第23話 甘露
「ハル、何作ってるんだ?」
「ガトーショコラ。明日、バレンタインだから」
「クラスで配るのか?」
「うん。小百合ちゃんと知佳ちゃんと三人で交換することになってるの」
「へぇー」
「こっちのクッキーは、出来てるから食べてもいいよ?」
「ありがとう」
大会を三日後に控えた二月十三日。
神山家のキッチンからは、お菓子の甘い香りが漂っている。
「いい香りねー」
「冷めた方が美味しいから、ガトーショコラは明日食べようね?」
「楽しみね」
彼女の手作りお菓子が、神山家ではバレンタインデーに毎年振るまわれていた。その為、母も彼女が作るお菓子を楽しみにしている一人だった。
「できた!」
彼女は昨日作ったお菓子を綺麗にラッピングすると、いつものように弓道場へと向かった。
新しい矢も二人の手に馴染んできているのだろう。的の中心付近に中るようになっていた。
遥は満と共に矢取りを行うと、彼に言付けていた。
「みっちゃん、これ…蓮に渡してほしい……」
「自分で渡さなくていいのか?」
「うん……。大会前だから」
「了解。渡しとくな」
「ありがとう。みっちゃんも帰ってから食べてね」
「あぁー、楽しみにしてるよ」
快く受け入れた満に、彼女は笑顔で応えているのだった。
学校内ではバレンタインデーの為、昼休みになるとチョコレートを貰っている男子がいるようだ。今も翔が廊下に呼び出されていた。
「白河はモテるねー」
「呼び出しなんて、本当にあるんだね」
「そうだね」
遥は小百合と知佳といつものように机を並べ、お昼を食べていると、翔が何も受け取らずに教室へ戻って来ていた。
「白河、受け取らなかったのか?」
「あぁー、見てたのか?」
「結構、可愛い子だったのに」
「別にいいんだよ」
翔は教室で弁当を食べ始めた。彼の周りにも男子が数名集まってる。
「遥、小百合、はい!」
「わーい! 知佳ちゃん、ありがとう」
「美味しそうー」
女子三人は手作りのお菓子を交換し、食後のデザートのようだ。机には、チョコマフィンにチョコチップクッキー、ガトーショコラが並んでいる。バレンタインデーの友チョコの為、チョコレートづくしだ。
「食後の甘いものは別腹だよね」
「小百合の言う通りだねー」
「うん、美味しい」
遥たちが幸せそうに食べていると、近くに座っていた山田が話に入ってきた。
「美味そう……」
「山田、チョコ貰えなかったの?」
「サユ、うるさい。だいたい、何でサユがチョコ貰ってたんだよ?」
「人望?」
「……聞くんじゃなかった」
周囲からも笑いが起こっている。
「じゃあ、これ食べる?」
「遥、甘やかさなくていいよ?」
「山田はすぐ調子にのるから」
「おまえらなー」
「じゃあ、いっか」
「ハルまで!」
「冗談だよ。ね?」
「うん、取っていいよ?」
「はい、召し上がれ」
山田は小百合から手渡されたクッキーを食べると、チョコレートの甘い香りが口の中に広がっていた。
「うま! サユ、作れたんだな」
「失礼な!」
「冗談だって、美味かった。ありがとう」
「いいえー」
バスケ部同士、仲が良いようだ。小百合たちの様子に遥も笑みを浮かべていると、彼女の携帯電話のバイブ音が鳴っていた。
「ちょっと、電話出てくるね!」
「うん」
「白河と
「いいのか?」
「うん、いいよー」
竹山は遥の座っていた椅子に腰掛け、翔もクッキーを手に取ると、彼女達の輪に入っていくのだった。
「蓮!」
「満、どうしたんだ? 二年の教室に来るの珍しくない?」
「あぁー、これ」
「えっ? これって……」
彼から手渡された紙袋には、彼女手製のガトーショコラとクッキーが可愛くラッピングされていた。
「後で連絡してやって?」
「あぁー、ありがとう……。ってか満、すごい量だな」
「二年の教室に来たら、差し入れくれる子がいたからな」
満はチョコレートが入っているであろう袋を、いくつも受け取っていた。今も周囲の女子の視線を彼が集めているように、蓮は感じていたのだ。
「義理だけじゃなさそうだけど……」
「そうか? 差し入れって言ってたぞ?」
「ーーそれは……」
彼がチョコレートの類しか受け取らないからだろう。義理チョコに紛れた本命チョコには気づかないようだ。
「じゃあ、またな」
「あ、あぁー」
彼が席に戻ると、クラスメイトに声をかけられていた。
「神山先輩から?」
「佐野、そんな訳ないだろ?」
「分かってるって、遥ちゃんからだろ? 本当に仲良いんだな」
「んー」
「蓮、女子からのチョコ断ってたじゃん」
「あぁー、そうだな」
彼は電話をかけている為、佐野の話は半分くらいしか聞いていないようだ。
「もしもし?」
『遥、お疲れ』
彼女が電話に出ると、蓮の甘い声が耳元で響く。
「お疲れさま」
『ありがとう……。満から受け取った』
「うん…いつもありがとう……」
『美味しそう。部活の前に食べるな』
「うん、応援してるね」
『あぁー』
教室の片隅で話す彼女は、柔らかな笑みを浮かべている。彼からの電話が嬉しかったのだ。
「電話…ありがとう……」
『うん、また土曜日な』
「うん、またね」
彼女が嬉しそうにしながら小百合たちの元に戻ると、翔がガトーショコラを食べ終わった所だ。
「遥、電話終わったの?」
「うん、ただいまー」
「ほら、竹山立つ!」
「はーい。ハル、美味しかった」
「遥、ありがとう」
「いいえー」
クラスメイトの中でも特に仲が良いのだろう。六人はバレンタインデーと言うよりも、甘いもの好きで集まっているようだった。
電話を終えた蓮は、クラスメイトが普段見ないような顔をしていた。
「……彼女と電話かな?」
「他校にいるって噂、本当だったって事?」
「松風くん、チョコ断ってるみたいだし」
「ショック……」
噂話の小さな声は、彼の耳には届いていないようだ。
「蓮、嬉しそうだな」
「それは…何でもない……」
「言いかけて止めるなよ?!」
「それは……今日貰えると思ってなかったから、嬉しかったんだよ」
「はい。ご馳走さま」
「佐野が聞いてきたんだろ?」
「蓮がそういう顔するの新鮮だな」
「もういいって、佐野だって貰ってただろ?」
「そうだけどー」
蓮の珍しい姿に彼は色々聞いてみたいようだが、チャイムが鳴った為、話はここまでとなるのだった。
放課後になると、帰り際にチョコレートを渡す女子もいるようだが、遥には関係ないのだろう。道場へ一番乗りしていた。
袴姿になった彼女は、柔軟体操を念入りに行なっている。
土曜日は大会本番……。
この一ヶ月半近く団体に向けて練習してきた。
今できるすべてを…出しきるつもりで挑まないと……。
彼女は気持ちを整え、的を設置しているとチームメイトが続々と道場へ入ってくるのだった。
「一吹さん、藤澤先生、これは女子部員一同からです!」
「チョコレート? 今日、バレンタインか。ありがとう」
「ありがとうございます。嬉しいですねー」
快く受け取った二人の姿に、彼女たちも嬉しそうにしている。
「えーっ、俺たちには?」
「陵は美樹から貰うからいらないでしょ?」
「確かにな」
「和馬までー」
チームメイトは陵の反応に笑い合っている。ムードメーカーは健在のようだ。
「俺ら先に帰るな」
「うん、またね」
「気をつけてなー」
陵は美樹の手を取ると、足早に帰っていくのだった。
「放課後に彼にチョコ渡すって理想的」
「そうだね」
「マユは渡さなかったの?」
「うん、友チョコはしたけど。奈美は?」
「私は特にしなかったなー。遥も友チョコするって言ってたっけ?」
「うん。クラスの子と交換して、お昼に食べたよ」
「私もやればよかったなー。みんなは貰ったりしなかったの?」
「ないよ。そんなの陵とか翔くらいだろ?」
「和馬、俺も貰ってないから」
「翔の場合、貰わないんじゃなくて受け取らないだけだろ?」
「そんな事……。でも、遥たちの友チョコわけて貰ったぞ?」
「えーっ、いいなぁー」
「なんで、奈美が残念がるんだよ?」
「遥のお菓子美味しいんだよー」
「そうそう、大会の時貰ったら美味しかったし」
「クッキーならあるよ? 食べる?」
「食べるー!」
奈美とマユの方が男子たちよりも勢いよく応えている。彼女がラッピングした袋を広げると、半分チョコレートがかかった上に、ローストしたアーモンドが乗っているハート型のクッキーが入っていた。彼らが口に入れると、サクッとした食感に甘い香りが広がっていく。
「美味しい!」
「遥、ありがとう」
「いいえー」
「また明日ねー」
「うん!」
校門で皆と別れると、駅までの道のりを翔と二人で歩いていた。
「翔も食べる?」
「昼も貰ったのに、いいのか?」
「うん、食べながら駅まで行こう?」
部活終わりでお腹が空いていたのだろう。遥もクッキーを食べていた。自分のおやつ用に持参していたのだ。
「美味いな……。昼間と違うんだな?」
「昼間のクッキーは、小百合ちゃんのお手製だからね。美味しかったでしょ?」
「……あぁー、そうだったんだ」
「うん。美樹と陵は今頃、デートかな?」
「そうかもな」
いつも一緒に帰っている二人の話題から、弓道の話になっていく。彼らは大会が楽しみではあるが、緊張感も同時に抱えていたのだ。
「トーナメントまで残りたいよな」
「うん……。今の一番の目標だね」
「あぁー」
目標と言った彼女の心持ちは、すでに大会へ向けて調整がされているように、翔の目には映っているのだった。
遥がいつも通り弓道場へ着くと、満が弓を引いていた。
「みっちゃん、渡してくれてありがとう」
「蓮、喜んでただろ?」
「うん……」
「十二射引いたら、帰るか?」
「うん!」
彼女が着替える間に、満が矢取りを行うと、二人は的の前に立ち、足踏みから始めていく。
辺りには心地よい音が、次々と響いている。
ーー緊張しない時なんてない……。
今も…そう……。
十二射とも的に中ると二人は道場を片付け、袴姿のまま家へ帰っていく。
「遥!」
彼女が顔を上げると、彼がこちらに向かって手を振っていた。
「ハル、先に帰ってるからな」
「う、うん……」
満が先に家に帰ると、いつも待ち合わせをしていた場所で、彼に抱きしめられていた。
「遥、美味しかった……」
「蓮……お疲れさま」
「あぁー」
日は暮れているが外の為、彼は抱き合うだけに留めている。
「ありがとう……」
「蓮……ありがとう」
ーー蓮……。
二週間ぶりに会えた……。
「遥……」
蓮はそっと彼女の頬に触れていた。彼女の冷たい頬が赤く染まっていく。柔らかな唇が触れ合うと、彼女は上目遣いで彼を見上げていた。
「遥?」
「……蓮…外だよ?」
「誰もいないって……」
「そうだけど……」
抱き合うだけでは足りなかったようだ。彼の言ったとおり人通りはないが、彼女は恥ずかしそうにしている。初々しい彼女の反応に、彼は優しく微笑んでいた。
「送ってく」
「う、うん……」
蓮が彼女の手を握ると、彼の頬もまた赤く染まっているのだった。
神山家では食後のデザートにガトーショコラを食べていた。
「遥、また上手くなったんじゃない?」
「本当?」
「うん、美味しい」
「ハルちゃん、美味しいよ」
「お母さん、おばあちゃん、ありがとう」
「ハル、美味しい」
「よかった……」
家族の反応に安心する遥がいた。
弓道の合間の、ちょっとした息抜きになったのだろう。
……蓮。
急いで帰って来てくれたんだよね……。
甘いチョコレートの香りに、彼女は先程まで一緒にいた彼の事を想い浮かべているのだった。
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