第15話 見えるもの、見えないもの。
青蓮を傷つけられて渾沌はこれ以上ないくらい怒り狂い、また己を呪った。
青蓮をこれ以上危険な目に合わせないための策であったはずなのに、これ以上ないほど青蓮を傷つけてしまった。
彼の夜空のように黒く澄んだ瞳は永遠に失われてしまった。
「あの穢れは何とかならないのか」
渾沌は青蓮に己の眼球を与えようと思っている。
幾度もその目を与えようとするのだが、青蓮の目を奪った不届き者の穢れがその傷跡に深く残っていて上手く与えることができずにいるのだ。
「あの穢れは獣人には無理だ。あんたの正体がなんであれ、獣の性を持つものにあの穢れは祓えない」
「では、お前が清めよ。人の子であろう
渾沌は自分の前に跪いて報告に来ている銀狐に言った。
「……今しばらく待ってくれ。穢れを祓う方法を探っている……」
銀狐はいつになく歯切れの悪い言葉しか返せない。
捕らえた天月一座の者たちから解呪の方法は聞き出した。
呪術師が屠った獣人と同じ数だけの人の血で諍うのが術だと言われた。
確かに、術の成り立ちを考えてもそれは解呪の方法として正しいと思われる。
だが、青蓮を穢したあの術士は相当な数の獣人を屠っていた。姿まで変わり果て、獣人でも人でもない何かに成り果てる際まで。
その方法で獣の穢れを祓っても、今度は人の呪いに穢れる。より強い穢れで上書きするだけではどうにもならないのだ。
「渾沌様、俺は、大丈夫だから、目もなくて大丈夫ですよ?」
傷を隠すために青い布に銀糸で刺繍を施したベールを頭にかけた青蓮が、そこにいるのを確かめるようにそっと隣に座る渾沌の膝に触れてくる。
「「大丈夫なものか!!」」
渾沌と銀狐が即座に反応した。
このままで良いなど在ろうはずがない。
「このままでは不便だろう?」
「でも、渾沌様のお姿だけは見えますので」
労わるように頬を撫でてやると、青蓮はにこっと微笑んだ。
姿が見えていると言っても、それは恐ろしい四足の獣の姿だ。
こうして渾沌が人の形を取っていても、隣には油断のならぬ異形の四足がいるのと変わらない。
人間の青蓮にとって、それはとても恐ろしいことではないのだろうか。
それに、この穢れを受けてから青蓮はオメガとしての性を失ってしまった。
発情期が来ないということだけが問題ではない。そもそもオメガという性は、アルファの突出した身体と気を柔軟に受け入れることができるためのもの。
ただのアルファであればオメガではなくとも同じアルファやベータにも番う可能性があったのだが、渾沌は強い神気をもつ神性がアルファという形をとっているだけのものだ。
オメガ以外の人間がそれを受け入れることは不可能で、オメガでなければ寿命を縮めるばかりだろう。
穢れも祓えず、己が半身を苛み続けることしかできない己を渾沌は強く呪った。
「問題は青蓮だけじゃない……獣人を従属させる方術を会得しているものは多分ほかにもいるだろう。そいつらがいつまたこの国へ入り込むかも知れない。このままで済ませられることはない」
銀狐が珍しく硬い表情のまま言った。
いつもならば軽薄な笑顔を欠かすことはないのだが、最愛の弟が盲目となっている今取り繕うことはしないのだろう。
「緑楼国か……」
緑楼国は獣人たちに滅ぼされた夜楼国の残党が起こした国。
獣人を奴隷として財を築き上げることに長けた夜楼国の術が受け継がれていると考えて間違いはない。
小さな国ではあったが、白夜皇国に対する恨みは凄まじく、幾度も戦を仕掛けてきてはその度に多くの獣人たちが緑楼国の兵に殺された。
(兵を挙げる時期だということか……)
青蓮を迎えるにあたって、渾沌は青蓮の生きている間はできるだけ戦を起こしたくはないと考えていた。
わずかな人の寿命の間くらい多少釣り合いが悪くとも世は滅びない。
しかし、今の状況が続くのであれば、渾沌は本来の目的に従って、獣人たちの勢力を広げることが必要だ。
緑楼国が滅ぶことで、釣り合いは取られ、再び世界は安定することだろう。
そんなことを考えあぐねていると、青蓮がぎゅっと膝の上で手を握るのを感じた。
「どうした?」
「……戦になるのですね?」
銀狐の言葉に思うところもあったのだろう。
「……俺には渾沌様のお姿以外に見えるものがあるのです」
「なに?」
「一つはこの宮城の奥、代々の皇帝陛下が眠られる霊廟に翼のある大きな虎が眠っているのが見えます。とても深く眠っていらっしゃる」
それは渾沌と共に顕現した初代皇帝の窮奇の姿だ。
背に大鷲の巨大な翼を持つ大きな虎の姿。
青蓮は渾沌の正体を見ているのではなく、神性のあるものの姿を捉えることができるようになっているのか。
「あと、もう一つ。この国から遥か東に、巨大な蛇の姿が……」
「蛇だと?」
この国から東といえば緑楼国のある方角とも重なる。
「青蓮、お前に見える蛇は何色だ?」
「黒い蛇です。でも大きくて……まるで龍のようです」
「龍だと?」
東方に龍。
「
ずっと控えて話を聞いていた銀兎が思わずつぶやく。
天に在る四神。地にある四神である渾沌たちと対を成す存在。
「四神と四凶か」
銀狐も何かに思い当たったようだ。
もちろん渾沌にもそれがどういう意味かはわかっている。
もし、東方にある黒い龍のような大蛇が四神の一柱であるならば、渾沌に相当する存在がそこに在ると言う事だ。
敵か味方かはまだわからないが、それに危機感を持たないほど渾沌は楽天家ではない。
(天帝の意に叛き、顕現したと言うのか……)
天の意は渾沌に世の釣り合いを取り戻せというものだ。それ以上でもそれ以下でもない。
それは天帝の命ではあるが、天の総意でもある。
(面倒なことになる……)
渾沌にとって人間は敵にすら成らない。
銀狐は青蓮の穢れを祓うために人を殺すのは良しとしないと言ったが、それで青蓮の穢れが祓われ元に戻るのであれば、渾沌はためらわずに呪いと同じ数の人の命を屠るだろう。
「いかがなさいますか? 渾沌様」
銀兎は暗い面持ちで渾沌に問う。
本来ならば皇帝陛下に伺いを立てるべき案件だ。
渾沌は青蓮との婚儀を期に皇帝位を継ぐ予定だったが、今はそれを待てる状態ではない。
これが戦になれば切り札は渾沌であることに間違いないのだから。
しばし渾沌が考えあぐねていると、俄かに外が騒がしくなり、人の入りを禁じているはずの扉が勢いよく開かれた。
「何事です、桔紅?」
扉から飛び込んできたのは怪我をして血を流している桔紅だった。
「渾沌様、シェムハとレンザが脱走しました!」
桔紅はそれだけ叫ぶと、がっくりと床に崩れ落ちる。
その衣は赤く血で染まり、倒れた背には大きな傷が開いていた。
「銀狐、処置を!」
「応!」
銀兎の言葉と同時に銀狐が桔紅に駆け寄り、その傷の検分を始める。同時に血止めの術をかけるために手にした札で傷の上を摩った。
「二人が逃げただと? どういうことだ?」
渾沌は顔色も変えずに桔紅に問う。
二人がいた牢にはそれぞれ銀狐が封印の術を施していたはずだ。
二人が操るのが獣人の穢れからの呪術であるなら、銀狐の人の方術には対抗できないはず。
「シェムハが……方術を使い牢の封印を破りました……」
「シェムハが?」
それを聞いた銀狐が目を瞠る。
「警備の兵たちもやられ……後を追うことも……」
「わかった。銀兎、行け」
傷の痛みか息を切らしながら報告しようとする桔紅をとどめ、渾沌は銀兎に追跡を命じた。
「御意」
銀兎は短くそう答えるとすぐに部屋を飛び出してゆく。
「銀狐、お前も桔紅の怪我を見たら後を追え」
「……御意」
銀狐は桔紅の一通りの止血を終えると、ドアの外にいた警備兵に桔紅を部屋に運ぶように指示しながら、銀兎の後を追うように部屋を出て行った。
これで、ますます緑楼国が見過ごせない存在となって行く。
渾沌は膝に置かれた青蓮の手をしっかりと握り締め、もう一度頬を撫でる。
「渾沌様……」
敏い青蓮が渾沌の不安を感じ取ったかのように、
「お前の生きている間に戦にならねば良いと思っていたが、そうも行かないようだな」
「俺のことより、渾沌様は渾沌様の御使命を」
「青蓮……」
この青年を誰よりも幸せにしてやりたい気持ちが強いのに、どんなに力があってもそれがこんなにも難しいとは。
「お前のことは今度こそ俺が守ろう。俺の傍に居れば……いや、居て欲しい」
「はい。必ずお傍に。俺にできることがあれば」
そう言って微笑む青蓮を見て、渾沌はこの青年にはどこまで何が見えているのだろうかと、ふと気になった。
だが、それを問うことなく、渾沌は再び青蓮を守ろうと天に誓うことにした。
何が見えていても、青蓮は青蓮なのだから。
◆ ◇ ◆
牢より脱走したシェムハとレンザは、追っ手に捕らわれることなく白夜皇国から逃げ切ってしまった。
獣人たちの鼻をつぶすための術が使われ、追っ手を遠ざけると同時に、彼らを追う情報を持っているであろうシェムハとレンザ以外に捕らわれていた一座の人間を全員殺して行くと言う徹底振りで。
脱走時に警備をしていた兵士たちもみな殺され、脱走時の様子はわからない。
物音を聞きつけて駆けつけた桔紅が、逃げ出そうとしている二人と鉢合わせになり事が発覚したのだ。それが無ければ、脱走したことにすら気づかず取り逃がしてしまったかもしれない。
「…………」
シェムハたちが逃げたであろう東方の見渡せる高い山の崖の上で、軍装に身を包んだ銀狐がじっと空を見ている。
軍装とは言っても、銀狐は青蓮の御印である青い地に銀糸で細かな模様が刺繍された長衣を着て、黒い革の袴に革の長靴という軽装だ。これは銀狐が術士であり、彼の置かれる戦場において鋼の鎧は意味を成さず、身軽で動き回ってより術を編むことができるためだ。
本来ならばこの服装に銀糸で織った布を頭からかぶっているのだが、今日は赤銅色の豊かな髪を日に照らし、肩には同じ赤毛の毛皮を羽織っている。
「何か見えましたか?」
銀狐と同じように軍装に身を包んだ銀兎が声をかけてくる。
こちらは青い長衣の上に革と鋼の鎧を着けていた。腰には短めの刀を差している。これは獣人の戦いが主に自分たちの牙や爪を使った肉弾戦に近いものなので大振りな武器などは返って邪魔になるためだ。
銀狐より頭ひとつ大きな銀兎がその隣に並び立つ。
「言われてみればおかしな気配がする程度だ。目にも鼻にも何も触らん」
青蓮は大きな蛇が見えるといっていたが、銀狐には何か微かな歪みのようなものがあるように感じるだけでそれ以上のことはわからなかった。
また、逃げたシェムハたちの痕跡も何も見つけられない。余程こちらの手を知り尽くして対策をして逃げたようだ。
「仕方ありません。貴方で見つからないものが、他の者たちに見つけられようはずもありませんし」
「……ふん。えらく俺を信用しているような口ぶりだな。俺は奴らを逃したのかもしれないぞ」
シェムハたちの牢に封をしていたのは銀狐だ。
「……天月一座の者たちの口を割らせるための拷問はそれは苛烈なものだったと報告を受けています」
「仲間であればそこまでするわけがないと?」
「いいえ、貴方が苛烈な拷問を行っても何が何でも穢れを祓う方法を吐かせたかったのは青蓮様の為。青蓮様の為にならないことを貴方がするとは思えない」
「どうだろうな……渾沌のものになる青蓮が憎くなったかも知れないぞ? それにこの国が転覆して渾沌が位を失えば青蓮を取り戻せるかもしれない」
「貴方の首にあるそれは、渾沌様の血に依って作られたもの。いまだその首が落ちていないのが良い証拠でしょう」
銀兎は涼しげに微笑んだ。
額に玉虫色の美しい鱗のあるこの美丈夫は、基本物腰も柔らかくおっとりとして見えるが、中々の食わせ者だ。宮城で暴れた銀狐の処遇が問われた時に「呪具によって縛り、我が国の礎とすればよろしい」と同じように涼しげな顔で宣ったと聞いた。
「……まあ、今は、アレを裏切る時ではない。全てことが終わってからだ」
銀狐は決して青蓮と渾沌の婚儀を歓迎しているわけではない。
青蓮の気持ちも確かめたし、彼が心から渾沌の傍に居ることを望んでいるのだと分かっているが、渾沌はあまりにも特殊過ぎる。
「では、事が終わりその日が来るまで、白夜皇国の為に尽くしていただきましょうか」
「……食えない男だ」
「青蓮様の一の従者ですから。お兄様の扱いは青蓮様直伝ですよ」
涼しげに笑う銀兎のほうから、ぷいっと顔をそらし、銀狐はもう一度空を見上げた。
「裏切り者が貴方ではなければ良いと思っているだけですよ」
銀兎は、隣に立つ銀狐に聞こえるか聞こえないかの小さな声でそう嘯くと、開戦を間近に控えて、緊張した静けさを湛えた白夜皇国の城下を見渡した。
この戦は渾沌には絶対に負けられない、世界を賭けた戦いとなるのだ。
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