第4話 躾けの悪い犬。
渾沌の住む宮へ移る事を全力で断ってしまった青蓮は、その後も何かと理由をつけて渾沌自身を避けまくる事となってしまった。
「無理です! ダメです! はしたない!」
青蓮の居る仮住まいの宮では朝も早い時間から青蓮の声が響き渡っている。
渾沌はその粗野な外見とは相反して意外とまめで、何かと青蓮の元へ顔を出し、その度に自分の住む
その目的は一つ。
「俺の嫁は貞淑なのはいいんだが、発情したらどうするんだ? オメガの発情は張り型で自慰をするくらいでは済む話でもなかろう」
渾沌の無神経この上ない台詞に、青蓮の眉はつりあがる。
確かにオメガには月に一度の発情があり、その期間は妊娠の好機でもあるが、殆どの場合、過ぎた欲情に身を苛まれ、薬を飲んでじっと堪えて過ごす。
青蓮の居た華風国には発情の抑制に良く効く薬があるので、そこまで苦しむものではないが、それでも昏々と3日は眠りに落ちて過ごす。
「ご、ご心配には及びませんっ! そんなものなど使わずに、薬湯を飲んで寝ていれば終わります!!」
「薬湯だと?」
渾沌はずいっと身を乗り出すと、青蓮の腕をつかみ引き寄せた。
痛がる青蓮をものともせず、青蓮の首筋に顔を寄せるとスンスンと匂いを嗅いだ。
「……よくないものの匂いがする」
「…………」
青蓮が飲んでいた薬湯の茶碗を銀兎が慌てて取り上げて匂いを嗅ぐ。
獣人たちは人間より遥かに鼻がいい。知識があれば茶の中に含まれるそれが何か嗅ぎ分ける事も可能だ。
「……青蓮様、こちらの薬湯のご使用はお控えいただきます」
「そんなっ! 俺たちの国ではそれは当たり前に飲んでるもので、別にすぐ死ぬわけじゃないし、必要な薬なんですっ!」
「オメガが短命といわれるのは、こう言う無茶をなさるからでございますよ」
そんなものはその薬を飲んでいる青蓮は百も承知だった。
どの薬草が毒になるのかは青蓮にはわからないが、3日間どんなに体がどんな状態にあっても意識が決して戻らず眠り続ける薬が健康に良いわけが無い。
「だからって、発情期が来たらすぐに番えるわけじゃないですし……」
「何を言っている。お前には俺が居るではないか。俺がお前を孕ませれば何も問題は……」
バシッと乾いた音が響く。
「馬鹿にしないで下さい」
頬を張られた渾沌はきょとんとして青蓮を見ている。
叩いた青蓮のほうが痛みを堪えるような顔をしている。
悔しくて、唇をかみ締めて、涙がこぼれそうになるのをじっと堪えた。
子供を生む事は重要だ。特に獣人たちは獣人同士で結婚しても出生率は低い。
しかし、相手がオメガ性となれば話は別だ。獣人のアルファとオメガの人間の相性は非常に良く、出生率も桁外れに高い。
だが、それも薬と同じだ。
過ぎた発情と獣人の桁外れの体力によって連続して妊娠させられ続けるという現状がある。
「青蓮様……」
青蓮の様子を見て顔色を変えたのは銀兎だけだった。
彼は薬同様、どうしてオメガが獣人の子をよく産むかわかっているのだろう。
「失礼します。部屋に戻ります」
青蓮はそれだけ言うと踵を返した。
(次期皇帝に手を上げるなんてとんでもないことだが、それで罰せられるなら胸を張って死んでやる)
そのまま、振り返ることなく青蓮は部屋を出て行った。
◆ ◇ ◆
「今のは、渾沌様が良くありません」
銀兎は呆然としている渾沌に声をかけた。
「何故だ? 俺と番えば青蓮はオメガの発情の苦しみから解放されるのだぞ?」
「そうではございますが、言い方がよろしくありません」
そうは言ったものの、この渾沌に人というか弱く繊細な生き物の心情を理解させようとするのは難しい。
青蓮にもやんわりと伝えたが、この渾沌と言う男は何しろ獣人の揃う白夜皇国に置いても何もかもが規格外なのだ。
乳母兄弟として、お目付け役として、長く側にいる銀兎しか知らない事も沢山ある。もし、渾沌の真の姿が知れ渡ったら、皇帝に仰ぐなんて事はせずに討伐すべきだという声が上がりかねない。そのくらい、この渾沌と言う男は強すぎた。
その渾沌のためにオメガの嫁は必須だった。
華風国で上げられた候補の中で唯一のオメガが青蓮で、僻地の街から上がってきた候補者がオメガだと聞かされた瞬間、他の候補者は全て外され、銀兎は何としてでも青蓮を得よと指示を出した。
皇帝妃として相応しい候補者は何人かいた。最初に都で紹介された者たちは、皆、貴族の娘で教養も作法も申し分なく、その上、獣人に対して偏見も無かったが、それだけでは条件は満たされない。むしろ、オメガである事だけが唯一の条件だったのだが、人間社会でも微妙な立場にあるオメガ性の者を差し出せと言えるほどは、白夜皇国と他国との関係は友好的ではなかった。人間たちの認識からしたら、過去に獣人を奴隷としたように、オメガ性の奴隷を寄越せといわれるに等しいことだからだ。故に条件は若く健康な女子かオメガ性の者とした。
そしてやっと得たオメガの花嫁候補だったが、そんな繊細な機微など読めもしない渾沌がやたらとグイグイ押してくる。
青蓮がそれにドン引きしているのがよくわかっていたので、銀兎もできる限り堤防となって間に入っていたのだが、何がそんなに気に入ったのか渾沌は今までに無いほどの執着を見せていた。
(大体、花嫁など来ても食い殺すとまで言っていた渾沌様が、花嫁の身を案じて迎えに来る事からしておかしい……)
渾沌は皇帝になる事にも興味が無く、ましてもや自分の枷となるべき存在の番を相当疎ましく思っていた。連れてくる花嫁候補たちを片っ端から脅して追い出し、国内には宮城に娘を勤めさせる事も厭われるようになってしまった。
下手をしたら娘たちを片っ端から食い殺しかねない程の勢いだった渾沌が、どうしてあのオメガの青年には執着を見せるのか。
(オメガだから……なのでしょうかね)
渾沌にとってオメガの番は「規格外」を「規格内」にする枷だ。
オメガと番うことによって、渾沌は荒れ狂うように無尽に沸き出でる力を振り回すだけの「
白夜皇国の初代皇帝の
その時にその荒ぶる力を宥め収めたのが、オメガ性の皇帝妃だったのだという。
ただ、それは決して美しい話ではなかった。
オメガの皇帝妃は、元は夜楼国の兵士だった。捕虜として捕らわれた兵士は最後の力を振り絞って脱走し皇帝暗殺を仕掛けた。 兵士もかなりの技量のものだったが、窮奇の異常な力には敵わず、その場で強引に陵辱された。
その事によって窮奇の異常な力が収まる事を知った周囲の者たちは、兵士を皇帝妃とし、その後は死ぬ事も許さずただひたすらに窮奇の枷として生かし続けた。
窮奇の次の皇帝は平和になり始めた白夜皇国に相応しい、良い意味で凡庸な男で、程ほどに優れた体躯と能力を持ち国を治めた。
アレほどまでに特殊な皇帝は窮奇のみなのではないかと思っているところに、渾沌が生まれ、そして時同じくして周辺国に不穏な空気が流れ始めた。
本来ならば渾沌のような過ぎたる者が皇帝になるのは好ましくは無い。窮奇の妃とされた兵士の事をこの国の歴史を知るもので悔やんでいないものはいないだろう。
獣人たちは自分たちの重い奴隷としての歴史があるが故に、生贄を要するような事は良しとしなかった。
しかし、再び国を取り巻く情勢は悪化しており、特に緑楼国との関係はいつ戦になってもおかしくは無いところまで来ていた。彼らは滅ぼされた自分たちの国を取り返すべく長い年月をかけて力を蓄えている。
それに対抗できるのは初代皇帝のような「規格外」の皇帝が必要なのは明白だった。
銀兎はその必要性がわかるからこそ、青蓮を初代皇帝妃のようにしてしまうつもりは無かった。
初代皇帝妃の最大の悲劇は互いに憎みあうもの同士だったことだ。
アルファとオメガの間には時々本人たちの意思など完全に無視した、何か超越した力によって結び付けられてしまうものがあるのだという。
自分を殺そうとした敵国の兵士と慈しみ合う等と言う事は出来ず、兵士も窮奇を愛するなどという事は出来なかった。ただ強制的な何かによって離れる事が出来なくなってしまったのだ。
(運命の番……)
どんなに憎しみあっていても、その理から外れる事は敵わず。
最後の最後まで呪詛の言葉を吐きながら初代皇帝に侍り続けた皇帝妃の記録は銀兎の脳裏から消える事は無い。
そんな事にならないように、渾沌を諌める事ができるのは銀兎だけだ。
「渾沌様にはもう少し人の心というものをお学び頂かないとなりません」
もし、青蓮が大事なのであれば。何か少しでも感じるものがあるのならば。
それは賭けにも近かったが、銀兎にはそれに賭けるしかなかった。
◆ ◇ ◆
「…………」
青蓮は自室に戻り、寝台に突っ伏したまま身じろぎもしない。
着せられた絹の上着がしわになろうが、付けられた飾りで寝台の敷布が破れようが知った事か。
悔しくて悔しくて悔しくて、どうしてこんなにも悔しいのかわからないくらい悔しくて頭がどうにかなりそうだった。
何度も言うが覚悟はしていた。無茶な触れ書きで集められた花嫁が真っ当な扱いをしてもらえるなんて思っていない。オメガである事を喜ばれたのは、この国の獣人たちにとって都合が良いからだ。
決して、青蓮が一人の人として迎えられた訳じゃない。
それは本当に覚悟してきた事だったのに。
なんでこんなにも悔しくて、気持ちが揺さぶられるのか。
しかも相手はあの渾沌だ。
姿を思い出すだけで、背筋をぞくりと冷たいものが走る。
馬車の中から見たあの巨大な影。赤くて黒い、覗き込む四つの目玉、にやりと嗤った邪悪な何か。
その後に獣姿に変化していた時は大きな黒い犬のようだったが、渾沌の真の姿はあんなものじゃない。
(あの禍々しい赤くて黒い獣こそが渾沌なんだ……)
そんな恐ろしいバケモノに嫁がされたのも諦めの気持ちが少し出てきていた。
いつか生贄にされるのだとしたら、痛くなくやってくれるといいなぁと思う程度だった。
末っ子である事に甘え、兄弟たちに面倒を見てもらっていた青蓮は、あまり自我が強い方ではない。ある事に流され、なるようになるとしか思わず、姉の言うままにこんなところに嫁いできてしまうくらい押しが弱い。
(だからって嫌な事がないわけじゃない)
渾沌の「孕ませれば発情は止まる」と言う言葉はオメガであれば誰もが言われるような言葉だ。
いい言葉ではない。侮蔑であり差別の象徴みたいな言葉だ。
青蓮だって何度も言われた。
人間扱いされてないなと思ってもへらへらと笑って流した。
オメガだから仕方が無い。体格の良いアルファやベータの男たちに敵うわけがないから仕方が無い。
心の奥底でこっそり傷ついたけれども、それでもそれを表には出さず事なかれ主義で生きてきた。
それが処世だと思っていた。
(なのに……)
渾沌の言葉が鋭い棘のように胸に刺さって抜けない。
時間が立てばたつほどじわじわと侵食してくるように胸が痛む。
青蓮は傷ついたのだ。思わず手を上げてそれ以上の言葉を遮ってしまいたくなるくらい辛かったのだ。
『俺が孕ませれば発情は止まる』
その通りだろう。アルファのしかも獣人の渾沌と情を交わせば孕む事も難しくない。
「発情を止めるためかよ……」
面倒な発情を止めるため。大した事ではない。そう言う言葉の響きが辛かった。
少し卑屈に考えているかもしれないが、そう言うものをすべて置いても辛いものは辛い。
どうしてこんなに辛いのか。
この先は考えたくない。どうしてこんなに辛いのか、その原因が、青蓮の中にあるものに気がついてしまったら、もっと辛い事になる。
「……ん?」
窓の外で何か音がした。
ごとごとと何かが動く音。
顔を上げて窓の方を見ると、カーテンの向こうに何かが動いている。
黒く大きな影。
「ひっ……」
咄嗟に脳裏に蘇る獣の姿に身体を強張らせる。
さっき手を上げた事を怒って仕返しに来たのか。
寝台の上で身動きも出来ずに、カーテンの向こうに揺れる影をじっと見ている。
中の様子を探るような様子を見せながら、しかし影は部屋の中に入ってくる事は無く、すうっと溶ける様に消えた。
青蓮の部屋は2階で、窓の向こうにはバルコニーがある。そこに直接上ってくる事は出来ない。階下には兵士たちが警備に勤めている。それに見咎められずにバルコニーに上がれるのは……。
(……渾沌)
恐る恐る立ち上がると寝台を降りて、ゆっくりと窓の方へ近寄る。
幾重かに重ねられた薄い紗のカーテンをゆっくりと捲くると、部屋の中に月の光が射した。
「満月なんだ……」
硝子のはめられた扉を押し開けて外に出ようとして、何かに扉が引っかかる。
「……杏?」
足元には熟して食べごろの杏が盛られた籠が置かれていた。
籠を抱えあげると、甘酸っぱい果実の香りがする。
「……餌付けか」
多分、渾沌が持ってきたのだろう杏は、よほどの間違いが無ければこの部屋にいる青蓮への贈り物だろう。
それが意味するものを悪く曲解するほど、青蓮は擦れてはいない。
口では少し悪く言ったものの、ずっしりとしたその籠の重みが青蓮には嬉しかった。
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