第13話 悲運。
銀狐が部屋を出て少しすると、急に窓の外が騒がしくなってきた。
いや、騒がしいというのとは少し違う。何か大きな音がドーン、ドーンとあたりを震わせ近付いてくるのだ。
「なに……?」
空気が震える。圧を感じる。
青蓮は窓に開いたあの穴に駆け寄り、外の様子を探ろうと覗き込んだ。
「え?」
穴は塗りつぶされたように黒く何も見えない。
時間の感覚が失われているので今が夜ではないと言い切れないが、これは夜の暗さとは違うと直感的に感じた。
(この暗闇は……)
青蓮が馬車に乗って白夜皇国にやって来た時に見たアレと同じ。
(渾沌様……)
赤黒い闇の中から覗いてくる目。
その様子を思い出し、ゾクリと背を震わせて、青蓮は咄嗟に覗き込んでいた穴から顔を背けてしゃがみ込んだ。
今やそれは恐怖ではない。
(渾沌様が来た)
それを思うだけで、胸が高鳴り頬が紅潮する。
(来た……来てくれた……)
ずっと後を追って来ているのは気がついていた。見捨てられていないという事もわかっていた。飛び込んできた時には胸が震えるほど嬉しかった。
そして、渾沌ではなく、銀狐の変化の姿だとわかった時に胸に刺さった小さな棘。
「フゥ……」
名前を呼んではいけない。ここは渾沌にとって良くない場所だ。
青蓮はしゃがみ込んで窓の穴から姿を隠したまま、口に手を当てて名を呼びたい気持ちをぐっと堪える。
銀狐はうざいと叫べば来なくなるなどと言っていたが、一声漏らしただけでも渾沌はすぐに駆けつけてくれるだろう。
逆を言えば、声を漏らさない限り、渾沌はここへは来ないということだ。
ここは渾沌にも見つけられないほど、周到に呪いの巡らされた部屋。
そんなところに渾沌を呼んでしまったらどうなってしまうことか。
(絶対に声はあげられない)
そう決心して、青蓮は更に身を隠すように身体を丸めて縮こまった。
それからどのくらいの時間が流れただろうか。
長かった様にも、ほんの僅かだった様にも思う。
(渾沌様……)
外には相変わらず強い圧を感じる。
部屋の中は静まり返っていて、少しでも身じろいだら渾沌に気付かれそうで怖い。
「……!」
声にならない悲鳴が漏れた。
しゃがみ込んでじっと目を閉じていたが、その目を開いたとたんに目の前に人の足があったのだ。
その服は血に塗れ、床には黒い血溜りができている。
恐る恐る顔を上げると、そこに立っていたのはロッタだった。
ロッタの顔は黒く血につぶれ、頭上に立っていた獣の耳も片方が失われている。
「お前がこんなに強情とは思わなかったよ」
生気のない空ろな眼でしゃがみ込んでいる青蓮を見下ろしながら、ロッタは吐き捨てるように言った。
「お前さえ泣き喚けば、あのバケモノはすぐにここに飛び込んできただろうに」
「っ!?」
細い刀の切っ先が青蓮の目の前に突きつけられる。
じりっと後ずさりたくても背後は壁だ。
青蓮は刀の切っ先から眼が離せない。
左右どちらかに逃げる隙間さえない。
「その目に映るのは私が最後だ。ざまぁみろ」
ロッタはそう言うなり、刀の切っ先をすばやく横に凪いだ。
「くっ……ぁ……」
焼き鏝を押し当てられたような熱と、続いて顔を焼かれるような激痛を感じ、青蓮は思わず喉を震わせた。
「お前に私の呪いを分けてやろうな」
目を斬られ、視界を失った青蓮の顔にぼたぼたと熱いものが滴り落ちる。
「お前の目は視界を失い……真実のみを映す……ようになる……あのバケモノの……真の……姿を……」
最後に少し笑うように声を震わせ、どさっと何かが倒れる音がした。
「呪われろ、四凶の
青蓮はその言葉を聞きながら、焼けるように熱く痛む顔を手で覆い、必死に声を堪えていた。
(渾沌様……)
「青蓮っ!?」
青蓮がそっと心の中で名を呼ぶのと同時に、けたたましい音を立てて飛び込んできたのは銀狐の声だ。
「に、さん……」
声が聞こえる方を向くが目を開く事も見ることもできず、ただ呆然と手を伸ばすことしかできなかった。
◆ ◇ ◆
両の目を抉られ、血に塗れた青蓮を見た時には気が狂うかと思った。
青蓮はロッタという薄汚い呪詛士の手にかかりその美しい黒い瞳を失った。
誰かの手に委ねるなどした自分が間違っていたのだ。
「渾沌様、せめて、青蓮様のお怪我を清めさせてください」
銀兎が床に伏すようにして願い請う。
しかし、渾沌はそれに一声唸りを上げるだけで一蹴した。
ロッタの刀によって傷ついた青蓮の眼は、辛うじて眼球は残っていたが、そこに上からかけられた呪詛の所為で酷く穢れ、命をも脅かしかねないために銀狐によって摘出された。
医術の心得のある銀狐によって適切に治療を受けているが、もう青蓮の眼は戻ることはない。それどころか呪いを解かなければ、青蓮は命すら危うい状況だ。
四足の獣の姿をしたままの渾沌は自分の部屋の寝台の上で青蓮を腕に抱いたままずっと、その傷を舐め続けている。
そこには深く穢れた呪いが根を張るように染みこみ、青蓮の魂まで汚そうとしていた。それを止めるために、渾沌は青蓮の傷を舐め続けているのだ。
「渾沌様……」
青蓮は生々しい傷を顔に残し、もう存在しない瞳で一生懸命に渾沌を見ようとしている。
渾沌はぐるる……と喉を鳴らし、傷の上をそうっと舐める。
渾沌には青蓮の傷を治すことは容易い。それが単なる傷ならば。
しかし、青蓮の傷には渾沌の手出しができない穢れがあって、それが浄化できずにいるために怪我を治してやる事が出来ない。
銀狐はこの呪いは人間にしか解けないと言っていた。
今、銀狐はその術を探すために天月一座の他の連中を問い質している。
「渾沌様、大丈夫です……」
青蓮の手が、渾沌の頬を撫でる。
獣の長い鼻面を愛しげにやわらかく。
そこには誰もが恐れる牙が並んでいるのに、目の見えぬ青蓮にはそれもわからない。
「泣かないで下さい。俺は大丈夫ですから……」
何が大丈夫なものか!
渾沌は自分の行いが許せない。
天月一座がどこの誰であろうと、姿を見た時に皆殺しにしてしまえばよかったのだ。
今だって、この国を取り巻く状況は常に緊張を強いられている。
そんな存在はすべて殺し尽くして国も人も町も焼け野原となれば良い。
そもそも、自分が国を治めるものになろうとする事が間違いだったのだ。
渾沌は四凶の一柱。
人の世界に仇為す存在なのだ。
「渾沌様……」
いきり立つ渾沌を宥めるように青蓮は毛並みを撫でる。
「渾沌様、俺を助けてくれてありがとうございます」
ああ、ああ、ああ
お前に礼を言うべきは俺だ。
こうしてお前が繋ぎ止めてくれているから、俺はこの世に留まっているのだ。
「チ、リェ……
獣の姿を解いて、人の形をとる。
獣肢ではなく人の手が触れたことで、人の形になった事に気がついたのか、青蓮がかすかに微笑む。
「ああ、渾沌様は獣人ではないのですね……」
青蓮の目には何が見えているのか。
なくなった眼球、空ろの傷跡、満たされた穢れの呪い。
「ロッタが言ったんです。俺は視力を失い、真実のみしか見えなくなると」
「真実?」
「渾沌様の真の姿を」
そうか。そうだったか。
では、こうして人の姿をとっても、青蓮の目には四足のままに見えるのか。
「俺が恐ろしいか? 青蓮」
「いいえ。いいえ。渾沌様が渾沌様である限り、俺はどんな姿をしていても恐ろしくはありません」
「そうか……」
可哀想な青蓮の額を頬を目をそっと撫でる。
「恐ろしい思いをさせてすまないな」
「大丈夫です。渾沌様。俺は目を失ってしまったけれど、貴方の姿だけは見る事ができる。しかも何にも惑わされることなく、渾沌様の誠の姿を見る事が出来る」
「青蓮……」
「俺は幸せですよ。貴方と二人きりなのだから」
そう言って微笑む青蓮を、渾沌はたまらず抱きしめた。
如何して良い物なのかと持て余し気味だったこの気持ちが、止め処なく溢れ、青蓮に注げと本能が命じる。
「呪いが解けたら、俺の目をやろうな。
「渾沌様……!」
「大丈夫だ、俺には四方を見渡す4つの対の目がある。お前に1対くれてやっても何も問題はない。俺が見えない場所はお前が見てくれるだろう? 青蓮、俺と一緒にいてくれるだろう?」
「も、もちろんですっ……必ず、必ずお側に!」
唇を震わせてそう言うと、青蓮が渾沌の首にすがり付いてくる。
渾沌も青蓮を抱きしめる腕により力を入れてギュッと抱きしめた。
渾沌にとって、青蓮が己の半身としてそこにいるのだと、初めて実感した瞬間でもあった。
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