53. 突入
鳥の鳴き声に、目を覚ました。
閉め切った雨戸の隙間から、高く昇った陽光が差し込んでいる。ベッドに寝転ぶケイは、ぼんやりと寝ぼけ眼でそれを眺めていた。
傍らに人肌のぬくもりを感じる。愛くるしい、いつまでも抱き締めていたくなるような温かさ。
ケイの腕に縋るようにして、アイリーンが寝息を立てている。無意識のうち、ケイの手はアイリーンの背筋をなぞっていた。白磁のような肌。しばし、指先に伝わる滑らかな感触に陶然とする。背中を往復する指に少しくすぐったそうにしながらも、アイリーンはむにゃむにゃと、まだ夢の中だ。
その穏やかな寝顔を、愛おしげに見守るケイ。
が。
(――あれ、今何時だ?)
不意に冷水を浴びせられたような感覚に襲われる。
明るい。部屋の外が明るすぎる。今日は早朝から魔の森に挑む予定ではなかったか。しかし、少なくとも、この日差しの高さは朝ではありえない。
「しまったッ」
ともすれば昼前。思わず跳ね起きるケイ、支えになっていたケイの腕がなくなり、枕に顔を埋めて「んぎゅっ」と声を上げるアイリーン。
「……ん? ……ん。……ケイ、おはよ」
ベッドの中、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、ぱちぱちと青い目を瞬かせるアイリーン。しばし視線を彷徨わせ、ケイの姿を捉えて、安心したようにふにゃりと笑う。
「あ、ああ、おはよう……」
とりあえず、アイリーンに合わせて笑顔を浮かべるケイは、しかし口の端が引き攣っていた。どこか挙動不審な恋人に目を擦りながら首を傾げるアイリーンだったが、ケイの視線を辿り、――燦々と雨戸から差し込む陽光に気付いた。
すっ、とアイリーンが真顔になる。
「……えっ、待って待って、ケイ、今何時?」
「……わからん」
顔を見合わせる二人。
――寝過ごした。
転がるようにしてベッドから飛び出した二人は、大慌てで床に散らばった服を身につけ始めた。
†††
「おお、起きたか」
どうにか身支度を終えたケイたちがリビングに駆け込むと、テーブルで何やら帳簿をつけていたセルゲイが暢気に声をかけてきた。
「すまん! 今日は朝から森へ行く予定だったのに――」
「なぁに、気にするな」
ケイの言葉を遮って、ひらひらと手を振るセルゲイ。
「旅の疲れもあっただろう? 寝かせておくことにしたんだ、別に魔の森は逃げやしないからな」
急がなくていいし、今日が無理なら明日にすればいいじゃないか、と。あくまでも、のんびりとした様子のセルゲイに、ケイたちも落ち着きを取り戻す。
そうだ――何も、急ぐ必要はないのだ。
これまで、追い立てられるように旅してきたせいで、少しカリカリしすぎていたのかもしれない。そう意識してみると、前のめりになって慌てていた自分たちが滑稽に思えてきて、ケイとアイリーンは顔を見合わせて苦笑した。
「そうだな、それもそうか。……今、何時くらいだ?」
「おいおい、こんな田舎に時計があるとでも思ってんのか?」
だいたい昼過ぎだよ、とお手上げのポーズで答えるセルゲイに、ケイはますます苦笑の色を濃くする。おそらく現在、シャリトの村に存在する時計は、ケイたちの荷物に仕舞われている懐中時計ひとつだけだろう。
「それにしても、ケイもアイリーンも、本当にぐっすり眠ってたな」
「ああ、そうだな……お陰でゆっくり休めたよ。随分と長い間、眠っていたような気がする。昔、病気でほとんど意識もなく半年以上寝込んだことがあるんだが、それに似た感じだ」
額を押さえて、頭を振りながらケイ。本当に、不思議なことに、かなりの長期間に渡って眠り込んでいたような感覚があった。
「意外だな、お前はそんな大病しそうな人間には見えないが。まあなんだ、とりあえず茶でも飲めよ。長旅に加えて戦いにまで巻き込まれたんだ。そうそう疲れは取れんさ」
「ありがとう」
セルゲイに勧められて席につき、「ほれ」と薬缶に作り置きされていたハーブティーを貰う。揃ってカップに口をつけるケイとアイリーン――
「にしても、昨日は随分と激しかったな。結局何回ヤったんだ?」
が、突然ゲス顔になったセルゲイの問いに、「ブフォ」と同時に茶を噴き出した。
「ゲホッ、こほっ!」
「な、何言ってんだあんたは!」
むせるアイリーン、どもるケイ、そんな初心な二人の反応に「グヘヘ」とさらにゲス顔を濃くするセルゲイ。
「いやいや、わかるぞぉ~、よぉ~くわかるぞぉ! 旅だと気軽にできないもんな? な? 久々だったんだろ? 我慢した分、燃えちまうってのはよくあることさ! いやぁ良いねえ良いねえ、若いねえ!」
手をわきわきとさせながら、何やら一人でうんうんと頷いたり勝手に納得したり盛り上がったりと、忙しないセルゲイ。アイリーンは頬を染めてそっぽを向き、ケイは憮然と腕組みしている。そんな二人を見て、セルゲイはますます大笑いした。
「……それで、今日はどうする?」
ひとしきり二人をからかってから、少しばかり真面目なトーンでセルゲイ。
「うぅむ……森にアタックするには……」
「ちょっと遅い気がするなぁ……」
ケイとアイリーンは揃って難しい顔で、部屋の窓から既に高く昇り切った太陽を見上げる。森に入って何をどうするか、具体的なヴィジョンがあるわけではない。ケイたちの目的は、おそらく森のどこかに居る『賢者』――もしくはそれに類する存在――と邂逅し、元の世界への帰還が可能か確かめることだ。賢者が実在しなければ元も子もない話だが、あの怠慢で気まぐれな風の精霊シーヴがわざわざ道を示したということは、きっと『何か』があるはず。
問題は、肝心の賢者が森のどこに棲んでいるのかさっぱりわからないことだ。賢者の住処を探すため、危険極まりない魔の森を彷徨い歩かなければならない。季節は晩夏、まだ日は長いとは言え、森に入るのは早朝からにしたいところだ。
「ふーむ……とりあえず試してみたらどうだ?」
神妙な顔で、ぱたんと帳簿を閉じてセルゲイ。
「……『試す』とは?」
「ぶっつけ本番で森を探索するのもおっかないだろう。一応、昨日下見に行ったとはいえ、親父の遺した『魔の森探索装備』も実際に上手く使えるかどうかもわからんしな。まず予行演習してみてもいいんじゃないか?」
本格的な探索は明日以降にするとして、実際に『霧の中に踏み込む』練習をしてみてもいいのではないか、とセルゲイ。
随分と慎重な姿勢だが、彼らの語る"魔の森"の危険性を鑑みれば、妥当な判断かもしれない。どうせ、このまま村に留まっても、そわそわと落ち着かない気分でのんびりできないのだ。ケイたちはセルゲイの提案に乗ることにした。
昼食を馳走になってから、セルゲイの父親が考案した『魔の森突撃用装備』を改めて借り受ける。道標となる小さな杭、互いを結びつける革帯と鎖――中でも特に大切なのは、100メートル近い長さを誇る命綱だろう。セルゲイ曰く、これは彼の父親が長い年月をかけて編み上げたもので、村に存在するロープの中で最も長いものだという。無論、森を探索するには短すぎるが、『肝試し』程度に霧の中へ踏み込むには充分すぎる長さだ。
このロープを腰に括り付け、もう片側を森の外に待機した誰かが保持しておく。時折軽くクイクイッと引っ張って合図とし、仮に合図が返ってこなければ精神に異常をきたしたか、何らかの問題が起きたと判断。迅速に引っ張って救出することができるというわけだ。
「で、それはわかってたんだが」
準備を整え、再び森に出向いたケイは、背後を振り返って一言。
「……なんか、多くないか?」
「みんな興味があるってよ」
からからと笑うのはアレクセイだ。
魔の森のほとり。
セルゲイとアレクセイの親子二人以外に、ぞろぞろと列をなしてついてくるシャリト村の住人たちの姿があった。皆、サンドイッチのバスケットや酒瓶を携えており、森に着くや否や思い思いに敷物を広げて酒盛りを始め、宴会のような様相を呈している。
そんな彼らの酒の肴は、他でもない、異邦の旅人――無謀にも魔の森へ挑もうとする二人組だ。ケイは鎖帷子を装備し、矢筒と長剣を腰に下げ、"竜鱗通し"を携えた軽装。アイリーンもサーベルを背負い、黒装束を身に着けた、いつもの格好だ。
腰に革帯を着け、鎖を繋ぐフックの調子を確認し、命綱を樹の幹に括り付け――と、ケイたちが黙々と準備を進めていると、ほろ酔い加減の村人たちが騒ぎ始めた。お調子者の雰囲気を漂わせる若者が、鉢を手に見物人たちの間を飛び回っている。何やら話が盛り上がっているようだが、
「……何を話してるんだ? あれ」
「う~ん……賭けをやってるみたいだな」
ケイの問いに、アイリーンが極めて複雑な表情で答えた。
「賭け?」
「オレたちが戻ってこれるかどうか……戻ってこれたとして正気を保ってるかどうか、みたいな……」
「……ああ」
ケイも、アイリーンと似たような表情を浮かべた。娯楽の少ない田舎とは言え、それが賭けとして成立する程度には無謀なことをしようとしているのが、自分たちだ。
「よし。それじゃあ二人とも、準備はいいか?」
「大丈夫だ」
「問題ないぜ」
セルゲイの言葉に、頷くケイとアイリーン。二人とも腰に革帯を巻き、それをニメートルほどの細長い鎖で繋いである。森の中で離れ離れにならないための措置だ。また、ケイのベルトには命綱も括り付けられており、戻る際は文字通りこれが唯一の頼みの綱となる。
魔の森では方向感覚が狂い、方位磁針も使い物にならなくなるという。帰りはシーヴを頼る、という手もあったが、霧の中では魔術も阻害されるため、ただ道を示すだけの術式でも大量の触媒を消費してしまう可能性もある。手持ちの
「……よし。行こうか」
少しばかり神経質に、最後にもう一度、腰にしっかりロープが結びつけられているか確認したケイは、ぺろりと唇を舐めた。傍らのアイリーンも流石に緊張した面持ちだ。互いに目配せして、こくりと頷く。
灰色の壁。
魔の森の『霧』を前に、立つ。
ケイが手をかざすと、かすかに風がそよいだ。オオオォと大気が鳴動し、霧の壁に穴が開く。どよめく周囲の野次馬たち。
「う……」
が、手を挙げた格好のまま、ケイは顔をしかめて呻いた。
「どうした、ケイ?」
「……シーヴに魔力を吸われた」
頼んでもいないのに勝手に術を行使し、それでいてその分の魔力はしっかり徴収していくのがシーヴだ。賢者の住処まで風穴を開けて案内してくれるわけでもなし、入り口だけ開かれても、見物人たちを楽しませる以外に意味はないのだが――おそらく、それこそがシーヴの目的なのだろう。気まぐれでお調子者、それが風の精霊だ。余興で魔力を持っていかれるケイは堪ったものではないが。
「……大丈夫か? やめとく?」
ケイの魔力の低さは重々承知しているため、心配げなアイリーン。しかしケイはおもむろに「いや」と首を振った。
「平気だ。……なんというか、慣れてきた」
『こちら』で初めて魔術を行使した際は、枯死寸前にまで魔力を使ってしまい、反動の吐き気やら何やらで死にかけたものだが、幾度となく経験を積むうちにある程度慣れてきた。流石にシーヴが手加減しているということもあるのだろうが、今しがたの魔術の行使も少し身体がふらついた程度で済んでいる。
「でも、万全を期すべきじゃないか? ちょっと休んだ方が……」
「いやいや、本当に大丈夫だ。もう回復したから」
それでも心配そうなアイリーンに、ケイは明るく笑ってみせた。強がっているわけではない。ぺしぺしと頬を叩いて改めて気合を入れ直す。
「よし。じゃあアレクセイ、セルゲイ、行ってくる」
「うむ。新たな伝承の誕生に立ち会えることを光栄に思う」
「何をどう、気をつければいいのかわかんねーけど……気をつけてな」
腕組みして重々しく頷くセルゲイ、そしてケイの腰に括り付けられた命綱をしっかりと握りつつも、少々気弱な笑顔を見せるアレクセイ。
「これが合図だからな。返事がなかったらすぐに全力で引っ張るぞ、ケイ」
アレクセイはクイクイッと命綱を軽く二度引いてみせた。一応、命綱の末端は、何があっても外れないよう大樹に括り付けてある。安否確認の合図を送るのが、アレクセイの役目だ。
「ああ。こうだな」
ケイも二度、引っ張り返す。
「二人とも、無事に戻ってこいよ」
「なーに、心配すんなって」
「今日は命綱の届く範囲で、軽く散歩してくるだけだからな」
ひらひらと手を振るアイリーン、にやりと笑ってみせるケイ。
表情を引き締め、霧へと向き直った二人は、そのまま躊躇うことなく灰色の世界へと踏み込んでいく。
二人の背中が、とぷんと霧に呑まれ――見えなくなる。
ただ、そびえ立つ灰色の壁から、ロープが一本。ゆらゆらと揺れながら、奥へ奥へと進んでいく。アレクセイは手元の命綱越しに、二人の歩調を感じ取っていた。
「ケイ、アイリーン! どうだ、大丈夫そうかー?」
ロープを繰り出しながら、アレクセイは声をかける。
が、霧の奥から返答はなかった。不安に駆られ、くいくいと綱を二度引く。
するとすかさず、くいくいっと合図が返ってきた。どうやら無事らしい。霧の中には声が届かないようだ。
魔の森についての知識が増えたな、などとアレクセイが暢気に考えた、
次の瞬間。
ぶるん、と命綱が大きく揺れ――止まった。
そして不気味なまでに、動かない。
「……ケイ? アイリーン?」
くいくい、と合図を送るアレクセイ。
「…………」
返事は――
「あれ? 二人とも……ぬおッ!?」
突然、ぐんっと手を取られ、アレクセイは困惑の声を上げた。凄まじい勢いでロープが引かれている。まるで暴れ馬の手綱のような――
「うわっ!? うおおおおおおッッ!!」
綱引きのように身体を倒し、地面に踵を食い込ませてどうにか耐えようとするが、力が拮抗したのはほんの一瞬に過ぎなかった。グゥンと一際強く引っ張られ、身体が宙に浮き上がり、命綱ごと霧の中へ引きずり込まれそうになるアレクセイ。
「やめろっ手を離せ!」
そこで、セルゲイが体当たりするようにアレクセイを引き剥がした。二人して、もんどり打って森の腐葉土に転がる。ロープは大魚がかかった釣り糸のように、猛烈な勢いで引かれていく。
「これは……一体何が!?」
「わからん!」
迂闊に触れれば手が擦り切れてしまいそうな速さ、地面にとぐろを巻く形で放置されていたロープは、あっという間に限界に達する。
バンッ、と乾いた音を立て、張り詰める命綱。大樹に結び付けられた末端がぎりぎりと軋みを上げている。
命綱を引っ張る『何か』は、それで限界を悟ったらしい――
一瞬、綱が緩んだ。
が、一拍置いて、再び猛烈に引っ張られる。
バンッ! バンッ! バンッ! と、執念すら感じさせる乾いた音が、森のほとりに響き渡る。あまりの力に大樹の幹がぐらぐらと揺れ、ロープがみるみるうちに摩耗していく――
「あ、ああ……!」
アレクセイの、嘆きとも悲鳴ともつかない声も虚しく。
バツンッ! と一際大きな音を立てて、命綱が千切れた。
そして、呑み込まれていく。
命綱が――霧の向こう側へと。
とぷん、と灰色の壁が無感動に揺れ、後には何も残らない。
「嘘だろ……おい、ケイ、アイリーン?!」
限界まで、霧の壁に近づいて、必死で叫ぶアレクセイ。
「ケ――イ!? アイリ――ン!! 返事をしろ――ッッ!」
アレクセイは、叫ぶ。
しかし、魔の森は応えない。
ただ、不気味なまでに静まり返っている――
「――ん?」
視界が霞む。真っ白な霧の世界で、ケイはふと、足を止めた。
「どうした、ケイ」
緊迫した声で、アイリーン。
「……いや。何か、声が聞こえた気がしたんだが」
ケイは、耳を澄ませる。
無音。
「……そうか? オレは気づかなかったけど」
アイリーンは、囁くように。
「気のせいかな」
ケイは頭上を振り仰いだ。
ぼんやりとした太陽の光。
「……アレクセイじゃないか?」
そうかもしれない。それで、思い出した。
「……そういえば次の合図を送らないと」
森に入ってすぐ、そうしたように。
ケイは再び、腰の命綱を軽く二度引っ張る。
――
「よし」
命綱は、しっかり繋がっている。
「もうちょっと、進んでみよう」
「ああ」
アイリーンが、頷く気配。
ケイは"竜鱗通し"を握り締め。
さらに、踏み込んでいく。
果てしない
霧の
世界へ と
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます