66. 探索


 しっとりとした樹木の香り、湿り気を帯びた土の匂い。


 頭上には眩しい木漏れ日が踊り、小鳥たちのさえずりが響く。


 穏やかな森だ。当初、警戒しながら足を踏み入れた一行だったが、あまりの平和さにピクニックにでも来たかのような錯覚を抱きつつあった。ふかふかの腐葉土が、ブーツ越しにも心地良い。


「恐ろしく平和だ……」


 緊張した面持ちで先頭を進むのは、『アビスの先駆け』の第一発見者こと、マルク。その手に携えているのは、取り回しの良い狩人御用達の短弓ショートボウだ。小型ながらも張りは強く、森の獣を仕留めるに充分な威力を秘めている。


 が、【深部アビス】の怪物を狩るとなると、少々心許ない。


 本人も自覚はあるらしく、しきりに額の汗を拭いながら、落ち着きなく視線を彷徨わせていた。木陰や茂みに、見えない敵を見つけようとするかのように――この調子では目的地に辿り着く前に疲労困憊してしまう。


「まあ、警戒は俺に任せてくれ」


 マルクの後ろをついていきながら、気を遣って声をかけるケイ。


「Take it easyってヤツだ。"大熊グランドゥルス"みたいなデカブツは遭遇する前に気がつくし、人間サイズの小物なら俺が何とかする。心配いらないさ」


 左手の"竜鱗通しドラゴンスティンガー"を見せながら、ケイは軽い調子で言ってのけた。正直なところ大熊クラスと出くわさない限りは問題ない、と考えており、その心の余裕は態度にも表れている。そして隊商護衛の経験から『緊張感を維持しつつ肩の力を抜く』ことに慣れているケイは、外野からすれば、過剰に気を抜いているようにも見えた。


 流石に気楽すぎないか、と言わんばかりに、ちらりと不安げにケイを見やるマルク。ケイとしては励ますつもりだったのだが、残念ながら逆効果だったらしい。実際は油断どころか、"竜鱗通し"と一緒に束ねた矢も握っており、いつでも矢を放てる臨戦態勢だ。一行の中で誰よりも警戒の網を張っているのがケイだった。


「つっても、それで安心できたら世話ないぜ、ケイ」


 と、ケイの後ろを歩くアイリーンが、頭の後ろで腕を組みながら言った。


「たしかにゴキゲンなピクニック日和だが、地獄の淵まで散歩しに行くようなもんだ。緊張するなってのが無理な話じゃないか?」


 そうは言いつつ、あまり緊張した様子を見せないのはアイリーンも一緒だ。むしろ他の男たちに比べ格段に軽装なので、より一層、気楽な物味遊山の風情を漂わせている。


 現在のアイリーンの出で立ちを一言で表せば、『森ガール』だろうか。長袖のシャツにぴったりとした長ズボン、背中にはサーベルを背負い、丈夫な革手袋をはめている。獣相手には効果が薄く、デッドウェイトになる盾や額当ての類は全て村に置いてきた。足音をほとんど立てずに、木々の間をすり抜けるようにして進む様は、猫科の肉食動物を彷彿とさせる。


 そして腰のベルトには投げナイフの束と、飲料水を詰めた革袋、そして金属製の水筒スキットルをぶら下げていた。スキットルの中身は度数の高い蒸留酒だ。これがあれば怪我をしてもすぐに消毒できるし、もちろん、いざというときには宴会のお供にもなる。


「……まだ、【深部アビス】が動いたと決まったわけじゃない」


 アイリーンの背後、憮然とした顔で言うのは、開拓村の村長エリドアだ。今回、彼は村の責任者として、事実関係の確認のために同行している。その立場上【深部】の侵蝕については否定的だが、必死で自分に言い聞かせている節があり、本当にそう思っているかは謎だった。


 身体が頑丈で、畑を耕す以外に特に技能のないエリドアは、一行の中で荷物運びポーターを担当している。その背には大きな革の荷物袋。万が一、【深部】の希少な動植物が発見された場合は、きちんと持って帰れるようにするためだ。


【深部】の侵蝕を極力認めたくない彼ではあるが、それに対する備えも忘れない辺り、複雑な心境が窺える。


「それにしても【深部アビス】、ですか」


 最後尾の吟遊詩人、ホアキンが感慨深げに呟く。


「物語や伝承では幾度となく耳にする言葉ですが、まさか、それを自らの目で確かめることになろうとは……」

「……だから、【深部】と決まったわけでは……」


 眉をハの字にして弱々しく抗弁するエリドアに、これは失敬、とばかりに頭に手をやり「すいません」と苦笑するホアキン。


 探索を目的とした一行の中で、ホアキンは異彩を放っている。エリドアでさえベルトに護身用の剣鉈を差しているというのに、完全に丸腰なのだ。邪魔にしかならない琴を置いてきているのは当然としても、ナイフの一振り、針の一本さえ持っていない。


 本人曰く、武技の心得は一切ないので、とにかく逃げ足を優先するとのことだ。今回の探索はあくまで『自己責任』、足を引っ張るようなら見捨てていっても構わない、とホアキンは言っていた。悪く言えば人任せ、しかし裏を返せば己の分をわきまえているとも言える。足場も悪いし、すぐ隣で素人に危なっかしく鉈を振り回されるよりはマシかもな、とはアイリーンの言だ。


「そういや、【深部】ってのは、巷ではどんな風に語られてるんだ?」


 興味津々なアイリーン。「そうですねえ……」と頷くホアキンの右手が、所在なさげに揺れる。肌身離さず抱えていた琴も、今はない。


「――アクランドは遠く 北と東の狭間 義勇アルバート 精霊の導きを受け 深緑の最奥に挑まんとす――」


 朗々とした歌声が響き、一瞬、辺りが静まり返る。まるで森の獣や小鳥たちも思わず耳を傾けたかのようだった。


 ホアキンが歌ったのは、百年ほど前にアクランド連合公国を旅して回ったアルバートという義賊、もとい探検家の冒険譚だ。尋常ならざるサバイバル技術を身に付けていたのか、精霊の加護を得ていたのか、はたまた単に運が良かっただけなのか、公国北東部の広大な【深部】を一週間かけて歩いて縦断した、という逸話が残っているらしい。


 小山ほどの大きさがある"大熊グランドゥルス"、木々を薙ぎ倒して進む"森大蜥蜴グリーンサラマンデル"、そして翼を休めながら見たこともない美しい獣を貪り食う"飛竜ワイバーン"――【深部】に棲まう怪物たちの姿が、ホアキンの涼やかな声でおどろおどろしく語られる。マルクやエリドアは震え上がっていたが、ケイとアイリーンからすれば眉唾ものだ。"大熊"も"森大蜥蜴"も確かにデカブツだが、『小山ほど』とは流石に盛り過ぎだろう。他に目撃者がいないだけに、いくらでも誇張できる話ではある。


 尤も、ゲームと比較すると世界そのもののサイズが拡大しているだけに、【深部】の怪物たちが巨大化している可能性も否定はできないが。


 ともあれ、そんな怪物たちをやり過ごしつつ、アルバートは珍しい草花や昆虫を収集し、公国の博物学を一人で数十年分も進歩させたという。彼自身は魔術師ではなかったようだが、マジックアイテムをいくつも保有していたとの話もあり、行く先々で様々な騒動を引き起こしていたようだ。公国での冒険の後は、港湾都市キテネで商船に乗り込んで西の大陸フォートラントに渡ったとも、東の辺境のさらに果て、まだ見ぬ未開の国を目指して旅立ったとも言われている。


「フォートラントか……」


 ホアキンの解説を聞きながら、ケイは小さく呟いた。【DEMONDAL】のゲーム内では、存在が示唆だけされていたエリアだ。そして海辺の交易都市キテネには、金払いの良いフォートラントからの商人NPCが多数いたことを、ケイは懐かしく思い出す。フォートラントとリレイル地方を行き来する船舶も存在したが、プレイヤーが乗り込むと、外洋で必ず巨大な海竜に襲われる仕様で決して辿り着けないよう調整されていた。近々大型アップデートで追加される、との噂もあったが――ゲーム内の皆は、今頃どうしているのだろうな、とケイは郷愁にも似た思いを抱いた。


 一方で、この世界では、フォートラントは普通に行き来が可能な大陸として認識されているようだ。そういえば、公都の図書館で調べ物をしていたときも、フォートラントの記述を目にした覚えがある。


「元を辿れば、現在の公国の民もフォートラントから来た人々の末裔だったか」

「そうですね。三百年ほど前に平原の民がこの地を訪れた、と伝わっています」


 ケイの問いに、首肯するホアキン。すかさずアイリーンが口を挟んだ。


「平原の民が、って言うけど、他の民族はどうだったんだ?」

「草原の民は、この地の原住民族ですが、詳しい来歴は不明です。雪原の民ロスキは平原の民とほぼ同時期に北の大地に渡った、と言われていますね。高原の民フランセ海原の民エスパニャが本格的にこの地を訪れるようになったのは、それからさらに半世紀ほど経ってからのことだったとか。確か、その頃にフォートラントに存在した古き海原の民の王国が、【深部】に呑まれ滅んだと聞いています」


 故に、海原の民は新天地を求めざるを得なかった――と言外にホアキンは語る。先祖の苦難に思いを馳せたのか、褐色肌の青年は憂いを帯びた顔で木漏れ日越しの空を見上げ、ため息をついた。その眼前では、これから迫り来る苦難を思い描いてか、エリドアがますます顔色を悪くしている。


 と、マルクが手を挙げて隊列を止めた。


「……確か、この辺りだったと思う」


 話をしているうちに、目的地へと辿り着いたようだ。


 一見、普通の森と変わらない。


 青々とした背の高い広葉樹林。足元は柔らかな腐葉土で、一面に茶色の大地が広がっている。頭上に生い茂る木の葉のカーテンのせいで少々薄暗いことを除けば、存外に見晴らしはよく、ケイの視力をもってすれば奥の方まで見通すことができた。茂みや木々の裏に何が隠れているかまではわからないが――


「……静かだな」


 サーベルの背負い紐をいじりながら、アイリーンが周囲を見回した。森に入ってすぐのところは、小鳥や小動物のざわめきで満ち溢れていたものだが、この辺りの静けさは空恐ろしいほどだ。


「……どうする? もう少し進むか?」


 声を潜めてエリドア。言葉とは裏腹に、一刻も早くこの場から立ち去りたそうな顔をしている。


「ちょっと待ってくれ」


 ケイは右手を軽く握り、望遠鏡のような輪っかを作って覗き込みながら、森の奥を見やった。周囲の余計な情報を遮断し、ピンホール効果と併せて視力をさらに引き上げるテクニック。じっくりと舐めるように、視線を横に動かしていく。


 やがて、ケイの眼は、森には不似合いなほど鮮やかな色を拾い取った。


「……見つけた。間違いない、『アビスの先駆け』だ。一、ニ、三……多いな。少なくとも妖精の悪戯ではなさそうだぞ……」


 ケイの言葉に、皆の表情が良くも悪くも引き締まる。


「ということは……つまり、本当に【深部】の侵蝕が進んでいる、ということですね」


 エリドアやマルクを気遣ってか、ホアキンが神妙な表情を作って確認するが、興奮で上擦った声は隠しようもない。


「そういうことになる」

「……なんてことだ」

「お終いだ……」


 渋い顔でケイが首肯すると、エリドアとマルクがこの世の終わりが訪れたような顔で呻いた。事実、彼らからすれば世界の終わりに近い。


「……で、どうする? 『アビスの先駆け』、咲いてんだろ?」


 腕組みしたアイリーンが、クイと森の奥を顎でしゃくった。


「採取しに行くか?」

「行った方がいいだろうな。……村の皆には、先立つものも必要になるだろうし」


 この後、村がどうなるかはわからない。領主が開拓を中断するかもしれないし、案外、【深部】探索の前線基地として維持されるかもしれない。そうなれば、命知らずの探検家で村が賑わうという可能性もありうる。――エリドアたち元の住民が、それを喜ぶかどうかは別として。


 いずれにせよ、これから金が入用になるのは確かだろう。


「……そう、だな」


 エリドアがいち早く再起動を果たし、背中の荷物袋を担ぎ直す。平原の民として一般的な茶色の瞳には、めらめらと使命感の炎が燃えている。


「……おっかない化け物はいないのか?」

「一応、見える範囲にはいない」

「そうか……ならいいが……」


 短弓に矢をつがえながら、マルクは限りなく不安そうだ。


 一行は最大限に警戒しながら、『アビスの先駆け』を目指し、さらに奥へと進む。


「……まだ進むのか?」


 ケイがあまりにあっさりと「見つけた」と言ったので、アイリーン以外の面々は割と近くに花が咲いていると考えていたようだ。なかなか見つからない青い花に、エリドアが訝しげな視線を向けてくる。


「もうちょっと先だ」

「ケイの眼はバカみたいに高性能だからな。ケイの言う『もうちょっと先』はオレたちの『だいぶん先』だ、憶えといた方がいいぜ」


 アイリーンは慣れっこの様子で、ぷすーっと息を吐いてからそう言った。その左手には投げナイフ。いつ、どこから何が飛び出てきても反応できる構え。


 そうして歩みを進めるうちに、ケイとアイリーンを除く三人が顔を強張らせ始める。今まで木々や茂みに遮られていてよく見えなかったが、森の奥の木々が一気にサイズ感を増し始めたからだ。


 それは、『巨人の森』――とでも形容するべきだろうか。この辺りは比較的幹の細い常緑樹が主だったのだが、同じ種類の樹木であるにもかかわらず、奥の木々は一回りも二回りも幹が太く、背が高い。


「何だアレは……なんであんなに木が育ってるんだ」

「……『アビスの先駆け』を見つけたとき、ここまでは来なかったみたいだな」


 恐れおののくマルクに、ある種の確信を深めるケイ。


「あ、ああ……もうちょっと手前に咲いていたと思う……」

「そうか、たまたま外側に咲いてたヤツを見つけたのか……成る程な」


 今回の『アビスの先駆け』発見が、【深部】の侵蝕が原因である、と断定できなかった理由がこれだ。樹木の巨大化は【深部】侵蝕に伴うわかりやすい現象の一つであり、村でマルクが巨木の存在を証言していれば、ケイとアイリーンは即座にそれと判断できただろう。


 仮に、樹木の巨大化が確認できず、一輪だけ『アビスの先駆け』が咲いていたなら、妖精の悪戯である可能性の方が高かった。だが実際は、マルクがたまたま深入りする前に霊花そのものを発見していた、というわけだ。


「ほら、見えてきた」


 とある巨木の根っこのあたりに、青い色。薔薇にも似た豪奢な花びら。


『ヴィグレツィア・グランドフローロ』――別名、『アビスの先駆け』。ポーションの材料となる希少な霊花だ。


「コイツは寄生植物の一種でな」


 アイリーンが解説する。


「こうやって木の幹に寄生して咲くんだ。ただ寄生といっても宿主に害はない。むしろ周囲の魔力を吸収しながら、宿主に薬効成分を与えて徐々に巨大化させていく」


【深部】に巨大な動植物がのさばる原因の一つが、この花だ。普通の森を【深部】へと作り変えてしまう張本人、とも言える。


 節くれだった巨木の幹を撫でたエリドアが、腰の剣鉈を落ち着きなく触りながら、何か恐ろしいものを見るような顔で青い花びらを覗き込んだ。


「……こうしてみると、美しい花だ」

「ええ、本当に」


 ぽつり、と呟くエリドアに、うっとりとした顔のホアキンが頷く。


「どうやって採取すればいい?」

「根ごと引っこ抜くよりかは、根本から切るのがオススメかなー。ひょっとしたら再生して、また採取しに来れるかもしれないぜ」

「…………」


 アイリーンの、冗談とも本気ともつかない返答に、エリドアが絶句する。ちなみに、アイリーンは至って真面目に答えている。


「じゃ、じゃあ……」


 気を取り直し、剣鉈を抜いたエリドアが、アビスの先駆けを根本から切断しようとした――そのとき。



 周囲を警戒していたケイが、ぴくん、と肩を揺らした。



 無言で、サッと姿勢を低くする。突然のことだったが、反射的に、あるいは本能的に全員がケイに倣って身をかがめた。


「?」


 何があった、とアイリーンが視線で問いかけると、ケイは緊張感もあらわに前方を睨みながら、ぺろりと唇を舐めた。


 ゆっくりと"竜鱗通し"に矢をつがえ、囁くように言う。



「近くに何かいる」



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