第9話 黒い犬と青い花の一日。

「ん……」

 青蓮は息苦しさに目を覚ました。

 発情期が開けて、やっと自分の部屋に戻り、夕べはきちんと自分の寝台で眠ったはずだ。

「……あれ?」

 もぞっと身じろぐと、手や頬に軟らかな毛皮が触れる。

 もっと手を伸ばして確認したいけれど、やたらと上掛けの布団が重くて手が動かせない。

「んんっ……」

 なんだか甘い良い匂いがする。

 昨日までずっと包まれていた安心する匂い……。

 もう一度、眠りに引き込まれそうになって、青蓮はうとうととするが、ぐるる……と低い唸り声のような音が聞こえて、ハッと頭の中がクリアになる。

「ちょ、もしかして、渾沌様っ!?」

 青蓮が布団から外に出ようともがくと、ほんの少し布団が軽くなった。

 慌てて布団の端からにじり出るが、目の前は真っ暗なままだ。

 しかし、もっふりと顔を覆うそれは、幾度も目にした黒い毛皮に違いないし、決定的なのはこの匂いだ。

「渾沌様! ちょっと、重い!」

 ぐっと押し退けるように手を突っ張ると、上に乗った真っ黒なものは「ぐるる……」と再び喉を鳴らす。

「いや、撫でてるわけじゃないから! 上から降りて! 重い!」

 くぅん……と鼻を鳴らす声が聞こえて、ふわっと布団が軽くなる。

 その隙を逃すかと青蓮は布団から這い出すと、寝台の上に大きな毛皮の小山ができているのを見てぎょっとする。

(大きい……)

 想像していたよりかなり大きい。

 そういえば、馬車の屋根の上いっぱいに寝そべっていたのを思い出す。

 青蓮は何故かきゅーきゅーと鼻を鳴らしている大きな黒い獣の頭をそっと撫でた。

(うわっ、毛がかたい)

 頭の上の毛は結構な剛毛で、ゆるゆると喉のほうへと手を滑らすと毛並みは柔らかくなった。

 手触りの良い腹を撫でると、獣は気持ち良さそうに喉を鳴らす。

 そのうちにもっと撫でろとばかりにごろんと仰向けに寝転がった。

「渾沌様……」

 仮にも次期皇帝とされ、獣人の中でも規格外だと評される者が、よりによってへそ天である。

 ぐるぐると機嫌よく喉をならし、望まれるままに青蓮は獣の腹を撫でてやる。

 ふわふわで蕩けるような肌さわりの毛皮は、撫でているだけでうっとりとしてくる。

(しかも、良い匂い)

 アルファの渾沌にとって、オメガの体臭はこの上なく好ましく香るらしいのだが、それはオメガの青蓮にとっても同じなのかも知れない。

 甘い蜜のような香りがほのかに香って、思わずその肌触り良い毛皮の腹にぱふっとうつぶせてしまった。

「渾沌様、良い香りです……」

 ぐりぐりと顔を押し付けると、何故か黒い獣は四肢を強張らせて固まってしまった。

 しかし、その手触りの良さは失われず、青蓮は顔を埋めたまま腹と喉を撫で続ける。

「ぐ、ぐぅ……ぐる……ぐ……」

 強張らせた四肢をひくひくと震わせている渾沌にはお構い無しに、青蓮はその肌触りをうっとりと堪能し続けた。


「――と、言うわけで、夜中にいきなりお見えになって、そのまま二人で眠ってしまったのです」

「……然様でございましたか」

 朝、いつもの時刻に洗顔の用意と朝食前のお茶の支度をして部屋にやってきた銀兎は、寝台の上で仰向けで四肢を突っ張った状態で硬直している渾沌とその腹に伏せたまま眠っている青蓮を目撃した。

 銀兎がそっと青蓮を揺すり起こすと、渾沌は壊れたカラクリのようにギクシャクとした動きで起き上がり部屋を出て行った。

 その後に朝食前のお茶を出しながら、青蓮から何があったのかを聞いて、銀兎は深くため息をついたのだった。

(まさかの童貞がここまで晩生おくてとは)

 渾沌が今まで他者に関心がなく、またそれを受け入れる度量のある者も居なかったために童貞である事を銀兎は知っていたが、ここまで何も出来ずにただ好きなだけで側に侍っては混乱して固まっているとは思いも寄らなかった。

 青蓮は跡継ぎ問題などのないこの国で、渾沌が暴走せずにいてもらうための番だ。オメガである事は相性の問題などもあり譲る事が出来なかったが、別に房事に及ばずとも穏やかに過ごしてくれれば何も問題はないと思っている。

 国の重鎮たちもそうだ。

 渾沌と言う皇帝を仰ぐ上で、危惧することは一つだけ。

 災厄にも等しいその力を暴走させずに皇帝と言う座に座り続けさせること。

 渾沌は白夜皇国と獣人たちの為に制御可能な皇帝陛下で居て貰わなくてはならない。

 なので、青蓮と房事に至れずとも何の問題もないのだが、同じ男としては少し気の毒ではある。

(アルファの本能とかで分かるかと思っていたが、そう都合の良い話でもないのだなぁ……)

 これは房術の師範とまでは行かずとも何とかしなくてはならないかと思い巡らしていると、お茶を飲み終えた青蓮がへにゃっと笑って言った。

「渾沌様も可愛いところがおありだなと思って……」

 どうやら渾沌が晩生であっても青蓮には不満はないようだ。

「……青蓮様が渾沌様のお相手で、本当によかったと思っております」

 これは銀兎の偽りない本音だ。

 銀狐と言う厄介なおまけがついていると桔紅などには言われるが、獣化した混沌を可愛いなどと言える嫁はそうはいない。

 腹に顔をうずめられたまま強張っていた手には岩をも砕く硬く鋭い爪が光り、はぁはぁと喘いでいる口元には近付くのも恐ろしい牙がある。

 昨夜はじっと目を閉じていたようだが、全ての目を見開けば左右あわせて八つ、四対の赤い目がある。

 とてもではないが「かわいい」などと言う存在ではない。

 渾沌の住まう宮に女官がいないのは、皆、渾沌を恐れて近付かないからだ。

 獣人同士感じあう獣の勘のようなものが働いて、側にいるだけでも身がすくむのだ。

(人だから鈍いのかと思っておりましたが、案外、本当に怖くないのかも知れませんね)

 獣人の銀兎から見たら華奢でか弱い人間でしかない青蓮が、後は傾国の妃とならんことを祈るばかりだ。


 ◆ ◇ ◆


 渾沌と青蓮の婚儀が終わり、渾沌が皇帝となった後に住まう宮は建造真っ最中で、現在、渾沌が自分の宮と言っているのは白璃宮バイリィゴォンと言う皇子の為の宮だ。

 青蓮の現在の役目は、建造中の宮を監督し皇帝の宮として相応しいものに仕上げることだった。

 とは言え、建築の専門家でもなければ宮城きゅうじょうで暮らしたこともない青蓮なので、銀兎や桔紅、専門家の官吏たちの話を聞いて頷くだけで精一杯だ。


「謁見の広間には白夜皇国の北で産出している大理石を敷き詰めることにいたします」

 官吏が美しい白いタイル状の石と図面を見せながら説明してくれる。

「床とあと大柱もこの大理石のタイルで飾りますので、真っ白な美しい謁見の間となりましょう」

「玉座は同じく我が国特産の黒樫の木材を使用いたします。こちらは脂を付けて磨きこむことで強度を増しますので末永く、また、美しくご使用いただけます。飾りは全て金を使用する予定です」

 別の官吏が、細かな彫刻の絵を添えて玉座の絵図面を見せてくる。

 更にその横にいた官吏が美しい刺繍の入った布を広げて「こちらを玉座の背面に天井から下げるように掛けさせて頂きます」と言う。

 ぼうっとしていると次から次へと布やら図面やらが広げられ、気がつけば青蓮の前の卓は図面でいっぱいになってしまった。

 いつもならば、一通り眺めた後にありがとうと微笑むだけのお仕事だったが、今日はそう簡単には終わらなかった。

「白ではなく、青にならぬか? 青蓮の御印は青ゆえ、もっと青を多く使え」

「はっ……これだから田舎者は。青蓮は子供の頃から青色より金色が好きなのだ。幼いころは太陽を指差してにぃさまあれを取ってと駄々をこねてな、その様も本当に可愛らしかったものよ」

 青蓮を間に挟んで、黒い男と赤銅の男がギリギリとにらみ合いけん制しあっている。

「青蓮、それではお前の食器は全て金で誂えてやろうな」

「渾沌様……」

「青蓮、それより華風国の刺繍が入った壁布を俺が手に入れてこよう。宮城に献上するための織物を織る職人に織らせよう」

「銀狐兄さん……」

 何故か今日は朝議が終わるなり青蓮にべったりくっついたままの渾沌と、それを決して許さない銀狐がこれでもかと青蓮にくっついていがみ合っていた。

 他国から来た従者の一人でしかないはずの銀狐が、ここまで次期皇帝である渾沌に食ってかかるのは大丈夫なのかと青蓮などはハラハラしてみているが、銀兎や桔紅を始めほかの従者や官吏もそれを咎めるものはいなかった。

 銀兎や桔紅は銀狐にかけられた呪具の首輪の存在を知っているので、銀狐が渾沌に本当に逆らうような事ができないのはわかってるし、そのことを知らぬものたちは渾沌を恐れ、また同じように仙人とまで言われた銀狐を恐れ、何も言わないのだった。

「青蓮、疲れたのか?」

「青蓮、こんな男について回られては疲れもするよな。少し早いが部屋に戻ってはどうだ?」

「休むなら俺が運んでやろう」

「え、ちょ、渾沌様っ!?」

 渾沌はそう言うなり青蓮を横抱きに抱えあげる。

 一度抱いて運ばれてから、渾沌はやたらと青蓮を抱いて運びたがるようになってしまったのだ。

「おい。お前はまだこの後に隣国の特使との謁見があるだろうが。なぁ、桔紅殿?」

「……特使との謁見はすでに時間が過ぎてございます」

「……では、銀兎、お前は青蓮の壱の従者なのだから、お前が青蓮を部屋に送り届けろ」

「……承りましてございます」

 そう言うと、銀兎はひょいと荷物を受け取るかのごとく軽々と青蓮を抱きうける。

「お、おろ、降ろしてください! 銀兎さん!」

「そうだ! 青蓮は俺が連れて行く!」

「ならん。銀兎。俺の命が聞けぬか?」

 口々に勝手を言うのを聞きながら正直めんどくさいと思う顔を隠しもせずに銀兎は、とりあえず青蓮を下に降ろして乱れた上着を直してやった。

「私は青蓮様の壱の従者でございます。青蓮様のご命の通りに」

 従者などと言うものは馬鹿正直に出来るものではない。

「……わかりました。渾沌様!」

「なんだ? 部屋に戻るか?」

「お早く謁見の間へお向かい下さい。一刻も! お早く!」

「お、おお」

 青蓮にそう言われると、渾沌は慌てて桔紅を引き連れて部屋を出ていった。

「銀狐兄さん」

「どうした? 部屋に戻るか? それとも俺と町へでも行くか? 外はよい天気だぞ?」

「兄さんはこの宮では新人である事をお弁えください!」

「青蓮……俺はな」

「言い訳はよろしい! 兄さんもすぐに職務に戻って! 銀兎さん、兄さんの今の仕事はなんですか?」

 きりっと銀兎の方を見て問う青蓮に、銀兎はニッコリと微笑んで答えた。

「そうですね、今は昼食の部屋の支度をお願いしたいところです」

「兄さん!」

「おう!」

「すぐに行ってください! 兄さんも一刻も早く!」

「わ、わかった……」

 銀狐は青蓮の有無を言わせぬ迫力に負け、あたふたと部屋を出て行った。

「銀兎さん」

「はい」

「これでいいですか?」

「十分にございます」

「では、お話の続きをお願いします」

 青蓮はゆったりと元座っていた椅子に腰掛けなおすと、呆然と立ち尽くしている官吏たちに微笑んで見せた。

 官吏たちの間で青蓮の株が爆上がりした瞬間であった。


 ◆ ◇ ◆


「舞踏団?」

 特使との謁見を終えて昼食に戻ってきた渾沌と共に食事を取っていると、桔紅が渾沌の午後の予定を伝えに来た。

 どうやら、婚儀の祝いの席で舞踏を披露させて欲しいと願い出てきた旅芸人の一座がいるらしい。

「他国の舞踏団なのですが、それは煌びやかだと評判のようで」

 桔紅が教えてくれた一座の名は青蓮も知っている有名な一座だった。

天月ティアンユエ一座は俺も知っています! 一度、祭りの時に遠目に見た事があるけど絢爛豪華で素敵でした」

 異国情緒のある衣装に金色の髪の踊り子たちはまるで神子のようだったのを思い出してうっとりとする青蓮を見て、渾沌はすぐに呼ぶことを承諾するかと思いきや、意外な事に眉間にしわを寄せて乗り気ではない様子を見せた。

「その書状は一座の連中が書いて遣したものか? 見せてみろ」

 そう言って、桔紅から書状を受け取ると食事を中断して見入ってしまった。

 青蓮もちょっと覗き込んでみたが、大した事が書かれた書状ではない。簡素に要件のみが書かれた事務的なものだが、流石に宮城への申し入れに使うためか紙だけは良い物を使っているようだ。

「一座の者たちの調べは済んでいるのか?」

「はい。身元の不確かなものはおりませんでした。とは言え、所詮は旅芸人なので出自を深追いすることは出来ませんでしたが……」

 桔紅は主の意外な反応に少し戸惑いながらも「再調査をしましょうか」と返した。

「とりあえず、断る理由もないので、今日は会うが、婚儀の本番までに怪しいところがあるようであればすぐに捕らえろ」

「……御意」

 桔紅は渾沌から書状を受け取るとすぐに部屋を出て行く。

「青蓮、お前の望みは叶えてやりたいが、もし不審な所があったら……」

「もちろんです。渾沌様。天月一座は観たいですが、宮城に不審者を招きいれるわけには行きません」

「すまぬな」

 渾沌は本当にすまなそうに頭上の耳をへにょっと伏せて、自分を見つめている青蓮の頬をそっと指の先で撫でた。

 渾沌にとって青蓮という人間の青年は、何故か酷く胸の奥をざわつかせる存在だった。

 発情期の時も抱いてやれば落ち着きもするだろうと軽く考えていたのに、いざ怯えている姿を見たら、そんなことは全く出来なくなってしまった。その上、自分の中で荒れ狂う衝動を抑えるために理性を総動員して腕を食いちぎりかけた。

 そんな渾沌には怯えず、傷を案じてすがり付いてきた青蓮。

 良い匂いがして好ましいとは思っていた。

 どうせ番など誰がなっても同じだろうと思っていた。

 だから、銀兎がつれてくる者が気に入らなければ国に到着する前に始末しようと思っていた。

 そんなことは青蓮を見た瞬間に吹っ飛んでしまったのだが。

 最初から不思議な青年だった。

 近付いただけでうっとりとするような甘い匂いがして、姿を見たら目を離せなくなった。馬車に付き添って国までつれて帰る最中も離れがたくてずっと馬車の屋根の上に居座っていた。

 それからはもう目を離すのも嫌だ。

 獣の姿になるとその本能がより強まる。

 昨夜も宮城の周囲で異変を感じて見回りに出たのだが、獣化したとたんに青蓮の甘い香りに誘われた。

 すぐにも駆けつけたいのを堪えて見回りを済ませ、青蓮の寝所に忍び込み、その寝台に上がると青蓮は柔らかな手で渾沌の毛並みを撫で付けその腹に顔までうずめてきた。

 これはと思い、息荒く起き上がろうとしたら、青蓮の静かな寝息が聞こえてきた。

 この青年を起こすのは忍びなく、渾沌は己の欲望と一晩中戦い続けることとなったのだ。

 そんな苦しくも甘い記憶に渾沌は眉を下げて、もう一度、やわらかな青蓮の頬を撫でてやったのだった。

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