73. 再訪



「おねえちゃん……おねえちゃん!?」


 沈黙は長くは続かなかった。


 ハッ、と夢から醒めたように目を見開いたリリーが、おぼつかない足取りで駆け寄ってきたからだ。


「おねえちゃんっ!」

「リリー……」


 しゃがみこんだアイリーンが、やせ細った少女を優しく抱きとめる。「ほんと? 夢じゃない?」とうわ言のように呟きながら、ぺたぺたと頬を触ってくるリリーに、どんな顔を向けるべきか――アイリーンはわからないようだった。


「夢じゃないよ、本当だよ……。久しぶり、リリー」


 努めて優しくささやきながら、リリーをぎゅっと抱きしめる。それ以上、困惑の色を見せまいとするかのように。


「アイリーンさん! ケイさん! お戻りになられたんですか?!」


 家の奥からさらに、前掛けで手を拭きながらキスカが慌てて走り出てきた。モンタンとキスカ、そしてその娘リリー。一家が揃った形だ。


「しばらくぶりだな、本当に」


 おおよそ、三ヶ月ぶりの再会だろうか。改めてモンタンと握手しながら、ケイはリリーに視線を落とす。


 幼い少女は――微かに震えているようだった。アイリーンの胸に顔を埋め、もう二度と離さないとばかりに抱きついて離れない。


彼女リリーに、何が?」


 ためらいがちにケイが問うと、バンダナを脱ぎ去ったモンタンは、沈痛の面持ちで口を開く。


「……まだ、事件のことが忘れられないみたいなんです。夜もうなされて、ほとんど眠れないらしく……」


 ……返す言葉もない。


 信じていた人に裏切られ、誘拐され、監禁され。


 挙句、奴隷として売り飛ばされるところだった。


 幼いリリーが味わった恐怖、絶望はいかばかりか――。事件が『解決した』とはいえ、それは決して『終わった』ことを意味しないのだ、と痛感させられる。


「そうか……」


 一同はただ、どうしようもない無力感に苛まれながら、抱きしめ合うリリーとアイリーンを見守ることしかできなかった。



          †††



 しばらくして、リリーが落ち着いてから、ケイたちは工房の奥でハーブティーをご馳走になった。モンタンの作品の一つだろうか、蔦が絡んだような小洒落た装飾のテーブルを皆で囲む。


 リリーはアイリーンに隣り合って座り、アイリーンの手をギュッと握りしめながら、うつむき加減に飴を舐めていた。


 黄金色の、蜂蜜飴――


「本当に、帰ってきて頂けて良かった」


 木のマグカップで茶を飲みながら、モンタンがしみじみと言う。


 あれから。


 ケイたちが旅立ってから。


 モンタン一家が、いつもの日常を取り戻すことは、ついに叶わなかったそうだ。


『正義の魔女』こと、アイリーンの英雄譚はサティナの街で一世を風靡した。だがそれは、モンタン一家が好奇の目に晒されることを意味していた。


 ただ衆目を集めるだけならまだしも、『少女リリーが誘拐・監禁されていた』という事実はよからぬ憶測を呼び、しつこく詮索する者や、噂を鵜呑みにして勝手に同情する者、幼いリリーに下卑た言葉を浴びせる心無い者さえいた。


 モンタンの工房には見物人まで押しかけてくる始末で、リリー本人はおろかモンタンとキスカも、迂闊に外を出歩けなくなってしまった。日常生活にすら支障をきたす現状――リリーが以前通っていた塾に、復帰する見込みも立っていない。


 人の噂も七十五日、という。事件からすでに三ヶ月。しかし、『正義の魔女』の英雄譚が吟遊詩人によって街中の酒場で歌われているのに、忘れろというのは無理な話だった。


「まあ、以前は働きすぎなくらいでしたから、家族でゆっくり過ごす分には、ちょうど良いくらいなんですが……ね」


 そう言って、モンタンは力なく笑う。アイリーンはリリーの頭を撫でながら、唇を引き結んでいた。その表情には、やるせなさが溢れている。誰が悪い、というわけではない。吟遊詩人の知り合いホアキンがいるのでよくわかっているが、彼らは彼らの仕事をしているだけだ。


 そして、アイリーンのせいで迷惑を被っている、などとモンタンは微塵も思っていないし、当然、責める気もなかった。


 ただ、息苦しい日々が続いていて、終わりが見えない。


 憂鬱の中で、溺れそうになっていたのだ。


 ――少なくとも、今日この日までは。


「でも、お二人が戻ってこられたので……」


 何か、好転するのでは。


 口には出さないが、モンタンはそう願っているようだった。


「どうぞ」


 キスカが、ハーブティーを淹れ直しておかわりをついでくれる。ケイは礼を言いながら、湯気を立てる木のカップを手に取り、しげしげと眺めた。客人用のカップだろうか。新品のように思える。植物の蔓や花々、くねる蛇の模様など、偏執的なまでに刻まれた装飾の数々――凄まじく手間のかかった逸品だ。


 家に引きこもる毎日、モンタンがどのように過ごしていたのか――その暮らしの一片を垣間見た気がした。


「ところで、お二人はその後、どうされていたのですか? ウルヴァーンに向かうと伺っておりましたが……。しばらく前、公都へ向かう隊商が"大熊グランドゥルス"に出くわして、腕利きの護衛がそれを仕留めたと聞きました。あと、武闘大会で何やら異邦の弓使いが、優勝したとも風の噂に……」


 沈んだ空気を変えようとするかのように、明るい笑みを浮かべたモンタンが尋ねてくる。誰のことか察しはついているぞ、と言わんばかりの様子に、ケイは思わず苦笑した。


「ああ、それは俺だ。大熊グランドゥルスには、行きがけの開拓村で出くわしたんだ。モンタンの長矢のおかげで一撃で仕留められたよ、ありがとう」

「やはり! いや、でも、大熊を一撃で!?」

「運良く心臓を射抜いてな。そのあと、ウルヴァーンの武闘大会に出て優勝した」


 おおっ、とモンタンとキスカが驚き、リリーも顔を上げる。


「ほんと? おにいちゃん、すごいっ」

「本当さ。大会で優勝したおかげで、ウルヴァーンの名誉市民になれたんだ。これがその証拠だよ」


 胸元から身分証を取り出して、リリーに渡す。大事そうに受け取ったリリーは、「うわ~っ」と小さく笑みを浮かべながら、分厚い羊皮紙に描かれたケイの似顔絵や、その身分を保証する大仰な文言などを見ていた。


「すっごいね! ……今まで、ウルヴァーンにいたの?」

「いや、そのあと、北の大地に行ったんだ。あれから色々あってな~」


 優しい笑みを浮かべたアイリーンが、口を開く。語るべきことは山ほどあった。


 ウルヴァーンへの道中、立ち寄った湖の街ユーリアとシュナペイア湖の美しさ。大熊に遭遇したこと。雪原の民アレクセイとケイの決闘騒ぎ。


 ウルヴァーンに到着して、調べ物をするべく図書館に向かうと、身分証がなければ一級市街区に入れず、門前払いをされたこと。身分証を手に入れるため、ケイが武闘大会に出場したこと。そして圧倒的実力を見せつけての優勝。


 晴れて図書館に入れるようになり、『霧の異邦人』という手がかりを掴んだ。北の大地に詳しい、怪しげな銀髪キノコの賢人との遭遇。北の大地の情報の対価に、占星術を教える運びとなり、天体観測をしたら望遠鏡とカツラを吹っ飛ばしてしまい、弁償するのが怖くて逃げるように出立した話をすると、リリーも声を上げて笑っていた。


 それから、北の大地への旅。緩衝都市ディランニレンでの苦労。一時は東回りのルートで二人だけの縦断を試みたが、飲み水が不足し引き返したこと。アイリーンが魔術で隊商に売り込みをかけ、同道する許可を得たこと。


 馬賊の襲撃に関しては、以前、別の娘エッダに話したときのように、オブラートに包んで勇ましい冒険譚のように語った。二回目なので、ケイとアイリーンも慣れたものだ。リリーは遠い異郷の地と、そこでの激闘に思いを馳せているようだった。


 最後に、辺境のシャリト村と、『魔の森』の話。アレクセイとの思わぬ再会。気さくな村人たちと手厚い歓迎。霧の中での出来事は、これ以上リリーに心理的負担をかけるのを避けるため、かなり軽い調子で話した。霧の巨人をケイが弓矢で打ち倒した話や、ロープがいつの間にか解けて離れ離れになりかけたこと。


 そして、『魔の森の賢者』との邂逅――。


 自分たちが、遠く離れた場所からやってきたこと。もう、戻れないこと。ここに至って、ケイとアイリーンも、思わずしんみりした口調になった。


 だが、『こちら』で暮らす決意を固め、森を脱した。


 はるばる北の大地を引き返し、ディランニレンを越え、ウルヴァーンで再び天体観測をして銀髪キノコあらため茶髪ロン毛との約束を果たし、開拓村に迫る【深淵アビス】に挑み、アビスの怪物の群れと戦い、ユーリアでアイリーンが領主の手篭めにされかけ――


 さらに、話に合わせてお土産も渡す。北の大地で手に入れたちょっとした民芸品や、アビスで襲いかかってきた怪物"チェカー・チェカー"の宝玉のような丸い爪などなど。そんな小物もまじえた、波乱万丈のケイとアイリーンの物語に、リリーは驚き、目を輝かせ、夢中になって聞き入っていた。


「――というわけで、戻ってきたのさ。サティナまで」


 そう言って話を締めくくり、ホッと小さくため息をついたアイリーンは、冷めたハーブティーで喉を潤す。工房に来たのは昼下がりだったのに、話し終える頃にはすっかり日が傾いていた。


「……それじゃあ、おねえちゃんたちは、」


 ワクワクした顔から一転、ふと表情を曇らせたリリーは、少しためらってから、意を決したように尋ねてくる。


「おねえちゃんたちは、これから、どうするの? またどこかに行っちゃうの?」

「……いや。サティナに腰を落ち着けようと思うんだ」


 アイリーンがにこやかに答えると、


「……っっ!」


 リリーの表情が、ぱぁっと明るくなった。雲の切れ間から陽が差し込むような、消えた暖炉に再び火が灯るような、そんな笑顔だった。


「だから、これからはずっと一緒だよ」

「……うん、うんっ」


 嬉しそうに、顔をくしゃくしゃにして、何度も頷いて。


「おねえちゃんに……ずっと、ずっと会いたかったの」


 リリーはそう言って、首にかけていたチェーンを引っ張り、紅水晶ローズクォーツのお守りを取り出した。


「それは……」


 アイリーンが目を瞬く。


 サティナを出立する前、アイリーンが作った『魔法のお守り』。


 簡易的な【顕現】の魔術が封じられており、日が沈んだあとなら、一度だけアイリーンを『呼べる』魔道具だ。『呼べる』と言っても、ごくごく短時間、会話するのがせいぜいな、子供だましのような代物だが。


「……どうしても、さびしくって、何回も使いたくなったけど」


 指先で紅水晶をいじりながら、ぽつぽつとリリーは話す。


「……でも、ガマンしてたの。一度使ったら、なくなっちゃうから……」


 泣き笑いのような顔で、リリーはアイリーンを見つめた。


「使わなかったけど……おねえちゃんが会いにきてくれたから、よかった!」

「リリー……」

「おねえちゃん……!」


 再び、二人はひしと抱きしめあった。それ以上の言葉は、不要だった。キスカがハンカチで目元を拭っている。ケイとモンタンも、顔を見合わせて、笑った。ケイは静かに。モンタンは、穏やかに。


 その後も少しばかり、将来の展望を語らった。アイリーンがコーンウェル商会で魔道具を売り出す予定で、その際は木工を依頼したい、と打診すると、モンタンは二つ返事で了承した。現在は家具職人としても高級矢職人としてもほぼ休業中で、貯蓄を切り崩しながら暮らしていたそうだが、ぼちぼち仕事を再開せねばとも思っていたらしい。まさに、渡りに船というやつだ。


 日が暮れて、モンタンは「ぜひ一緒に夕食を」と勧めたが、肝心の台所を預かるキスカが「お客様に出せるようなものがない」と悲鳴を上げ、一同は日を改めて、一緒に食事に行く約束をした。


「今日は、ありがとうございました」

「お二人とも、お元気そうで本当に良かったです」

「おねえちゃん! またね!」


 頭を下げるモンタン、肩の荷が下りたようなキスカ、元気を取り戻したリリー。三人とも、晴れやかな顔をしていた。


 ケイとアイリーンも、その姿を見て、少しばかり感じ入るものがあった。


 自分たちが『帰ってきた』場所に、意義があったのだ、と。


 そのことを知って。


「それじゃあ、また」

「リリー、またな!」


 三人に見送られながら、ケイとアイリーンは宿屋に戻ろうと――


「――あ。そういえば、ケイさん」


 したところで、モンタンが不意に呼び止めた。


「ん? どうした?」

「いえ、今の今まですっかり忘れてたんですが、二週間ほど前にケイさんをお探しの方が、うちを訪ねてきたんです」

「……俺を探す人?」


 訝しげに、眉をひそめるケイ。心当たりはなかった。コーンウェル商会絡みならすでに関係者と会っているし、サティナには他に知り合いもいないはずだ。ケイの弓の腕を頼みにした、赤の他人だろうか? などと推測したところで、続くモンタンの言葉に、顔色が変わる。


「ええ。なんでも『タアフ村から来た』とのことで」


 ――タアフ村から来た。


 ――ケイを『探して』いる。


(……まさか)


 脳裏に、あの夜が、血みどろの戦いが蘇る。


(イグナーツ盗賊団の追手か!?)


『こちら』に転移した直後、タアフ村の近郊で盗賊団と交戦した。構成員十人を全員殺したつもりだったが、翌日遺品を回収に行ったら死体が八人分しかなかった。


 二人、逃した。


 しかし、全員に手傷を負わせたのは事実。その後タアフ村に報復があった様子もない。おそらくはのたれ死んだのだろうと、今の今まで楽観視していたが。


(俺にピンポイントで報復するつもりか……?」


 自然、表情が険しくなる。サティナでようやく、平穏無事に暮らせるかと思っていたが、甘かったのだろうか……幾多の修羅場をくぐり抜けたケイの顔は、モンタンをたじろがせるほど凄みのあるものだった。ケイが事情を打ち明けておらず、見当のつかないアイリーンが怪訝そうな顔をしている。


「そ、それで、その方からメモを預かってるんです。えーっと」


 モンタンが家に戻り、ドタバタと戸棚を探ってから、すぐに小さな紙切れを持ってきた。


「こちらです」



 なんて書いてあるかは、読めないんですけど――



 モンタンの言葉を聞き流しながら、メモを受け取ったケイは、驚愕した。



 イグナーツ盗賊団のことなど、頭から吹き飛ぶほどの衝撃。



 そこにはシンプルに、一文だけ書かれていた。




『きみは死神日本人か?』


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