56. 魂魄
――肉体が、もう死んでいる。
ケイたちを襲った衝撃は、『帰れない』という宣告の比ではなかった。
「……どういう、こと?」
声を絞り出すようにして、アイリーン。
「そのままの意味だ。君らは、時の大精霊カムイによって魂を抜き取られ、この世界で再受肉した。いわば、『抜け殻』となった元の世界の肉体は、既に死んでいるだろう。『地球』はこの世界に比べて魂と肉体の結びつきが弱いようだが、それでも魂なしに、身体は生き続けられない」
本当に、何でもないことのように、オズは解説する。
その言葉を咀嚼し、理解するのには、しばしの時間を要した。
「『帰還は不可能』というのは、そういう意味だったのか……」
やがて、顎を撫でながら、呟くようにしてケイ。完全に思考停止しているアイリーンに対して、ケイは動揺しつつもまだ落ち着いていた。
「まあ、そうだね。帰ったところで身体がない、というのが理由の一つ。次に、魂だけでも世界を渡るにはやはり膨大な魔力が必要であり、人の身である君らにはそれが賄い切れない、というのが一つ」
「……メッセージが難しい、というのは?」
「霊魂だけでも、世界を渡れば枕元に立って一言二言くらいは伝えられるかもしれないが、分の悪い賭けだと思うよ。世界を渡った瞬間、早々に流転輪廻に呑まれるのがオチだろう。君らの世界は、精神と物質の結びつきが弱く、相互の干渉もほとんど起きないようだから、肉体の再構築は難しいんじゃないか。今の君たちの肉体ごと転移しようにも、相応の対価が要求されるだろうしね」
「……それじゃあ、今の俺たちのこの肉体は一体……?」
「勿論、この世界で半ば自動的に、ゼロから構築されたものだ。精神と物質の相互作用が強い『この世界』においては、それは自然に起こりうる。我々【
そう言って、オズはニヤリと口の端を吊り上げて笑った。
「その点で、ケイ、君は興味深い存在だ。僕は今まで何人も転移者を見てきたが、君のようなケースは非常に珍しい。例えば君、アイリーンを見てみたまえ。彼女は現実では交通事故で両足を失ったが、今の肉体にはしっかり足がついている」
突然、名前を挙げられたアイリーンはビクンと肩を震わせる。それに構わず、オズは生徒に言って聞かせる教師のように、指を振りながら言葉を続けた。
「これこそ、まさしく、彼女の魂の『あり方』が肉体に反映された証だ。足を失くしても、彼女にとっての『自分』は『足のある自分』だったわけさ。また、ゲーム内で彼女は"ニンジャ"『アンドレイ』――つまり男性として振る舞っていたが、それはあくまでロール・プレイに過ぎず、彼女は自身を『アイリーン』と認識していた。故に彼女は、ゲーム内の能力をある程度踏襲しつつも、彼女のアイデンティティ、いわば主体である『アイリーン=ロバチェフスカヤ』という少女の形を取ってこの世界に再誕した」
アイリーンを見つめていたオズが、スッと視線をケイへと向ける。
「だが、ケイ、君は違う」
深緑の瞳は、心の奥底まで見透かすかのようだ。
「普通はね、何かしら
くつくつと喉を鳴らして笑うオズ。
それをよそに、ケイは自分の手に視線を落とす。成る程、そういうことだったのか、という納得があった。アイリーンと自分の肉体の差異は、常々気になっていたのだ。
自分は完全にゲームの体を受け継いで運が良かった、くらいに考えていたが。
――そうか、俺はもう完全に『ケイ』になっていたのだな。
そう考えると、胸の内を満たす、感慨深さのようなものがあった。それは形容し難い不思議な感覚だったが――決して悪いものではない。
しかし、今はそんなことはどうでも良いのだ。
「……アイリーン」
ケイの隣、真っ青な顔で俯いた少女。アイリーンの手を、優しく握る。
声をかけたかったが、何を言うべきなのかわからなかった。ケイにできたのは、ただアイリーンに寄り添うことだけ。
「ケイは、……落ち着いてるんだな」
のろのろと顔を上げたアイリーンは、小さく呟いた。
こちらを見つめるケイは、アイリーンを案じて心配げな表情こそ浮かべているものの、その眼差しは湖面のように静かで、その奥に揺らぎは一切見受けられない。
アイリーンには、不自然なまでに、泰然とした態度であるように思えた。アイリーン自身、動揺していることを強く自覚しているだけに、その差が際立つ。
「……ある程度、覚悟してたからな」
つっと視線を逸らし、どこか自虐的な笑みを浮かべて、ケイは答える。アイリーンは押し黙った。ケイの境遇を思い出したからだ。
――いつ死んでもおかしくなかった。
きっと地球の家族たちは、そして担当医たちは、こう思ったことだろう――遂にその日が来たか、と。
彼らは、自分のために悲しんでくれただろうか。ぼんやりと遠い目で、ケイは、遥か次元の彼方、遠い故郷の人々に思いを馳せた。
ただ、こんな風に、自分も周囲も覚悟ができていたのは、ケイの環境が特殊だったからだ。それに対して、彼女は違う。
「アイリーン」
ひょい、とアイリーンを抱きかかえたケイは、その羽のように軽い体を自分の膝の上に乗せた。そのまま、ぎゅっと抱きしめる。
「あっ、ちょっと、ケイ……」
オズの方を気にして、ケイの腕を引き剥がそうと、少しばかり抵抗するアイリーン。しかし頑としてケイが離さないので、やがて諦めたように脱力し、こてんとケイの肩に頭を載せた。
「…………」
ケイもアイリーンも、布の服だけの軽装だ。だから、お互いの体温がよく分かる。息遣いも、鼓動も。アイリーンはぎゅっと目をつぶって、深呼吸を繰り返していた。
しばらく、そうしていた。オズは腕組みをして、明後日の方向を見ている。彼の知覚の前では、ケイたちの挙動はおろか内面まで丸裸なわけだが、一応、表面上だけでも気を遣ってくれているらしい。
「……ありがと。もう大丈夫」
やがて、大きく溜息をついたアイリーンは、そっと体を離した。顔色は良くなっているし、目にもある程度、活力が戻っている。
「落ち着いたか」
「……うん」
こくりと頷いたアイリーンは、足をぷらぷらとさせてから、名残惜しげに立ち上がり自分の席につく。
「休憩するかね?」
「んにゃ、もう大丈夫」
小首を傾げるオズに、照れたように頭を掻くアイリーン。少なくとも、ぱっと見は、いつもの彼女に戻っていた。
「オレは心配ない、ただちょっと……ビックリしちゃってさ。それより、旦那にはもっと聞きたいことが沢山あるし」
「何でも聞きたまえ、知っていることは教えよう」
「しかし、随分と親切に色々教えてくれるんだな?」
ふと気になったケイは、顎を撫でながら口を挟む。オズを性悪な存在だと疑っているわけではないが、『あまりにも親切すぎること』への危惧は、口に出すまでもなく伝わっているだろう。
そもそも、オズはまるでおとぎ話の魔法使いのようにテーブルやティーセットなどを取り出しているが、これにも結構な魔力を消費しているはずだ。なぜそこまでして、手厚くケイたちをもてなしてくれるのか――ありがたいが、同時に不気味でもある。
「フフフ……まあ、僕も"悪魔"を自称する者だからね、君の懸念はよくわかるよケイ。別に魂を頂戴しようだなんて言い出さないし、取って食うつもりもないさ。『対価』は既に二人から頂いているし、ね……」
「「えっ」」
邪悪に笑うオズに、思わず固まるケイとアイリーン。そんな二人を見て、オズは愉快そうにからからと笑った。
「なぁに、心配無用だ。二人の記憶を読み取った――これが僕にとっての対価さ。僕は記憶を糧とし、力とする者だからね。アイリーンの記憶は様々な感情に彩られていて実に美味しかったし、ケイのそれは、少々薄味だったが、類稀なる珍味だったよ。お茶や冷蔵庫やその他飲食物も、君らから頂いた対価で充分賄える範囲だから安心したまえ」
ケイは言葉を失った。オズはさり気なく言っているが、記憶を読み取ってそれを力に変換できるとは、とんでもない権能だ。しかもたった二人分の若者の記憶で、虚空から物品を自在に取り出し、まだお釣りが出るほどの高効率となると――。
話を聞いた限り、オズはケイたちよりも遥かに長い時を生きている。いったいこれまで、彼はどれだけの記憶を読み取ってきたのだろう? わかっているつもりだったが、自分はひょっとすると、恐ろしく強大な存在と相対しているのかもしれない、とケイは身震いした。
「……そりゃあ、その、どういたしまして?」
強張った空気をほぐすように、アイリーンがおどけて肩をすくめてみせる。よく見ると口の端が引き攣っているのは、ケイと一緒だ。
――と。
ゆるやかに風が吹く。
オズの隣に、ケイたちは羽衣を身に纏った乙女の姿を幻視した。
シーヴだ。
空中で、髪と羽衣をたなびかせたシーヴは、悪戯っ子のような笑みを浮かべて何事かをオズに囁いている。苦笑したオズが、胸元から大粒のエメラルドを取り出した。
瞬く間に無数のひびが入り、砕けたエメラルドが虚空へ溶けて消えていく。満足気に頷いたシーヴは、楽しそうにそよ風に乗って、屋敷のホールをふわふわと漂い始めた。
「……いったい何が?」
「彼女に、『自分の"お茶"はないのか』と言われてね」
「ああ……」
困ったような顔で、己の気ままな契約精霊を見上げるケイ。シーヴは我関せずと言わんばかりの様子で、心地良さげにたゆたっている。
「何というか……すまない。その、ウチのが……」
「いやいや、僕も気遣いが足りなかっ――」
と、オズが言いかけたところで、ふるふるとテーブルの下の影が揺れる。
「…………」
いやはや、と苦笑を濃くしたオズが、今度は胸元から大きな水晶の塊を取り出した。
そっと、床に水晶を落とす。それはそのまま、水面のような影にとぷんと呑まれて、消えていった。
「えーと……」
ぷるぷると嬉しそうに揺れる影――己が契約精霊『黄昏の乙女』ケルスティンの存在を間近に感じながら、ポリポリと頬を掻くアイリーン。
「気にすることはない、彼女らも君らに負けず劣らず興味深い存在だ」
オズは微笑みながら、シーヴとケルスティンをそれぞれ観察していた。
「そうだ、俺たちはまだわかるが、シーヴたちは何なんだ?」
ゲームではただのAIに過ぎなかった彼女らは今、立派な――と言うと少々語弊があるが――いち精霊として振る舞っている。
「ああ、面白い現象だね。僕も長らく生きてきたが、
うーむ、と額を押さえてぶつぶつと何やら独り言を呟くオズ。
「まあいい、忘れてくれ。どちらにせよ君らには縁のない話だ」
「あ、ああ……」
「そうだ、そういう意味では、君、サスケも似たような存在だよ。彼のことは大事にしたまえ。なにせ不老の名馬なんだから」
「は?」
「不老?」
思わぬ言葉に、間抜けな声を上げるケイたち。
「そうとも。君たちの記憶を参照していて気づいたが、君らプレイヤーには年齢と加齢という概念が設定されていたようだが、ゲーム内の動植物にまでは、それは適用されていなかったらしいね? 結果、君たちの愛馬、サスケは、半精霊とでも言うべき特殊な存在になってしまったようだ。生身の肉体を持った精霊、とでも言うべきか。兎に角、彼は老いることがなく、然るべき環境にあれば永遠に生き続けるよ」
「「ええ……」」
サスケ、お前そんなに凄いやつだったのか……と絶句するケイとアイリーン。
多分、本人――いや本馬も自覚がないはずだが、「ブルブル」と自慢げに鼻を鳴らすサスケの顔が目に浮かぶようだった。
「ちょっと待ってくれ、じゃあ、俺の馬のミカヅキも、そうだったのか……?」
転移当初、盗賊の毒矢を受けて、今は亡きものとなってしまった愛馬を思い出しながら、ケイは前のめりに尋ねる。
「それは、勿論。ただ、残念ながら不死ではないからね……」
「半精霊というからには、復活は、
「無理だね」
一縷の望みをかけたケイの問いを、オズはばっさりと切り捨てた。
「いやだって、君、半精霊とは言っても命あるものだよ? 治療なら兎も角、『復活』となるとね……。再三言うが、『こちら』は物質と精神の結びつきが非常に強い。肉体が滅びれば、魂も滅びようというものだ。今頃は流転輪廻に呑まれて、この世界、あるいは別の生命の一部になっているだろう」
オズの説明に、ケイはがっくりと肩を落とす。懐に収めた、お守り代わりの革財布を服越しにそっと撫でた。渋い顔でケイの肩を叩くアイリーン。
「まあ、運が悪かったと思って諦めたまえ」
「運、か……確かに、そうかもしれないな……」
諭すようなオズに、ケイも苦々しく頷く。この世界に転移した直後に盗賊に襲われたのは、ツイていなかったと言われればその通りだ。しかしミカヅキを死なせてしまったのは他ならないケイ自身。一瞬、再会を期待してしまっただけに、落胆も大きい。
「せめてその場に居合わせていればね、何とかなったかもしれないが。尤もそれ相応の対価は頂いただろうけど」
「……悪魔に対価とは、ぞっとしないな」
「高くつくよ? ……しかし今この場において、君らの記憶と僕の知識は等価だ。存分に活用したまえ。この世界のこと、転移のこと、珍しい動植物の効能や、何なら魔術の秘蹟なんてのでもいい。と言っても、その辺の知識は君らにはあまり魅力的ではないかもしれないね。薬品類には詳しいようだし、魔術も、君らは『こちら』の術者に比して充分過ぎるほどの知識があるらしい。人の身で実行できる術式は、既に知り尽くしていると言っても過言ではないだろう」
「まあ、多少はな」
「俺の場合は宝の持ち腐れだが」
魔法戦士としての自負はあるが、オズのような『大物』の前では鼻にかける気にもなれないアイリーンと、そもそも己を脳筋戦士と認識しており、あっても意味がないと肩をすくめるケイ。
ところが、オズは腕組みをしたまま、きょとんとした顔でケイを見やった。
「……ああ。そうか、君、気づいていないのか」
「……何か?」
オズに見つめられ、自分が何かとんでもない見落としをしているのかと、無性に不安な気持ちに駆られるケイ。
「いや、なに。君らはゲームのキャラクターに準拠した能力を受け継いでいる――それは確かだが、ゲームバランスのためにかけられていた制限は、もはやこちらには存在しないんだよ」
再び、生徒に言って聞かせるように、オズは指を振りながらとくとくと語る。
「だからケイ、君は、ゲーム内では騎射に特化したビルドの『完成された』戦士だったが、今やそれ以上に成長の余地があるんだ。……身体的にも、魔術的にも、ね。本当に気づいていないのかい? 幾度となく彼女に魔力を吸われ続けてきただろう」
オズは、空中をふわふわと漂う、風の精霊を親指で示した。
「――君の魔力は、既にひよっこ魔術師程度には増大しているよ?」
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