72. 展望


 明くる日。


 天気はあいにくの曇りだった。


 ぎらぎらとした日差しが遮られ、これはこれで過ごしやすい。


 湖面を走る風はむしろ肌寒いほどで、夏の終わりを予感させる――



 正午過ぎ、隊商はユーリアを出発した。



 晴天では蒼く澄んでいるシュナペイア湖も、今日ばかりは灰色に濁って見える。これでしばらく見納めなので残念といえば残念だ。それに対し、隊商の面々は【深部アビス】の素材――チェカー・チェカーの爪や『アビスの先駆け』など――を高値で売りさばけたらしく、すこぶる機嫌が良い。街道を進む馬車の列はいつもに増して、賑々しい雰囲気を漂わせていた。


 ケイとアイリーンは相変わらず、仲良く並んで馬の背に揺られている。一時は気まずさで寝込んでいたサスケも、今日は何食わぬ顔でパッカパッカと調子よく蹄の音を響かせていた。気持ち、スズカとの距離が縮まっているようだ。


 ケイが意味もなくわしゃわしゃとたてがみを撫でると、「なにかね?」と澄まし顔でサスケは振り返り、フイッと前方に向き直った。大人になった――のだろうか。


「――で、その後、どうだった領主様は?」

「【深部アビス】で見聞きした怪物、植生についての歌を披露しました。あとはケイとアイリーンの武勇伝を少々……」


 ケイが話を振ると、ホランドの馬車の荷台、ホアキンがほがらかに答える。


「【深部】の歌には大いに興味を惹かれた様子でしたが、武勇伝に関しては、手応えがイマイチでしたね。何か粗相をしたかと心配しましたが、どうやら違うようで」

「ははっ、だろうな」


 アイリーンが苦笑する。ホアキンは「詳しく聞かせてくれるんでしょう?」と言わんばかりに、おどけて表情を作ってみせた。


 事の顛末を話す。領主がアイリーンを愛人にしようとしたこと。ホランドの説明不足でケイとアイリーンの仲を知らなかったこと。そしてケイの眼前で「夫には内緒にすればよかろうグヘヘ」などと言い大恥をかいたこと。


 まだ幼いエッダも話を聞いているので、かなりぼかして話したが、ホアキンには問題なく伝わったようだ。


「なにそれ~領主様おかしい!」


『領主が秘密でアイリーンを恋人にしようとした』と解釈したらしいエッダがけらけらと笑う横で、忍び笑いをもらすホアキン。荷馬車の手綱を握るホランドも同様だ。ケイとアイリーンもほほえましい気分でピュアなエッダを見守っていた。


「まあなんにせよ、愉快な領主様だった」

「もう一度会いたいかと問われれば、謎だけどな」


 揃って肩を竦めるケイとアイリーンに、ホランドたちも声を上げて笑う。



 それからは平和な旅路が続いた。



 ユーリアからサティナへ。これまでの軌跡をなぞるように、サン=アンジェ街道を南下していく。途中、見覚えのある村や宿場町を訪ねるたび、記憶が蘇った。ああ、ここではアレクセイと一悶着あった。ここに来たときは、転移に関してまだ気持ちの整理がついていなかった、等々……


 野を越え、川を越え、二日も進めば、やがて視界の果てに城郭都市サティナが見えてくる。草原の緑の海にぽつんと浮かぶような街の影。


「やあ、サティナだ。そろそろ到着だな」

「ケイの目でようやくってことは、まだまだ時間がかかるな」

「ぬかせ」


 こつん、とケイが拳でアイリーンの頭をつつくと、アイリーンはころころと声を上げて笑う。


 が、その言葉通り、隊商がサティナに着く頃には夕方になっていた。


 もはや懐かしさすら覚える重厚な石壁。サティナに滞在していたのはわずか数日に過ぎなかったが、誘拐事件に巻き込まれたこともあり、色々と印象的な街だった。


 相変わらず城門前には荷物検査の長蛇の列がある。"正義の魔女"が麻薬組織を壊滅させたにもかかわらず、なお検査の必要があるということは――はできなかった、ということだろう。


 このまま日が暮れれば城門が閉じられ、サティナを目前に野営するはめになる。ホランドは近場の宿場町まで引き返すことを検討していたが、幸い荷物検査は思いの外スムーズに進み――以前に比べればかなり簡易的な検査になっていた――隊商は無事、日没前には街に入ることができた。


 その日はもう遅いのでそのまま解散し、ケイたちは宿屋で一泊。


『今後』についての具体的な話し合いの場が持たれたのは、その翌日のことだ――



           †††



 コーンウェル商会、本部の一室。


「ようやく落ち着いて話ができるね」


 テーブルをはさんでケイとアイリーンに向かい合い、ソファに腰掛けたホランドが、ぽんぽんと太鼓腹を叩く。


 上品な部屋だ。さすがは商会本部とあって、商談用の小さな個室でも装飾に抜かりがない。シックな緑色の絨毯、オーク材のつややかなローテーブル、窓には透明度の高いガラスがはめられ、洒落た青と白の花瓶には生花が飾られている。ソファに置かれているクッションも、のどかな農村の風景を描いたクロスステッチは見事なものだ。


 サティナのコーンウェル商会本部を訪ねるのは、これが初めてではない。アイリーンが誘拐事件を解決した際には、商会の御曹司ユーリ少年と面談する機会があった。事件に巻き込まれたリリーに好意を抱いていたらしい彼は、無事リリーを助け出してくれたアイリーンにいたく感謝していたのだった。


 今日はユーリ少年の姿はないようだが、また会う機会もあるだろう。


「旦那と組めるのは気楽で助かるぜ」


 ソファに身を預けたアイリーンは、我が家のようにくつろいでいる。その隣、ケイも完全に肩の力を抜いていた。大自然も悪くはないが、突然野盗やモンスターに襲われることのない町中は、やはり落ち着くものだ。


「わたしも同じ気持ちだよ。とりあえず、当座の予算は確保できそうだから、何か要望があったら伝えて欲しい」


 ホクホク顔のホランドがひげを撫でつけながら答えた。ホランドもケイたちと同様、サティナへの移住を望んでいる。アイリーン印の魔道具という確実に売れる商品を足場に、商会内での立場を高めていきたいと考えているようだ。


「んじゃあ、まず旦那に相談があるんだ」


 身を乗り出したアイリーンが、早速本題に入る。


「まず商品について、例の"警報機アラーム"なんだけどさ」

「うん」

「やめようと思う」

「はっ?」


 突然のアイリーンの宣言に、ホランドが目を剥いた。


「それはどういう……?」

「もちろん、魔道具そのものをやめるって意味じゃないぜ。別の商品を主力にするって意味だ」


 チッチッチと指を振りながらアイリーン。ホランドはあからさまにホッとした様子で、胸をなでおろした。


「ああ、ああ、なるほど。気が変わったのかと思って驚いたよ。……しかし、"警報機"は、やはりその、『難しい』のかな」


 具体的に説明するまでもなく、ホランドも問題点については認識しているようだ。


「なにせ命に関わるシロモノだからな」


 改めて腕組みしたアイリーンが、渋い顔をする。


「ケイとも相談したんだけど、『初めての』商売には向いてないかなって」

「……俺たち自身、二人旅を通して"警報機アレ"の便利さが身に沁みている。だからこそ他の旅人に使ってもらえれば、きっと便利だし助かるだろうという考えがあったんだが、客からすれば得体の知れない魔道具だ。よほど評判が良くない限り、命を預ける気にはならないだろう」


 言葉を引き継いで、ケイ。


 アイリーン印の"警報機アラーム"は、旅の道中において、夜番の負担を劇的に軽減する革命的な魔道具だ。完成した暁には誰でも手軽に、水晶の小さな塊を捧げるだけで、敵対者に反応する影の結界を張れるようになる。


 結界の範囲内に敵――人間の他、獣も含む――が踏み込めば、自動的に影で威嚇し、さらにベルを鳴らして注意を喚起する優れもの。本来ならば最大の警戒心をもって暗闇に目を凝らさなければならないところを、"警報機"のそばでうたた寝をしていても夜番を務められる。ケイたちも大いに助けられたものだ。


 が、翻って、二人がそこまで安心できたのは、『"警報機"は確実に作動する』ことを知っていたからに他ならない。影の領域でケルスティンを欺くのはほぼ不可能であり、"警報機"そのものの機械的信頼性や術式の仕様も全て把握している。ゆえに、『そうそう動作不良は起きない』という確信があるのだ。


 ――しかし、客はそうもいかないだろう。特に魔道具の中身は完全にブラックボックスなので、魔術師相手ならともかく、一般人相手にはいくら説明しても限界がある。


 そして何より、"警報機"を最大限に活用できる層――少人数で動かざるを得ないような旅人たちの大部分は、残念ながら懐に余裕がない。"警報機"はそれなりに高価な魔道具なので、コンセプトからして矛盾を抱えているのだ。


「最初は、ホアキンの旦那に試作品を預けて、宣伝してもらおうかと考えていたんけどさ。そこまでして"警報機"に拘る必要もないって気づいたんだ。手始めに、もっとお手軽な、責任のない魔道具を作っていこうと思う」

「というと?」

「"投影機プロジェクター"だ」


 アイリーンは腰のポーチから、するりと丸めた羊皮紙を抜き取った。実は昨夜のうちに、勢いで簡単な設計図を仕上げてしまったのだ。宿屋の狭い机の上、ロウソクの薄明を頼っての作業は一苦労だったが。


「"警報機"に比べればかなり単純な魔道具さ。あらかじめ登録しておいた図柄を影絵にして、壁やらスクリーンやらに投影する――ホアキンの旦那が村で演奏していたとき、ケルスティンが即興で物語を絵にしてただろ? あれの簡易版みたいなヤツ」

「ほほーう! それは面白そうだ」


 ホランドは髭を撫でながら興味を示した。


「隊商の皆もわたしも、あの影絵には随分楽しませてもらったからね。商品化できるなら素晴らしいし、飛ぶように売れると思うよ。多少割高でもね」


 なにせ『正義の魔女』の魔導の真骨頂だ。防犯グッズよりよほど売りやすいし、好事家が必ず飛びつくはず、とホランドは太鼓判を押した。


「そいつは良かった。個人的には、ホアキンの旦那みたいに、吟遊詩人や楽団と一緒に運用すると真価を発揮する魔道具だと思うぜ。流石に、ケルスティンが直接やるような臨機応変かつダイナミックな演出はできないし、仮に絵を動かしたところで単調なものになるだろうからな」

「なるほど、なるほど。……それならば場所と楽団を用意して、見世物をやるのもいいかもしれないね。あるいは、劇場で演出に使うとか……」

「そいつは名案だ! 映画館ムービーシアターってワケだ」

「Movie?」

「あー……動く絵のことだよ。オレたちの故郷にも似たようなものがあって、ムービーシアターって呼んでたんだ。まあ、『シャドウシアター』でもいいかな?」


 虚空を睨み、何やらにんまりと笑うアイリーン。映画館ならぬ『影画館』構想に思いを馳せているらしい。アイリーンが楽しそうなので大変良いことだ、とその隣でケイもニコニコだった。


「あと、"警報機"と"投影機"の応用で、夜間限定の通信魔道具も考えてるんだけど、どうかな旦那?」


 勢いづいたアイリーンが、身を乗り出してさらにアイディアを披露する。


「指定した受信機に文章を送信、受信機は文章を受け取ったらベルを鳴らして、一定時間影絵で文章を表示する、みたいな魔道具。伝書鴉ホーミングクロウの手紙と違って文章が形で残らないし、夜しか使えないって弱点はあるけど、どんな距離でも一瞬で届くからかなり需要はあるんじゃないか?」

「それは……確かに素晴らしい商品になりそうだけど、少し『怖い』ね」


 ノリノリのアイリーンに対し、一転、ホランドは慎重だった。


「個人で使う分には構わないだろうけど、商品として大々的に売り出すのは……ウチの商会でも、流石に及び腰になるんじゃないかな」

「なんでだ?」

「既存の伝書鴉と役割がかぶりすぎている。ひょっとしたら"告死鳥プラーグ"の魔術師たちを敵に回すかもしれない……」


 ホランドいわく、貴族に雇われている"告死鳥"の魔術師たちにはゆるやかな横のつながりがあるのだという。いわゆる同業組合ギルドのように高度に組織化されているわけではないが、『共通の懸案』に協力して当たる程度の連携力はあるそうだ。そして貴族と直接のつながりがあるだけに、敵に回すと恐ろしく厄介な相手になるらしい。


 既得権益と衝突しかねないとあっては、流石のアイリーンも閉口する。


「やめとこう。そこまでして売りたいわけでもないし」

「その方が無難だとは思うよ、わたしとしてはね」

「緊急性が高い通信はオレの魔道具で、普通の手紙は伝書鴉で、みたいな住み分けもできる気はするんだけどなぁ」

「あ~……これはあくまでも噂だけど」


 それでも渋るアイリーンに、ホランドは肩をすくめ、


「そういう『緊急時の連絡』の必要性があるやんごとなき方々は、それぞれ自前で魔術師を雇って、各々の手段を用意しているそうだよ。まだそこに食い込む余地があるかは謎だし、何より機密性の高い案件を貴族様と組んでやろうとすると、その、面倒なことが色々と――」

「オーライ、やめよう! よくわかった! この話はナシだ」


 天を仰ぎながら手をひらひらとさせるアイリーン。厄介事はうんざりと言わんばかりの顔だ。


「まあ、何はともあれ、まずは"投影機"だろう。飛ぶように売れて他のことをやる余裕なんてなくなるかもしれないぞ」


 ケイがおどけた風に言うと、アイリーンもホランドも「たしかに」と苦笑した。


「それじゃあ、とりあえずこれが作成に必要な材料のリストな」

「ふむ……。意外と安くつきそうだね」


 気分を切り替えたアイリーンが、羊皮紙をホランドに見せながらさらに具体的に話を詰め始める。


「投影する図柄を増やすなら、もうちょっと高くなる。現状だと、想定してる図柄は五枚までだ。図柄の種類を追加するなら、触媒のラブラドライトと水晶がさらに必要になるだろうな」

「ほうほう……このぐらいの素材なら、明後日までには揃えられるだろう。仮に、明後日に全ての材料を渡せたら、試作品はいつ頃できるかな?」

「作業に集中できるなら一日でできる。ただ、静かで落ち着ける環境が欲しいな。宿屋だとちょっとばかし、その……わかるだろ?」


 アイリーンが小さくお手上げのポーズを取ると、ホランドは苦笑しながら頷いた。


「少なくとも、魔術師の研究所に向いていないだろうね。そうだね、静かな環境か……街中で、となるとすぐの話にはならないかな」

「……やっぱ、難しいか」


 今後の将来的な計画――家についても話を切り出そうと思っていたのだろう、アイリーンの眉が少しばかり下がった。


「いや、コーンウェル商会のツテをもってすれば、物件の一つや二つは容易く用意できるよ。なに、安請け合いじゃないさ、君らのためなら『上の方』はそれくらいするはずだ。の魔術師に然るべき環境を与えず、いつまでも宿屋住まいさせているなんて知れたら、商会の沽券に関わるからねえ」

「お抱え、か」


 ふふん、と小さく笑ったアイリーンが、ケイに目配せしてくる。ケイも顎を撫でながらニヤッと笑い返した。とぼけたような顔で『既成事実』として語るホランドが可笑しかったからだ。


「ま、それなら大船に乗った気持ちでいるさ……頼りにしてるぜ、旦那」

「こちらこそ。わたしも君たちと一緒に稼がせてもらわないといけないからね」


 わざとらしく悪い表情――元々垂れ目のいかにもお人好しな顔つきなので、全く悪役には見えない――を作って、揉み手してみせるホランド。ケイとアイリーンは思わず噴き出し、ホランドも柄ではないと思ったのか、腹を叩きながら笑っていた。


 話し合いは終始和やかな雰囲気で進んだ。アイリーンはいくつか魔道具のアイディアを語り、ホランドは商人としての意見を述べながら、後で『上』に報告するのだろう、こまめにメモを取っていた。ケイもまた、今後の展望を語る。アイリーンと暮らす環境を整えつつ、できれば彼女に市民権を取得してもらいたいこと。また、自分自身もこれから少しずつ魔力を強化して、最終的には魔道具の制作にも取り組みたいこと、等々。


 特にケイの魔道具に関して、ホランドは多大な興味を示しており、興奮を隠せない様子だった。ケイの契約精霊、"風の乙女"シーヴは元素の大精霊、伝説に語られるような存在であり、――その力を封じた魔道具に期待するなと言う方が無理、というわけだ。


 実際、使い捨ての矢避けのお守りでも、とんでもない高値がつくだろうとホランドは予測していた。と同時に、軍事的にも非常に貴重であるため、領主クラスの干渉も視野に入れねばならず、慎重に対応する必要がある、とも。


「まあ、君たち相手だから言うけどね」


 途中、茶を飲みながらホランドは訥々と語った。


「この国における『魔術師』の価値は、多分、君らが考えているよりずっと重い。公国の魔術師はその多くが既に貴族のお抱えか、そうでなければウルヴァーンの公王のお膝元、魔術学院の出身者が大半だ。流れ者の魔術師なんて滅多にいないし、コーンウェル商会はこの分野で遅れを取っているから、この機会を逃すわけにはいかないんだよ」


 ――だから、せいぜい自分たちを高く売りつけることだ、と。


「わたしも、ご相伴に預からせてもらうからね」


 そう言って笑うホランドは、確かに商人の顔をしていた。




 そのまま、昼過ぎには話し合いも一段落し、商会本部を辞したケイたちは近場の食堂で軽く食事を摂ってから、街へと繰り出した。


「久々だなぁーサティナは」

「賑やかでいいことだ」


 人々の行き交う大通りをのんびりと歩く二人。


 アイリーンは良質な麻のチュニックに黒いズボン、つややかな金髪をリボンでまとめてさらに頭巾をかぶった町娘風スタイル。ケイはいつものように、白いシャツと革のベスト、少しダボッとしたズボンという代わり映えのしないラフな格好だ。


 それぞれ、腰には護身用の短剣を差し、ケイは"竜鱗通し"のケースも携帯している。弦を外し、ケースの中でCの字に曲がる"竜鱗通し"は、それでもサイズゆえになかなかの存在感があり、町中で異彩を放っていた。


 道行く町人たちが物珍しそうな視線を向けてくる。一見、"草原の民"のような顔つきのケイを警戒しているのか、"雪原の民"の目を見張るような美少女に鼻の下を伸ばしているのか、あるいは「どこかで見た顔だぞ」と訝しんでいるのか。


 今や、サティナの名が出れば必ず語られる"正義の魔女"ではあるが、アイリーンが実際に滞在した日数はごくごくわずかで、直接顔を見たことがある人間はもっと少ない。いくら武勇伝で聞く特徴と合致していても、まさか道ばたを歩いているのがその張本人だとは誰も思わないようだ。


 なんとなくそれが可笑しくて、ケイとアイリーンは顔を見合わせてニヒヒッといたずらっ子のような笑いを漏らした。


 さて、ケイたちは何の目的もなくぶらついているわけではない。大通りを曲がって街の北東部に向かう。



 職人街だ。



 サティナの知人、かつ誘拐事件の被害者家族でもある、矢職人のモンタンを訪ねようとしているのだった。事件後の心配もあるし、魔道具の作成では仕事を頼むことになるかもしれないし、ケイとしては、良質な矢を補充しておきたいという考えもあった。


 昼下がりの食事時ということもあり、この時間帯の職人街はむしろ、落ち着いた雰囲気を漂わせている。記憶を頼りに小道を行き、角を曲がり――パラディー通りの十二番に、それはあった。


 茶色のレンガで組まれた、二階建ての家。


 モンタンの工房だ。


 気のせいか――その家はまるで、賑々しい職人街にあって、息を潜めているかのように見えた。雨戸も半分閉じられて静まり返っており、どこか煤けた印象を受ける。ただ煙突から立ち昇る細い煙だけが、住人の存在を示していた。


「…………」


 顔を見合わせる二人。ケイは訝しげに、アイリーンは心配げに。


 こんこん、とドアノッカーを鳴らしても、しばらく反応はなかった。だがケイが続けて鳴らすと、少ししてから「……はい」と小さな男の声。


「こんにちは、俺だ、弓使いのケイだ」

「それに相方のアイリーンもいるぜ」


 一瞬の沈黙。すぐに、どたばたと騒がしい気配があり、バンッとドアが開かれた。


「ああっ! あなたがたは!」


 姿を現したのは、矢職人のモンタンだ。くすんだ金髪にバンダナを巻いているのは相変わらずの、痩身の男。少しばかり疲れて見えたが、ケイたちの――特にアイリーンの――姿を認めるなり、パッと顔を輝かせた。


「戻って! こられたんですね!」

「あ、ああ……」

「つい昨日、な……」


 ガシッと二人の手を取ってぶんぶんと振りながら、「信じられない」と言わんばかりに笑みを浮かべるモンタン。その勢いに少し気圧されながら、ケイたちは事情を説明する暇もなくただただ頷いた。


「リリー! リリー、お姉ちゃんが帰ってきたよ! アイリーンお姉ちゃんだ!」


 心ここにあらずといった様子で、モンタンが家の奥に向かって叫ぶ。「ささ、どうぞどうぞ!」と手を引かれるままに誘い入れられるケイとアイリーン。しかし二人が困惑気味に浮かべていた愛想笑いは、奥の暗がりから顔を出した少女を見て、凍りついた。


「リリー……?」


 目を見開き、アイリーンは呟く。その唇をわなわなと震わせて。


「アイリーン……おねえ、ちゃん……?」


 かすれた声で、少女は――誘拐事件の被害者『リリー』は、どこか夢見るようなぼんやりとした口調で、アイリーンを呼ぶ。

 

 父親譲りのくすんだ金髪。だが、以前の活発さは今や影も形もない。




 そこにいたのは、目の下に濃いくまを作り、やつれ果てた幼い少女だった。




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