57. 恵与


「俺の魔力が……!?」


 信じられないとばかりに、思わずケイはシーヴを見やった。


 頭上をふわふわと漂う風の精霊は、そのあどけない容姿には不釣り合いなまでに妖艶な笑みを浮かべている。「感謝しなさいよ?」と言わんばかりの得意げな顔。有り体に言えば、ドヤ顔だ。


 確かに――ここのところ、シーヴに吸われるのにも慣れてきたとは思っていた。この森に突入する直前にも勝手に術を行使され幾ばくかの魔力を吸い取られたが、一瞬立ち眩みに襲われたくらいのもので、少し休むだけで体調は回復していた。


 まさか魔力が育っていたお陰だったとは。


 物理特化の脳筋戦士を自負していたケイにとって、あまりにも衝撃的な事実だった。


「普通、気づきそうなものだけどねえ……魔力枯渇の反動は、慣れでどうにかなるものではないだろうに」


 腕組みをしたまま、呆れた顔をするオズ。


「いや、そんなことを言われても……魔力を扱う感覚なんて、『こちら』に来るまで知らなかったし……」

「まあ、君らの世界なら仕方ないかもしれないが」

「すげーな、やったじゃんケイ!! 魔力が育つんなら、シーヴのポテンシャルを存分に活かせる!」


 困惑気味のケイの代わりに、アイリーンは大興奮の様子だ。が、「ん?」と何かに気づいた様子で首を傾げるアイリーン。


「ちょっと待て、それってオレ損してないか?」

「……と言うと?」

「だって、オレって魔力もある程度育ててたわけじゃん? でも今からゲーム並に身体を鍛えるのは難しいからさ……肉体が限界まで強化されていて、これから魔力も鍛えられるケイは得したんじゃないかな、って」


【DEMONDAL】において、ニンジャ『アンドレイ』ことアイリーンは、魔法戦士として身体能力の強化はそこそこに留め、魔術関連の適性を高めてあった。つまりキャラクターのポテンシャルのかなりの部分が、魔術技能のために割かれているのだ。


 アイリーン自身も今後、諸々の方面で更なる成長が見込めるとはいえ、ケイのように物理を極めておいた方が効率が良かったかもしれない――そんな思いを滲ませる発言は如何にも元ゲーム廃人らしいものだ。


「いやしかし……魔力を鍛えると言っても、決して楽ではなかったぞ」


 だが、現実を知るケイは渋い顔だ。『こちら』の世界に転移した直後、アイリーンを侵す毒の種類を呪い師の老婆アンカに知らせるため、初めてシーヴを顕現させたときのことを思い出す。とっておきの大粒のエメラルドを触媒として捧げたが、それでも死を覚悟するレベルで魔力を吸い取られた。正直なところ、体の奥底から大切な何かが抜け落ちていく、あの身の毛もよだつな感覚には未だ慣れない。


 筋力と魔力、どちらの方が鍛えるのに楽かと問われれば、ケイは迷わず筋力と答えるだろう。少なくとも、よほど無茶をしなければ筋トレで死ぬことはないが、魔力は加減を間違えれば容易く死ぬ。その精神的重圧に起因する疲労は――筋トレのそれとは比べ物にならない。


「まあ魔術適性はアイリーンの方が高いのは確かだからな。アイリーンこそ、魔力の限界値が上がるから、もっと魔術の幅が広がるんじゃないか?」

「それもそうだな。これからも頼りにしてるぜ~ケルスティン」


 アイリーンが声をかけると足元の影が手の形を取り、ビッ!と親指を立ててみせる。


 ケイは努めて、ケルスティンと戯れるアイリーンの方を向いていたが、件の風の精霊がテーブルの上に寝転がるようにしてこちらを覗き込んでくる。「私には何か言うことはないのかな? ん? ん?」と言わんばかりに、ニマニマと笑いながら空中で頬杖をついて、終いには顔から数センチの距離まで迫ってきたので、ケイも観念し「頼りにしてるよ」とため息交じりに声をかけた。


 クスクスと笑いながら、くるくると空中を泳いでいくシーヴ。


「随分と仲が良いようだね」

「付き合いが長いからな」


 からかうようなオズの言葉に、ケイは肩をすくめてみせる他ない。


「いやはや、実に興味深いね。ついこの間、個性を獲得した存在とは思えないほどに感情が豊かだ……ケイの、ゲーム内におけるイメージも影響しているのかもしれないね」

「そう言われてみれば、風の精霊だから、こういう自由な奴なんだろうな、とは思っていたかもしれん」

「彼女の存在の『肉付け』に君の意志が介在したのは面白い現象だ……以前の転移者は魔術師ではなかったからね。初めてのケースだよ」

「あっ、そうだ。オレたち以外にも転移者っていたんだよな、旦那? この森の近くの村に、地球の歌が伝わってるみたいなんだけど?」


 突然思い出し、パシッと膝を打って話を変えるアイリーン。


「そうだね。この世界の時間で、大体、二百年ほど前と、百年ほど前だったかな? 君たちと同じようにゲームのプレイヤーが森に現れたね。二人とも森の外に送り出して、その後は知らないけれども。僕の把握している限りでは、転移者はその二人だけかな。彼らの場合はカムイの干渉というより、魂がこの次元に自然に引っ張られた、という感じだったよ」

「……二百年? 随分と昔だなー。地球と『こっち』って時間ズレてんの?」

「魂が自然と引っ張られて抜け落ちるとは、恐ろしい話だ……」


 首を傾げるアイリーン、おそらくは現実世界で『変死』を遂げたであろう、名も知らぬプレイヤーたちのことを思い顔を引き攣らせるケイ。


「君らのゲームとこの世界は極度の相似関係にあるからね。互いに引き合うような性質があるのさ。それに、精神が物質世界に対して優位に働くVR技術は、君らが思っているよりも『危険な』代物だよ。まあ、今更知ったところで時既に遅しだが……」


 手品のようにティーカップを取り出して、紅茶を味わいながらオズは笑う。


「ところで時間のズレに関しては、君らの記憶と『彼ら』の記憶を比較するに、どうやら『地球』の次元とこちらの世界は急激に接近し始めていたようだ。最初の一人が転移してきたのは、『こちら』ではおおよそ二百年前のことだったが、君らの世界では三年ほど前、【DEMONDAL】のサービス開始直後だったらしい。対して、二人目は『こちら』では百年前、君らの世界では――二年ほど前のことか。『地球』の時の流れは、『こちら』に比べて格段に遅いようだね。しかし両者のそれが、ごく僅かではあるが、揃いつつある」

「……時間のズレが変動するなんてことが、あり得るのか?」

「もちろんあり得るとも、ケイ。君らにはわかりにくいかもしれないが……世界と世界の間に、相対的な『距離』とでも呼ぶべきものがあるのだよ。あらゆる世界が、互いに近づいたり遠のいたりを繰り返している。世界同士が接近すればするほど、時の流れも足並みが揃う傾向があるし、例えば僕が世界を渡るときも、『近く』の世界の方がより少ない労力で次元の壁を突破できる。ちなみに僕の故郷たる天界は、他のあらゆる世界に対して常に時の流れが遅い傾向にあるよ。天界の時間基準で魔力の消費が早くなってしまうのも、『堕天』が厭われる理由の一つだねえ……ふむ」


 ふっと視線を逸らしたオズは、頬に手を当てて何やら考え込む素振りを見せた。


「成る程……となると、『地球』と『この世界』は、今おそらく、最も接近しているのかもしれないね。流石の僕も、現世界と任意の外世界との距離を観測・予測することはできないが、時空を司る大精霊であるカムイならば可能だろう。奴に何の目的があるのか、あるいはあったのか謎だが、君らの召喚に際して魔力の消費を極力抑えるために、二つの世界が最接近したタイミングを狙った可能性は非常に高い」

「……そこまでして、何のために俺たちを呼んだんだ……」

「さあ。本人に聞いてみたらどうだい? 案外呼べば出てくるかもしれないよ?」


 オズの言葉に、ケイとアイリーンは顔を見合わせる。


「……カムイの旦那ー?」


 アイリーンが虚空に向かって呼びかけた。


「…………」


 当然のように、何の反応もない。


「出てこないじゃん」

「実は、僕も少し期待してたんだけどね。やはり駄目か。素晴らしい記憶を読み取れると思ってたんだが、残念だねえ」


 責めるように頬を膨らませるアイリーンに対し、悪びれる風もなくオズ。


 実際のところ、世界を調整する『神』にも等しい存在が、おいそれと姿を現すことはないだろう、とオズは語る。


「あそこまで存在が大きくなると、ただ『身じろぎ』をするだけで膨大な魔力を消費するし、よほどのことがない限り顕現しないだろうね」

「結局、目的はわからずじまい、か……」

「君らを呼び寄せること自体が目的だったのか、あるいは君らがこの世界に及ぼす影響を期待しているのか……わからないねえ。ま、仮に『やって欲しいこと』があるなら、流石にもう少しわかりやすい形で頼んでくるはずだ。君らは、君らがやりたいようにのんびり過ごすといいさ。それだけのために、『こちら』の世界に呼びつけられたのは、災難としか言いようがないかもしれないが」

「俺はまだ、健康な体が手に入ったから良いんだが……」


 唸るようにして言ったケイは、心配げにアイリーンを見やる。こちらを見つめていた彼女は、健気に微笑んだ。


「……大丈夫だよ。オレも……こっちで暮らしていくなら、けっこう充実してると思うし。家族は心配だけど、さ」

「そう言えば、地球の方が時間の流れが遅いなら、まだ俺たちの体は死んでないんじゃないか? 今すぐ帰れば間に合うとか、そういうことは?」

「世界を渡るときにどれだけ時間がズレるか、だね。ひょっとすると君らの世界との距離が再び離れつつあるかもしれないし、ある日を境に地球の方が時の流れが早くなっている可能性なんてのもある。いずれにせよ、大博打だろう。君らにとっては」

「そうか……」

「ま、どっちにせよ世界を渡る魔力なんて捻出できないけどなー。どんくらい必要なのか見当もつかねーし。それとも、旦那にお願いすれば一肌脱いでくれるのかい?」


 頭の後ろで手を組んで、茶目っ気たっぷりに尋ねるアイリーン。なんとなく、その笑顔は、ケイの目には痛々しいもののように映った。


「いや、頼まれておいそれとできるようなものではないね、なにせ、とんでもない魔力を消費してしまうから……対価を要求しても君らに払いきれないだろう。まだこの大陸全土を一晩で耕せと頼まれた方がマシなくらいだよ」

「そんなにか」


 大陸をくまなく掘り返すのに、どれほどの魔力が必要だろうか――まず数十メートル四方の土地をシーヴの力で耕すことを想定したケイは、それを大陸に適用しようとして要求されるであろうとてつもない触媒の量に呆れた。


「無理だな」

「まあ、人の身では厳しいだろうね」

「しかしオズの旦那は、『無理』とは言わないんだな……」

「かなり苦しい、と言っておこう」


 飄々と答えるオズは、言葉とは裏腹に、鼻歌交じりにやってのけそうな雰囲気を漂わせている。


「まあ、世界渡りは無理だが、それ以外のことなら善処しようじゃないか。遠路遥々、別の次元から、せっかく我が家を訪ねてくれたんだ。多少お話をして終わりというのも芸がない。記念に何か、ささやかな『願い』を一人一つ、叶えてあげよう。『こちら』での君らの暮らしが、充実するようなことを頼むといい」


 ニヤリ、と捉えどころのない笑みを浮かべるオズに、ケイたちは不安げに顔を見合わせた。申し出自体はありがたいのだが――


「……それって、あとで魂取られたりしない?」

「取るつもりならもう取ってるよ」


 うまい話には裏がある。半信半疑のアイリーンに、オズはさらりと答えた。


「なに、貴重な異界の記憶を貰ったからね、あくまでそのお礼さ。心配せずとも、あまりに大それたことを頼まれたら、それは断るつもりだよ」

「例えば、どんな願いなら良いんだ? あ、この質問は願いじゃないぞ」


 予防線を張るケイに、オズは愉快そうにくつくつと喉を鳴らして笑う。


「そうだね、どんな傷でも癒やすハイポーションでもいいし、あらゆる毒や病の特効薬でもいい。もちろん、望むならある程度まとまった量の金銀財宝でもいいよ」

「……『ささやか』じゃない気がするんだが」

「僕にとってはジュースと大差ないのさ」


 チンッ、とテーブルの上のジュースの瓶を指で弾いてオズ。


「……別に、『物品』じゃなくても良いのか? お願いでも?」


 アイリーンが確認する。


「もちろん、良いとも」


 オズはどこか含みのある様子で頷いた。その緑色の眼は、観察するように、そして楽しげにケイたちを見据えている。


「……どうする? ケイ」

「……困ったな」


 選択肢が多すぎて、どうしたものかわからない。二人は再び顔を見合わせた。


「ハイポーションは魅力だよなぁ……」


 腰のポーチを撫でながら、ケイ。ハイポーションには、今まで何度命を救われたかわからない。しかしそれも残すところ僅か数瓶だ。


「ハイポーションならお安い御用さ。一人の願いでダース単位で上げよう」

「魔法の武具も可能か?」

「うーん、それは物に依るね。『何でも斬れる剣』や『あらゆるものを防ぐ盾』なんてのは無理かな、せいぜい矢避けの羽衣とか、姿を隠せる指輪とか……」

「……それはそれで凄いな」


 思わず興味をそそられるケイ。ゲーム内にもそういった伝説級レジェンダリアイテムは存在していたが、盗難や紛失を恐れるあまり、貴重すぎて使う機会がなく、専ら銀行に仕舞い込まれているのが常だった。


「うーん、でも物品よりもっと抽象的な願いの方がいいんじゃねーかな。汎用性が高くなるし」


 調子良く物品を勧めようとするオズに対し、アイリーンは冷静に考え込んでいる。


「金銀財宝……は、要らない。ケルスティンやシーヴの力を利用した魔道具なら幾らでも作れるし、商会のツテもあるから販売経路は心配ない。多分、今後オレもケイも稼ぎには困らないはずだ。それにケイ、矢避けのマントなりアミュレットなりなら、魔力が育ってきたら自力で作れるんじゃね?」

「……確かにそうだった」


 アイリーンの指摘に、ペシッと額を叩くケイ。現時点でも、貴重な触媒を消費すれば矢の雨を逸らすことくらいはできる。オズが与えてくれるような、伝説級のアイテムの再現は流石に無理だろうが、小粒の宝石を担保に不意の矢を逸らす程度の魔道具なら、自力で作成できるようになるはずだ。


「それと、ポーションは確かに魅力的だけど、保存・運搬に難があるし……いや、待てケイ! もっと良い『答え』を思いついた!」

「何?」

「ここは……保留だ! 願い事を聞いてもらえる権利を保持しておいた方がいい。何か手に負えないことが起きたとき、臨機応変に助けてもらおうぜ!」


 どうだこれが正解だろう、と言わんばかりに得意げな顔でアイリーン。ぱちぱちと目を瞬くケイに、苦笑するオズ。


「……それもそうだな。それが一番汎用性が高いな」


 ケイも納得した。今この場で答えを出す必要はない、ということだ。例えばポーションが追加で欲しくなるような事態や、独力では解決できない事件が発生したときに、改めてオズに助けを求めればいい。


「じゃあ、願いはそれでいいか」

「だな!!」

「……二人とも物欲がないねえ。いやはや、困ったものだ」


 苦笑の色を濃くして、オズは髪の毛をいじっている。


「しかし二人とも、権利を保持するのは自由だけれども、何か困ったことが起きたときに、またわざわざこの森を訪ねるつもりかい?」

「「えっ」」


 意地の悪い笑みを浮かべるオズに、二人とも固まった。


「……じゃあ、『困ったときにオズを呼んだら助けてもらえる権利』で!」

「いやいやアイリーン、それは駄目だよ」


 即座にアイリーンが言い換えるが、オズは否定する。


「君らもお察しのように、その願いは二つの願いを内包している。『困ったときに呼べば僕がその場に出向く』という願いと、そこで『僕が君らを助ける』という願いの二つだ。……それを一つにまとめるのは、認められないねえ」

「……そこを何とか! 頼むよオズの旦那!」


 アイリーンが愛嬌たっぷりにウィンクするが、オズは捉えどころのない半笑いのような表情を一ミリたりとも崩さなかった。


「駄目だね」

「クソッ、オレも所詮はただの人、上位者に下等生物の媚びは通じない……!」

「おいおい、僕を誰だと思っているんだい? 下等生物云々はさておくとして、表面的な媚びが通じるわけないだろう。君が心の底から愛しているのはケイだけじゃないか」

「なっ」


 オズの返しに、絶句するアイリーン。口をぱくぱくとさせたまま、頬を染めている。隣でなぜか被弾してしまったケイも、照れたように後頭部に手をやった。


「いや……まあ、……そうだけど……」

「アイリーン……」

「ふふふ。じゃあ願いはそれでいいかな」


 何やら見つめ合う二人を前に、笑いを噛み殺すオズは懐を探った。


「それでは、こうしよう。君らにはこの指輪をあげる」


 オズが取り出したのは、シンプルな赤銅色のリングだ。


「これは、一度使えば消えてしまう連絡用の魔道具みたいなものだ。この指輪に僕の名を呼べば、世界のどこへでも一瞬で駆けつけよう。そして願いを言えば、一度だけそれを叶えてあげる」


 テーブルの上にそれを置き、スッとケイたちに差し出す。


「風情があるだろう? 本当は、キュッキュと擦れば僕が飛び出す魔法のランプにでもしようかと思ったんだがね。指輪の方が持ち運びに便利だろうから」


 ランプの先端からオズがニュルッと飛び出す様を想像し、それはそれで面白いな、などと考えてしまうケイだった。


「う……ぐぬぬ……ううっ、ケイ、本当にこれでいいのか!?」


 鈍く輝きを放つ指輪を前に、悔しそうなアイリーン。一度それを手に取れば、負けを認めることになってしまう、とでも思っているかのようだった。


「……まあ、仕方ないんじゃないか。実際、北の大地ここまで来るのは結構な手間だったしな……それを短縮できて、かつピンチで助けてもらえると考えれば、願ってもない幸運だろう」

「そりゃそうだけどさ……。くぅ~ッ! なぜ! なぜオズの旦那はこんな僻地で暮らしてるんだ! もうちょっと街中に引っ越す予定はないのか!? いろんな人間の記憶を読み取り放題だぜ!?」


 ぺしぺしと控え目にテーブルを叩きながらアイリーンは問う。往生際の悪いアイリーンに笑いながら、オズは答えた。


「いや、僕も極々稀に人里へ足を伸ばしたりもするんだがね。でも基本的に僕は引きこもりだし、逆に一度そこの住人の記憶を読み取ってしまえば、しばらくそれで満足なんだ。そういう意味で人里に定住するメリットはあまりないね」


 屋敷の窓の外、霞がかかったような灰色の森を手で示して、オズは「ああ」とどこか恍惚とした溜息をつく。


「その点、この森は良い。僕にとって存外に居心地が良いんだ。ここは、世界の魔力の吹き溜まりのような場所。外に比べて時空が少々不安定でね。お陰で、妙なモノがよく紛れ込んでくる……この世界のものに限らず、ね」


 そいつらの記憶がまた珍味なんだ、とオズは悪魔的な笑みを浮かべた。


「あの霧の中の化け物どもか……!」

「やっぱり別世界の住人だったんだ……」


 道中で遭遇した怪異を思い出し唸るケイ、アイリーンも少々顔色を悪くしている。


 【DEMONDAL】に酷似しているこの世界において、連中はあまりに『馴染み』のない、異質な存在だとは思っていたのだ。別世界から紛れ込んだもの、と聞けばそれも納得だった。


「『彼ら』の多くは肉体と魂、あるいは物質と精神の境があやふやな世界から来たモノだね。だから魔力が濃く、世界の法則が歪みやすいこの森では存在を保っていられる」


 彼らにとってもまた居心地が良い場所なんだろうさ、とオズ。彼ほどの存在ともなれば、霧の中の怪異も全く無害なのだろうが、生身の人間からすれば堪ったものではない。


 しかし他ならぬ彼の言葉により、霧の中の化け物は外に出られないことが証明されたので、それは思わぬ収穫だったと言うべきか。


「おっと、もうこんな時間か。お茶もいいけど、そろそろ夕食の時間かな」


 未だ手付かずのまま放置されていたサンドイッチの類をちらりと見やり、オズ。彼がパチンッと指を鳴らすと、ティーセットが嘘のように消え去った。


「二人とも疲れているだろうし、今日は泊まっていくといい。とりあえず夕食だ」


 ぱんっ、とオズが手を鳴らすと、テーブルの上にキャンドルが現れる。「メニューはどうしようかな」と考え始めるオズをよそに、ケイは卓上の指輪を手に取った。


「これは、アイリーンが持っておくと良い」

「いや、いいよ。ケイが持っといて」

「しかし……」

「いいんだって」


 テーブルに肘をついたアイリーンは、いたずらっぽくケイを見つめる。



「――どうせ指輪なら、別のが欲しいな」



 キャンドルの光に照らされた笑顔は、艶やかで。


 ケイは、どきんと心臓が跳ねるのを感じた。


「……わかった」


 左手の小指に指輪をはめながら、ケイはこれ以上ないほどに、真摯な表情で頷く。


 真面目くさったケイが可笑しかったのか、アイリーンは花開くように笑った。


 ころころと表情の変わる感情豊かなアイリーンを、いつまでも見つめていたいと。


 ケイは、心からそう思った――




 その後、ケイたちはオズに夕食を振る舞われた。


 メニューは、ハンバーグに味噌汁、白米、ボルシチ、ピロシキ、サラダ、その他ソフトドリンク、等々、てんでまとまりのないものだ。それぞれ、ケイとアイリーンの記憶から再現されたものだった。ハンバーグの焼き加減、味噌汁の具、それらはケイがうっすらと憶えている母の味そのもので、――きっとそれは、アイリーンの食べた料理も同じだったのだろう。


 必然、夕食は、どこかしんみりとした空気を漂わせていた。


 食後はオズが二階に用意した客室に案内される。地球の高級ホテルを思わせる、近代的な内装の立派な部屋。


 久しく目にしていなかった、スプリングつきの立派なダブルベッドがあり、はしゃいだアイリーンは思わず大の字になってダイブしていた。


「ケイーッ! これ凄いぞーッ、ふかふかだーッ!」


 ボヨンボヨンとベッドの上で跳ね回ってはしゃぐアイリーンに、いつか家を構えることになったら、立派なベッドを手配しようと決意するケイであった。


 客室とは別に、風呂場も用意されていた。


 それも、二つもだ。一つは日本風。もう一つは――普通の、西洋風の浴室。ただその内装は、やはりケイとアイリーンの記憶にあった、『実家の風呂場』そのものだった。


 蛇口を捻れば、すぐに清潔なお湯が出てくる便利さ。ここを離れたら、『こちら』の世界が酷く不便に感じられそうで恐ろしい。


 日本風の浴室で、熱々の湯に肩まで浸かりながら、ケイはひとり思った。


「……これは、やりすぎじゃないかな」


 オズの思いやりが伝わってくるが――しかし、逆に酷ではないか、と。


 自分はまだいい。思い出も郷愁も、未練さえも、全てが次元の遥か彼方だ。それらとの決別はもう済んでいるし、事実、地球に帰っても長生きできないという如何ともしがたい事情を抱えている。


 だがアイリーンは――


 隣の浴室から微かに響く、押し殺すようなすすり泣きの声に、ケイは瞑目した。


 天井を見上げれば、電灯の光が煌々と浴室を照らしている。


 ケイの瞳には眩しすぎるほどだった。


 頭まで湯に身を沈めたケイは、子供のようにブクブクと息を吐いて遊んだ。


 記憶にあるよりも、浴槽はずっと狭く、そして小さく感じられた。



          †††



 ケイたちが風呂から上がる頃には、窓の外はとっぷりと夜闇に沈んでいた。


 ただ、屋敷の窓から漏れる薄明かりだけが、庭に漂うもやを照らしている。


「いやーヤバイな。願い事、『ここで暮らす』ってのもアリだったかなー」


 ベッドに寝転び、ドライヤーで乾かした金髪をさらさらと撫でながら、アイリーンはぼやくようにして言った。髪の長い彼女は、こちらの世界で一風呂浴びるたび、髪がなかなか乾かず苦労していたのだ。今はまだ夏なので良いが、冬は困ったことになる。


「……そうだな。ちょっと便利すぎて怖いくらいだ」


 アイリーンの隣に寝そべったケイは、天井の電灯のような明かりを見やって頷く。


 ――ここで暮らす、か。


 それもアリかもしれないな、とは真面目に思った。少なくとも、便利だし、命の危険もないだろうし、オズの図書館があれば退屈することもないだろう。


「……あ、冗談だからな?」


 何やら真剣に考え込み始めたケイに、アイリーンは慌てた様子だ。


「そうか? 今なら指輪を返せば何とかなる気もするぞ」

「…………確かに、さ。もしここで暮らせるんなら、便利だし、安全だし、凄く良いとは思うんだけど」


 寝転んだまま、アイリーンは悲しげに笑う。


「でも、なんか、ここにいたらダメになる気がする」

「……アイリーン」


 ケイは、どんな顔をすればいいのか、わからなくなってしまった。


 ただ、アイリーンの言っていることには、何となく共感できる。


 この、外界から切り離されたぼやけた霧の世界で、保護されるように、壁の内側で生きていくことは――多分、ケイが望んでいる人生ではない。


 そしておそらく、それはアイリーンも同じだ。


 ケイは改めて、愛しい人を見つめた。


 彼女の目は、泣きはらしたのか、少し赤くなっている。


 その頬にそっと手を当てたケイは、宝石のような瞳を覗き込んだ。


「アイリーン」

「……うん?」

「オズがアイリーンに、帰るつもりがあるのか訊いたとき。俺と一緒に、残ってくれるって。アイリーンがそう言ってくれて……俺、本当に嬉しかった」


 ありがとう、と囁くように。


 ケイはアイリーンをそっと抱きしめる。


「だから、今なら言えるんだ……一緒にいてくれて、ありがとう」


 ごつごつとした腕は、このとき、なぜか弱々しい。


「俺と、ずっと一緒にいてほしい」


 まるで縋りつく幼子のようだ、とアイリーンは思った。


「……シーヴの力を借りれば、ドライヤーだって作れると思う。自然のいっぱいあるところに、大きな家を買おう。二人で力を合わせれば、きっと現代に負けないくらい便利な暮らしが――」


 それから、なおも話し続けようとするケイの唇を、アイリーンはそっと塞いだ。


 ついばむような口づけ。


「……ケイ、愛してる」


 アイリーンもまた、愛しい人を抱きしめ返した。


 涙をたたえた蒼い瞳が、きらきらと輝いている。


 呆けたような顔をしていたケイは、視界がぼやけて、霞んでいくのを感じた。


「……俺もだ」


 ケイも、泣きながら笑った。


「愛してるよ」


 そうして二人は、もう一度、唇を重ねた。










 ――翌朝。


 屋敷の玄関口で、オズが笑って立っている。


「さて、二人とも。忘れ物はないかね」


 支度を整えていた二人は、わざとらしく持ち物をチェックした。


「……大丈夫なようだな」

「悪いけど、ホームシックだけは置いてくぜ」


 真面目くさって頷くケイに、ニカッと笑うアイリーン。


「そうかい。それは良かった。……では、約束通り、その指輪に名を呼ばれたとき、僕は即座に駆けつけて願いを叶えよう。ただしそれは一度きりのチャンスだ。使いどころはよく考えるように」

「ああ。せいぜい、最大限に効果を発揮するときに使わせてもらうよ」

「……お手柔らかに頼むよ」


 どこかすっきりとした顔で言い切るケイに、オズは苦笑する。


「さて、この屋敷を出たら、すぐに森の入口に繋がるようにしてある。二歩も歩けば霧の外だから、安心して帰るといい」

「そいつは助かる、もう命綱もないからな」


 そっと、ケイはアイリーンの手を握る。命綱の代わりだ。

 アイリーンも微笑んで、ぎゅっと力強く握り返してくる。


「ふふふ。それでは、君たち二人の門出に、幸多からんことを。……『悪魔』が祝福というのも、おかしな話だがね」

「ご利益がありそうじゃないか。……オズ、ありがとう」

「世話になったな、オズの旦那! また会う日が、来るかどうかはわかんないけど」


 二人はオズに一礼して、歩き出す。


 一歩一歩、もやのたゆたう庭を進んで行く。


 オズは扉にもたれかかって、二人を見送っていた。


「いやー、村の皆、心配してるだろうなー。オレらが帰ってきたら腰抜かすかも」

「そうだな……質問攻めにされそうだ」

「……それにしてもデーモンか。とんでもない存在に会っちゃったな」


 おそらくは気の遠くなるような長い年月を生きている、記憶と忘却を司る上位者。想像もしていなかった『大物』だ、村の住人たちも話を聞けばさぞ驚くことだろう。


「おいおい……本人に聞こえるぞ」

「聞かせてるんだよ。……あっ」


 しかし軽口を叩いていたアイリーンは、不意に立ち止まる。



 ――何か、心に引っかかっていたものがあった。



 昨日のことだ。アイリーンがまず、地球への帰還が可能なのかオズに尋ねたとき。


 オズは答える前に、アイリーンに逆に問うた。『君はどうするつもりなのか』、と。


 あのとき、唐突に水を向けられて驚いたものだが、そのときに感じた違和感の正体が今になってわかった。


 そもそも、オズはケイたちに何かを問う必要がなかったのだ。ケイたちの思考と記憶を探れば、口に出して問うまでもなく、自然と答えはわかるのだから。


 では、なぜあのときオズは、わざわざアイリーンに『質問した』のか。




『一緒にいてくれて、ありがとう』




 昨夜のケイの言葉を思い出す。




 ――そう、それは、ケイに聞かせるため。




 アイリーンが『こちらに留まる』という自身の覚悟を表明するのが、『地球への帰還が不可能』と判明する前と後では、ケイの印象が全く異なる。


 もし、『帰還できない』と聞いた上でアイリーンが『残る』と答えていたら、それではまるで他に道がないから仕方なく、そう言っているように聞こえてしまうだろう。


 それは、後々二人の関係にしこりとなって残ってしまったはずだ。


 だから、それを避けるために。


 オズは敢えて問うたのだ。


 そしてアイリーンに、覚悟を言葉にさせた。オズが真実を明かす前に。



「…………」



 アイリーンは振り返る。


 真っ赤なスーツに身を包んだ、胡散臭い見かけの悪魔は、すべてを見透かしたような顔で笑っていた。


『……ありがとう、優しい悪魔さん』


 アイリーンもまた、クスリと笑う。


 その言葉が届いたかはわからない。ただ、悪魔は笑うのみ。


「アイリーン?」

「ん。いや、いいんだ」


 首を振って、アイリーンは前に向き直る。


「……行こう。ケイ」

「ああ。行こう、アイリーン」



 手を繋いだ二人は、踏み出した。



 霧の外へと。



 燦々と陽の降り注ぐ、明るい外の世界へと。




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