第7話 発情期、襲来。
「青蓮、薬は飲んでないのか?」
朝起きると、青蓮の着替えを持って寝室に現れた銀狐に徐に尋ねられた。
銀狐は青蓮付の従者となって以来、身の回りの世話を一手に引き受けてあれこれと青蓮の面倒を見ている。
本来ならば、銀兎の配下の従者たちが面倒を見てくれていたのだが、銀狐はそれを全て追い出してしまった。
「薬は……止めた方がいいって……」
何の薬かを問うまでもない。青蓮に向って薬といえば、オメガの発情期を抑制するための薬のことだ。
青蓮の元居た華風国では、オメガの発情抑制剤が庶民にまで出回っており、オメガはそれを飲んで苦しい発情期を乗り越えていた。
ただし、良く効く薬ではあったが、安価なだけあり身体への負担が大きなものでもあった。
それを知られて、この国に来てすぐに、渾沌と銀兎から薬を禁じられてしまったのだ。
「そうか、それがいい。あの薬は俺も良くないと思っていた。何か他の薬を俺が煎じてやろうか?」
「ん~……とりあえず大丈夫かな。婚儀が終われば俺も正式にお世継ぎとか考えなきゃならないから」
白夜皇国は世襲制ではないとは言え、渾沌のように優れた者の血が残るということはこの国にとって重要なことだと青蓮は考えている。
だからこそ獣人との相性もいいオメガの人間である青蓮が選ばれたのだ。
「青蓮様、お世継ぎに関しては青蓮様がお悩みにならずとも問題ないのでございますよ」
銀狐と一緒に部屋に来て、食事の前のお茶の支度をしていた銀兎が言葉を挟む。
「青蓮様は渾沌様のお側にいていただく事が一番のお役目でございます」
「でも、渾沌様は優秀なお方だから血が残った方がいいでしょう?」
「いいえ。これは獣人独特な考え方かもしれませんが、獣人の子がまた獣人であるとは限りませんし、優秀なものの血が同じように優秀になるとも限りません」
獣人は突然変異だ。人間同士の親からいきなり獣人が生まれることもある。
それ故に獣人はあまり血筋とか親子と言うことに固執しないものらしい。
「それは正しい考え方だ。人間の世界でも賢帝の子が愚帝であることは少なくない」
銀狐も銀兎の言葉に同意する。
「そもそもあの男が賢帝となるかどうかすらまだわからないんだから、青蓮がそんなことを悩む必要はないぞ。それより、発情期が近くてしんどいだろう? 俺が良い薬を煎じてやるからな」
「銀狐殿、薬であれば我が国の典医が良き薬を準備しております。心配はご無用です」
「はっ、俺が煎じると言っているだろう。青蓮のことは俺が一番良く知っている!」
ぎりぎりと音が聞こえそうなほど笑顔でにらみ合う銀狐と銀兎を見て仲が良いなぁと思いながら、青蓮はそういえばそろそろ発情期の時期が来るなと思い出していた。
多分、銀狐は青蓮のフェロモンの変化に気が付いたのでそう言ったのだろう。
銀狐は多分アルファだ。銀狐自身が必死に隠しているようなのだが、青蓮には何となく分かる。それは兄弟だからではなく、青蓮がオメガだからだ。
「とにかく! 青蓮の薬は俺が用意する! 青蓮! 得体の知れん薬を貰って飲むんじゃないぞ!」
銀狐はそう宣言すると、青蓮の洗物を籠に抱えて部屋を出て行った。
「別にいいのになぁ……」
「銀狐殿の薬にするかどうかは別として、私も青蓮様はお薬を飲まれた方がよろしいかと思います」
「……子供はまだ出来ない方がいいの?」
渾沌はやる気満々のようだったが、婚儀の前にそれに応えてしまうのはやはり妃としては軽率だろうか?
「いえ、お子様が授かればそれは大変おめでたいことでございます。問題は……渾沌様の方で」
「渾沌様?」
「渾沌様は清らかな御身体でございまして……」
「えっ!? 童貞なの!?」
銀兎にこそっと告げられたのは衝撃の事実だった。
獣人のアルファなんて食べ放題の百戦錬磨かと思っていた青蓮には俄かには信じ難い言葉だ。
しかし、銀兎はそれを否定せず、コホンと一つ咳払いをしてから話を続けた。
「房術に慣れることなくここまでお育ちになられて、その……少し加減が分からない処がございまして……」
「加減?」
「アルファの胆力の限界が分かっておいでではないのです」
ゾッとした。
オメガの発情はアルファの無尽蔵な胆力に耐えるための防衛本能なのだというものもいるが、それだけアルファとの房事は激しくなりがちだ。
青蓮も経験があるわけではないのだが、アルファにやり殺されてしまう事故の話は何度か聞いた事がある。
特に相性の良いオメガとの房事はアルファが理性を飛ばしてしまう事がままあり――要するに命の危険もある事なのだ。
「……俺、死にますかね?」
「そうならないためにも、渾沌様を上手く導いて加減させるところからはじめませんと」
銀兎は死ぬ事も否定せずに、青蓮に頑張れという。
「俺も童貞ですよ!? そんな上手い事いくはずがないじゃないですか!」
「いざとなったら、飲めば龍でも昏倒するという強い眠り薬などもございます」
「うわぁ……」
しれっと言われたが、いざとなったら一服盛って逃げろと言う事だ。
それを次期皇帝陛下に対してしてもいいことなのかは別として、そのくらいヤバイという事なのか。
「まずは、典医より薬を貰ってまいりますので、青蓮様はお薬を飲んでお体をご自愛下さい」
銀兎はそう言うと、朝食の準備の為に部屋を出て行った。
朝食は混沌の部屋で一緒に食べることになっている。
「……気をつけなくちゃ」
青蓮は香りの良いお茶を口にしながら少し寂しい気持ちになっていた。
◆ ◇ ◆
「甘い匂いがする」
朝食のための部屋に入ってくるなり混沌が言った。
先に卓に着いていた青蓮はじっと自分を見つめてくる渾沌の目線にビクッと身体を竦ませた。
(え、何これ……)
視線がまるで熱を持った焼き鏝のように青蓮を弄る。
(熱い……?)
ただ見られているだけなのに、酷く落ち着かない。
最初に渾沌に出会ったときも同じような感じだった。そわそわと妙に不安で落ち着かなくなるのだ。
(あ、これって、もしかして……)
青蓮がその答えを頭の中で言葉にするより早く、渾沌がその言葉を口にした。
「発情期か」
身体に異変はまだ出ていない。そわそわと落ち着かないだけだ。
しかし、今朝、銀狐に言われたこと、時期的なもの、このそわそわとした違和感、どれをとってもこれから来るものを示しているようにしか思えない。
「申し訳ございません、渾沌様。本日は少し調子が悪いので部屋へ……」
青蓮は慌てて立ち上がり、渾沌と距離をとるように部屋を出ようとしたが、どういう足の運びなのか音もなく一瞬で間合いを詰められ腕をつかまれた。
「渾沌様っ!?」
「黙れ」
低い声で唸るようにそう言うと渾沌は青蓮を荷物のように抱えあげた。
「っ!?」
青蓮は何が起こったのかもわからず、抱えられ部屋を出てゆく渾沌に何も言えない。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……)
こうしている間にも渾沌はずんずんと通路を進んで行く。
「渾沌様!?」
桔紅の声が聞こえた。するとこれは渾沌の私室の方のようだ。
「誰もついてくるな。部屋にも寄せるな」
渾沌が人払いを命じる。
(これはいよいよもって拙いかな……)
青蓮の不安は募るが、どうしようもない。
銀兎の言っていた強力睡眠薬でもあったらよかったのかも知れないが。
そんなことを思い巡らしているうちに、薄暗い部屋の中へと入ってしまう。
(これが渾沌の部屋……?)
朝だというのに部屋中の窓に布がかけられ、灯されている明かりも最小限のようだ。
(初めて入ったけど……)
生活感のない部屋。担がれた状態で見える範囲には限りがあったが、家具らしい家具もなく、机の脚と椅子の脚、本棚が見えるくらいだった。
青蓮の部屋とはまるで違う。本当にあの部屋の為にいろいろと集めてくれた男の部屋なのだろうか?
「わっ!」
ぼんやりとそんなことを考えていたら、寝台と思しき場所に降ろされた。
以前のようにやんわりとではない。放り出すような性急さだ。
「渾沌様……」
寝台の上にはとてもやわらかくて厚みのある毛皮が敷かれていて、寝心地は悪くない。放り出されてもその毛皮が受け止めてくれて痛みもなかった。
そして放り出された青蓮の上に、渾沌が四足の獣のように手をついて覆いかぶさってきた。
「渾沌様っ!?」
渾沌は青蓮の首筋に顔を寄せるとスンスンと匂いを嗅ぐ。
「甘い匂い……オメガの匂いなのか……」
「!?」
オメガは発情期が訪れると独特な香りを発してアルファを誘う。それはアルファの暴走の引き金にもなりかねない強力な誘惑だった。
「渾沌様っ! ダメです!」
「違う……これは……青蓮の匂い……」
渾沌は青蓮に顔を寄せたまま、獣のような唸り声を上げる。
「ひっ!」
恐ろしさのあまり、咄嗟に抗おうと振り上げようとした腕ごと渾沌に押さえ込まれてしまう。
「渾沌様っ!!」
そのまま喉を食い破られてしまうのではないかと思った。
しかし、その衝撃は訪れない。
そして、力強く戒めている渾沌の体がブルブルと震えている事に気がついた。
「……渾沌様?」
その様子を訝しく思い、そっと名を呼ぶと身体がビクンと大きく震え、渾沌は大声を上げた。
「ああああああああっ!!!」
「ちょ、こ、渾沌様っ!?」
渾沌は青蓮から自分の身体を引き剥がすように勢い良く起き上がると、己の太い腕に思い切り噛み付いた。
ブツッと嫌な音がして、その白い歯が腕に食い込み、あっという間に血が溢れる。
「渾沌様っ!!」
青蓮は慌てて起き上がり、噛み付いている腕に縋りつくが、血に滑りその手を牙から引き離すことも出来ない。
「止めてくださいっ! ダメ! 離して! 渾沌様っ!!」
渾沌は力いっぱい、己の腕を噛み千切らん勢いで食いついている。
何とかして止めさせないと腕に傷どころか、腕が千切れてしまうかもしれない。
「ばかっ! そんなことするなっ! やめろって! やめろ!!」
引き離そうとつかみかかる手がどんどん赤く濡れて行く。ぼたぼたと飛び散る血を浴びて青蓮も血塗れになってしまう。
「ばか! ばかばか!! 渾沌っ!!!」
手を引き離すのを諦めて、渾沌の体に縋るようにして抱きつくと、再びその身体が震えて、渾沌はやっと腕から口を離した。
「青蓮……」
腕の痛みが酷いのか、渾沌は酷く苦しそうな顔で青蓮を見ると、そっとその頬をけがをしていない方の腕で撫でた。
「汚してすまん、だが、これで耐えられるだろう?」
「え?」
「俺はすぐに部屋を出る。銀狐を呼んでやるから面倒を見てもらえ」
「え? ちょ、ちょっと、渾沌様っ!?」
渾沌は寝台から居りて、さっさと部屋を出て行く。
「渾沌様!?」
後には血塗れになった青蓮が一人残されてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます