59. 茶会
ヴァシリー=ソロコフはガブリロフ商会所属の魔術師だ。
一口に『魔術師』と言っても能力は千差万別だが、ヴァシリーは"
告死鳥との契約は呪いの一種であり、肉体を蝕み健康を害するが、その代わり使い魔――黒い羽を持つ鳥全般――の使役、使い魔への憑依、邪眼による呪殺など、幅広い術の行使を可能とする。尤も、呪いは己にも危険が及ぶ上、恨みを買うのでヴァシリーが商売道具にすることは滅多にないが。
今日も今日とて、
「……おや」
商館の二階に構えた、工房兼研究室。窓から夕日が差し込む頃、呪い返しの結界に、何か触れるものがあった。悪意ある干渉を跳ね除け撃退する魔力の壁に、ただぬるりと滑り込むような奇妙な感覚。
振り返れば部屋の壁に、まるで影絵のように、黒々と切り抜かれた淑女の姿が描き出されている。貴族の娘を彷彿とさせるドレス、輪郭だけでそれとなく美人であることを伺わせる楚々とした佇まい。
「やあ、これはこれは」
この精霊には見覚えがある。
しばらく前、商会の隊商に同行していた若き魔女――『アイリーン』の契約精霊で、確か名前は"黄昏の乙女"ケルスティンといったか。アイリーンはブラーチヤ街道で馬賊を撃退したのち、突如隊商から離脱してその後は行方知れずになっていたはずだ。
だが、こうして接触があったということは――
上品に会釈した影の精霊は、そのまま指先でするすると文字を書く。
『お久しぶり、ヴァシリーさん。もしよろしければ、一緒にお茶でもどうかしら』
『秘密のお茶会へご招待』――と。続いて、ディランニレンにほど近い宿場町と、その中のとある宿屋の名前と。
『窓にハンカチをぶら下げた部屋。よろしければ、いかが?』
ケルスティンが首を傾げてみせる。
「喜んで伺おう。今すぐ向かうと伝えてくれるかな」
ヴァシリーの返答に頷いたケルスティンは、再び会釈してふわりと消えていった。
「……ふふっ」
魔術師の男は、思わず笑ってしまう。そのしわだらけの顔に、皮肉な笑みが浮かぶのを抑えられなかった。商会の面々は、血眼になってアイリーンとケイを探しているとのことだったが、二人はもうディランニレンを突破して公国に戻っていたらしい。
そうとも知らずに、北の大地の辺境を未だ探し回っているであろう商会の者たちが、滑稽に感じられてならなかった。
「『秘密のお茶会』、か」
つまり、そういうことだろう。
ひとしきり静かに笑って、真面目な表情を取り繕ったヴァシリーは、傍らの卓上の小さなベルを手に取る。チリンチリンという澄んだ音に、小間使いの少年が飛んできた。
「お呼びですか、旦那様」
「ああ。所用で少し出かけてくる、皆にもそう伝えてくれ。明日の朝には帰るから心配しないように」
「わかりました、行ってらっしゃいませ」
ヴァシリーがふらりと出かけていくのは珍しいことではない。小間使いも慣れた様子で、そそくさと下がっていった。
「さて、と」
外出用のローブを羽織りながら、夕焼け空を見上げるヴァシリー。まだ明るいので大丈夫だろう、宿場まではそれなりに離れているが、彼の翼ならばひとっ飛びだ。
「楽しみだ」
にやりと笑ったヴァシリーは、ばさりとローブを翻す。
体を捻るようにして一羽の鴉に変化し、窓から飛び出した。
翼をはためかせる。呪いのせいで生身の肉体はぼろぼろだが、鴉の姿に変化すれば体調はそれほど悪くない。そして毎度のことながら、空を飛ぶのはいい気持ちだ。いつか私は鴉になるのだろうか、などと呟きながら進路を定める。
夕焼け空に鴉が一羽。
ありふれた光景だ。
誰にも気に留められることなく、鴉は楽しげに飛んでいく――
†††
――とある宿場町。野宿で一夜を過ごしたケイたちは、次の日さらに街道を南下し、昼間のうちに宿を取ってのんびりと体を休めていた。
宿屋の一室でケイたちがごろごろしていると、トントン、と雨戸を叩く音。
「おっ、来たか」
部屋着だけの楽な格好をしたアイリーンが、ベッドから跳ね起きて雨戸を開ける。
『やあ、お嬢さん』
ぱたぱたと羽を震わせる大きな鴉が止まっていた。かすれた声で
『お久しぶりね、ヴァシリーさん』
『久しぶり、アイリーン。まさか律儀に約束を守ってくれるとは思わなかった。お招きありがとう』
そこで、窓の桟に止まったまま、ベッドから立ち上がって所在なげにしているケイをちらりと見やる。
「Hello」
どこかぎこちない口調で、ひらりと片羽を上げてヴァシリーが挨拶した。
「こ、こんにちは」
少し意表を突かれながらも、ケイも挨拶を返す。ヴァシリーは羽でくちばしを隠しながら、クスクスと笑った。
『いやはや、相変わらず公国語は喋れないんだ。『Hello』の他は『Thank you』と『Nice to meet you』だけで、困ったことに最後の一つに至っては彼には使えない』
『まあ、今から憶えるのは確かに厳しいんじゃないかしら……仕方がないわよ』
『そうだね、精霊語で手一杯さ。ところで、入っても?』
『ええどうぞ、もちろんよ』
アイリーンに招き入れられ、一羽の鴉がぱたぱたと床に舞い降りる。そこで、ズワッと人の姿へと戻った。ぎょっと仰け反るケイにアイリーン。
『……ん? 何を驚いているんだ』
『いえ、まさか、本人が来るとは思ってなかったの。てっきり、使い魔に憑依してきたのかと』
『ああ、それも考えたが、近くにいい感じの使い魔がいなかったんだ。この距離なら私が直接飛んだ方が手っ取り早い』
『今夜は、じゃあどうするの?』
『こっちで宿を取るつもりだ。ゆっくり語ろうじゃないか』
ニチャァリ、としか形容しようがない粘着質な笑みを浮かべてヴァシリー。ちなみに彼には何の他意もない。ただおどけた風に笑うと、そんな風になってしまうだけだ。
ヴァシリーがサッと部屋で手を振ると、周囲の音が消えた。隣の部屋にいたはずの宿泊客の声や、下の階の食堂の喧騒が全く聴こえなくなる。ケイもアイリーンも、ヴァシリーから波動のように発せられた魔力の揺れに気づいていた。
『これは……?』
『君らも、ただ雑談に私を呼んだわけではあるまい? 消音の結界だ、羽ばたきの音を消す術の応用さ』
「なんだって?」
「消音の結界だって。羽ばたきの音を消す術を応用したんだってさ」
「ほう、そんなことができるのか。それは凄い、知らなかった」
ヴァシリーの説明をアイリーンが即座に訳す。言葉こそ通じないが、ケイがあまりにも素直に感心しているので、ヴァシリーは楽しそうに笑っている。
『凄いわね、こんな術があるなんて知らなかった』
アイリーンもまた、驚いていた。ゲーム内に"告死鳥"の魔術師はありふれていたが、使い魔の使役や憑依がメインで、消音の術など聞いたこともない。廃人たるケイとアイリーンが知らないのだから、おそらくプレイヤーに発見されていなかったか、あるいはゲームには実装されていなかったか、のどちらかだ。
『それは良い。君らは何でも知っているのではないかと、少し心配すらしていたところだったんだ』
窓際の小さな椅子に腰掛けながら、ヴァシリー。
『しかし
『ああ、それなんだけど、今日はちょっと考えてみたの』
ベッドサイドに放り投げてあったポーチから大きな水晶の塊を取り出したアイリーンは、【 ――Kerstin.】と名前を呼び、それを床の影に沈める。
【 Arto, Kerstin-Sensei. 】
アイリーンの足元の影が伸び、ケルスティンが壁に姿を現す。
『これでいいわ。自動翻訳の術よ』
『自動翻訳? というと?』
ヴァシリーが首を傾げると、彼自身の言葉がすらすらと壁にロシア語で書かれ、すぐに滲むようにして『Auto-translation? What do you mean?』と英語に書き換えられた。
「筆談のように会話ができるってわけだ」
ケイが英語でそう言うと、今度はその言葉が英語で影絵に表示され、直ちにロシア語へと変換される。
『ほう! これは面白い!』
ヴァシリーは興奮した様子で膝を打った。
『ケルスティンは、どうやら
アイリーンの言葉も、即座に変換されていく。
アイリーンが何を話しているのかもわかるようになった、とベッドサイドの椅子に腰掛けたケイは、なぜか自分のことのように得意げな顔をしている。
「ヴァシリー殿とお話するのに、アイリーンに通訳してもらうと時間がかかるからな。この術があれば、不便せずに済むと思う」
『……いやはや、私もこれは想像していなかった。本当に優秀な精霊だね。そして、君とも是非話したいと思っていたんだ、彼女には感謝しなければならない』
「全くだ、アイリーンにも、ケルスティンにも。……しかし、普通の言葉がわかるなら精霊語なんていらなさそうなものだが……」
ケイがぼやくようにして呟くと、ヴァシリーがぱちぱちと目を瞬かせる。
『む、知らないのか。精霊語は『契約』のために必要な言葉だ。我々人間の言葉で精霊に語りかけてもそれは頼みごとの域を出ず、それだけで精霊を動かすことはできない。精霊語で厳密に、そして的確に術の内容を定義することで、初めて精霊は魔力や触媒を対価として受け取れるようになる』
「……そうなのか」
『ああ。そして私のように、精霊語じゃないと契約精霊と意思疎通が図れない魔術師も少なくない。必ずしも、全ての精霊が人の言葉を解するわけではないんだ。……これはまず、師から教わる魔術の基礎だと思うが』
『私たちは、ちょっと我流なところもあるのよ。精霊語はそれなりに使えるけど、それが必要な理由についてはさっぱりだったわ』
荷物から、宿場で買い揃えておいた酒やツマミを取り出しながら、アイリーン。
『ヴァシリーさんも一杯いかが?』
『おっ、頂こうか』
ヴァシリーとて雪原の民だ、酒好きであることには変わりない。アイリーンから盃を受け取り、礼を言いながらも、さり気なく注がれた葡萄酒に指を浸し、その指にはめた指輪を注視した。――はめ込まれた青い宝石は、色を変えない。
『じゃあ、乾杯といきましょ』
アイリーンが音頭を取り、全員で盃を掲げ、そのまま口にする。
『うん、良い葡萄酒だ』
何事もなかったかのように、舐めるようにして葡萄酒を味わったヴァシリーはにやりと笑う。無言で盃を傾けるケイは、そんな彼の細かい動作に気づいていたが、何も言わなかった。用心するに越したことがないのは、お互い様だからだ。
『……ぷはっ。生き返るぅ~! ここの葡萄酒、美味しいわね。ヴァシリーさんが来るまで我慢するの、大変だったんだから』
早速空にした盃を振りながら、アイリーンは笑ってみせる。
『そいつは済まなかった。この葡萄酒は、こちらで買ったものかね?』
『そうよ』
「……下の食堂で売ってたよ。地元のワインだそうだ」
『……ほう、なるほど。すっきりとした味わいで良いものだ、これは雪原の民好みの味だよ。商会の者に教えても良いかもしれない』
盃の中身を揺らすヴァシリー。その言葉に、ケイとアイリーンは目配せした。
『……商会といえば、ガブリロフの皆さんは今どうしてるのかしら?』
平静を装ったアイリーンの問いに、ヴァシリーは苦笑を隠せない。
『血眼で君らを探し回っているよ。まさか、もうディランニレンを突破して公国に戻ってきているとは思いもよらないだろう』
『あら、そうなの』
『少なくとも数日前に話を聞いた限りでは、まだ北の大地の辺境を重点的に探っていたはずだ。魔の森に突っ込んだと聞いたが、あれは嘘だったのかね?』
『流石、耳が早いわね』
『当然だよ、私がその耳なのだから』
『あはは、そうだったわ。魔の森に行ったのは本当よ。ただ出てくるのが早かったの』
アイリーンとヴァシリーが話す間、ケイは壁に表示される訳文を読むのに注力せねばならなかった。英語なので理解はできるが、ネイティヴではないので、結局読むのにもそれなりに時間がかかってしまう。とてもではないが、途中で口を挟む余裕はない。
『私たちのことは、伏せておいてくれると助かるわ』
『まあ、わざわざ知らせる義理はない。私は別に構わないよ』
『ありがとう、本当に』
『それより、君らが……というより、ケイが瀕死の重傷者を奇跡のように蘇らせた、と聞いたのだが。流石に眉唾ものだと思ったよ、実際のところ、どうなんだい?』
ヴァシリーが、今度はケイに話を振ってくる。冗談めかしての問いだったが、その瞳には油断ならない光があった。
告死鳥の魔術師は、呪われる身。
彼も『奇跡』に興味があるのだろう。そう判断したケイは、慎重に口を開く。
「……一人、知り合いを助けたのは本当だ。俺の命を分けたのさ。代償は酷く高くついたが、それでも彼は良くしてくれたから」
重々しい口調で、ケイは答えた。ケルスティンが気を利かせて重々しい
『……ふぅん。まあそうか、代償とやらは想像もつかないが、それが気安いものでないことはわかる』
ヴァシリーは澄まし顔でクイッと盃をあおった。
『ただ、隊商の大勢の前でやったのは良くなかったな。皆、本当に必死だぞ。君の武力を恐れているのか、強硬手段に出るつもりはなさそうなのが幸いだが』
「……それは良かった。俺も馬賊相手に張り切った甲斐があったというものだ」
飄々として肩を竦めるケイに、ヴァシリーはくつくつと喉を鳴らして笑う。
『……君が単騎で五十人以上もの馬賊を相手取って鬼神の如き活躍を見せた、と聞いたときは何の冗談かと思ったよ。しかし、夜が明けてからもう一度、現場を見回ってみたら、とんでもない量の死体が転がっていて驚かされた。しかも、聞けば君自身、何十本も矢を受けたというのに、戦いが終わったら傷一つなくピンピンしていたと言うじゃないか。人の身とは思えぬ強さ、卓越した馬上弓の腕前、そして若くして魔術の心得まであると来た。これでは、瀕死の人間を死の淵から救い出す『奇跡』も容易く扱えるのではないか――と、外野が考えるのも自然な流れだ』
私だって君らが何者なのか教えて欲しいくらいだ、とヴァシリーは言った。
『まあしかし、公国にいれば、ガブリロフ商会も流石に手が届かない。厄介事を持ち込まれることはないだろう。ただ、噂話が漏れ出すことくらいは覚悟しておくべきかもしれないよ』
「……ご忠告、痛み入る」
ケイは渋い顔で頷く。と同時に、帰り際に商会の者に見つからなくてよかった、と思わざるを得なかった。
『ヴァシリーさんは、なんでガブリロフ商会に雇われているの?』
と、アイリーンが唐突に問いを投げかける。
『ん、金払いが良いから、としか言いようがない。助手もつけてくれるし、魔術書や触媒の類、そして私の場合、術に不可欠な黒羽の鳥を探すのも容易だ。一日中研究に打ち込むことはできないが、利点はあまりに多い。これを利用しない手はないよ』
アイリーンの読み通り、商会に対する思い入れは全く感じさせない口ぶりだ。
『研究って、ヴァシリーさんは普段どんなことを?』
『そうだな……私は魔除けの護符をよく研究している。より効率の良い素材、より呪いへの抵抗力が強い術式、などなど』
ケイもアイリーンも、感心して頷いた。ヴァシリーは流石に詳しい研究内容までは口にしなかったが、それでも『本物』の魔術師の生活が垣間見えるのは興味深い。
『もし、良い魔除けができたら売ってもらえないかしら?』
『もちろん良いとも。リクエストがあれば優先的に都合はできる』
アイリーンのお願いに、ヴァシリーは鷹揚に答えた。
『それとアイリーン。君の"警報機"の仕組みを応用して、告死鳥に魔術に適用できないかも研究していたよ。一応、基礎理論は完成したから、あとは黒い羽の夜目が利く鳥を探すだけだ』
「……夜間に警戒してくれる使い魔か」
『……そう。ただし疲労を避けるために、二羽から四羽でのセット運用を考えている。アイリーンの精霊は本当に優秀だから、その点は羨ましいよ。私の術はどうしても使い魔の性能に依存することが多い』
本当に、心底羨ましそうな顔のヴァシリー。告死鳥の魔術は便利なものが多いが、デメリットが強烈すぎる。あからさまに健康を害している魔術師を前に、アイリーンは愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。
『そうだ、それでヴァシリーさん、ぜひ教えて欲しいのだけど。私の"警報機"が完成したら、あれってどれくらいの値段になるかしら?』
『ん? ……ああ、なるほど、相場を知りたいわけだね?』
一発でアイリーンの意図を見抜いたヴァシリーが、ニヤリと笑いながら盃を揺らす。
『そうさな……あれはあまりに便利な上に高性能で革新的だから、……最初はさぞかし高値で売れるだろう……とは思うが、しかし、うーむ……』
腕組みして唸ったヴァシリーは熟考し始めるが、段々その表情が険しくなっていく。
『……公国銀貨五十枚』
やがて、ぽつりと、呟くようにして言った。
ケイとアイリーンは顔を見合わせる。それは、拍子抜けするほど少ない額だった。
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