58. 帰還


 起伏のほとんどない、なだらかな平野が広がっていた。


 草原――と、呼ぶには、いささか乾いた印象を受ける。からりと晴れ渡った空の下、水気に乏しい草がかさかさと風にそよぐ。


 と、それに紛れるようにして、トタタッ、トタタッと軽快な蹄の音。土煙を巻き上げながら並走する、四騎の騎馬の姿があった。


「おっ、見えてきたな!」


 先頭、"竜鱗通し"を手に、サスケを駆るケイは顔をほころばせる。


「ディランニレンだ!」


 指差す先には、まるで岩山のような城壁に守られた、堅固な都市。


 北の大地と公国の境目――緩衝都市ディランニレン。


「おっ、マジか!」


 ケイの言葉に答えたのは、やや斜め後方で栗毛の馬を駆るアレクセイだ。馬上で手をかざし、目を細めた金髪の青年は、すぐに諦めてお手上げのポーズを取った。


「ダーメだ、さっぱり見えねえ!」

「ケイの目でやっと見えたってことは、まだまだ遠いな」


 ケイの隣でスズカに跨るアイリーンが、からからと笑っている。


「なぁに、夕方までには着くだろうさ」


 灰色の馬に跨ったセルゲイは、相変わらずマイペースだ。


 ――夏の終わり。


 街道を避け、北の大地の中央部を縦断したケイたちは、今まさに、公国へ帰還しようとしていた。



          †††



 オズに見送られて館を出たのは、一週間ほど前のことになる。


 別れ際にオズが言っていた通り、霧の中を二歩も進めばそこはもう森の外れだった。流石はオズの旦那だ、などと話しながらシャリトの村へと戻るケイとアイリーンだったが、しかし、すぐには村に入れてもらえなかった。


 というのも、村人の多くは既にケイたちは死んだものと思っていたらしく、見事生還を果たした二人を怪物か悪霊の類だと信じて疑わなかったのだ。アイリーンが「怪物や悪霊は霧の外には出てこれないはずだろ!」と主張したが、門番の村人は類稀なる慎重派――あるいは臆病とも言う――で頑なに門を開けようとしない。


 結局、騒ぎを聞きつけたアレクセイが村の壁をよじ登って外に飛び出し、二人に直接触れて生者であることを確認してから、ようやく村の門は開かれた。怪物でないとわかればみな現金なもので、そのまま担がれるようにして村の集会場へ連行された二人は、酒や料理でもてなされながら魔の森の話をせがまれた。


 魔の森での出来事、及びオズについての説明は、ケイはアイリーンに丸投げした。


 単純に、『並行世界』という概念の説明が、ケイたち・村人の双方にとって公国語イングリッシュでは難しかったのと、情報を取捨選択するのはアイリーンが雪原の言語ルスキで話した方がやりやすかろうと判断したためだ。


 オズの『指輪』の件など、伏せておきたい情報はいくつかある――


 ケイはロシア語がさっぱりなので、その場ではアイリーンが語る姿を眺めながら飲み食いするしかなかったが、あとから聞いた話によると、森で遭遇した怪物のこと、オズという『賢者』のこと、異世界の概念を説明するに留め、二人の故郷たる地球についてはサラッと流したそうだ。


 大地と空と海が『世界』の全てである村人たちに、並行世界の概念を説明するのは骨が折れた、とアイリーンは語る。最終的に、悪霊や精霊を引き合いに『現世とは異なる魂の世界』の概念を応用して、漠然と別世界という概念を説明したらしい。


「アレクセイとか、頭の柔らかい奴は、何となく理解してたっぽい。それ以外の連中は……ありゃ別の大陸の話か何かくらいにしか考えてないな」


 と、アイリーンは肩をすくめていた。


 その後も、飽きもせず魔の森の話をせがまれたり――特に霧の巨人とケイが対決した話が人気だった――村の男たちと一緒に狩りに出かけたり、シャリトの住人たちに歓待されながら、だらだらと数日を過ごした。セルゲイなどは、二人揃っての移住を盛んに勧めてきたが、そんなある日、ガブリロフ商会の使者が村を訪れた。


 なんでも、商会はケイたちの行方を探しているらしい。目的は言わずもがな、瀕死の重傷者を死の淵から救い出したケイの"秘術ポーション"だろう。商会の皆は、二人の旅の目的地がシャリトの村であったことをしっかり憶えていたらしく、わざわざ二人が辿り着いていないか確認しに来たのだ。

 

 馬賊襲撃のあらましと、商会を強引に離脱した件は、村人たちにもあらかじめ話してあった。厄介な気配を察して、使者に応対したセルゲイは機転を利かせた。


「ああ、その二人ならしばらく前に村に来たぞ。その後は魔の森に向かって霧の中へと入っていったが、それきり帰ってこない」


 もし二人を探しているなら魔の森に行ってみたらどうだ、とセルゲイが言うと、使者は護衛の戦士たちと顔を見合わせ、「商会の指示を仰ぐ」と言い残し急いで引き返していった。それとなく物陰から状況の推移を見守っていたケイとアイリーンは、その慌てぶりに苦笑したものだ。


 このまま身辺を探られるのも面白くなかったので、名残惜しくはあったが、二人は村を発つことを決めた。


 商会が新たな行動を起こす前にとっとと帰ってしまおう、ということで、翌日には村を出た。村人総出で見送られ、惜しまれながらの出立だ。


 ディランニレンまでの旅路には、セルゲイとアレクセイが同行することとなった。


 商会の情報網に引っかからないよう、街道は使わずに、広大な平野を南西へ直接突っ切るルートを進む。公国の地図には載っていなかったが、平野にも泉や小川など水源があるらしく、小さな集落が点在しているそうだ。アレクセイも公国からシャリトの村に帰る際は、このルートを利用したとのこと。


 ちなみにこの道案内の対価として、セルゲイが要求したのはケイたちの地図だった。正確には、その内容。ウルヴァーンの図書館の有料サービスで描き写してもらったその地図は、北の大地の住人たるセルゲイたちが驚くほど精確なものだった。


「いかんせん、北の大地は広いからな。氏族の領地内に限った地図ならまだしも……北の大地全体の地図となると、本家の連中ですらここまで詳しいものは持っとらんぞ」


 出立前夜、居間のテーブルで地図を書き写しながら、セルゲイは言った。


 図書館で聞いた話によると。この地図は、告死鳥プラーグの魔術師を用いた人海戦術で空から見た景色をそのまま紙面上に落とし込んだものらしい。まさに『鳥瞰図』というわけだ。ただ、街道沿いや豊かな西部地域を重点的に描いているため、目ぼしい集落のない東部や辺境は調査が省かれている。


「いくらか不完全な点もあるが、他の氏族の領地――特に西部が詳しく描かれている。この地図はいつの日か、我が氏族に恩恵をもたらすだろう」


 いかなる恩恵か、とはケイたちも尋ねなかった。


 ただ、その時のセルゲイは戦士の顔をしていた――




 ディランニレンに到着したのは、ケイがディランニレンを目視してから数時間後。日が傾き始めてからのことだった。


 相変わらず、平原の民と雪原の民が入り混じるこの都市は、ぴりぴりとした空気に包まれている。馬賊の脅威は去ったが、草原の民への風当たりは依然として強いままだ。いや、むしろ悪化したと言っていい。北の大地側の門番たちとは、ケイの容姿を巡って当然のように一悶着あった。


 来たときと同じように公国の身分証を提示して事なきを得たが、あのまま騒ぎ続けていればガブリロフ商会の人間に嗅ぎつけられたかもしれない、とケイは思う。


 ケイはフードで顔を隠し、足早に街の雑踏を突っ切った。


「それじゃあ、俺たちはここまでだな」


 公国側の門の前。普段は市場が開催されている、しかしこの時間帯は閑散とした広場で、どこか寂しげにアレクセイが言う。


 アレクセイとセルゲイの親子は、今夜はディランニレンに宿を取り、ついでに買い物などをしてから村へ戻るそうだ。対するケイたちは、トラブルを避けるため早々に街を出て、今夜は野宿の予定だ。この頃は野宿続きだったので宿屋のベッドが恋しくもあるが、こればかりは仕方ない。


「…………」


 しばし、その場に沈黙が下りてきた。広場を通りすがる町の住民たちが、黙って見つめ合う四人組を怪訝そうな顔で見ている。


 ケイとアイリーンは、公国へ戻る。


 アレクセイとセルゲイは、シャリトの村へ帰る。


 それぞれ両国の反対側と言ってもいい位置関係だ。馬を全力で駆けさせれば二週間足らずの距離ではあるが、それでも遠い。特に、この世界にあっては――


 互いに、それぞれの日々の暮らしもあるし、ここで別れれば、もう二度と顔を合わせる機会もないかもしれない。


「思えば、不思議な縁だったな」


 やがて、アレクセイが口を開いた。平静を装っているが、やはり少し寂しそうだ。


「……そうだな。まさか、また出会うことになるなんて思ってもみなかった」


 しみじみと、ケイは頷く。足元の影法師に視線を落としていた。夕暮れ時。四人の影がそれぞれに長く伸びている。フードをかぶっていて良かったかも知れないな、とケイは思った。自分が今どんな表情をしているのか、わからない。


「……へへっ、思ったより寂しいなコレ」


 困ったように頭を掻きながら、アイリーン。彼女も、今となっては『別れ』の重さを知っているだけに、盛んに目を瞬かせている。


「おうおう、何だテメェら、辛気臭い顔をしやがって!」


 しかしそんな若者三人組に、セルゲイはふてぶてしい態度を取って見せた。


「別に今生の別れってわけじゃないんだぞ? ワシだってそこそこ生きてきたが、とんでもない機会にとんでもないヤツと再会することはある。運命ってヤツだ、お前らは良くも悪くも色々とあったからな、心配せずとも、今後また色々とあるかもしれん」

「ふむ。また決闘はゴメンだな」


 真面目くさってケイが言うと、アレクセイとアイリーンも思わず吹き出した。


 あまり目立ちたくないので、声を抑え、それでもくすくすと笑い合う。


「そうだ、ケイ、アイリーン。もしどこかに腰を据えたら、手紙を送ってくれよ」


 さっぱりとした表情で、アレクセイは言った。


「届く保証はねーけど。商会に探られるのが面倒だったら、適当に名前変えてさ」

「そうだな、偽名は『セルゲヴナ』でどうだ? 場合によっては、それもあり得たわけだろう?」


 アイリーンを見ながらニヤリと笑ってセルゲイ。『セルゲヴナ』は『セルゲイの娘』という意味だ。決闘の件を揶揄しているのだろう。ケイはよくわかっていなかったが、アレクセイは「勘弁してくれよ親父!」と頭を抱えている。アレクセイも今となっては幼妻エリーナを持つ身なので、この話題は肩身が狭い。アイリーンは曖昧な笑顔を浮かべる他なかった。


「ま、嬢ちゃんのような可愛い娘なら、いつでも大歓迎だがな! ワッハッハ!」


 ひとり、大笑いしたセルゲイは、おもむろにケイとアイリーンを一回ずつ抱きしめ、ぽんぽんと肩を叩いた。


「元気でな」

「……ああ」

「セルゲイの旦那もな」


 頷くケイとアイリーン。続いて、アレクセイに向き直る。


「……まあ、アレだ。二人なら元気にやってくだろうしな。そういう意味じゃ心配してねえよ俺は」


 アレクセイはケイに手を差し出した。がっしりと、握手する。


 また、少し迷った様子だったが、アレクセイは同様に、アイリーンとも握手した。


「二人とも、元気でな。本当に世話になったよ」

「それはこっちの台詞だよ。アレクセイも、セルゲイも……さようなら」

『本当にありがとう。皆にもよろしくね、お二人さん』


 ケイは英語で、アイリーンはロシア語で、それぞれに別れを告げ――歩き出す。


 馬の手綱を引き、公国側の門を出て行くケイとアイリーン。


 その背中が見えなくなるまで、アレクセイとセルゲイ親子はずっと見送っていた。



            †††



 門を出てから、ケイたち二人は再び馬上の人となった。


 周囲はもはや薄暗くなりつつあるが、日が暮れて門が閉められたあとは、時刻に間に合わずに都市に入りきれなかった商人や旅人が周辺にたむろする。彼らとの交流やトラブルを嫌って、少しばかり距離を取ることにしたのだ。


 幸い、一度通った場所なだけに、野宿する場所には心当たりがある。


 夕焼け色に染まる小川を眺めながら、ケイはしみじみと呟いた。


「やっぱり公国側は空気が瑞々しいな……」


 公国は、何と言っても水資源が豊富だ。サスケたちの飲水に気を遣わなくて済むのは本当に有り難い、と改めて思う。北の大地は大変だ、とも。


 それからしばらく走って、程よい木立を見つけたケイたちは、早速馬を降り野宿の準備を始めた。


 野宿続きだが、ケイもアイリーンも、どこか足取りが軽い。


 ――久々に、二人きりだ。


 ディランニレンからわざわざ距離を取ったのは、こういう理由もある。


 まず"警報機アラーム"を設置して外敵感知の結界を張り、焚き火を起こし、夜露避けの簡易テントを設営して、川から鍋に水を汲んでくる。ディランニレンの屋台で串焼き肉の類を買ってあるので、今宵の夕餉は少しばかり豪華なものになるだろう。


 それに何より、二人だけだ。


 黙々と準備を進めるうちに、時たま目があってはフフッと笑いあう。


 そのまま、地面に敷いた予備のマントの上で夕餉となった。ディランニレンで買った串焼き肉と、黒パン、ソーセージと根野菜を鍋で煮詰めたポトフ。旅とは思えないような豪華な食事だ。


 焚き火の光に照らされながら、二人並んで座り、鍋をつつく。


「なんか久々だな、こういうの」

「だなぁケイ。やっぱりいいよな」


 腹が減っていたので多めに用意した夕食もぺろりと平らげ、満腹感も手伝って和やかな雰囲気の二人。先ほどの湿っぽい空気など嘘のようだ。食後の茶を淹れながら、のんびりと過ごす。


 ケイが木にもたれかかって座っていると、アイリーンが足の間に入ってきた。


「……ふぅ。オレ専用の椅子だぜ」


 ぽんぽん、とケイの太ももを肘掛けのように叩きながらアイリーン。すかさずケイは腕を回して、アイリーンの華奢な肩を抱きしめた。


「なら、こっちは俺専用の抱きまくらかな」

「ふふふ」


 アイリーンは否定も肯定もしない。ただ悪戯っ子のような笑みを見せる。


「…………」


 そのまま、鍋のお湯がくつくつと煮える音を聞きながら、くっついて過ごす二人。


 何とはなしに、ケイの指はアイリーンの頬をなぞっていたが、そのとき傍らの警報機アラームに視線を落としたアイリーンが「あっ」と声を上げる。


「ん、どうした?」


 何か異変を察知したのかと、真面目なトーンでケイ。


「あ、いや……大したことじゃないんだけど。約束、忘れてた。ほら、ガブリロフ商会の魔術師のヴァシリーさん」


 唇を尖らせた困り顔で、アイリーンは北を見やった。


「『次にディランニレンに寄ったら是非お茶会をして、魔道具について話そう』って、約束してたんだった」

「……ああ。そういえばそんなこともあったな」


 ケイも思い出す。ガブリロフ商会所属の魔術師ヴァシリー。告死鳥と契約した彼は、伝書鴉ホーミングクロウを何羽も使役し、変化・邪眼の魔術も使いこなすベテランの魔術師だ。


「……しかし、ガブリロフ商会とはもう関わらない方がいいんじゃないか」

「うーん、そうなんだけどさ。魔道具の相場とかさ、『こっち』での『魔術の値段』っていうか、そういうの聞いておきたかったんだよなー。あの人プロじゃん?」

「ふむ……」


 今後は、ケイもアイリーンも何かしら魔術で生計を立てていくつもりだ。おそらく、行商人のホランド共々懇意にしているコーンウェル商会を頼ることになるだろう。ホランドが自分たちを騙すような真似をするとは思わないが、それでも、第三者視点のそういった情報を仕入れておきたい、というのは正直なところだった。


 うーむ、と二人は抱き合ったまま難しい顔で唸る。


「オレ的にはさー、あのヴァシリーって人、それほどガブリロフ商会に入れ込んでないと思うんだよなー」

「というと?」

「どっちかと言うと、魔術の探求者っていうか。研究資金とかのために商会に協力してる、みたいなことを言ってた気がする」


 実際のところ、ケイには彼の人となりがよくわからない。ヴァシリーはロシア語しか話せなかったため、直接の交流がなかったのだ。


「つまり、ヴァシリー氏に連絡をとっても、ガブリロフ側には情報が漏れない、と?」

「頼めば、その辺は気を遣ってくれるんじゃないかな。隊商で鴉に憑依してやってきたときも、そんなノリだったし。彼なら、おそらくガブリロフ商会の面々よりもオレたちの方を重視するはずだ」

「ま、敵対しようとは思わないだろうな、少なくとも。そして幸い彼は告死鳥の魔術師だから、『お茶会』には誘いやすい……」

「ケルスティンでメッセージを送れば、文字通り飛んでくると思うぜ」

「じゃあ、呼ぶとしたら夕方以降か……」


 それとなく結論に至ったケイとアイリーンは、すっかり暗くなった空を見上げた。


 ぱちんっ、と焚き火の薪が爆ぜる。


「まあ、」

「でも、」


 改めて顔を見合わせた二人は、にやりと笑う。



「「今日じゃなくていいよな」」



 そのまま、貪るようにして唇を重ねた。



 長い夜になりそうだ。



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