脅威だ。

 絶対的な力をもって人間を屠り、国をも滅ぼす。

 だが、そこにあるのは人間以外の新たな芽吹きの存在でもある。

 この光はそんな渾沌と似ている。

(渾沌様と何か関係があるのだろうか……)

 青蓮の目に見えるということはそういうことなのだろう。

「青蓮っ」

 うっとりと光に魅入っていると、銀狐に名を呼ばれた。

「青蓮、そ、そこを動くな。と言うか身動きするな。俺が行くまでじっとして息を潜めろ」

 銀狐はできるだけ穏やかにでも聞こえるように大きめの声で青蓮に話しかけてくる。

「兄さん?」

「いいな! 動くなよ、頼むから……」

 先ほどまで真っ暗だと言っていたが、今は青蓮が見えるのだろうか?

 声の感じでは銀狐は少し離れたところにいるようだ。

「どういうこと――あ!」

 銀狐と話していると、目の前の光の玉がふわりと動き出した。

 ゆっくりと青蓮の目の高さまで上がってきて、そして――

「青蓮っ! 逃げろ!」

「兄さ……」

 光がそのまま青蓮を呑み込んでしまった。


「青蓮っ!!」

 銀狐は身動きもできないまま、青蓮が大蛇に飲まれるのを見ているしかなかった。

「青蓮っ! 青蓮! 青蓮っ!!」

 大蛇のもとへ近づこうと藻掻くが、足は空を切り、手は滑り届かない。

「くそっ! 嘘だろっ! 青蓮! そんなっ!」

 銀狐はめちゃくちゃに暴れながら、何とか方術が発動できないか試みるが相変わらず手応えはない。

「青蓮! 青蓮!」

 今ならばまだ、飲まれてすぐにその腹を裂けば、青蓮は助かるかもしれない。

「くそっ! 動け! 動け! 動かぬならこの身を捨ててでもっ――」

 魂魄だけになってあの大蛇に一矢――と、舌を噛み切ろうとした瞬間。

『――の子よ』

 金属的な甲高い声とともに、銀狐は一切の動きを封じられた。

「っ!?」

 もう声を上げることも藻掻くこともできず、銀狐はこちらにゆっくりと鎌首を近づけてくる隻眼の大蛇を見つめるしかなかった。

『我が言葉を聞きなさい』

 甲高い声は大蛇の声か。

 隻眼の大蛇はじっと銀狐を見つめたまま、静かに語りかけてくる。

『人の世に歪みが生まれようとしています。歪みが広がれば、人も獣も滅びるでしょう』

「…………」

『人と獣の釣り合いを正すため、私は遣わされました』

 歪み。釣り合い。正す。

 白夜皇国では、初代皇帝の窮奇クォンクィは世の釣り合いを正すため、人を屠るために使わされた神なのだと言う伝承があった。

 渾沌はその再来だと、聞いたことがある。

 この目の前の蛇は、それと同じものだというのか?

『私は天の四神、東方青竜ドンファチンルォン。四凶と呼ばれる地の四神に対なる神。渾沌と対する神』

 渾沌の対となる存在。

 渾沌は本当に神で、その神に対抗するために別の神が下りてきたのか。

銀狐神仙ユィンフゥシェンシィエン、我が依り代となりこの地に我をつなぐ楔となりなさい』

「!?」

 隻眼の蛇は全く感情を感じさせない穏やかな目で銀狐を見つめている。

 銀狐に害を及ぼすつもりはないのかもしれないが、青蓮は目の前の大蛇に飲まれたままだ。

(俺を望むのならば、対価を支払え)

 青蓮を無事に返せ。

 銀狐は強く念じる。

 銀狐のすべては青蓮のもの。青蓮を助けるためならば依り代だろうが何だろうがなってやる。


『――その望み、叶えましょう』


 その一言が契約の証となった。


 ◆ ◇ ◆


「兄さんっ!?」

 音も何もない空間に閉じ込められたかと思ったら、不意に何もかもが戻り世界が

 目の前には銀狐が立って、心配そうにこちらを見ている。

「兄さん! 見える!」

 そう言って銀狐のもとに駆け寄ると、銀狐は青蓮の頬をそっと撫で「良かった」とだけ呟くと、崩れ落ちるようにその場に倒れてしまった。

「兄さん? 兄さんっ!?」

 慌てて銀狐の体を抱き起すと、完全に意識を失っているようで揺さぶっても反応しない。

「どうして……まさか、俺の目を戻すために何かしたんじゃ……」

 銀狐に溺愛されている自覚はある。

 青蓮の目の穢れを払うために必死に術を編み続けていたことも知っている。

 その為なら自分の命を投げ出してしまう可能性があることも。

「兄さん……」

 どうしたらいいのかわからずに、青蓮がぎゅっとその体を抱きしめると、銀狐の体が僅かに身じろいだ。

「兄さんっ!?」

「……おま、えは……」

「え?」

 唇を開いているのは銀狐だが、そこから響く声は甲高い金属質な女の声。

「……お前は、四凶の縁者か」

 銀狐はゆっくりと目を開いたが、その右目は明らかに異質な色に変化していた。

 瞳孔も蛇のように細く裂けたようになり、色は――あの光と同じ美しい玉虫色。

「兄さんじゃない……」

 青蓮は咄嗟にその存在から離れようとしたが、その体は銀狐のものだと思い出し、ぐっと踏みとどまった。

 そんな青蓮の心情を知ってか知らずか、銀狐の中にいる「何か」はゆっくりと体を起こして立ち上がる。

「銀狐にお前の守護を約束した。四凶の縁者よ」

「兄さんっ!? なんでっ!?」

 青蓮は思わず悲鳴を上げた。

 この何だかわからないものと銀狐は取引をしたのだ。

 己の体を明け渡す代わりに、青蓮の守護を――と。

「なんて……こと……」

 穢れを払われた目から涙があふれる。

 目を失ったままでも青蓮は良かったのだ。それでも渾沌は青蓮を傍に置くと決めてくれたのだから。

「お前の守護はいらない。兄さんを……銀狐を返せ」

 泣き震えて自分を睨みつけてくる青蓮を、「何か」は涼し気な薄笑いで見つめている。

「四凶の縁者よ。兄の望みを無碍にするな。私は渾沌と対なる天の神・東方青竜ぞ?」

「えっ……」

 渾沌と対なるもの。

 銀兎に聞かされた話がよみがえる。

 地の神・渾沌と対をなす天の神。

 世界は地の神と同じ力を持ち世の釣り合いを保つ天の神がいて、互いに牽制しあって釣り合いを保っている。

 故に釣り合いが崩れるとき、渾沌を滅することができる神として現れるのだという話は皇帝妃となるための教育の一環で聞かされていた。

「まさか……渾沌様を……」

 兄の姿をしたこの「何か」は渾沌を滅ぼす神なのか。

「兄さん……」

 銀狐はいつか渾沌を倒すと言っていたが、それは青蓮を溺愛するが故の戯れと思っていた。

「まさか、まさか……」

 震えて言葉にならない青蓮を見て、銀狐の中の何か――東方青竜ドンファチンルォンはゆるりと手を差し伸べて、そして、銀狐の声で言った。


「青蓮、俺と来るんだ」


 気が狂いそうなほどの絶望を感じながら、青蓮はその場に手をついて気を失ってしまった。

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