89. 交渉


 その日、ベネットは平和に過ごしていた。


 本来は村長としてタアフ村を預かる身だが、この頃は長男のダニーが村長代理として業務を回してくれるようになり、半隠居状態にある。


「ジェシカや~~~」


 お陰でこうして、のんきに最愛の孫娘と遊んでいられるのだ。屋敷のリビングで孫娘のジェシカを膝に抱えて、だらしなく相好を崩すベネット。


「やぁ~~!」


 ベネットのあごひげがくすぐったいのか、ジェシカがイヤイヤするかのように身をよじる。しかし同時にキャッキャと笑っており、そこまでいやがっている様子もなかった。


「さあジェシカや、ABCの歌を歌おうねえ」

「うたう~!」

「A B C D ~ E F G ~♪」

「え~び~し~でぃ~ い~えふ~じ~♪」


 公国に古くから伝わる『ABCの歌』を、紙に書きつけたアルファベットを指し示しながら歌う。


(なんと、ジェシカは天才じゃ――!)


 孫娘の利発さにベネットは鼻高々だ。今年で四歳になる孫娘は、ABCの歌をあっという間に覚え、一人で歌えるようになったのだ。


 しかも、最近では文字まで書けるようになってきた。


 この間は棒を使って地面に「Iアイ」の字を書いてみせた。素晴らしい才能だ。――満面の笑みで「じぇー!」と言っていたが、IとJは隣同士なので、ちょっと間違えてしまったのだろう。それは仕方がないことだ。


「Now I know my ABCs ~♪ Next time won't you sing with me ~♪」


 歌うジェシカのふわふわのくせっ毛を撫でながら、リズムにあわせてベネットも体を揺らす。


(本当に賢い子じゃのう……)


 将来はどうしたものか、などと考える。


 このまま村で暮らすのも、もちろんいい。タアフは近隣の村々に比べてもかなり裕福な方だ。しかしサティナの街に出る、という手もある。可愛い可愛いジェシカが遠くに行ってしまう――考えただけで泣きそうになるが、孫娘の幸せを願うならばそれもアリだ。村にとどまるよりも、文化的で豊かな生活を送れるかもしれない。


 これだけの賢さ、街の商会で礼儀作法を身につければ上級使用人の道もあるやもしれぬ。そして幼いながらにはっきりとわかる目鼻立ちの良さ、ともすれば貴族様のお手つきに――いや、側室などという道も――


「おじーちゃん! もっかいうたお!」

「ん? ああ、いいよ、歌おうねえ」

「え~び~し~でぃ~♪」

「ほほほぉ~ジェシカは本当にお歌が上手じゃのう~」


 目尻を下げて、デレデレと笑いながらベネット。きゃっきゃと屈託なくはしゃぐジェシカを見ていると、全てどうでもよくなってきた。ジェシカは幼い。教育も嫁入りもまだまだ先の話だ。今は全身全霊で可愛がってあげよう――


(――それに、そろそろジェシカだけに構ってあげられなくなるしのぅ)


 ほんの少しだけ、申し訳なさで表情が曇る。


 ジェシカは、ベネットの次男クローネンの子だ。


 次期村長こと長男ダニーには、長いこと子どもができなかったのだが、数ヶ月前、とうとうダニーの妻が妊娠したのだ。ダニーは優秀だがあまり人望がなく、そのせいで村内には次男クローネンを次期村長として望む声もある。跡継ぎの不在が攻撃材料の一つになっていたのは確かだ。


 ダニーの妻シンシアも、石女うまずめだの何だのと陰口を叩かれていたが、ベネットの知る限り、ダニー本人はシンシアを一言も責めなかった。あれはあれなりに妻を愛しておるのだろう、などと思う。


 それはさておき、孫の話だ。


 何事もなければ半年もしないうちに、ダニーとシンシアの子が生まれるだろう。そうなるとジェシカ一辺倒の生活も、どうしても終わらざるを得ない。


「おじーちゃん! のどかわいた!」

「おお、じゃあお茶を淹れてあげようかねぇ」


 よっこらせ、と席を立つべネット。


 ――ベネットも長男だから、わかる。両親は自分を大切にしてくれたが、年の離れた弟が生まれたときはそっちにかかりきりで、自分がおざなりにされたように感じたものだ。実際、赤子は手がかかるので仕方がないのだが――できればジェシカには、あんな思いはさせたくない。


 老骨には少々堪えるが、どちらも同じくらい可愛がらねば――! と決意を新たにする。


 孫と言えば、サティナにもうひとりいるのだが、赤子の頃に一度顔を合わせたのみで、それ以来会えていない。向こうは自分のことなど覚えていないだろう、と思うと少し寂しくもある。サティナとタアフ、自分のような老人が気軽に行き来できる距離ではないが、本格的に隠居したら再び娘夫婦を訪ねるのもいいかもしれない――


「――お義父様」


 と、背後から、か細い声がかけられる。


 振り返れば、色白の美しい女が顔を覗かせていた。ダニーの妻シンシアだ。まだ妊娠四ヶ月で、ゆったりとした服を着ていることもあり、その腹は目立たない。


 美人薄命――というわけではないが、これまで、シンシアは気を抜けばふっと消えてしまいそうな儚い雰囲気をまとっていた。だが、妊娠して以来、少しずつ生命力に満ちてきているように思える。やはり母は強し、ということか――


「どうかしたかの?」

「お客様みたいです」


 シンシアの知らせに、ベネットは顔をしかめた。


 ベネットはあまり、この手の来訪者が好きではない。シンシアが『お客様』と呼ぶからには身内ではなく、定期的に村を訪ねてくる行商人でもない。その『客』とやらは何かしら『用事』があってこの村にやってくる。そしてその『用事』は、往々にして厄介事だ。


「客人かのぅ……ジェシカや、おじいちゃんは、ちょっとお客さんの相手をしてくるからね。おとなしくしてるんじゃぞ」

「ん~~……わかった」


 存外、聞き分けのいいジェシカは、こてんと首を傾げてから、頷いた。その様子がまた可愛らしく、ベネットはニコニコと笑う。


「シンシア、のどかわいた~!」

「はいはい。じゃあ、お茶でも淹れましょうね」


 そんな二人の声を背後に、玄関へと向かうベネットは好々爺然とした、よそ行きの表情を貼り付ける。誰が来たんだ、などと思いながら外に出ると――


「――やあ。久しいな、村長」


 待ち受けていたのは。


「……ケイ殿」


 ベネットにとって、深い因縁がある異邦の青年だった。




          †††




 村長宅のリビングに、村の主だった面々が集っている。


 村長のベネット。その次男、クローネン。狩人のマンデル。そしてケイだ。


「いやはや、お久しぶりですなケイ殿……」


 席についたベネットが、ニコニコとにこやかに笑いながら言う。


「そうだな……半年ほどにもなるか」


 長かったような、あっという間だったような。この村を訪れた転移直後のことを思い出し、ケイも感慨深く思う。


(イグナーツの報復がなくてよかった……)


 イグナーツ盗賊団の構成員を二人、仕留めきれずに逃したこと。あのまま逃げ帰ったのか、それとも野垂れ死んだのか――定かではないが、タアフ村が無事だったことは確かだ。当時、タアフ村より自分たちの身の安全を取ったことに関して、罪悪感がないと言えば嘘になるが、後悔もしていない。


 ただ、せめて罪滅ぼしとして、今回は村側に花を持たせられれば、とは思う。


「ところで、ダニー殿は?」


 リビングの面々に、次期村長たる男の顔がないことに気づき、ケイは素朴な疑問を投げかける。ベネットがビクッとしたような気がした。


「あ、ああ……倅は今、ちょうどサティナに買い出しに出ておりまして……」

「おお、そうだったのか」


 自分はサティナから来たというのに、入れ違いのようで少し可笑しくもある。


 まあ、ダニーはアイリーンへのセクハラ疑惑もあり、会っても気まずいだけなのでこの場にいなくて良かったかもしれない。


 ……などとケイはのんきに考えていたが、ケイがダニーに言及した時点で、タアフ村の面々は充分に気まずそうであった。


「最初、この村に訪れたときは、右も左もわからず苦労していたところ、助けていただいて感謝している。お陰様で、今はアイリーンも俺も元気でやっているよ。改めてありがとう」

「なんのなんの。お礼を申し上げなければならぬのは手前の方です、孫娘を救っていただいただけではなく、今でも大変お世話になっているようで……」


 ベネットが深々と頭を下げる。


 ――孫娘、と言われてすぐにはわからなかった。


 しかし思い出す。ベネットの娘、キスカ。そしてキスカの子がリリー。


(そういや祖父と孫の関係なのか……)


 ベネットとは転移直後の数日しか付き合いがなく、逆にリリーは誘拐事件に魔術の弟子にと深い関わりがあるので、ベネットとリリーが頭の中で結びついていなかった。ケイにとっては、ベネットの孫というより木工職人モンタンの娘、という印象が強いこともある。


「リリーは……元気にしているよ。一時期は、落ち込んでいたが……」


 事件のトラウマか、はたまた麻薬への依存症か――精神的に不安定で、しきりに蜂蜜飴を求めていたリリーだが、近ごろは魔術の修行に打ち込んでいることもあり、かなり改善の傾向が見られている。


 以前のように、明るく笑ってくれることも増えてきた。


「最近、リリーは精霊語の勉強を始めたんだ。彼女はとても物覚えがいい。精霊と契約さえできれば、将来は立派な魔術師になるだろう。俺が保証する」


 現在、ケイとアイリーンが二人がかりであれこれ教えている。それになんといっても、将来的には"黒猫チョンリーコット"による魔力鍛錬も解禁する予定だ。魔術は才能よりも、知識と鍛錬が物を言う世界。その鍛錬の部分を安全かつ堅実にこなせるのだから、成長は確約されたようなものだ。


「そうですか……あの子が、魔術師に……」


 ベネットは、あまり実感が湧かない、と言わんばかりの表情で頷いている。その隣のクローネンに至っては、別世界の話を聞くような顔でポケーッとしていた。


「実のところ、ワシはリリーが赤子のころ、一度顔を合わせたのみでしてな。あの子が今どんな風に成長したのか、いまいちピンとこんのです」

「ああ……なるほど。そうそう気軽に行き来はできないしな」


 ケイのように騎馬をぶっ飛ばしても、数時間はかかる道のりだ。ベネットに騎乗の心得があるかはしらないが、村には農耕馬が一頭しかいなかったし、基本的に移動は徒歩になるだろう。


 あの距離を歩くのは骨だな、と思い返しながら、ケイは頭をかく。


「すまない、気が利かなかったな。キスカの手紙の一つでも配達できればよかったんだが、俺も急いで来たもので――」

「――お茶をお持ちしました」


 と、リビングの扉がノックされ、ポットと木製のコップを載せたトレイを手に、色白の麗人――シンシアが姿を現す。


「おっと」


 腕組みをして黙っていたマンデルが、素早く席を立った。


身重みおものご婦人のお手をわずらわせるのは、しのびない」


 そう言って、紳士的にシンシアからトレイを受け取るマンデル。


「……」


 しかしシンシアは礼のひとつも言わず、サッと顔を背けてリビングを出ていってしまった。目すら合わせないとは、随分冷たい対応だ。あのシンシアという女性、かなり礼儀正しい人物であったと記憶しているが、あんな人だっただろうか……? と疑問に思うケイをよそに、マンデルは気にした風もなく、各人の前にコップを置き、茶を注いでいった。


 ベネットとクローネンは、何とも複雑な顔をしている。同情と憐憫と気まずさが入り混じったような――


(なんだこの空気……)


 困惑するケイをよそに、「さて」とベネットが切り出した。


「ケイ殿。いかなるご用向で我が村に?」


 本題の時間だ。


「ああ。実は、狩人としてマンデルを借り受けたく思う」

「……マンデルを? 理由をお聞きしても?」

「"森大蜥蜴グリーンサラマンデル"を狩る」

「は?」


 ベネットが呆気に取られる。隣のクローネンも同じようにポカンとしており、その表情があまりにも似通っていて、可笑しかった。


「実は今日、ウルヴァーン郊外の開拓村から手紙を受け取ってな――」


 順を追って説明する。ケイが冗談ではなく本気マジで言っていることを察したベネットは、頭痛をこらえるように額を押さえ、クローネンは「わからねぇ……おれにはなにも……」と思考放棄したかのようにホゲーッとしていた。


「そう……ですか、そのためにマンデルを……」


 唸り声を上げたベネットは、深い皺の刻まれた顔を厳しく引き締める。


「……ケイ殿。個人的に大恩ある身としては、非常に心苦しいのですが、マンデルは我が村にとって貴重な人材。斯様に危険な狩りに参加させることは、村長としては承諾いたしかねます」

「マンデルの娘さんたちにも同じことを言われた」


 ケイは動じることなく頷く。


「しかし、俺とて、友人をいたずらに危険に晒したいわけではない。そこで安全策として、マンデルには専用の馬を一頭用意する。彼には騎乗の心得があるだろう? いざというときは迅速に退避できるはずだ」


 ケイはマンデルに視線をやりながら言う。「友人」と言われてマンデルは少し嬉しそうだった。


「そも、絶対に、とは言い切れないが、マンデルには"森大蜥蜴"の敵意は向きづらいはずだ。"森大蜥蜴"の注意を引く囮役は、俺の相方がする。そして主に攻撃を担当するのは俺だ」

「相方、ですか?」

「アイリーンだ」

「…………」


 ベネットはクローネンと顔を見合わせた。アイリーン――サティナではリリーを救い出し、"正義の魔女"と名高い彼女だが、この村の面々からすると毒矢を食らって寝込んでいた印象が強い。


「……森の中で"森大蜥蜴"並の速さで動き回れるのは、公国広しといえど、おそらく彼女くらいのものだぞ。それに影の魔術も使えるからな……」


 ベネットたちの懸念を感じ取ったケイは、言い含めるように注釈する。実際のところ"森大蜥蜴"は昼行性なので、影の魔術の出番はないだろうが……。


「うぅむ……しかし……」

「いずれにせよ、マンデルの役目は、横合いから魔法の矢で動きを鈍らせることだ。"森大蜥蜴"とことを構える時点で、危険なのは確かだが、正面切ってやり合う俺よりは安全だ。万が一のことがあっても、彼が逃げる時間くらいは稼ぐことを刃に誓おう」


 腰の短剣を抜き、改めて宣誓する。


「ぬぬぅ……。マンデル、近ごろの森の様子は?」


 ベネットはそれでも気が進まない様子だったが、マンデルに水を向ける。


「森は静かなもんだ。……収穫も片付いたし、獣も荒らしには来ないだろう。おれの出番はそれほどない。罠の扱いなら『フィル坊』にも一通り仕込んであるしな」


 静かに答えるマンデル。フィル? と首をかしげるケイに気づいて、


「フィルは、マリア――おれの上の娘の婚約者だ。我が家に婿入りして狩人を継ぐことになっている。弓扱いはまだまだだが、罠に関しては筋がいい」

「ほう、そういうことか」


 納得するケイをよそに、クローネンと何事かコソコソ話し合っていたベネットは、咳払いして話を戻す。


「……ケイ殿。事情はわかりました。しかしマンデルは我が村の防衛をも担う人物でもあり、そう容易くお貸しするわけには参りません。近ごろはこの辺りも平和なものではありますが、それでもマンデルの不在は大きいですからの」


 公国の各所で暴れていたイグナーツ盗賊団も、とんと噂を聞かなくなった。ケイが大打撃を与えたお陰かもしれない――とは思ったものの、ベネットは口には出さずに堪える。話す前からケイに先回りされているような感覚だった。


「ふむ。それは当然のことだな。マンデルほどの人物を借り受け、さらには村にリスクを負わせるとなると、無料タダで、というわけにはいかないだろう。相応の対価は払わせていただきたい」

「……もちろん、相応の対価をいただけるならば……しかし、どれほど期間をご予定されているので?」

「それは、難しいな。相手次第だ」


 痛いところを突かれ、ケイも顔をしかめる。


 仮に、ケイたちが駆けつけるころには時既に遅く、ヴァーク村が壊滅していたとしても、そのまま帰るわけにはいかない。おそらく"森大蜥蜴"は近辺に潜んでいるはずだ。他の村に被害が出る前に、引きずり出して叩く必要がある。


 たらふく食った"森大蜥蜴"が満足し、そのまま【深部アビス】に引き返す――そんな可能性もなくはないが、ケイの見立てでは低い。魔力の薄い地において、人間は野生動物に比べると『濃いめの』魔力を持つ生物だ。そして数も多い。味を覚えたからには『次』を求めるはず――


「……最短でも2週間。長引けば……1ヶ月といったところか。討伐成功か否かにかかわらず、25日が過ぎればマンデルは離脱させる。移動の時間を鑑みても、1ヶ月とちょっとでタアフ村に帰還できる、というわけだ。これでどうか?」


 25日というのは、ゲーム内での経験を現実世界に拡張させ、ケイが適当に考えた日数だ。具体的な根拠があるわけではないが、それぐらい時間をかければいずれにせよ決着は着く、と踏んだ。


「それならば……まあ……。マンデルは、それでも構わないのか?」

「もちろんだ」


 不承不承、といった様子でベネットが問いかけるが、マンデルは是非もないとばかりに即答。この男、ノリノリであった。 


「なら決まりだな。期間は二週間から一ヶ月。そして俺はそちらが満足するだけの相応の対価を払う、と」


 よしよし、と頷くケイ。まだ対価の中身すら交渉していないというのに。


「それでよろしいか? ベネット村長」

「……わかりました。それで、対価についてですが――」

「いや、悪いがちょっと待ってくれ。マンデルの加勢が確定したからには、知らせを送りたい」


 ベネットを手で制し、ケイはおもむろに席を立つ。


 知らせ? と首をかしげる面々をよそに、リビングの雨戸を開け放つ。


「日が傾いてきたな……」


 空を見上げ、ううむ、と唸るケイ。できればサティナに日帰りしたかったが、秋の暮れ、日が短くなってきた。日が沈むとサティナの市壁の門は閉じられる。閉門は正確な時間が決まっているわけではなく、衛兵たちの判断で閉められるので(仮にまだ待っている人がいたとしても!)、今から全力で戻っても、ギリギリで間に合わない可能性が出てきた。


「……マンデル。明日の明け方、村を出てサティナへ向かおう。馬は俺が連れてきたスズカを貸す。それでもいいか?」

「ああ。……しかし、ケイの馬か。おれに御しきれるかな?」

「大丈夫だ、スズカは大人しいからな」


 なにせ草原の民から殺して奪った上で懐いた馬だ、とケイは胸の内で呟く。サスケは、人懐っこく見えてケイたち以外は乗せないが(面識のあるリリーやエッダならイケるかもしれない)、スズカならマンデルでも問題ないだろう。


「では……」


 空を見上げて、ケイは腰のポーチから澄んだ緑の宝石エメラルドを取り出す。


「おお……!」


 思わず、ベネットは感嘆の声を上げた。ケイの指先できらめくそれは、大粒でかなり上質なもの。まさかあれが対価なのか――? と期待に胸を高鳴らせたベネットは、しかし次の瞬間、悲鳴を上げることになる。


【 Siv ! Arto, Kaze no Sasayaki. 】


 ケイが呪文を唱えると同時、その見事なエメラルドに無数のヒビが入ったかと思うと、ざらあっと崩れ、虚空に溶けるように消えてしまったからだ。



 ぞわ、と場が異様な気配を孕む。



 窓から踊るように風が吹き込む。



 そして一同は、羽衣をまとい艶やかに笑う少女の姿を幻視した。



『アイリーン、話はまとまった。明日の朝、8時頃にはマンデルと一緒にサティナへ戻る。マンデルのために馬を一頭用意してもらえるよう、ホランドに頼んでおいてくれ。頼んだ』



 一息に言い切ったケイは、



Ekzercu執行せよ. 】



 くすくすくす、と少女の笑い声。



 ―― Konsentite ――



 びゅごう、と風が渦を巻いて去った。



 ――全てが幻だったかのように、穏やかな午後の空間が戻ってくる。



「……ケイ、殿……?」

「いや、なに。サティナのアイリーンに声を送った」


 なんでもないことのように、笑って答えるケイ。


「あれが……」


 ベネットは、未だ衝撃から立ち直れなかった。実は、この部屋の面々は、ケイの『声を届ける魔術』を体験したことがある。アイリーンが毒矢に倒れた際、毒の種類を突き止めたケイから、服用させるべき解毒剤をあの魔術を通して指示されたのだ。


 だが、まさか――


(――あれほどの宝石を対価とするものだったとは!)


 愕然。


 ベネットは村長として、普通の村人より遥かに多くの経験・知識を持つが、流石に魔術は埒外だった。


 知らなかった。あんな、村では一財産になるような宝石を、いとも容易く触媒として使い捨てるとは。


 リリーが魔術の修行を受けている――その意味を、ベネットはまた違った側面からまざまざと見せつけられた気分だった。


 そして何より、それを為したケイだ。なぜこうも平然としていられるのか? 惜しくはないのか? あんなに素晴らしい宝石を捧げてしまっても?


「……む?」


 そんなベネットをよそに、ケイは何かに気づいた様子で、そそくさと窓から距離を取る。


 ――ケイが数歩、窓の日差しから離れると、途端に、部屋の空気が再びぞわりと異様な気配を孕んだ。



 ケイの足元の影が、うごめく。



 影法師のように壁へと伸びたそれは、ドレスをまとった貴婦人の輪郭を取る。



『――了解。氷の矢は20本。対価はとびきりの矢避けの護符』



 影絵の文字を描いた貴婦人は、優雅に一礼して、ふわりと消えた。



 解けるようにして、ケイの影が元に戻る。



「まだ日が高いのによくやる……」


 窓の外を見ながら、ケイはニヤリと笑う。


 アイリーンが契約する"黄昏の乙女"ケルスティン――影の魔術は、夕方から夜にかけては低燃費だが、日中は消費魔力が激増する特徴がある。


 だが。"黒猫"の恩恵に与っているのは、ケイだけではない。


 アイリーンもまた着々と成長しているというわけだ――日中に影絵のメッセージを送るくらいなら、どうということはない程度には。


(それにしても、氷の矢が20本、か)


 依頼を受けたコウは、ケイたちのために奮発してくれるらしい。『対価はとびきりの矢避けの護符』――代わりに出来の良い風のお守りを寄越せ、ということか。


(この件が片付いたら、とびきり高性能なやつを作ってみるか。持ち主の魔力を消費するタイプでもコウなら平気だろう……)


 ふふっ、と穏やかに笑うケイ。



 そんな彼を――部屋の面々は、畏怖の念をもって見つめていた。



 今しがたの影の精霊。『正義の魔女』――影を操るアイリーンの仕業であることは一目瞭然だ。ケイが声を送ったなら、アイリーンは影絵を返してきた――


 サティナ。騎馬を全力で駆けさせても、数時間はかかる遠方の都市。そこにいるアイリーンとの、ほぼリアルタイムでの意思の疎通。


 ネットに馴染みがあるケイとアイリーンからすれば、何でもないようなことだったが、この世界の住人にとっては頭をぶん殴られたようなカルチャーショックだった。


 仮に伝書鴉ホーミングクロウを飛ばしても、一時間や二時間はかかるだろう。その距離の通信が――まさに一瞬で――


 魔術師とは皆、なのか?


 ベネットは目眩がしそうだった。隣でのんきに「すげぇ……」とただびっくりしているだけのクローネンが羨ましい。


「おっと、今の影の魔術に関しては、他言無用で頼む。一応、あれでも秘奥の類なんだ。他の者に軽々しく話したら呪われるから注意してくれ」


 影はどこからでも見ているからな、と言いつつ、人差し指を唇に当てて茶目っ気たっぷりにウィンクするケイ。全員が――マンデルさえも――ぎょっとしたように身を仰け反らせた。


「も、もちろんです、決して、決してそのようなことは……」


 冷や汗をかきながらブンブンと首を振るベネット。「頼むよ」とケイは苦笑しているが、魔術の秘奥? ならなぜそんなものを軽々しく見せつけてくれたのか。それに呪いだと? なぜ笑っていられる? 何が可笑しいのか? 理解できない――


「さて、すまなかった。それで対価の話だったな」


 再び席について、ケイが話を戻す。


 ベネットも気づいた。すっかり忘れていた、報酬の話がまだ済んでいなかったことを。


「そ、そうですな……対価……」


 服の袖で額の汗を拭いながら、交渉に向け考えを巡らせようとするベネット。


「ふむ。正直なところ、俺は、どれだけ払えばいいのかわからんのだ。助力を願うマンデルにこちらから値段をつけるのも、無粋な気がしてならないしな」


 マンデルに微笑みかけながら、ケイは机の上で手を組む。


「――なので、そちらに決めていただきたい。何がどれだけ必要だ?」


 ごくごく自然体で、問うた。


「……それは」


 ベネットは言葉に詰まる。



 ケイは、今回、村側に花を持たせるつもりだ。それは以前、気持ちの上で村を見捨てた罪滅ぼしでもあり、マンデルの助力を重要視していることを示すためでもあった。


 また、狩りが成功裏に終われば、"森大蜥蜴"の素材で莫大な収入も期待できる。


 だからベネットに多少ふっかけられても、全く構わないと考えていたのだ。



 ――その、圧倒的な『持つ者』の余裕に、ベネットは気圧された。



「今の俺の手持ちで渡せるものとなると……」


 懐に手を入れようとして、革鎧と鎖帷子の存在を思い出したケイは、「すまん、マンデル手伝ってくれ」と声をかけ、いそいそと武装を解除し始めた。


 まずは革鎧を脱ぎ、椅子に置く。ところどころに傷がついているが、歴戦の風格を漂わせる逸品。


 以前、あの革鎧の手入れを頼まれた村の職人が、「"森大蜥蜴"の革らしい!」と大興奮していたのを思い出す。当時のベネットは「確かに見事な革鎧だが、流石に話を盛っているのだろう」と鼻で笑ったものだが――


 の革鎧。


 今となっては笑う気にもなれない。


「っと、どこにしまったか……」


 これまた最上級品に近い鎖帷子を脱いで、胸ポケットをごそごそと探るケイ。


 とりあえず邪魔な懐中時計を外に出しておく。鎖にぶら下がって無造作に揺れるそれを、ギョッとして凝視するベネット。


「えーと、金と、触媒と、……これもアリか」


 懐から硬貨が詰まった革袋、宝石類を包んだ巾着を取り出し、机に置く。さらに腰のベルトのポーチから、いくつか護符を抜き取った。


「こんなところだな。まずはコレを渡しておこう――アンカの婆様は元気か?」


 布にくるまれた護符を差し出し、唐突にケイが問う。


 アンカ――村の呪い師の婆様のことだ。前回の訪問時、ケイとアイリーンが精霊語をレクチャーした結果、精霊に祈願し病魔を退ける簡単な呪術を扱えるようになり、豊作祈願に病気の治療にと大活躍している。


「ええ、それはもう、近ごろはむしろ若返ったようで……」

「そうか。それはよかった、ならこれが使えるな」

「……それは、なんなんだ?」


 恐る恐る、といった様子でクローネンが尋ねる。これまで終始圧倒されて黙り込んでいたクローネンだが、好奇心が勝ったらしい。


「使い捨ての"突風"の護符だ。呪文を唱えれば、大の男でも吹っ飛ばすような風を、ピンポイントで吹かせられる」


 ――まさかの魔道具。それも攻撃用の。ヒュッと引きつったような呼気を漏らしビビるクローネン。


「ああいや、それほど怖がる必要は……あるか。核になってる宝石部分は絶対に傷つけないでくれ。暴発して大変なことになる」


 だから布でくるんであるわけだが、というケイの説明にマンデルさえ顔をひきつらせる。


「それは……その……それが対価ということですかの?」


 確かに価値は凄そうだが、こんなもん渡されても困る、とばかりにベネット。


「いや、これは迷惑料みたいなもんだ。マンデルがいない分、村の戦力が落ちるだろう? 万が一ならず者が村を襲ったら使うといい。強そうなヤツを二、三人吹っ飛ばしてやれば、相手も腰が引けて戦いやすくなる。多少魔力を使うが、アンカの婆様なら問題ないはずだ。あとで挨拶かたがた、起動用の呪文も教えておくよ」


 タイミングは難しいが矢を逸らすのにも使えるぞ、騎馬の突撃だって工夫すれば止められるぞ、などと、自作魔道具の活用法を生き生きとした様子で語るケイ。


「…………」


 迷惑料――迷惑料とは――そんな言葉がベネットの頭の中でぐるぐる回る。


「で、対価の方だが、どっちがいい?」


 ずい、とベネットの前に、革袋と巾着袋を押し出すケイ。


 ベネットは無言で、まず革袋を検めた。――中にぎっしりと、銀貨が詰まっていた。何枚あるか、数える気にもならない。村の収入の何年分だ? 計算しようとするが思考が上滑りするばかりで、頭がうまく働かない。


 仕方ないので、巾着袋を調べる。――先ほどケイが使い捨てたような、良質なエメラルドの原石が、お互いが傷つかないように小分けしてごろごろと入っていた。


「ちなみに、価値は宝石の方が高いかな」


 俺としてもそっちを取ってもらった方が助かるかもしれない、とケイ。


「えぇ……?」


 なぜ高い方が助かるのか理解できず、妙な声を上げるクローネン。


「確かに、……見事な宝石ではありますが、ワシらには換金の手段が限られておりますからの。ダニーならサティナの街でさばけるかもしれませんが、宝石商の宛てとなると……それに、これほどの宝石は経験がありませんし、うまく交渉できるかどうか……それならば現金の方が――」

「コーンウェル商会を訪ねればいい」


 ケイはニヤリと笑う。


「――アイリーンと俺はコーンウェル商会の専属魔術師でもある。俺からの紹介ともなれば無下には扱われない。どうだ?」

「コーンウェル商会……専属……」


 ベネットは今日何度目になるかわからない衝撃を受けた。


 キスカの手紙から、ケイたちがコーンウェル商会と交流があることは知っていた。だが専属契約まで結んでいることは知らなかったのだ。何分、ケイたちが本格的に魔術師として活動し始めたのはここ1~2ヶ月のことで、最後にキスカの手紙を受け取ったのが数ヶ月前だ。知りようがなかった。


 そして、宝石について。


 ケイからすれば、この宝石はコーンウェル商会から割引価格で購入したもので、ベネットがコーンウェル商会に売るのであれば、それらは再び魔道具の材料として手元に『戻ってくる』。どこの商会に使われるかわからない現金を渡すより、コーンウェル商会、ひいては自分たちに利益が還元される可能性が高いわけだ。


 また、ベネットからすれば、ケイの口利きのもとコーンウェル商会で安全に取引ができる。コーンウェル商会に問い合わせれば医薬品でも嗜好品でも、常識的なものはほとんど揃うだろう。宝石を対価に大量の、かつ良質な物資を得られるのだ。何よりコーンウェル商会とつながりができる。その利益は計り知れない――


 可愛い可愛い孫娘ジェシカのことが頭をよぎる。麻痺していた脳がここにきて、バチバチとそろばんを弾き始めた。


「……ケイ殿」


 ベネットは深々と頭を下げた。


「こちらの宝石を、対価としていただけませぬか。それと、もしよろしければ一筆したためていただけると、非常に助かるのですが……」

「ああ、そうだな、何か証拠があった方がいいか。もちろんだとも」


 鷹揚に頷くケイ。


(なんとも、まぁ……)


 合意の握手をしながら、ベネットはもう笑うしかなかった。



 半年前――


 そう、久々といっても、たった半年前だ。ケイがこの地を訪れたのは。


 あのとき、この青年は右も左も分からない、怪しい身元不詳の異邦人だった。


 だが、今の彼を見よ。まるで別人ではないか。圧倒的武力はそのままに、魔術の秘奥を使いこなし、財力も人脈も並外れている。武闘大会でケイと再会したマンデルが、村に戻ってからしきりにケイを褒め称えていたが、ようやくその心がわかった。


(交渉にもならん)


 本来、こういう細々した交渉というのは、対等に近い立場でするものだ。


 互いの『格』が隔絶していては、交渉の余地などない。弱い方が強い方におもねるだけ。そういう意味では、今回の『交渉』は大成功といってもいい――


(ノガワ=ケイチ、か)


 あの夜の名乗りを思い出す。


 草原の民の格好をして家名持ちか? などと思ったものだが。


(本当に、家名持ちだった、ということかの……)


 これだけの財を持ちながら、自然体。


 故郷では一角の人物だったのだろう――などと納得するベネット。



 実際は、ゲーム時代の感覚を引きずっていることに加え、魔道具の売れ行きが好調で金銭感覚が狂っているだけなのだが。



 何はともあれ、ケイはマンデルの同行がスムーズに決まり、ごきげんだ。



 それが全てだった。




          †††




 リビングの隣の部屋。


 壁にぴったりと身を寄せる、憂いを含んだ面持ちの女がひとり。


 かすかに響く会話に、じっと耳を澄ませている。


 話し合いは一段落したのか、今は和やかな笑い声が――


「――シンシア?」


 と、足元からの舌足らずな声がして、ビクッと震えた。


 見れば、ジェシカが、つぶらな瞳でこちらを見上げている。


「……なにしてるの?」


 幼女の問いに、色白の女――シンシアは「なんでもないわ」と微笑む。


「ジェシカ。おやつにしましょう」

「! わーい! おやつ!」


 ジェシカが喜んで部屋を出ていく。


 何事もなかったかのように、シンシアもゆっくりと、そのあとを追った。



 ――かすかに膨らんだ腹を、心配げに撫でながら。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る