107. 一狩


 寒空の下、ウサギが一羽――


 草原の只中で、耳をピクピクさせながら草をはんでいる。


 周囲を警戒しているつもりなのだろう。だがそのウサギは、自らがどれほど危機的状況にあるかを、まるで理解していなかった。



 ウサギから、三十歩ほどの距離。



 サスケにまたがるケイの姿があった。



 ウサギも、ケイの存在は認知していた。「だけどこれくらいの距離があれば大丈夫だろう、人間は鈍いし」とでも思っているようだった。その手の"竜鱗通し"が何なのかを、ウサギは理解できない。そこにつがえられた矢の意味も。


 ケイがウサギを捕捉してから、かれこれ数分が経っていた。もしもケイがその気であれば、ウサギは既に四、五百回は死んでいただろう。比喩表現や誇張ではなく統計的な事実として。


 だが、ウサギは今も生きながらえている。


 なぜか? それはケイがちらちらと空を見上げていたからだ。


 何かの様子を――タイミングを計るように――



 フッ、とウサギに影がさした。



 音もなく、まるで流星のように、猛禽が舞い降りてきたのだ。


 それはワシだった。翼は広げれば優に二メートルを超えるであろう大物。胴体は茶と灰色のまだら模様で、頭の部分だけが初雪のように白い。頭部には冠状の羽毛を生やしており、まさに空の王者といった風格を漂わせていた。


 ぎらりと、大振りな爪を光らせて――呑気に草をはんでいたウサギを狙う。果たして獲物は、弾かれたように逃げ出した。『脱兎のごとく』と言葉になるだけあって、それはもう見事な逃げっぷりを披露する。


 だが、その全力の疾走も、天空から襲い来る捕食者の羽ばたきには、わずかに及ばない――鋭い爪がウサギの背を抉る――



 と、思われた瞬間。



 カァン! と唐竹を割るような快音。



 鷲の爪は届かなかった。ドチュンッと水気のある音を立てて、必殺の一矢がその身を貫いたからだ。空の王者は一転、獲物と化し、それでいて地に堕ちるより先に空中で散った。


 あわやというところで、九死に一生を得たウサギ。


 ――が、鷲を貫いた程度で"竜鱗通し"の矢が止まるはずもなく。


 そのまま直線上にいたウサギにも襲いかかった。


「――キュィッ!」


 断末魔の叫びじみた悲鳴とともに、矢を受けたウサギがひっくり返る。


「よしっ」


 当然のように、一石二鳥ならぬ一矢二羽をキメたケイは、ご満悦でサスケから飛び降りた。心なしか弾む足取りで、成果をチェック。


 鷲は首の付け根あたりを貫かれ、即死だった。それでいて肉体の損傷は最小限に抑えられており、さぞかし立派な剥製になるだろう。


 そして、ウサギも虫の息。サクッととどめを刺して血抜きを始める。


「うーむ、もういなさそうだな」


 空を見上げて、「こんなもんか」と頷くケイ。近寄ってきたサスケの鞍に、立派な鷲をくくりつける。


「一日の稼ぎとしては充分だろ。今日はこれくらいにしておくか」


 続いてウサギもくくりつけ、サスケの手綱を引いて歩き出す。



 ――くるりと向きを変えたサスケの反対側の鞍には、びっしりと、鷹や鷲といった猛禽類が吊り下げられていた。



「……あ、もうちょっとお土産も狩っとくか」


 思い出したように、今しがたウサギの仕留めたばかりの、血塗られた矢をつがえて草原に視線を走らせるケイ。


「――いた」


 引き絞って、リリース。


 カヒュンッと軽やかな音とともに矢が飛んでいく。


 そしてまたその先から、「キュイッ!」と短い断末魔の叫び。


「~~♪」


 口笛を吹きながら回収に向かうケイ。どことなく呆れたような顔を見せるサスケ、鞍で揺れる無数の獲物たち。『この世界』に来てから、おそらく最大効率で、ケイはその才能を遺憾なく発揮していた。


 革のマントをはためかせる寒風だけが、戦々恐々としているようでもあった――




          †††




 時を遡ることしばし。


 コウと別れたケイは、一旦、義勇隊の皆に事の顛末を伝えることにした。


「おお、ケイ。……生きて帰ったか」


 明るい顔で戻ってきたケイに、マンデルはホッとした様子を見せる。


「ああ。どうにか無礼討ちされずに済んだよ」

「それは何より。……それで、いったい何の用事だったんだ?」

「それがだな――」


 かいつまんで説明する。参上したらまさかの宰相閣下だったこと。伝書鴉の通信の保全のため狩りを依頼されたこと。そして近衛狩人なるものに任命されたことなど。


「ほっほう、近衛狩人ですか!」


 横で話を聞いていた、ぽっちゃり系の田舎名士の次男坊・クリステンが感嘆の声を上げた。


「知ってるのか?」

「ええ、書物で読んだことがあります! 出自に関わらず大変優れた狩人のみが任命される、大変名誉な役職だとか……!」

「ほほー」


 大物狩りとして既に名誉をほしいままにしているケイは、現時点でさらなる名誉は求めていなかったが、それでも尊敬の眼差しで見られるのは気分が良かった。


 近衛狩人という、なんか強そうな字面も気に入っている。それでいて大仰な名前の割に、大した責任が付随していない点もポイントが高い。


「そういうわけで、俺は義勇隊を離れることになった」


 ケイが告げると、マンデルも含めて皆がシュンと悲しげな顔をする。


「そうか。……それは残念だ」

「寂しくなるな……晩飯が」

「彩りが……」


 現金な奴らだ、と思わず苦笑する。


「安心してくれ。何か食えそうなモノを仕留められたら、お裾分けに来るからさ」


 ケイの言葉に、パッと表情を明るくする面々。


「よっ、旦那! 太っ腹!」

「さっすが公国一の狩人!」

「近衛狩人、ばんざーい!」


 やんややんや。やっぱり現金な奴らだ、とケイも笑みが溢れた。


「それに、どうせ――」


 夜になったら戻ってくるし――と言いかけて、言葉を飲み込んだ。もしかしたら、コーンウェル商会の馬車で厄介になるかもしれないと思ったからだ。


 昨晩、野宿をしてみて気づいたが、アイリーンと影の魔道具で通信しづらい。一般部隊の野宿には、明かりがほとんどないからだ。反対に馬車の近くでは獣避けや防犯のため何かしら火が焚いてあるので、影の魔術を使いやすい。


 さらに、臨時収入でキャンプ用品を増強しても、コーンウェル商会なら馬車に載せてもらえそうなのはデカかった。


 そういうわけで、たぶん、夜はコーンウェル商会の馬車に身を寄せることになる。皆には悪いが……。


「ともあれ、そういうわけさ。隊長殿フェルテンにも伝えておいてもらえるか? 問題がありそうなら、俺が書類を見せて直接対応するからさ」


 わかったー、頑張れよー、などと皆の声援を背に。


 ケイは意気揚々と"任務"に取り掛かるのであった――




          †††




 ――夕方、参謀本部に猛禽類を提出しに行ったら、担当者が目を丸くしていた。


「……こんなに!? 今日一日で仕留めたのか? 嘘だろ……」


 木箱に板を敷いただけの簡易机の上に、どっさりと山積みの猛禽類。周囲の軍人がぞろぞろと集まってくる。


「これは見事な鷲だな……」

「見ろよこの尾羽根、いい矢になるぞ」

「あ~~~これ生きてればなぁ、飼いたかった……!」


 感心する者、はしゃぐ者、恨めしげに見てくる者――反応は様々だった。非難がましい視線には肩身が狭い思いをしつつ、報酬の銀貨を受け取る。


 革袋にぎっしり、ずっしり。これは飛竜狩りの"行き"だけで金貨数枚は稼げるな、とケイは確信した。


 少なくとも、狩り尽くさない限りは。逆に帰り道にはあまり期待できないかもしれない。街道沿いの森にはまだ生き残りがいるだろうが、それにしても大幅に数を減らしてしまうだろうから。


「貴様……弓の腕前は大したものだが、全滅させたらタダじゃおかんからな……!」


 鷹好きと思しき軍人が、若干血走った目でケイの肩を掴み、唸るようにして言う。「宰相閣下のご命令なので」と抗弁しても、理屈が通じそうにない目つきだった。


「いや、これでも若い個体や雌は避けたんだ」


 闇雲に狩ったわけじゃない、と主張するケイに、鷹好き軍人が固まる。


「なん……だと……」


 振り返ってよくよく見れば、鷹好きゆえに気づいてしまった。机の上に並ぶのは、ほとんどが雄であるという事実に……


「再来年には数は回復するから……たぶん」

「さら……ええ……?」


 鷹好きが呆然とした隙に、本部を脱出。


 ケイは晴れて自由の身となった。


 銀貨の袋は、ぴっちりと革紐で口が縛ってあり、ポケットにそのまま放り込んでもチャラチャラと音を立てない。


 あからさまに大金を持ち歩くと、懐が寂しい兵士が気の迷いに駆られかねないので非常に助かる。このあたりも、きちんと考えられているんだろう。


「さて……ちょっと行商人たちでも覗いてみるかな」


 義勇隊の皆のためにウサギは確保済みだが、せっかく臨時収入もあることだし、何かお裾分けがあってもいいだろう。


 ついでに、コーンウェル商会の馬車に、近くでキャンプを張っていいか打診もしておこうか。ケイなら二つ返事で了承をもらえるはずだ。晩飯は義勇隊の皆と摂ってもいいし、商会にも肉を持っていって、ご相伴に預かってもいい……


「~~♪」


 サスケの手綱を引きながら、ケイは自然と、鼻歌交じりに歩いていた。地球で流行っていたポップミュージック――


(――そして日が沈んだら、)


 曇り空の合間から覗く、夕焼けを見上げてケイは微笑んだ。


(アイリーンに連絡を取ってみよう)


 おそらくこの世界で初になるだろう、遠距離リアルタイム通信での恋人たちのひとときだ。


「~~~♪」


 自然と足取りも軽やかになる。


 その浮かれっぷりたるや、きつく口を縛ってあるはずの銀貨の袋さえ、チャリッと涼やかな音を立てるほどだった。

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