55. 賢者


 二の句が継げないケイたちは、眼前の『賢者』をまじまじと見やった。


 何もない空中に、まるで椅子に腰掛けるようにして浮遊する真っ赤なスーツ姿の男。


 不健康なまでに痩せぎすで、手足は長く、背は高い。病的なまでに白い肌、長い黒髪は後頭部へぴったりと撫でつけられている。いわゆるオールバックだ。


 その細面に捉えどころのない笑みを浮かべた賢者は、ある種の学者のような超然とした雰囲気を身にまとい、まるで観察するように、二人の異邦人を見下ろしていた。深い緑色の瞳に浮かぶ好奇の光。


「……なぜ、俺たちの名を?」


 開口一番、ケイは問うた。


「名前だけじゃないさ。君たちが『地球』から来たことも、『DEMONDAL』というVRゲームのプレイヤーであったことも知っているよ」


 事も無げに答える賢者。動揺するケイたちをよそに、天井近くの本棚へ書物を仕舞った彼は、空中からふわりと床に降り立った。


「まあ、立ち話も何だ。喉が渇いているんだろう? お茶はいかがかね」


 そうして、ケイたちに席を勧める。


 いつの間にか、そこには白いテーブルクロスをかけられた丸テーブルと、ティーセットが出現していた。白磁のティーポットにミルク入れ、カップに注がれた紅茶は湯気を立て、ご丁寧にクッキーとサンドイッチまで用意されている。


「……マジかよ」


 アイリーンが茫然と呟いた。ケイもぽかんと口を開いている。呪文スクリプトも唱えず、触媒を捧げた様子もなく、気がつけば、それらはそこに在った。まさしく『魔法』としか呼びようのない――『奇跡』。費やされたであろう膨大な魔力、そして本来ならば魔術の行使に必要不可欠な精霊の存在が、一切感知できないことに、二人とも戦慄を禁じ得なかった。


 精霊を介さずに事象を改変せしめたということは、つまり――この『賢者』本人が、精霊、あるいはそれに類する存在であるということ。


 予想はしていたが、目の当たりにするとやはり衝撃的だった。


「さあ二人とも、座りたまえ。お茶会と洒落込もうじゃないか」


 言うが早いか、そそくさと席につく賢者。ケイとアイリーンは顔を見合わせたが、少なくとも彼からは、悪意らしいものは感じられなかった。喉の渇きも限界に近く、賢者に倣って着席した二人は、ふぅふぅと紅茶に息を吹きかけて飲み始める。


 そんな二人の様子に、苦笑したのは賢者だ。


「いや、喉が渇いてるところに、熱い飲み物は気が利かなかったかな」


 そう言って立ち上がった彼は、冷蔵庫の扉を開いた。


 ――冷蔵庫。


 扉にマグネットやメモが貼り付けられた、やけに生活感のある『冷蔵庫』が、いつの間にかそこに在った。


「えっ」


 ガタンッ、と椅子を蹴倒さんばかりの勢いで、アイリーンが立ち上がる。その青い眼は、ケイが見たこともないほど真ん丸に見開かれていた。


「えっ、なっ、なんで!? それはっ!?」


 冷蔵庫が出現したのにはケイも驚いたが、それにしてもアイリーンの取り乱しようは尋常ではない――よくよく見れば、メモに書きつけてあるのは全てキリル文字。


 ロシア語だ。


「なんで……なんでオレん家の冷蔵庫がここにあるんだよ!?」


 アイリーンの問いかけは、もはや悲鳴のようだった。


「なに、君の記憶から引っ張り出したのさ」


 ぱちん、とキザにウィンクして賢者。英語で話しているはずだが、ケイはもはや、彼が何を言っているのかよくわからなくなってきた。


「風情があるだろう? 冷たい飲み物を出すなら、やはり冷蔵庫からじゃないとね。尤も中身までは、君の家のものには準拠していないが。さてさて、何がいいかな」


 茫然とするケイたちをよそに、冷蔵庫の中身を物色する賢者。


「色々あるよ。ケイはコーラがいいかな、どうやら君はペプシ派のようだ。アイリーンは何を飲みたい? なんならお酒もあるぞ。キンキンに冷えたビールやクワスなんてのは、いかがかね」


 冷蔵庫から見覚えのある清涼飲料水の瓶や缶が取り出され、次々にテーブルへ並べられていく――


「――あなたは、いったい『何』なんだ?」


 喉の渇きも忘れて、思わず、ケイは問いかけていた。


 両手にジュースの瓶を抱えたスーツ姿の男は、そこで我に返ったように目をぱちぱちと瞬かせる。


「……そういえば、自己紹介がまだだったね。そうだね、口に出さなければ伝わらないんだった。。僕のことは、そうさな、『オズ』とでも呼びたまえ。魔の森に住まう賢者などと呼ばれているが、僕自身は賢者になんてなったつもりはない。ただの森の居候さ」


 ケイにコーラを、アイリーンにはビールのような炭酸飲料を供した賢者――『オズ』は、再び椅子に腰掛け、真っ赤なブラッドオレンジジュース入りのグラスを傾けながら優雅に足を組む。


「そして、僕が『何』かと問われれば――【悪魔デーモン】かな」

「……悪魔?」


 オウム返しにするケイ。


「うむ。尤も、ケイ、君の想像するものとは異なるがね。『"悪"の"魔"性のもの』とは日本語では随分と酷い言われようじゃないか。それに対してアイリーンの印象は、より嫌悪感が強いようだが、はてさてこれは地球の地域による宗教観の差かな。興味深い。いずれにせよ、我々は我々自身を『デーモン』と称しているが、固有名詞に近いので地球の『悪魔』の概念とは全く異なるものだよ。だからと言って、僕自身が善性の存在、などと言い張るつもりはこれっぽっちもないがね……」


 クックック、と口の端を釣り上げ忍び笑いを漏らすオズは、まさしく、旅人を迷わす悪魔そのものに見えた。


「…………」


 オズの話の情報量に、アイリーンは目を白黒させているし、ケイはケイで頭痛を堪えるようにして額を押さえた。


 そこでふと、ケイは、眼前に洒落たゴブレットが出現していることに気がついた。


 手に取ってしげしげと眺める。この世界では滅多と見かけないような、透明なクリスタル・ガラス製。続いて、傍らのコーラの缶にも手を伸ばす。


 よく冷えている。250mlの缶、手の中にすっぽりと収まる程よい重さ。埃をかぶった記憶が、「ああ、これは確かにこういうものだった」と告げていた。現実リアルで缶を手にしたのは、十数年ぶりのことだろうか――いや、そもそもこれは現実なのだろうか――夢でも見ているようなぼんやりとした気持ちで、プルタブに指をかける。


 プシュッ、と懐かしい音。


 用意されていたゴブレットを使うのも忘れて、缶から直飲みする。しゅわしゅわと爽やかな炭酸が舌の上で弾けた。


 強烈な、そして人工的アーティフィシャルな味。うまい、と思った。だが、最後に口にしたのがあまりにも昔のことなので、この味が懐かしいのかどうかすら、ケイにはわからなかった。


「……あなたは、俺たちの記憶が読めるのか」


 コンッ、とテーブルに缶を置き、ケイは改めて問う。


「そうだね。僕は追憶と忘却を司る者だ」


 首肯するオズ。


 ケイやアイリーンのことを『知っていた』のは、屋敷を訪れたときから、二人の記憶を読み取っていたのだろう――そしておそらく、今この瞬間の思考さえも。


 自分たちの心を奥底まで、自由に覗き見られる存在。


 普通に考えれば不気味に感じそうなものだが、オズの態度があまりに飄々と、そして超然としているので逆に現実味に乏しく、畏れの感情が湧いてこなかった。驚きの連続で、その辺の感覚が麻痺しているということもあるのかもしれない。


 何か縋るものを求めるように、ケイは再び缶に手を伸ばし、コーラで唇を湿らせた。


「……『この世界』には、あなたのような存在が大勢いるのだろうか?」


 ゲームの世界には、【悪魔デーモン】などという設定は存在しなかった。タイトルからして【DEMONDAL】なので、どことなくその存在を示唆しているような気がしなくもないが、少なくともプレイヤーレベルでは、そういった情報に触れたことはない。


「さあ、どうだろう。多分いないんじゃないかな」


 しかしオズの返答は、なんとも気の抜けるようなものだった。一瞬、オズはこの世界で例外的かつユニークな存在なのかと思ったが、先ほど『我々WE』と言っていたからには同類がいるはず。その点を尋ねようとしたところで、オズが付け加える。


「――そもそも僕は、この世界の住人じゃないからね」


 緑色の瞳が、笑っている。


「君たちと同じように、別の世界から来たのさ。尤も、僕は己の自由意志でこの世界に『降りてきた』わけだが……」


 意味深な台詞に、ケイとアイリーンは顔を見合わせた。


「順を追って説明しよう。僕は、いやしくも我々デーモンが『天界』と称する世界の生まれだ。有り体に言えば、上位世界さ。天界の下の次元には無限に並行世界が広がっている。『この世界』もそのうちの一つだ」


 役者のように両手を広げて、周囲を示しながらオズ。


「基本的に世界を渡るのは大変な労力を要するものだが、上から下に降りる分にはそう難しくはない。僕は天界を出奔した――堕天したのさ」

「……なぜ?」

「嫌気が差したんだ。『天界』の住人、我々デーモンは、ほぼ不滅の存在だがね、ただ安穏と不死に甘んじることを潔しとしないんだ。己の存在を、さらに上位へ押し上げること――すなわち、己の魔力を際限なく肥大化させることに、心血を注いでいる。他者を蹴落とし、他者を喰らい、ただひたすらに争い続ける。天界はデーモンが果てしなく争いを続ける、地獄のような世界だよ。僕は、知識欲こそは旺盛だがね、荒事は好まないんだ。無限の闘争なんて御免だよ」


 ――だから、逃げてきた。


 オズは、そう言ってニヤリと笑う。


「しかし僕のように、天界を出るデーモンは非常に稀だ。再び天界に戻ろうとすれば、魔力を大量に消費してしまう。つまり『弱く』なるわけだ。強さを至上とするデーモンの価値観からすれば、到底受け入れられない。堕天なんてのは、肥溜めにでも飛び込むに等しい行為と見做されているのさ。僕が『多分いない』と言ったのは、そういう意味だ。堕天するデーモンは、死を恐れる臆病者か、よほどの変わり者のどちらか。そしてそんな奴はそうそういない」


 一息に語り、オズはクイッとグラスを傾けオレンジジュースを飲み干した。


「さて、僕の話は良いとして、君たちも何か聞きたいことがあるんじゃないか?」


 全てを見透かしたようなニヤニヤとした笑みを浮かべて、オズは問う。その視線は、特にアイリーンへ向けられていた。ビクッ、と怯えたように肩を震わせるアイリーン。


「……オレたちは、」


 恐る恐る、アイリーンは口を開いた。


「なんで、この世界にやってきたんだ? そして……元の世界に、帰還する方法って、あるのかな」


 とうとう聞いたか、とケイは瞑目する。


「そうさな」


 ふむ、と腕組みしたオズは、ケイとアイリーンをそれぞれじっと見つめた。


「まず、君らには記憶の混濁があるようだね。そこをなんとかしようか」


 くるりと指を回す。


 次の瞬間、ケイとアイリーンは「うっ」と頭を抱えた。脳内を蛇が這い回るような、異様な感覚。走馬灯のように記憶が蘇る。ゲームでの追い剥ぎとの戦闘、ウルヴァーン近郊の濃霧、そしてその中で遭遇した――



 ヨ゛ ン゛ タ゛



「……そうだっ、化け物! あれは一体……!?」


 のっぺりとした白色の、人型をした化け物。思い出した。ゲーム内の霧の中で、あれと遭遇したことを。むしろなぜ、今まで自分は忘れていたのか。


「世界を渡る際に記憶が混濁するのはよくあることだ。僕は特にそう言った方面に強いので、そういうことはないがね。と言うより、日常生活のこと、元の世界のこと等々、君らが忘れている部分は多かったぞ。自覚はなかったかもしれないが」

「……そうなのか?」


 オズの言う通り、自覚はなかった。顔を見合わせて首を傾げるケイとアイリーン。


「まあ、それは置いといて、オズの旦那、あの化け物はなんだったんだ?」


 気を取り直して、前のめりで尋ねるアイリーン。


「おそらくだが、時の大精霊『カムイ』じゃないかな。直接、相見えたことがあるわけじゃないから、確証はないが」


 おかわりのジュースを注ぎながら、オズはどこか投げやりに答えた。


「時の大精霊?」

「カムイ?」

「この世界の時空を司る上位精霊だ。まあ『彼』の権能なら、よその世界から魂を引っ張ってくるのはそう難しくないだろう。単純な魔力なら上位のデーモンに匹敵する存在だし、この世界に似た世界からなら、親和性が高いので力の消費も抑えられる」

「そうだ、旦那、そもそもなんでゲームの世界と『こちら』はこんなに似てんだ?」

「それは、偶然、あるいは必然だよ。無限に世界があるんだよ? 世界同士が干渉することもある。ゲームという仮想世界で、この世界を再現するものがいても何もおかしいことはない。逆にゲームなり創作なりで、地球を再現しているまた別の世界も存在するだろうさ」

「……では、それはいいとしても、なぜ大精霊が、わざわざ俺たちをこの世界に呼んだんだ?」


 恐れ慄きつつも、ケイは問う。


「さあ?」


 が、オズはただ肩を竦めた。眉をひそめるケイたちに、「仕方がないだろう」とお手上げのポーズを取ってみせる。


「本人に直接会えばまだ思考や意図も読み取れるが、君らの記憶越しにその存在を感知しただけだからね。それに、あのレベルの上位精霊は世界を管理維持する『仕組みシステム』に近いから、思考が突飛すぎて何がしたいのか僕にもよくわからないんだ」


 アイリーンは釈然としない顔だ。ケイも、これには肩透かしの感が否めない。そんな高位の精霊が、なぜ自分たちを呼び寄せたのか――理由がはっきりしないままなのは、気持ちが悪かった。


「……じゃあ、……元の世界への、帰還は?」


 恐る恐る、アイリーン。


 オズは、捉えどころのない笑みを浮かべて、アイリーンを見据えた。


「その前に、アイリーン。君の気持ちをはっきりと聞かせてほしいね」


 テーブル越しに――しかしアイリーンは、息がかかるほどの至近距離で、オズに顔を覗き込まれているような錯覚を抱く。


「君は、そもそもどうしたいのかね? 帰りたいのかな?」

「……オレ、は」


 硬直したアイリーンは、ちらりとケイを見やる。


 そしてそのまま――俯いた。


「……ごめん、ケイ」

「えっ?」


 突然の謝罪に、顔色を変えるケイ。


「……あっ、待って待って。そういう意味じゃない、そういう意味じゃないんだ」


 じわりと目の端に涙を滲ませたケイに、慌ててわたわたと手を振るアイリーン。


「違うんだ……その、はっきり言うよ。オレは、帰るつもりはない。ケイを放って一人で帰るなんて、そんな……そんなこと、できないよ」

「……アイリーン」


 テーブルの上、少女は、ケイの手をしっかりと握る。ごしごしと服の袖で目元を拭いたケイは、恥じ入って赤面した。アイリーンが帰りたがるようなら笑って送り出そう、と決意していたのに、いざとなったらこのざまだ。


「でも、それならなんで謝ったんだ?」

「……そんなあやふやな覚悟で、ケイをここまで連れてきてしまったことが、申し訳なくってさ。色々あったし……」


 北の大地を縦断し、魔の森を訪れるため、ケイには多大な苦労をかけた。危険な目にも遭った。


「……悩まなかったと言えば、嘘になる。けど、やっぱりケイと一緒にいたいって思ったんだ。……でも、せめてパパとかママとか、姉ちゃんに、『オレは元気だよ』『幸せに暮らしていくよ』って、そんな風にメッセージを送れないかな、って」


 おどおどとこちらを見つめる青い瞳を、ケイはまっすぐに見つめ直した。


「……謝らなくていい。気持ちはわかる。俺だって、できるならそうしたいさ。父も母も、安心させてあげたいしな……」


 アイリーンの手に、そっと自分の手を重ねるケイ。


「……そうか、よくわかったよ」


 見つめ合う二人に、オズはうむうむと頷いた。


「では、意志の確認ができたところで、答えよう」


 姿勢を正したオズは、


「結論から言うと、帰還は事実上、不可能だ。メッセージを送るのも難しい」


 非情な宣告だった。ケイはそれを重々しく受け止める。アイリーンは表情を変えなかったが、その手にぎゅっと力がこもった。


 が、オズはさらに衝撃的な言葉を紡ぐ。




「――というか、君らの元の世界の肉体は、おそらくもう死んでるよ」




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