第5話 外より来たる。

 甘い杏の香りが部屋にまだうっすらと残る頃、次の訪問者が青蓮の部屋の窓に訪れた。


 杏の籠がバルコニーに置かれた翌日。

 銀兎が神妙な顔をしてやってきた。

「華風国から使者が参りました」

「使者?」

 そんな連絡は受けていない。

 青蓮はもう華風国の民ではなく白夜皇国の民だ。皇族として名を連ねるのは婚儀が終わってからになるが、今は貴族としての位を与えられ、宮城の中の仮の宮に住んでいる。

 そんな青蓮に面会するためには例え故郷の者でも事前にお伺いを立ててから訪れるのが慣わしだ。

「はい。銀狐ユィンフゥ様と仰る方です」

「え? 銀狐兄さん!?」

 華風国に居るはずの5人兄弟の一人、宮城に勤めている次男だった。

「やはり、お兄様なのですね」

 銀兎は少し緊張を解いたのか小さく息をついた。

「書状をお持ちではあったのですが、その、あの……」

 銀兎が言葉を濁す原因はわかっている。

 青蓮は苦笑して言った。

「俺と似てない……ですよね」

「ああ、いえ、ご兄弟とはいえ容姿が似るとは限りませんので」

 兄が弟に会いに来た。それだけならば難しい事は何もないが、青蓮はすでに兄弟であるよりも渾沌皇子の婚約者だ。事はそう簡単に済む話ではない。

 しかも、青蓮と銀狐は全く似ていないどころか――

「すぐにご面会の準備をしてまいります」

 部屋を出てゆく銀兎の背を見送りながら、青蓮は嫌な予感に眉を潜めるのだった。



「やあやあ、久しぶり、青蓮」

 謁見の間に満面の笑顔で入ってきた男――銀狐は口調も軽く言い放った。

「さあ、家に帰ろうか」

 謁見の間に集まった一同の気配が一瞬で固まる。

「な、何を言ってるのさ、兄さん」

 謁見も何もない。不調法な様子を隠しもせず、銀狐はニコニコと笑みを浮かべたまま高台へと足をかける。

 高台には正装した青蓮が座っているが、そこへ手が届く前に護衛の兵士たちが割って入った。

 兵士の伸ばした槍の切っ先が、銀狐の顔の前でぴたりと止まる。

「青蓮様のご兄弟とはいえ、青蓮様は第一皇子妃であられますぞ!」

 さらにその間に銀兎が立ちはだかるように入る。

 が、銀狐は笑みを崩すことなく、ぐっともう一歩踏み出した。

「従者風情が驕るでないぞ」

「兄さんっ!?」

 銀狐は懐に手を入れると人の形をした1枚の紙を取り出し、それを自分の前に立ちふさがる槍の切っ先に押し当てるようにしてから叫んだ。

「来たれ!」

 ガギンッと金属が重く打ち据えられる音がしてから、重いものが落ちてくるズンッと腹に響く音がする。

 青蓮が恐る恐る目を開くと、銀狐の前に青銅の彫像が立っているのが見えた。

「さあ、帰るぞ! 青蓮!」

「止めて! 兄さん!」

 青蓮の兄は宮城に勤める近衛術士だった。方術を用いて戦い、戦でも前線で隊を率いていた。

 めったに家に帰ってこない人ではあったが、こんな風に滅茶苦茶な事をするような人だっただろうか。

「させませんっ!」

 ガギンッ! ともう一度打ち合う音が響き、銀兎が満身の力をこめて青銅の彫像に挑んでいた。

 青銅の彫像は驚いた事に銀兎とつかみ合い、力比べでもするようにギリギリと押し合っている。

「銀兎さんっ! 兄さん! 止めて!」

 青蓮は二人に駆け寄ろうとして護衛の兵士に押し留められた。

 声の限り叫ぶが、銀狐は次々と青銅の彫像を呼び出して、集まってくる兵士たちを制圧しようとしている。

 青銅の彫像は銀狐の命ずるままに兵士たちに襲い掛かる。

 中には獣化して青銅の彫像に挑んでいる兵士も居るが、ギリギリ拮抗するか歯が立たないものもいた。

「どうしようっ……」

 それでも銀狐がどんなに強くても、一人では絶対に勝てない。


 しかも――


 不意に謁見の間の外が暗くなった。

「えっ……」

 それに気がついたのは青蓮だけだったのか、青蓮が窓の方を見るとそこに大きな影が過ぎる。

(渾沌様……っ!?)

 天井まであるような大きな窓の外を覆うような影。

 ちらりとこちらを見るあの目。

(目が合った!)

 外に居る大きな影は、明らかに中の様子を伺っている。

 まるで中に飛び込むタイミングを見計らっているかのようだ。

 そして、ゆっくりと影は謁見の間の正面の扉へと向う。

「渾沌様!」

 扉が開くや否や、部屋の中が一気に暗くなる。

 黒い霧が部屋の中に満ちたように、外からの明かりも何もかも隠してしまうように。

 ズウンッと頭上から圧がかかるような気がする。

「我が国土に仇為すは汝か!」

 扉のところには腰布に毛皮を羽織っただけの渾沌が立っている。

 本当にただ立っているだけだ。刀もないし、獣化もしていない。

 なのに、身動きをしたらその瞬間に首を落とされてしまいそうなほどの恐怖が場を支配している。

(怖い……)

 花嫁である青蓮を助けに来たはずなのに、その青蓮ですら膝が震えるほどの恐怖を感じる。

「……白夜皇国、四凶の渾沌」

 さっきまでの笑顔を苦痛に歪めながら銀狐が言った。

「如何にも。四凶の一柱、渾沌なり」

 渾沌はすたすたと銀狐に歩み寄る。その足取りには何の気負いもない。呼ばれたから来た。それだけのように見える。

 周囲が圧されて身動き一つ取れない中、銀狐は苦痛に耐えながらも背後に来た渾沌の方へと向き直る。

 その動きは酷くゆっくりとしていて、周囲から見ればまるで水の中で溺れているようにすら見える。

 しかし、それでも銀狐は力を振り絞って渾沌の胸倉をつかんだ。

「止めて! 兄さん! 無理だ!!」

 それを見た青蓮が呪縛を振り切って絶叫する。

 銀狐は強い。それは知っている。

 国でも1,2を争う術士であり、それが故に家族から離れて戦争にも行った。

 でも、渾沌には敵わない。

 それは青蓮には直感的に分かった。

 だから、ここで止めなかったら銀狐は殺されてしまう。

 青蓮は自分を押さえている兵士たちが恐怖に竦んでいるのを利用して手を振り払い、気力を振り絞って高台から飛び降り渾沌の元へ走り寄る。

 願うのは銀狐ではない。

 ここで願うのは――

「お許し下さい! 渾沌様!」

 渾沌の胸に縋り付く様にして飛び込む。

「愚かな事をした事は謝ります。俺も一緒にどんな罰でも受けます! だから……どうか……兄さんを殺さないで……」

「それがお前の望みか? 青蓮」

「はい! 望みます! 心の底からお願いします!」

 胸倉に手をかけた銀狐を庇うように後へとやり、青蓮は必死に頼んだ。

「では俺の宮へ来るか?」

「行きます!」

 即答で頷いた。そんな事で命が助かるならば安いものだ。

「青蓮っ! 何をっ!」

「兄さんっ! 黙って! 控え!」

 まるで犬に命じるかの勢いで青蓮は銀狐に命じると、銀狐は思わず手を離し青蓮の背後に控えてしまった。

 そんな銀狐を渾沌はまじまじと眺めている。

「大体、先触れの使者も遣さず、いきなり訪ねてきた上に何なんだよ! 帰ろうってどういうこと! 俺はもうここの人間なんだよ!?」

「でも、青蓮が連れて行かれたって……」

「連れて行かれたんじゃないの。俺が来たの! 宮城にも知らせが来てたでしょう! その求めに応じて俺が来たの!」

「うぅ……」

 獣人ではない銀狐の頭に獣の耳はないはずだが、青蓮の言葉にきゅんとへこたれ、尻尾を丸めている幻覚が見えそうなほど銀狐はへこんでいる。

「青蓮様、落ち着いてください……」

 何とか我を取り戻した銀兎が青蓮に声をかけ背を擦る。

「ああっ、銀兎さんも怪我はないですか? 他のみんなも……兄さん!」

「はいっ!」

「壊れたものを元に戻して! その邪魔な青銅人形を消して!!」

「はいっ!」

 青蓮の激に銀狐は逆らうことなく作業を始める。

「銀兎さん、兵士の皆さんに怪我人はいませんか? 大丈夫ですか?」

「落ち着いてください、青蓮様。大丈夫です。軽い怪我はあるかもしれませんが、身体に障るような怪我の者は居りません」

「ああ、良かった……」

 渾沌に怒りを収めてもらった今、とにかく被害を出来る限り償うしかない。

 怪我がないというのは何よりだ。

「お兄様は本気で私たちを攻撃したわけではないようですね。華風国の銀狐神仙ユィンフゥシェンシィエンがこの規模の兵を逃す事はございますまい」

 そう言って、銀兎も渾沌の方へと向き直り、頭を深く下げた。

「銀狐と聞いてすぐに分からなかった私に責がございます。どうぞ殿下のお心のままに」

「お、俺も! 兄弟なので連帯責任です!」

 二人して頭を下げると、じっと銀狐を見ていた渾沌が飽きれたような声で言った。

「それを言うならば、こいつが来るのは俺にもわかっていた。と見逃した責があるな」

 そして徐に青蓮を横抱きに抱き上げると、銀兎に命じた。

「その男とは後で話をする。ここの片づけが終わったら呼べ」

「御意」

 銀兎の咎など最初からないと思っていたが、彼が許された事に青蓮は安堵した。


(俺は……大丈夫かな……)

 渾沌に抱かれたまま、青蓮は何もなかったように謁見の間から連れ出される。

 扉の向こうから銀狐の声が聞こえたような気がするが、もうそんな事に構っている余裕はない。

 頭を肩にあずけ、頬を胸に押し当てるような格好で抱きかかえられたまま、青蓮は今まで足を運んだ事のない方向へ連れて行かれる。

 青蓮の居た仮住まいの宮周辺も美しく整えられていたが、こちらの作りはそれの比ではなかった。

 朱金の塗りの柱が続く渡り廊下は幅も広く屋根も高い。

 見える庭園は素晴らしく、花のない時期だというのに緑が多く心和ませる庭だ。

(お香の香りがする……)

 花の香りほど甘くはないが、清々しく優しい香りがほのかに香っている。

(凄い……これが白夜皇国の宮城……)

 しかもこれが本殿ではないのだ。

 本殿には皇帝陛下がいる。渾沌はまだ皇子でしかない。

(皇子の住む宮……)

 抱きかかえられたまま宮の玄関をくぐる。

 使用人たちが並び一斉に頭を垂れ、主を迎え入れた。

「お帰りなさいませ、渾沌様、青蓮様」

 先頭に立っているのは赤い髪に鳥の羽が混じっている男。

桔紅チュウフォン、部屋は?」

「整ってございます」

 簡潔に用件だけの会話を済ませると渾沌はわき目も振らずに宮の奥へと進んで行く。

 後からは桔紅と呼ばれた赤毛の男と二人の女官がついてくる。

 建物の豪華さに比べると、人がかなり少ないようにも思う。

 規模としてはここの4分の1ほどしかない青蓮の宮と同じくらいしかいないように思う。

 そして、そんなどこか寂しげな宮の最奥の部屋の前まで来た。

 玄関からここまではかなりの距離がある。そしてその通路の両脇には護衛兵たちの姿も見えた。侵入する事も逃げ出す事もできないだろう警戒振りだ。

(ここに監禁されるのかな……)

 最奥の間、座敷牢の様な場所を思わず思い浮かべてしまう。

 銀狐の咎は到底許されるものではない。

 他国に使者を装うって侵入し、武力を持って制圧を図ったのだ。

 幾ら次期皇帝妃の血族とは言え許されるような所業ではない。

(それどころか、俺も許されないだろうな……)

 皇帝妃候補ではあれ、他国の者を呼び込みあんな騒ぎを起こしてしまった。

 皇帝妃の候補から外されて、慰み者とされても仕方がない。

(慰み者で済めばいいけど。もしかしたら兄さんと二人で死罪の可能性もある……)

 憂鬱な先しか思い浮かばない。

 銀兎は許されたようだが、そもそもの立場が全く違う。

 新参の皇帝妃候補と、その血族とは言え他国の兵士。


 この先どうなるのかを考える事も憂鬱過ぎて、青蓮は言葉もなく静かに目を閉じた。

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