第8話 オメガだから……
「あいつ、派手にやったな!」
渾沌の部屋の寝台の上で血塗れになった青蓮が呆然としていると、間もなく沢山の布を抱えた銀狐がやってきた。
どうやら渾沌は本当に銀狐を呼んだらしい。
「兄さん……渾沌様は……?」
「ああ、桔紅に止血されて朝議に行ったぞ」
「えっ!? あの怪我で!?」
「出血させただけで、怪我は大したことない。俺の薬草を分けてやったからすぐに治るだろう」
銀狐は会話しながら、持ってきた布で青蓮の顔や髪を拭いてやる。
「濡らして拭ってやりたいが、発情期が収まるまでは我慢しろ」
「どうして、渾沌様はこんなこと……」
「血液には濃厚に精が含まれているからな。この血の匂いがしている限りお前の発情期は酷くならない」
「え?」
「オメガがアルファと性交することで状態が落ち着くのは、アルファの精が体内に入るからだ。これだけ血を浴びて精を受ければ、発情期の間くらい持つだろう」
渾沌が己の腕を噛み千切って血を振りまいたのは青蓮のため。
薬も飲まず辛い発情期が来るのに、接触を拒んでいる青蓮の気持ちを優先するために房事ではなく血を選んだ。
「しかし、俺を呼んだのは嫌がらせか! 他のアルファのキツイ匂いに囲まれていると反吐が出る!」
銀狐はぶつぶつ文句を言いながら、血の汚れだけをふき取るように乾いた布で血溜まりを掃除する。
「そ、そうだ、兄さん大丈夫なの!? 俺、発情期なんでしょ!?」
銀狐は自分では何も言わないがアルファである可能性が高い。
「この部屋にいる限りは大丈夫だ。この血の匂いがある限り俺には何もできないからな」
「血の匂い……」
「それが分かってて俺を呼んだんだろうよ」
半分嫌がらせだな! と銀狐は悪態交じりにため息をつく。
そんなことを言いながらも銀狐はせっせと掃除を続け、持ってきた布が全て血で汚れるとそれを籠の中に盛った。
「綺麗に片付けてやりたいが、この布からの匂いもお前に必要なものだ。発情が収まるまで堪えてくれ」
「でも、俺、そんなに具合悪くないんだよ」
「それはこの血の効果だ。この血の上で、この匂いに包まれていれば、眠いとかだるいとかそんなモンで済むはずだ。――本当は俺がお前に血をくれてやろうと思っていたんだがな」
「兄さん!?」
「俺はアルファだ。お前と血のつながりもない。俺の血を飲めば、同じように精を受けて発情は収まる」
「え、ちょっと……何言ってるの……?」
銀狐は寝台の上に腰掛けると、ゆっくりと青蓮を自分の方へ抱き寄せる。
「他の兄弟たちには言っていない。親父とお袋だけが知っている話だ。俺は親父の親友の息子で、実の両親は戦死している」
幼い頃から知っている兄の匂い。
広い家で育ったわけではない。幼いころは5人兄弟集まって雑魚寝だ。
その中でも末っ子の青蓮は最後までいつも誰かと眠っていた。
銀狐が急に戦地に向かうと言い出すまでは、ずっと銀狐と眠っていたのだ。
その腕の中の温もりを思い出す。
「……だからと言うわけではないが、俺はお前をいつか連れて逃げようと思っていた」
「え?」
初耳だ。
「お前はいつか誰か知らないアルファの男のところに嫁ぐのだと言って、いつも何をするのも躊躇っていた。――俺が宮城に上がるときも一緒に行こうといったのを覚えているか?」
「うん……」
銀狐が方術士として近衛隊に召された時に、青蓮も一緒に宮城のある都へ行って大学へ行けという話があった。
しかし、青蓮はそれを断ったのだ。
それよりは地元に残り早く職について手に職をつけたいと。
「どうせどこかに嫁ぐのだと、学士の道も諦めた」
銀狐は青蓮がいつも本を読んでいるのを見ていた。
物語や歴史書を読み漁り、他国の文化にも興味をもっていた。
ならば学士となって研究の道もあろうと、大学への進学を言い出したのは銀狐だったのだ。
「俺がつれて逃げれば、お前は発情の苦しみからも解放されて、好きな道を歩む事が出来る。大学へ進むのも遅くはない。お前はまだ若いのだから……」
「待って! 兄さん!」
青蓮は銀狐の言葉を遮るようにして止める。
「俺はこの国に嫁いできたんだ、渾沌の番になるんだ」
「それがどうした? アレを倒すには及ばないとしても、ここから二人で逃げるくらいならば何とかなる。青蓮――」
銀狐が琥珀色の瞳で青蓮の眼をじっと覗き込んでくる。
「俺と一緒に地の果てまで行こう、青蓮」
「兄さん……」
白い肌、豊かな赤銅色の髪、琥珀の瞳。見慣れた兄のものでありながら、どことなく見知らぬ怪異を覗き込むような不安感。
知らず知らずのうちに頷いてしまいそうになるのを、青蓮はぐっと堪えた。
青蓮の胸の奥では分かっているのだ。
「俺が番うのは兄さんじゃない」
血で汚れたままの自分の手のひらを見る。
この血はそこら中に飛び散っていて、銀狐が乾いた布で拭いてくれた後も、そこかしこにシミを作っている。
確かにこれだけの匂いに囲まれていれば発情が酷くなることはなさそうだ。
現に発情期も近くて、アルファである銀狐の匂いも感じ取っているのに、青蓮は何とか落ち着きを保っている。
むしろ、そわそわと落ち着かないものがあるとすれば、渾沌がここにいないことについてだけだ。
「……どうしてなんだろ、兄さんが嫌いなわけじゃない。もし、渾沌様に出会う前だったら兄さんを選んだのかな……」
「青蓮……」
「村娘の身代わりになれと姉さんに言われたときだったら、兄さんと都へ逃げたのかな……そんな風に色々考えてみても、俺は何故か渾沌様のことばかり考えてしまうんだよ……」
側に付きまとって離れたがらなかった渾沌。
失言に青蓮が怒ったとき、そっと杏の籠を持ってきた渾沌。
青蓮が苦しまぬようにと自らを傷つけて血を与えてくれた渾沌。
渾沌が望むままに抱いてしまえばいいのに、青蓮の気持ちを優先して……。
「なんだろうね。燃え上がるような恋ではないけど、俺は渾沌様に十分絆されちゃってるんだよね……」
渾沌の血に汚れたままの顔で、青蓮はそう言って微笑んだ。
「ここに来て良かったとまではまだ言えないけど、まあ、悪くないんじゃないかって思ってるよ」
「青蓮……」
名を呼びかけて、感極まったように声を詰まらせると、銀狐は青蓮の身体をギュッと抱き寄せた。
「お前があのバケモノと番おうと、俺の弟である事には代わらない。青蓮、俺は生涯お前を守る……」
「兄さん……」
青蓮は銀狐の震える肩をそっと抱き返した。
◆ ◇ ◆
それから青蓮は発情期の大半を渾沌の寝台の上で過ごすこととなった。
薬を全く飲まない発情期は久しぶりで、さぞきついことになるかと思いきや、渾沌の血の効果は絶大だった。
うつらうつらとまどろみながら、何故か甘く香る匂いを嗅いでいると自然と眠気が深まる。
アルファのフェロモンに反応するのとはまた違う不思議な感覚だ。
渾沌の側にいると確かにフェロモンを感じる事がある。甘くねっとりと包み込まれるような香りで、その香りに晒されているといつしか身体に熱が灯り始めてしまう。
なのにこの血の香りはそうではなかった。
同じ甘い香りでも、心が落ち着き、ゆったりと深い眠りに誘われる様な安らかな香り。
「少し飲めるか?」
銀狐に抱き起こされて、口に匙を当てられる。
ゆるりと唇を開けば甘い果実の汁が流し込まれた。
食事もしないでまどろみ続ける青蓮の世話を焼いているのは銀狐と銀兎だ。
「大分、お顔色も戻りましたね。少し部屋の換気をしましょう」
「青蓮の匂いも大分落ち着いた。これなら明日には床上げが出来るだろう」
青蓮は、血に汚れた姿で、血塗れの寝床で、獣のように眠り続けていた。
「……渾沌様もこれで落ち着かれるといいのですが」
「はっ、オメガの発情につられて落ち着きを失うとは精進の足らん話だ」
銀狐は変わらず渾沌に悪態をつくものの、この城から出て行く気はないようだ。
「渾沌様の……傷は……?」
青蓮も大分意識がハッキリしてきた。
「傷などひと舐めでございましたよ。渾沌様は怪我などに大変の強いお方で、治癒もかなり早いのです」
それでも痛くないわけじゃない。
青蓮の為につけた傷だ。部屋を出れるようになったらまず最初に渾沌に会いたい。
銀兎にそう告げると、銀兎はにっこりと微笑んで「それでは湯浴みの準備をいたしましょう」と部屋を出て行った。
「……もういいのか?」
銀狐は青蓮の頭を少し乱暴に撫でる。
兄として、親族として、ほんの少し青蓮と距離を感じさせる。
「うん、こんなに気持ちが穏やかに過ごせたのは久しぶりだよ……」
寝台の上に座って、ぐっと身体をのばす。
「飲めるようなら、もっと飲んでおけ」
銀狐は先ほど匙で飲ませてくれていた果汁の入った椀を差し出す。
甘い果物と米を煮た粥のようなもので、これは青蓮の家では具合の悪い子供が出るとこの果物粥が出されたのだ。
「美味しい。懐かしい味だ」
にこにこと椀を傾けて中の粥をすすっていると、扉の向こうから声をと足音が聞こえてきた。
声は銀兎のようだ、何やらもめている様だが……。
「ふん。デリカシーのない奴め」
扉のほうを見て銀狐が憎憎しげに呟くのと同時に、扉が弾けるように大きく開かれた。
「青蓮!」
「こ、渾沌様っ!?」
入ってきたのは上半身裸で腰布を巻いただけの姿の渾沌だった。
「もう大丈夫か? しんどくはないか?」
渾沌はどかどかと大またに寝台へ近付いたが、青蓮と向き合った途端にしゅんと大人しくなり、そうっと青蓮の頬を撫でた。
「ありがとうございます。こんな汚れた姿ですみません……」
「大丈夫だ。それに汚したのは俺だ。怖い思いをさせて悪かったな」
「いいえ。渾沌様のおかげで薬がなくても穏やかに過ごせました」
青蓮は頬を撫でる渾沌の手にそっと自分の手を重ねた。
その瞬間、二人の間に割って入るように銀狐は滑り込むと、手にした布で青蓮をぐるぐる巻きにして言った。
「さぁっ! 湯浴みの支度が出来たぞ、青蓮。早く綺麗になりたいよな! 俺が運んでやろうな!」
「兄さんっ!?」
青蓮が突然のことに目を瞠っていると、今度は目の前に居た銀狐を黒い影が押し退けた。
「湯浴みか、では俺がつれて言ってやろう」
布でぐるぐる巻きにされた青蓮を横抱きに抱えあげながら渾沌が言う。
「えっ? 渾沌様!? あの、ちょ、そのっ」
「いやいや、渾沌様のお手を煩わせるまでもない! 兄弟の俺が! 面倒を見よう!」
「ふん、お前の手を借りるまでもない。仙人は仙人らしく書でも書いていろ」
「ま、待って……」
「お前のように粗暴な男に身体を洗われては青蓮のやわい肌が痛むではないか!」
「……やわい肌だと?」
渾沌の瞳がすっと訝しげに眇められる。
「お前が何故そのようなことを」
「おうよ。俺は兄だからな青蓮が幼い頃からずっと一緒に風呂に入って面倒を見てきたのだ」
「何言ってんの!? 兄さん!」
確かに湯の節約の為に風呂には一緒に入っていたが、それは銀狐と二人ではなくほかの兄弟たちも一緒だった。
「俺と風呂入ってたのは兄さんだけじゃないよね!?」
「ほう?」
不穏な空気が青蓮に向く。
「皆と風呂に入るのに慣れているなら、俺と風呂に入るのも問題ないな? 貞淑な花嫁よ」
「あ……」
時すでに遅し。
青蓮は軽々と抱えあげられると、そのまま銀兎の待つ湯殿へとのしのしと連れて行かれたのであった。
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