101. 出陣
とうとう出発の朝が来た。
公国の地にも、厳しい冬が訪れつつある。
戸口に立ち、朝日を睨むケイの吐息は白い――
「ケイ……」
振り返れば、ケープを羽織ったアイリーン。
青い瞳が、ケイを見つめて揺れていた。そっと目を伏せる。伸ばした手が、ケイの袖を掴む。
強く――関節が白く染まるほど指先に込められた力が、何よりも雄弁にアイリーンの心情を物語っていた。
「……アイリーン」
ケイはただ、その手に、自らの手を重ねることしかできなかった。冷え切った指先に、せめて別れのときまで、わずかなぬくもりを与えることしか――
"飛竜"狩りに馳せ参じよ、との王命からはや一ヶ月。
サティナ郊外には、ウルヴァーンとキテネの兵団が集結しつつある。本日、そこにサティナの戦力も合流し、飛竜狩りの舞台たる辺境――鉱山都市ガロンを目指して東進する予定だ。
兵団の総指揮官は、公子ディートリヒ=アウレリウス=ウルヴァーン=アクランド。今年で成人を迎え、16歳という若さで次期公王として即位する。そして今回の飛竜狩りは、他ならぬ彼の箔付けのためのものだった。
実績作り、軍事力の誇示、他都市への牽制、軍部のガス抜き、領土拡大および辺境開拓の一環――政治的な思惑はさておき、最大の問題は、ケイがそれに巻き込まれてしまうことだ。
『どうしても行かないと駄目か……?』
尊大な使者が去ってから、ケイが残された説明役の下級役人に力なく問うと、彼はギョッとして周囲をはばかるように見回した。
『……とんでもない、なんてことを言うんだ。大物狩りの英雄だか腕利きの魔術師だか知らないが、一市民が王の言葉に逆らえるわけないだろう』
お偉方に聞かれなくてよかった、と下級役人は額の汗を拭う。頼むから迂闊なことは口に出すなよ、と言わんばかりにジロッとケイを睨んだ役人は、こう続けた。
『公王陛下からの直々のご指名、子々孫々にまで語り継ぐ名誉と心得よ! それに、ケイチ=ノガワ殿。あなたは栄えある名誉市民となったときに、誓ったはずだ。公王陛下と都市ウルヴァーンへの忠誠を』
――詰まるところ、ケイもアイリーンも、現代人だったというわけだ。
十全に理解できていなかった。封建主義的な社会における、『忠誠を誓う』ことの重みを、真の意味を。
これまで名誉市民として、少なからず権利を享受してきた。それに付帯した
アイリーンは、荒れた。
『なんでケイがそんな目に遭わなきゃいけないんだ!!』
飛竜狩りに徴集された、と告げた直後は呆然としていたが、すぐに激怒した。何に対しての怒りか。公王か、その使いか、それとも状況そのものか……
『逃げよう、ケイ! むざむざ死にに行くようなもんだ。若造の箔付けのためなんかに、ケイが命を賭ける必要はない!』
アイリーンの主張は尤もだったが、ケイはゆるゆると首を振る。全てを放り出して逃げる――もちろん、検討した。
しかし、逃げるとしても、どこへ逃げる?
『アイリーン、俺たちは有名になりすぎた』
片や黒髪黒目の狩人にして、風の精霊と契約した魔術師。片や金髪碧眼の雪原の民で、影の精霊と契約した魔女。
地竜を相手取った伝説の狩りも、麻薬組織を壊滅させた大立ち回りも、吟遊詩人を介して公国全土に広がっている。こんな特徴的な二人組では、どこに逃げてもすぐに足がついてしまう。
かといって、国外に居場所があるかと問われると、難しい。アイリーンならば北の大地でも生きていけるが、馬賊のせいでケイは肩身が狭い。アジア系の顔つきは例外なく草原の民と解釈されるだろう。
"魔の森"近くのアレクセイの故郷の村なら、気心の知れたケイたちを快く受け入れてくれるだろうが、北の大地を横断する長旅になるし、第一、旅する間に冬が来る。
『家ごと凍りついて死ぬ』ほどの極寒の地を踏破する――あまりにも無謀。飛竜に挑む方がまだマシなくらいだ。
公国は駄目、北の大地も危険、となれば残された土地は何処だ……?
『それこそ、飛竜狩りが行われる東の辺境に隠れ住むか、港湾都市キテネから船で別の大陸を目指すくらいしかない……』
ゲーム【DEMONDAL】に設定のみ存在した『フォートラント』と呼ばれる大陸。現在の公国の民は、フォートラントを発った植民船団の末裔だ。今でもフォートラントとの交流は続いているが、外洋の巨大水棲生物のせいで沈む船はあとを絶たないという。
フォートラントへの船旅は、無事に海を渡れるかどうかの博打。かといって東の辺境は、
『それに……仮に逃げたところで、今みたいに豊かな暮らしは二度とできない』
現状の安定した生活は、得難いものだ。特にこの世界においては。
公国で有数の大都市に住まいを構え、国内でも指折りの規模の商会に支援されながら、気ままに魔道具を作成するだけで食って行ける。使用人のおかげで家事はしなくていいし、最低限のインフラも整っている。飢える心配もない。
何より、アイリーンのお腹の子に、これらの資産を遺してあげられる――
そう考えたとき、逃げるという選択肢は、ケイの中で消えた。
『俺には……できない。今さら全てを捨てることなんて』
仮に自分が野垂れ死んでも、アイリーンは食いっぱぐれないし、子供にだって遺すものがある。
ケイはそう考えたが――
『暮らしなんてどうだっていい!』
アイリーンは違った。
『そんなもん、命に比べたらはした金だ! どこに移り住んだって、生きてさえいればやり直せる! ケイが帰ってこないのが一番イヤだよ! 死んだら……死んだら、お終いなんだ、ケイ……!! 頼む、頼むから……』
アイリーンの悲痛な叫びは、徐々に勢いを失い、力なき懇願へと変わった。ケイの胸板に顔をうずめ、『行かないでくれ……!』と消え入るような声で。
『アイリーン……』
気持ちは痛いほどにわかる。
だが……それでも、ケイは……
†††
話し合いは平行線だったので、コーンウェル商会へ相談に行った。
『飛竜狩りについては聞いたよ……ついさっき、ね』
商談室のソファに腰掛けながら、ホランドは太った腹をポンと叩いた。行商を辞め、本部つき商会員になったホランドは、ケイたちの魔道具販売で辣腕を振るい、この頃は一流商人としての貫禄を醸し出すようになっていた。
が、今日ばかりは少しやつれて見える。
『我らが商会も、もちろん飛竜狩りを支援するけど、ケイくん個人用の物資についても役人と話はついたよ。
飛竜狩りに同道する場合、ケイの懸案事項の一つがサスケの
公国は東に行くにつれ草原から荒原へと変わっていき、さらに大人数の兵団がともに移動することを考えると、現地調達では絶対に足りない。秣をかなりの量、事前に用意しておかないとサスケは飢え死にしてしまう。
行軍速度が非常に遅いであろうことを鑑みれば、ケイが徒歩でついていく手もあったが、それではケイの強みである騎射が活かせなくなる。
件の下級役人にも『歩いてくりゃいいじゃん』という旨のことを言われたが――おそらくは調整を面倒くさがったのだ――飛竜を相手取るには機動力が欠かせないと、"
『あの役人が怠け者じゃなくて良かった』
『すこぶる働き者だったさ。話はすぐにまとまったよ。商会が追加で供出する分には、いくらでもどうぞ、とのことだった』
ホランドは肩をすくめる。要は、コーンウェル商会が独自に支援する分には、国の財布は痛まないので好きにしろ、ということだ。
役人も言っていたが、今回の狩りは成功報酬だ。最低限の食事などは軍が手配するものの、快適な旅路を望むならば諸々の経費は自腹となる。
目覚ましい活躍をした者には、帰還後にそれ相応の名誉と褒美を。
ただし労災は下りない――死んだらそれまでだ。
『ありがとう。苦労をかけることになる』
『なに。我が商会の腕利き魔術師を失うわけにはいかないからね』
ケイとホランドは、ぎこちなく微笑みあった。
『……なあ、旦那。どうしても行かないと駄目なのか?』
と、黙りこくっていたアイリーンが、縋るような目で尋ねる。
ホランドは困惑したように口をつぐむ。ケイは、アイリーンが自分と同じような言い方をしたのが可笑しくて、小さく笑った。半ば諦めたように。
『…………せめて、都市からの要請、くらいならばまだ、辞退する手もあったかもしれない。……だけど今回は、……王命だ。しかも名指しでの』
ホランドは苦しげに言葉を絞り出す。『とんでもない!』などと声を荒らげないあたり、これでも精一杯アイリーンの心情に寄り添った回答と言えるだろう。
『あまり、私の立場から無責任なことは言えないが』
沈痛の面持ちのアイリーンに、ホランドは慌てたように言葉を付け足した。
『先々代の陛下の飛竜狩りを思えば、ケイくんはそれほど心配しなくてもいいんじゃないかと思うんだ』
『ほう』
『……というと?』
ケイもアイリーンも、身を乗り出す。
『基本的に、ほとんど軍が矢面に立つんだよ。少なくとも先々代の狩りでは、告死鳥の魔術師と斥候が飛竜を一頭だけ釣って、魔術兵団と攻城兵器でタコ殴りにしたそうだ。従軍した兵士と、後方の支援部隊にはほとんど被害が出なかったらしい――』
対飛竜戦術はゲーム内のそれとは大差ないようだったが、ホランドの話を聞く限り、どうやら投じられるリソース量が桁違いだった。
具体的には、魔術師及び魔道具の数。
数百人単位で、魔術師たちが一斉に術を行使する。これはゲーム内では見られなかった光景だ。
ゲームでは、周年イベントの飛竜狩りはお祭り騒ぎのようなもので、数千人の廃人プレイヤーたちが一堂に会し飛竜に挑んだものの、その中で『魔術師』と呼べるプレイヤーはごくごく少数に過ぎなかった。
なぜかと言うと、飛竜を倒したあとは素材を巡るバトルロイヤルになだれ込むのが恒例だったため、ほとんど全員が『失っても怖くない』キャラ&装備を選択していたからだ。
その点、魔術師は触媒やら魔道具やら高価なアイテムを所持していることが多く、火事場
『百人単位の魔術師、か……』
個々の力量はゲームの廃人より劣るだろうが、その数は質を補って余りある。極めて強力に統率された兵団がどれほどの威力を発揮するか、冷静に考えれば、ケイたちもおぼろげに推察することはできた。
――案外、いけるか?
魔術師がどのような精霊と契約しているか、また使用される魔道具がどの系統のものかにも依るが、一般的な契約精霊である"妖精"の眠りの術も、百人単位で重ねがけした場合は飛竜の
『主役はあくまで兵団だから、ケイくんの出番は……正直、自分から前に出ない限りないんじゃないかなぁ。単騎で"森大蜥蜴"を二頭相手取るよりは、よほど安全だと私は思うけどね』
ホランドの遠慮ない物言いに、思わず苦笑する。
『そういう意味だと、ケイくんより、お友達の"流浪の魔術師"殿の方が危ない立場なんじゃないか。……彼はまず間違いなく、サティナの軍団に組み込まれるだろうから。最前線だよ』
そう言って、ホランドは物憂げに小さくため息をつく。
『あ~……』
ケイは、同郷の日系人の顔を思い浮かべた。サティナの領主のもとで厄介になっている彼は、なるほど、お誂え向きなことに氷の魔術師だ。飛竜狩りにも引っ張り出されるに違いない――困り顔が目に浮かぶようだった。
――結局、アイリーンは納得したとは言い難かったが、ケイたちは少しばかり気を取り直して商会を辞した。
『……なあに、心配いらないさ。アイリーン』
帰り道、ケイはあえて気楽な調子で言う。
『いざとなったら……俺たちには切り札がある』
トン、と胸元を叩いた。
服の下、首からチェーンで吊り下げているのは――飾り気のない指輪。
『本当にヤバくなったら、この"ランプの精"にお願いするよ』
一つだけ、何でも願いを叶えてくれるという、"魔の森"の大悪魔に。
『だから、大丈夫だ。
アイリーンの手を引きながら、ケイはニッと笑ってみせた。
『…………うん』
アイリーンも小さく笑ってうなずく。
それでも彼女の手は、可哀想なほどに震えて、冷たくなっていた――
†††
あの日の指先を思い出しながら、ケイはアイリーンの手を握りしめる。
あれから、またたく間に時間が過ぎ去っていった。それでいて、頼りないロウソクの火が、ジリジリと芯を焦がしていくかのように、気が気でない一ヶ月だった。
ほんの僅かでも、ぬくもりを与えられただろうか。残せて行けるだろうか。
それを確かめるより先に、冬の到来を告げる風が熱を奪っていく。
カァン、カァンと遠くで鐘が鳴る。
出陣のときが近いことを知らせる鐘の音が。
商会の使用人が、厩からサスケを連れてきた。「今日も寒いね」とばかりに鼻を寄せてくるサスケを撫で、鞍に荷物を載せる。矢筒。携帯食料。飲水の革袋。寝床にもなる毛皮、などなど……。
「……行かなきゃ、な」
無言のアイリーンとともに道を行く。
左手でサスケの手綱を引き、右手はアイリーンとつないだまま。指と指を絡めて、しっかりと握りしめる。恋人つなぎと呼ぶには、それはあまりに切ないものだった。
昨夜は、別れを惜しんで語り明かした。
それでもまだまだ語り足りなく感じる。
なのに、今は言葉が出てこない。
傍らのうつむきがちなアイリーンを見るに――彼女もどうやら、同じだった。
「飛竜狩りに馳せ参じるんだってな! 頑張れよ!」
「武勇伝、楽しみにしてるぞー!」
「無事に帰ってこいよ、英雄!」
道端で、顔見知りとなった町の住民たちが声をかけてくる。
ケイは少し硬い笑顔で、それに応えた。
「ケイさん……どうか、ご無事で」
「お兄ちゃん、気をつけて、ね!」
木工職人のモンタンと妻のキスカ、その娘リリーも、街の正門にケイを見送りに来ていた。
「ありがとう。……行ってくるよ」
モンタンと握手を交わし、リリーの頭を撫でてから、改めて向き直る。
アイリーン。
世界で一番、愛しい人。
言葉もなく、二人は抱きしめ合い、口づけを交わした。
思えば――この世界に来てからは、いつも一緒だった。
片時も離れずにいたい。その気持ちは今も変わらない。
互いが、互いのいない日々を想像できない。
それなのに、
ケイは行く。
「アイリーン」
その頬に手を添えて、名前を呼んだ。
「……行ってくるよ。必ず無事で戻る」
アイリーンは、愛しげにケイの手に頬ずりして、頷いた。
「……待ってる。絶対に待ってるから」
ケイの緊張をほぐすように、微笑みを浮かべて。
……これほど、離れがたく感じたことはない。
だが、ケイは手を離した。
ブルルッ、といななくサスケに、颯爽とまたがる。
これ以上の迷いを振り払うように。
横腹をポンと軽く蹴ると、忠実な俊馬は滑るように駆け出した。
サティナの城門を抜けると――視界が一気にひらける。
朝焼けを浴びて輝く草原が、風にそよいで波打っていた。
そこに、公国の赤い旗がはためく。
おびただしい数の軍勢が、展開している。
ドン、ドンと太鼓が打ち鳴らされ、高らかにラッパの音が響いた。
巨獣が目覚めるかのごとく、軍勢は緩やかに動き出す。
「ケ――――イ!!」
背後から、かすかな叫び声。
弾かれたように振り返れば、アイリーンが手を振っていた。
ケイの目は、二人の距離を物ともせず、しかと捉える。
青い瞳から溢れ出した涙が、風に散らされていく。
わななく唇から漏れる言葉は、もはや意味をなさない。
だが――これ以上ないほど、気持ちは伝わってきた。
せめて、己の心も届くように。
「必ず戻る」
ぐっと手を掲げてみせ、ケイは前へ向き直った。
公国の歴史に刻まれる、飛竜狩りが――
ここに、始まった。
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