87. Tahfu
街道に沿って、草原を駆けていく騎馬の姿があった。
ケイを乗せたサスケと、付き従うように併走するスズカだ。
サスケの背に揺られながら、ケイは周囲に鋭い視線を向けていた。のどかな風景が広がるばかりだが、警戒は怠らない。以前ここを通ったときのように、突然草原の民の集団に襲われないとも限らないからだ。
左手にはいつでも矢を放てるよう"竜鱗通し"を握り、もう片方の手でスズカの手綱を引いている。スズカを連れてきたのは、簡単な荷物持ちのためと、マンデルの協力が得られたとき、彼を乗せていくためだ。
サティナを出たのがおおよそ一時間前。
革鎧と鎖帷子を装備しているので、胸ポケットの懐中時計を確認できないが、体感でそれくらいだ。途中、休憩するにしても、このまま
ドドドッ、ドドドッと蹄の音が響き渡る。それに混じって、ハッ、ハッという荒い二頭の息遣いも。
「……思えば、遠くまで来たもんだ」
一人で馬に揺られていると、ゲーム時代のことを思い出す。
こうして今のように、独りで駆け回っていた日々を。
ケイは基本的に、ソロで遊んでいた。いくつか
忘れたかったのだ。現実のことなんて。生命維持槽に浮かぶ
だから気楽な一人を選んだ。
気が向いたときにだけ、他のプレイヤーと狩りに出かけたり、フリーランスの傭兵として抗争に参加したり。"NINJA"アンドレイと知り合ったのも、確かこの頃だったか――。
【DEMONDAL】のサーバーはヨーロッパにあり、プレイヤーの多くは欧米人だったので、ケイは時差の関係で暇な時間を過ごすことが多かった。そんなときは、ミカヅキに乗って気ままに世界を放浪したものだ。
今のように――果てしなく、どこまでも広がっているように見えた、仮想の大地を駆け回って。
「…………」
物思いに耽るケイの耳元で、ひゅごう、と一陣の風が渦巻く。
ゲームではありえない、リアルな質感が全身を包み込む。
晩秋、草原を渡る風は存外に冷たく、馬上で吹きさらされるケイの
今や、ケイはこの世界の住人になりつつあった。
この地に根付いて、生きていく――
「……狩り、か」
ぽつりと呟いた。思いを巡らせていると、否が応でも、考えずにはいられない。
これから自分が、好き好んで死地に突っ込もうとしていることを。
転移直後の日々を思い出す。『安全第一』、『命を大事に』――ケイの行動方針はまさにそれだった。『死にたくない』と思いながら生きていた。現実世界のケイが、願ってやまない理想の生き方――そう信じていた。
だが、それがつまらないことに気づいてしまった。
『生きている』のではなく、ただ『死んでいない』だけだと。
悟ってしまったのだ。
贅沢な話だとは思う。しかし気づいたからには、もう、後戻りできなくなった。
ケイの人生は、ここにきてようやく始まったのだ。『死なずにいる方法』ではなく、『どうやって生きていくか』に目を向けられるようになった。
だからケイは、"
自分の能力を最大限に発揮し、人々を助けるために。自分はここにいる、生きている、生きていていいのだ、と証明するために。
たとえ命の危険に晒されることになったとしても、ケイは後悔しないつもりだ。死の直前は無様にあがくかもしれないが。ある程度の割り切りはできている。
(……俺だけの命なら、な)
ただ、気がかりがあるとすれば、アイリーンのこと。
彼女を巻き込んでしまうことだ。
「……何とも言えないな」
苦笑する。これは皮肉な話だった。もしもケイが一人だったら、救援要請を断っていただろう。独力で"森大蜥蜴"を狩るのは不可能だからだ。
だが、『アイリーンがいるならば』――と思ってしまった。
そしておそらく、それはアイリーンも一緒なのだ。彼女も一人っきりだったら救援要請をすげなく断っていたはず。
だが、『ケイがいるならば』――と。
互いが互いを信頼し、結果としてリスクを冒してでも、善をなすと決めてしまったのだ。
本当に皮肉な話だった。アイリーンがいなければ、ケイは昔のケイのまま、『死にたくない』と願うばかりで、こういった行動は決して取らなかっただろう。もしも一人っきりでこの世界に転移していたら、今もまだ、一人寂しく草原をさすらっていたかもしれない――
『助けられる力があるなら、助けるべきだ』
リリーの誘拐事件に際して、アイリーンはそう言った。
その言葉にケイは衝撃を受け、傷つきもしたが、今となってははっきりわかる。
――ケイは憧れたのだ。光り輝くような、アイリーンの人間性に。当時のケイには、少しばかり眩しすぎたけれども。
『今の自分』の核をなすのは、アイリーンなのだと。
改めて強く確信する。
ならば、彼女を危険に晒したくないだの、巻き込んでしまうだの、これ以上うだうだ悩むのは野暮というもの。
それら全てを勘案した上で、やりたいことをやるのが――真の
「ただなぁ、マンデルは別なんだよなぁ」
と、アイリーンに関して割り切ったはいいが、今度は別の悩みだ。
息が苦しげになってきたサスケの手綱を引き、走るペースを調整しながら、ケイは嘆息した。
アイリーンは、いい。
ただこれから助力を求めようとしているマンデルは、赤の他人だ。
巻き込まれる方はいい迷惑だろう。相手が相手だ。"森大蜥蜴"――ゲーム内で上位プレイヤーが結集してなお、狩りで事故死が起きるような怪物。ケイとアイリーンの全力、それにコウの魔道具も加えて、狩りの勝算は八割といったところか。
マンデルの助力があれば、成功率はさらに高まるはずだ。
ゲームと違って死んだら終わりなので、ベストを尽くすのは間違いない。だが死んだら終わりなのはマンデルも一緒なわけで――。
「誠心誠意、事情を話して、断られたら諦めようか……」
「ぶるるっ」
思い悩むケイをよそに、我関せずとばかりに鼻を鳴らしたサスケは、パッカパッカと着実に歩みを進めていた。
タアフ村は、もうすぐそこだ。
†††
休憩を挟みつつ進んでいくと、木立を抜けたあたりで、不意に見覚えのある景色が広がった。
森を切り開いた畑、ぽつぽつと建ち並ぶ平屋の家屋、収穫用の鎌を担いで笑顔の人々。
タアフ村だ。
「おおーい!」
村人がこちらに気づいたので、敵意がないことを示すように、"竜鱗通し"を握った手を振りながら近づいていく。
「ああ……!」
「あんたは確か、前の……!」
ケイのことは忘れていなかったのだろう、村人たちは警戒を解いた。
「ケイだ。突然の訪問ですまない、マンデルに会いに来たんだ」
馬を降りながらのケイの言葉に、顔を見合わせる村の男たち。
「マンデルに? ……今の時間なら、もう森から帰ってきてるんじゃないか」
「なんなら、家まで案内するが……」
「ありがとう、助かるよ」
以前、村に滞在中、マンデルとは草原に狩りに出かけたこともあったが、彼の家を訪ねたことはなかった。一度、お茶に誘われた記憶はあるが、当時のケイはあまり滞在を楽しめる気分ではなく、断っていたのだ。
サスケとスズカの手綱を引き、男たちに導かれるまま村を突っ切っていく。
途中、興味津々な様子の女たちや子どもたちまでもが、一緒についてきた。皆ケイに声はかけてこない。拒絶はしないが親しげでもない、絶妙な距離感。そのままぞろぞろと列をなしてマンデルの家へ。
――懐かしい顔が見えた。
「……ケイじゃないか。久しぶりだな」
家の前で、狩りの成果か、大きな鳥の羽根をむしる男が一人。
とび色の髪の毛に、彫りの深い顔立ち、ダンディーなあごひげ。ぴったりとした布の服、皮のベスト、そしてトレードマークの羽根飾りつきの帽子に、使い込まれた
相変わらず表情は変化に乏しいが、目を丸くしているあたり、突然の訪問に驚いているのだろう。
狩人のマンデルだ。こうして直接、顔を合わせるのは武闘大会の祝勝会以来か。実に四ヶ月ぶりの再会だった。
「やあ、久しぶりだな」
ケイも穏やかに微笑んで答える。
無言で、傍らの桶に貯めてあった水でシャバシャバと手を洗い、マンデルは両腕を広げてケイを迎えた。そのまま、ぽんぽんと背中を叩くように、軽くハグする。
「……元気そうで何よりだ」
「ああ。そういうマンデルも」
「……どうしてタアフに?」
「実は、マンデルに話があって……」
そこまで言って、ケイは口をつぐんだ。
ざわめく野次馬の村人たちに完全包囲されており、視線が気になったからだ。
「……狭い家だが、茶でも飲むか?」
くい、と顎で玄関を示し、マンデルが笑う。
今回は――お邪魔することにした。
マンデルの言葉通り、少し手狭な家だった。家としての広さは標準的だがわりかし物が多い。物入れのチェスト、食料保存棚、燻製肉やソーセージの束なんかも天井に吊り下げられている。村人、という括りならかなり余裕のある生活を送っていそうだ。玄関から入ってすぐのリビングの壁には、小さなトロフィーが飾られている。武闘大会射的部門の、入賞者の記念品だ。それがまた懐かしくて、ケイは目を細めた。
そして家の中には、少女が二人いた。豆の皮むきをしていた二人は、突然の訪問客に驚いたようだ。どちらもとび色の髪をしており、一人は十代前半、もう一人はちょっと幼い印象を受けた。
「……そういえば、紹介するのは初めてだったか」
マンデルはふと、気づいたような顔で、
「……娘のマリアと、ソフィアだ」
言われてケイも思い出す。マンデルには二人の娘がいたことに。妻は確か、下の娘が産まれたあとに病気で亡くなっていたはずだ。
娘二人は、年上の方がマリアで、幼い方がソフィアらしい。マリアはお姉ちゃんらしいというべきか、気の強そうな雰囲気。逆に妹のソフィアは、甘えん坊で少し気が弱そうな顔をしている。
「お父さん、この人って……」
「……ああ、ケイだよ」
マリアの言葉に、マンデルが頷いた。
ケイも、おそらくマリアたちも、なんとなくお互いの顔に見覚えがあった。以前、村に滞在中、何度か遠目にすれ違うくらいのことはあったのだろう。ケイがマンデルの家を訪ねなかったので、面識がなかったが。
軽く互いに自己紹介してから、ケイはリビングのテーブルにつく。
「……それで、話というのは」
ケイの正面に座ったマンデルが、改めて尋ねてくる。その背後、竈でお湯を沸かしながら、興味深げにチラチラとこちらを窺うマリア。姉の身体の陰に隠れるようにして、じっと見つめてくるソフィア。
マンデルには幸せな家庭があるのだ、と思うと――ずしりと胃のあたりが重くなるような気がした。
「実は、マンデルに頼みたいことがあるんだ――」
それでも、真剣にケイは話を切り出す。
「――"
ケイの言葉に、マンデルは再び目を見開くことになった。
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