54. 霧の中


 見渡す限りの、乳白色の世界。


「濃いな……」


 一歩一歩、足元を確かめるようにして進む。ケイは"竜鱗通し"を構えながら、周囲に神経を張り巡らせていた。


 頭上から降り注ぐ、ぼんやりとした木漏れ日。森の中は思ったよりも明るいが、視界は著しく悪かった。たゆたう濃霧。立ち枯れたような木々も、その辺に転がる苔むした岩も、全てが白く霞み、背景に溶け込むようにして輪郭を失っていく。


 先ほどからケイは、乳白色のヴェールからぬっと姿を現す巨木の影に、ぎょっとさせられてばかりいた。果たして本当に真っ直ぐ歩けているのか、自信がない。


 静まり返った霧の森。


 ブーツが腐葉土を踏みしめる音と、己の微かな吐息の他は、何も聞こえない。


 しっとりとした、湿り気のある空気の流れが、頬を撫でる。


「――――」


 ふと、何者かの視線を感じた気がして、ケイは振り返った。


「…………」


 しかし、そこには、何もない。


 何があるかもわからない。


 ただひたすらに、鷹の目でも見通せない、白く濁った世界が広がっているだけ――


「……ケイ? どうかした?」


 ぴたりと動きを止めたのは、アイリーンだ。にわかに立ち止まったケイに、囁くようにして問う。腰に繋いだ鎖越しに、彼女の動揺が伝わってくるかのようだった。


「……いや、なんでもない。気のせいだった」


 そう答えながら、ケイは腰の命綱を二度引く。



 ――くいくいっ、と合図が返ってくる。



「合図は?」

「ある」

「……オレたち、けっこう進んだ?」

「おそらく。命綱ロープの長さも、そろそろ限界かも知れないな」


 限界に近づいたときの合図も決めておくべきだった、などと今更のように思うケイ。霧の中に踏み込んで、どれほどの時間が経っただろう――自分たちの時間感覚が、随分と曖昧になっていることに気づく。


「……もう、戻った方がいいかな、ケイ」


 アイリーンは少々心許なさそうな様子だ。しきりに、周囲を見回している。ほとんど何も見えず、何も聞こえないこの場所で、その行為に意味があるのかはわからない。


「そうだな、そろそろ引き返すか」

「うん……それにしても、不気味だけど、なんか思ったより普通な場所だったな」


 ふわふわと霧をかき混ぜるように手を動かしながら、アイリーン。まるで自分に言い聞かせるかのようだった。


 が、確かに、一歩踏み込めば気が狂う、とんでもなく危険な場所だ、と入る前に散々脅かされていたが――実際、ケイたちはまだ正気を保っている。


「そうだな――ん?」


 相槌を打ちかけたケイは、さっと手を挙げて注意を促す。再び、ある種の児戯のように、ぴたりと動きを止めるアイリーン。


「…………。どうした?」

「何か聴こえた」


 囁くようなやり取り。耳を澄ます。


 今度は気のせいではない。森の奥から、微かな音。少しかすれた、何か甲高い『声』のような――




 えぇん…… ぇぇん……




 はっきりと聞き取ったケイは、目を剥いた。



 えぇん…… ぇぇん…… えぇぇん……



「……赤、ちゃん?」


 茫然と呟くアイリーン。


 泣き声。


 それは赤ん坊の泣き声だった。聞き間違い、あるいは風の音と断ずるには、あまりにも生々しい。年端もいかない乳飲み子の――


 ――いや、そんなはずはない。


 こんな場所に、よりにもよって『魔の森』の奥に赤ん坊が居るはずがない。


「……幻聴じゃ、ないよな?」

「違う。俺にも聴こえる」


 だから尚更たちが悪い。こんな声を上げる何かが居る、ということだ。


 


「……山猫とかかも知れない」


 発情期の猫は、赤ん坊に似た声を上げることがある。これも、その手の動物の泣き声かも知れない――と言うアイリーンだったが、すぐに口をつぐんだ。



 ずる……、ずる……、と。



 何かを引きずるような音。重量を感じさせる。石でも詰めた麻袋を引くような。


 えぇん…… ずるっ…… えええん…… ずるっ……


 何かが、這いずりながら、近づいてくる。


 そろそろと足音を立てないよう後退し、大樹の陰に身を潜める。ケイは、"竜鱗通し"に矢をつがえ、構えた。


『――魔の森の近くは、妙な獣が沢山出るんだ』


 霧の奥を見通そうと目を細めていると、不意に、アレクセイの言葉が脳裏に蘇る。


『身の丈ほどもある一角の大猪やら、双頭の蛇やら。どいつもこいつも、狂暴で危険なヤツらばかりさ』


 やれやれだぜ、と言いながらも笑っていたアレクセイの表情が、曇る。


『……ただ、ソイツらは霧の中の化け物に比べればマシだ』


 その透き通るような水色の瞳は、不安げに揺れていた――


『――刃で倒せるだけ、な』


 ずるっ、ずるるっ、と重い音。


 ケイの瞳は、霧の向こう側に、何か蠢くものを捉えた。


 えぇん…… えぇん……


 ――間違いなく、『声』。すすり泣くような。その姿は、はっきりとは見えない。


 しかし、思ったよりも小さな影。


「…………」


 どくん、どくんと心臓の鼓動を意識する。


 ええん…… えぇぇえええん…… えぇぇん……


 泣き声は、ケイたちの存在には気づいていないようだった。


 来たときと同じように、そのままゆっくりと遠ざかっていく。


 じりじりと肌が焼け付くような感覚。


 やがて、霧の彼方に声が消え、再び静寂が訪れたとき、ケイとアイリーンは盛大に息を吐き出して、樹の幹にもたれかかった。二人とも、知らず知らずのうちに冷や汗をかいている。


 結局、ケイが矢を放つことはなかった。


「……ケイ。何だよ、アレ」

「……わからん。……赤ん坊じゃないよな?」

「赤ちゃんがこんなとこにいるわけないだろ……」

「……だよな」


 ケイも、頭ではわかっている。だが――あの影の形は、赤ん坊にしか見えなかった。あの重量感のある音とは裏腹に、抱きかかえられそうなほどに小さくて、儚げな存在に見えた。とても、矢を放つ気にはなれなかったのだ。


 尤も、矢を当てたところで『倒せるか』は別問題――あれは、果たして生物だったのだろうか?


「ヤバいな、ここ」

「そうですか? 良い場所だと思いますよ」

「は?」


 アイリーンの呟きに、別の誰かが答え、間抜けな声を上げるケイ。


 弾かれたように振り返ると、いつの間にか背後に、奇妙なものが立っていた。


 それは本当に『奇妙なもの』としか形容しようがない。背丈はケイたちと同じくらいの、一般的な人間サイズ。卵型の胴体に長い手足。ただしその胴体は――いや、そもそも『胴体』と言って良いものか。


 全て、顔だった。顔から手足が生えたような姿。


 ケイは咄嗟に『鏡の国のアリス』のハンプティ・ダンプティを連想した。卵を擬人化した、ずんぐりむっくりな体型の登場人物――一般に知られているハンプティ・ダンプティとの違いは、体表がざらざらとした岩のような質感をしていることだろう。まさしく、石の卵――その重量を物語るかのように、柔らかな大地にはその小さな両足がめり込んでいる。そしてそれは、眼前のこの奇妙な『もの』が、紛れもなく実在することを示していた。


「なっ」


 いち早く我に返ったケイは、思わず弓を構えそうになったが、寸前で自重する。その胴体(もしくは顔)ではなく、ただ威嚇として、足元に狙いを定めた。『対話可能』な存在であれば、殺すつもりで武器を向けるのはあまりに無礼だと思ったからだ。あるいはそう思わせるだけの穏やかで紳士的な態度を、その『石卵』は貫いている。見れば、アイリーンもケイと同じ考えだったらしく、背中のサーベルに手を伸ばしてはいたが、引き抜いてはいない。


 ――だが、この存在は本当に『対話可能』なのか?


 最初に話しかけてきてから一言も発さない石卵を前に、ケイは嫌な汗が滲んでくるのを感じた。


 石卵は、微笑んでいる。


 アルカイックスマイル――口の端に浮かぶ無感動な微笑。よくよく見れば、その顔の造形はまるで冗談のようだった。大きな丸い目に、ひしゃげた鼻、しわの寄った、ケイを丸呑みできそうなほど大きな口。全体的に石のような質感を漂わせているが、その瞳だけが妙に生気を感じさせていて、気持ち悪い。絵画からそのまま飛び出してきたかのような非現実感。身じろぎもせず、ただ、じっとそこに立ち尽くす様は悪趣味な石像のようでもある。


 ただ――なんだろう。


 その瞳を睨み返していると、ケイは無性に不安を掻き立てられるのだ。


 石卵は、微笑んでいる。


 しかしそれはケイの認識に過ぎない。石卵が浮かべている表情を、『微笑みである』と判別しているのはケイだ。


 疑問がある。


 穏やかな表情に対して――この瞳の奥にあるものは何だ。


 ゆっくりと、ケイは弓を構え直す。


 狙いは足元から、石卵の体の中心へ。


 もはや無礼だの対話だのという考えは投げ捨てていた。無感動に、じっとこちらを凝視する見開かれた両眼から、ケイはある動物を連想せずにはいられないのだ。



『蛇』



 獲物に狙いを定める、肉食の爬虫類――



「――――」



 すっ、と石卵が、瞳だけ横に動かした。


 視線を移す。


 アイリーンに。


 びくんと反応した少女は、サーベルの柄に手をかける。ケイもまた"竜鱗通し"を握る手に力を込め、即座に弦を引けるよう感覚を研ぎ澄ます。


 にわかに、恐ろしいほどの緊張がその場を支配した。


 "竜鱗通し"を構えるケイも、サーベルを握るアイリーンも、微笑む石卵も、それ以上は動かない。


「…………」


 やがて、石卵がつっと視線を逸らした。まるで興味を失ったかのように。


 くるりと背を向ける。


 その瞬間、ケイは思わず叫びそうになった。


 背面には、無数の人の顔。


 一つ一つが、握りこぶし大の『顔』だった。丸みを帯びた石卵の背面を、びっしりと埋め尽くしている。男の顔もあった。女の顔もあった。老いも若きも等しく苦悶の表情を浮かべたそれらは、ケイとアイリーンの姿を認め、一斉に口をぱくぱくと動かす。


 まるで助けを求めるように。


 小さな口が――無数の『穴』が、蠢く。


「うぅッ……」


 あまりの醜怪さに、顔を青褪めさせたアイリーンが口元を押さえた。ケイの全身が粟立つ。その異質さ、そして何より生理的嫌悪感に。


 石卵は、もはや振り返ることもなく、歩み去っていく。


 のしのしと足音が遠ざかり、その背が――人々の顔が、霧に包まれて見えなくなる。


 ただ、二人の荒い吐息だけが、やけに耳についた。


「……何だよ、今の」


 アイリーンが喘ぐようにして、呟く。


 ケイはそれに答えられない。


 ただ、矢を放たなくて良かったかも知れない、とだけ思った。


「……戻ろう」


 額の冷や汗を拭いながら、ケイ。その提案に、アイリーンは一も二もなく頷いた。


 そのまま命綱を辿って引き返そうとしたところで――しかし二人は足を止める。


 おかしなことに気づいた。


 ケイたちの命綱。


 今までずっと、森のほとりから引っ張ってきたはずのそれが。



 



 呆けたような顔で、ロープの先を視線で辿っていく二人。


 立ち込める乳白色の壁の向こう側に、ロープの先端は吸い込まれていき、見えなくなる。ぼやけた霧の果ては、見通すことができなかった。ケイの目をもってしても。


 ロープの伸びる方へ、一歩、二歩と歩み寄る。


 当然、ロープはゆるんで、たるむ。


 するとたるんだ分だけ、しゅるしゅると『向こう』から手繰り寄せられる。


 そのままふらふらと、釣られるようにして歩いて行く二人だったが、十歩も行かないうちにケイが立ち止まった。


 霧の向こう側に――ぼんやりと、何かが見えてきたのだ。



 でかい。



 人型――に見える。だが、サイズがおかしい。その背丈は、見上げるほど――少なく見積もっても十メートル近くある。周囲の大木に匹敵する高さ。



 



 それは――どことなく、犬の散歩を思わせた。


 命綱がリード。


 ケイたちが、犬だ。


「…………」


 口の中が、からからに乾いていた。


 そのとき、何を思ったかケイは、その巨大な『ヒトガタ』を前にして、くいくいと命綱を引っ張った。


 くいくい、と合図が返ってくる。


 明らかに、その動きに合わせてヒトガタが揺れていた。


 そして、ケイは、とうとう気づく。――今まで、長時間に渡り合図を送っていなかったにもかかわらず、救助のため命綱が引かれなかったことに。


 即座に、ナイフを抜いて命綱を切断した。


 ぱたっ、と軽い音を立てて地に落ち、たるむ命綱。


 しゅるしゅると、ヒトガタがそれを引いていく。手繰って、手繰って、手繰り寄せて――先端に、何もついていないことに気づいた。



 ――――!



 その瞬間、周囲に満ちた異様な気配を、なんと形容するべきだろう。


 怒声、が適当かもしれない。


 だが、森は静かなままだった。


 静寂の中に、怒りが満ちている。


 眼前のヒトガタが、駄々をこねるように暴れ始める。


「あっ、うわっ」

「逃げるぞッ」


 上擦った声を上げるアイリーン。その手を引いて、無理やり引き摺るようにしてケイは駆け出した。すぐに我に返り、アイリーンも自ら走り出す。


 二人の声と足音に、ヒトガタも気づいたらしい。



 ――――!



 無言の怒気を吹き上げるようにして、ズンッ、ズンッと重い足音を立て追いかける。


 立ち枯れたような木々を薙ぎ倒し、大地を砕き、それでも止まらない。


 ヒトガタの動きは鈍く、お世辞にも機敏な走りとは言えなかった。が、一歩の歩幅が段違いだ、いずれ追いつかれる。アイリーンだけなら逃げられるかもしれないが。


 ケイは――


「くそっ、アイリーン走れ!」


 二人の腰をつなぐ鎖を、そのフックを外した。


「あっ、ケイ何を!?」


 突然ヒトガタに向き直ったケイに、アイリーンもまた立ち止まる。


「行けっ、俺に構うな!」


 そう叫ぶケイは、おもむろに"竜鱗通し"を構えた。


 青色の矢羽。通常のものより、さらに長い矢をつがえる。


 狙うはヒトガタの頭部。


 一息に引き絞り、放つ。


 カァン!! と快音、見上げるような化け物に、矢が唸りを上げて突き立つ。



 ――!!



 大気が、それそのものが動揺するかのように震えた。両手で頭を抱えたヒトガタが勢いを失い、ふらふらと足元が覚束なくなり――倒れる。


 重量物が叩きつけられる衝撃に身構えるケイだったが、しかし、ヒトガタの体躯が地に触れる寸前で、


「くッ!?」


 ケイは顔の前で腕を交差させ、姿勢を低く保つ。ぶわりと吹き荒れる風。いや、それはもはや『爆風』だった。あるいはヒトガタの断末魔の叫びか、無音のうちにびりびりと痺れるような、音に近い何かがケイを圧する。纏わりつく霧さえも、一瞬吹き散らされたほどだった。


 だが、霧はすぐに戻ってくる。


 森は再び静寂に包まれ、しっとりとした空気が辺り一面を覆い尽くす。


 未だわんわんと残響すら感じる中、ケイはそれを振り払うように頭を振りながら、立ち上がった。


「……無事か? アイリーン?」


 呼びかける。


「……アイリーン?」


 しかし、返事がない。


 慌てて周囲を見回した。だが、あの黒衣の少女は姿は、ない。ケイは霧の中にひとりぼっち、取り残されている。


 霧は、ますます濃くなったようだ。もはや数歩先さえも見えない。


 白くぼやけた世界で、ケイは一人、狼狽した。


「アイリーン? アイリーン!?」


 声を振り絞って叫ぶ。そして耳を澄ます。


「……ケーイ!」


 やがて、どこからかアイリーンの声が返ってきた。


「アイリーン!? どこだ――!?」


「……ケーイ! どこ――!?」


「アイリーン!! 俺はここだー!」


「……ケイ? ケーイ!? なんで!? どこなの!?」


 アイリーンの声には、困惑の色が滲んでいた。何らかの原因で、方向感覚を失っているのか。


「動くな、今そっちに行く――! 待ってろ――!」


 声のする方へと、ケイは足元を警戒しながら走り出す。



「アイリーン!!」


「……けーい!!」


「アイリーン、大丈夫か――!?」



「ケーイ!」



「アイリーン!!」


「けーーい! こっちー!」


「そっちか! アイリーン!」



「ケ―――イ!」



「アイリーン!」


「けーい! けーい!!」



 走って、走って、走って。




 なぜだ。




 立ち止まる。



「アイリーン! 動くな、俺が行くから!」


 霧の向こう側へ、叫ぶ。ケイがどれだけ走っても、距離が縮まらない。


「けーい! こっち、こっちー!」


 相変わらず、アイリーンの声は聞こえてくる。


「アイリーン! 動くなよ! いいか!? 今そっちに行くから!」


「けいー?」


 さらに、走った。そして霧の向こう側に、朧気に黒い影。


「良かった、ここにいたか!」


 その背中に、声をかける。


「アイリーン、大丈夫、か……」


 だが、残り数歩の距離まで迫ったところで、足を止めた。


 ゆらゆらと揺れる、黒い影。背中を向けているのだと思っていたが、これは――


 いや――黒衣ではあっても、これはおかしい。アイリーンの髪はプラチナブロンドだ。こんな黒髪では――いや、肌の色も黒くなんか――



 いや、そもそもこれは人間では



「けーーーーーいーーーーー」



 がぱぁっとくちがひらいた



「何だお前!?」


 躊躇いなく、弓を引く。矢をぶち込む。


 一撃を受けた黒い影が、ぱぁんと弾けた。


 キャーキャーと甲高い、どこか楽しそうな悲鳴を上げて――無数の、数え切れないほどの小人の影が飛び散った。


 それは蟻の群れのようにも見えた。ただ、蟻とは比べ物にならない速さで、四方八方に散っていく。


 ばらばらばら。


 またもや、ケイは霧の中にひとり。


「……アイリーン?」


 ――俺は何を追いかけていた?


 ――本物のアイリーンは、どこに居る?


「……アイリーンッ!!!」


 叫ぶ。


「アイリ――――ンッッ!」


 声が枯れるほどに。


 そして耳を澄ます。目を閉じて、全神経を傾けて。


「…………ケーイッ!」


 今度こそ、聴こえた。


「けーい」

「けーーーーい」

「けーいけーい」

「けーーーーい」

「けいー」

「けいーけいー」


 そしてそれを遮るように、あらゆる方向から、声、声、声。


 これだ。アイリーンが先ほど困惑していたのは――


「クソッ舐めやがって!」


 ケイは胸元から乱暴に魔除けタリスマンを引き抜き、さらに腰のポーチから大粒のエメラルドを掴み取った。


【 Maiden Vento, Siv ! 】


 その名を喚ぶ、


【 Montru al mi la vojon al Aileen ! 】


 手に握ったタリスマンとエメラルドが砕け散り、虚空へと消えていく。


「うぐぅッ!?」


 次の瞬間、ケイは膝をついた。凄まじい負荷。まるで肉体そのものを、雑巾のように絞り上げられるかのようだった。魔力が抜き取られていく。



 ――Kei, venu kun mi.



 囁くような、気遣うような、優しげな言葉。風が、慰撫する。霧が渦を巻き、道が示される。ケイはそこに、羽衣を纏った少女の姿を幻視した。


 ふらふらと立ち上がり、歩いて行く。


「ケーイ! どこだよ、ケーイ!」


「……俺は、ここだ……!」


 ぜえぜえと息を荒げながら、それでも答える。


「ケイ!? ケーイ!」


 やがて、風に導かれるようにして、少女の姿が。見慣れた黒衣、片手のサーベル、馬の尾のように跳ねる金色の髪――


 ――アイリーンだ。


「ケイ!? 大丈夫か!? 顔が真っ青だ!」


 よろよろと力なく、今にも倒れそうな風に歩き、病人のような顔色のケイに、アイリーンもまた血相を変える。


「大丈夫だ……ちょっと、魔力を……使いすぎて……」

「そんな……。でも、良かった……もう会えないかと思った……」


 ケイを抱き締め、アイリーンがくしゃっと顔を歪めた。


「俺もだ……会えて良かった……」


 アイリーンのぬくもりを感じながら、ケイは思う。



 なぜだろう


 前にもこんなことが


 あった気がする――



 二人は、再び腰の革帯を鎖で繋ぎ、しっかりと手を握り合って、歩き始めた。ケイは満足に弓が使えないし、アイリーンは素早く動けない。それでも、離れ離れになるよりは、マシだった。


「すまない……俺が鎖を外さなければ、こんなことには……」


 アイリーンに手を引かれながら、ケイは力なく歩く。魔力を使いすぎた。帰り道がわからないのに、もう当分、魔術が使えない。


 二人は、完全に霧の中で迷子になっていた。


「いや、あれは仕方ないだろ。……でもさ、ケイ。オレを逃してくれようとしたのは、ありがたいけどさ。もう自分だけを犠牲にしようとするのは、やめてくれよ」


 ケイを置いて逃げられるわけないだろ、とアイリーンは冗談っぽい口調で言った。


 しかし言葉とは裏腹に、繋いだ手に、痛いほどの力がこもる。


「……すまん。咄嗟のことでな」

「……ふふ。嬉しくはあるけどさ。守ってくれてありがとう、ケイ」

「次からは、気をつけるよ」

「『次の機会』なんてゴメンだぜ?」

「はは、そりゃそうだ」


 軽口を叩きながら、ただ歩いた。あの場に留まるのは、危ないように思えて。




 森に入ってから、随分と時間が経っているはずだ。


 歩いて、肝を冷やして、戦って、走って。


 二人は、疲労と喉の渇きを覚えていた。


 だからだろうか――微かな水の音に、敏感に気がついた。


 吸い寄せられるようにして、そちらへ向かう。


 やがて二人を出迎えたのは、錆びついた鉄の門扉だった。


「これは……?」


 鋭い忍び返しがついた鉄の柵が、左右に果てしなく広がっている。その中央に、門。手を伸ばして触れると、キィィ……と音を立てて、何の抵抗もなく開いた。


 門の内側へ、立ち入る。


 まるで森に入ったときのように、霧がスッと晴れた。


 ――いや、よくよく見れば、足元には薄っすらともやが立ち込めている。しかし、視界は明瞭だ。空が曇り空のように、ぼやけて見えることだけを除けば。


 そして視界がすっきりしたことで、新たに見えた。


 門の内側に広がっていたのは、打ち捨てられたような庭。風化した石のタイル、眼前には大きな噴水。庭の荒れように比べて、異様なまでに清涼な水が噴き上がっており、ぱしゃぱしゃと涼やかな音を立てている。


 そのさらに先には――巨大な屋敷。


 要塞都市ウルヴァーンの、貴族街を思わせるような、豪奢なものだった。


「……ここが、まさか」

「……賢者の、家?」


 思ったよりずっと立派だな、とケイは素朴な感想を抱いた。


 喉が渇いて仕方がなかったが、生水を口にするのは恐ろしかったので、後ろ髪を引かれる想いで噴水は放置。ひとまず先に、屋敷を訪ねることにする。


 荒れ果てた庭に囲まれた屋敷。窓には全て、天鵞絨ビロードのカーテンがかかっており、中の様子を窺うことはできない。


 人の気配は、ないようだったが。


 噴水の水音だけが響く静かな空間で、ドアノッカーを叩き鳴らすのは、なんとなく無粋に感じられた。玄関扉を前にケイたちが躊躇っていると、扉の方が、音もなくすぅっと開いた。


「うお……」

「わっ……」


 屋敷の中を目にして、ケイとアイリーンは驚きの声を上げる。


 普通は、この手の屋敷ならエントランスホールが広がっているところだが、そこにあったのは無数の本棚。


 それも、本や巻物でびっしりと埋め尽くされたものが、果てしなく広がっている。恐ろしいことに、ケイの視力をもってしても、その限りが見えなかった。外見からして既に巨大な屋敷だったが、その中がさらに広いとはどういうことか――


「入りたまえよ」


 と、茫然とするケイたちに、声がかけられた。


 


 ぎょっとして天井を振り仰ぐと――二階部分の本棚の近くに、赤い人影。『彼』は、何もない空中に腰掛けるようにして、本を開いていた。



『魔の森には、奇抜な赤い衣に身を包んだ賢者が棲んでいる――』



 その伝承が、紛れもなく真実であったことを、ケイは理解する。



 賢者は、真っ赤な『スーツ』を身に纏っていた。



 ケイたちの世界、すなわち地球で見慣れた、かっちりとした仕立てのスーツ。


 勿論、『こちら』の世界には存在しないモノ――


「やあ、よく来たね、二人とも」


 ぱたん、と本を閉じた『賢者』は、色白で、細面の若い男だった。


 緑色の瞳が、二人を見据える。


「歓迎するよ。『アイリーン=ロバチェフスカヤ』――そして、『乃川圭一』くん」


 名乗ってもいないはずなのに。


 赤い賢者は、そう言ってニヤリと嗤った。

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