52. 魔境


『おお、凍える岩の狭間より湧き立つ、深くおそろしきものどもよ。

 遥かなる高みより降り注ぐ陽光も、相競って吹き荒ぶ風も、おまえを避ける。

 まるでもろともに、引き込まれるのを恐れるかのように――』


 "北方紀行"より、著者・ハーキュリーズ=エルキン。



          †††



 雲のたなびく晴天のもと、霧の漂う黒い森。


 異様だ。


 一歩また一歩と近づくほどに、その不気味さをいや増していく。


 森の入口にはまばらな木々。穏やかな気配の漂う緑の木立。風に合わせて幹は揺れ、涼やかな葉擦れの音を奏でる。木漏れ日も眩しく、落ち葉の混ざる腐葉土は、足取りに合わせてさくさくと軽やかに――訪問者の歩みをより楽しませ、奥へ奥へといざなうかのようだ。


 だが、十歩踏み込めばそこは別世界。


 眼前を塞ぐ針葉樹の群れ。乱雑に、無秩序に、それでいて真っ直ぐに。寂寥感を湛え立ち並ぶさまは、まるで打ち棄てられた墓標のよう。


 生命の息吹を感じない。

 全てが死んだように静かだ。

 孤立した領域。その境界線は明らか。


 霧だ。


 うごめき、たゆたうそれは、空に溶け込む灰の色。森を覆い、鷹の目をもっても見通せず、石壁のように寒々しくそびえる。おだやかな晩夏の風も、あたたかな午後の陽光も、外界のことごとくを寄せ付けない。


 沈黙は、濃霧のヴェールにいだかれて。

 しっとりとした無音の世界は、鼓動と吐息を浮き彫りにする。

 森から滲み出る、湿り気を帯びた空気は、ひしひしと肌に染み込むかのようだ。


 しかし、全てを拒絶するように見えて、それは不思議と視線を惹きつける。

 不気味さに圧倒されながらも、徐々に慣れていけば、刺激されずにはいられない。


「これに触れればどうなってしまうのか?」と。


 そんな無邪気な好奇心を――



「――ケイ!」


 アイリーンの声に、ケイはハッと我に返った。


 眼前、霧の壁が手の届きそうなところにまで迫っている。

 いや違う。

 ケイ自身が、いつの間にか木立に深く分け入っていた。


「おい、ケイ! しっかりしろ!!」


 アレクセイが背後から、ケイのマントの首根っこを掴んで引きずり寄せる。ふらふらと尻もちをつきそうになりながら、ケイは転がるようにして後ずさった。


「ケイ、大丈夫かよ! どうしたんだ!?」

「あ、ああ……。すまん、大丈夫だ」


 かぶりを振りながら、ぱちぱちと目を瞬く。駆け寄ってきたアイリーンが、心配げにケイの頬に手を添えて、その顔を覗き込んだ。


「……俺は、どうしてたんだ?」

「どうしたもこうしたもないぜ! オレたちが近づくの躊躇ってたら、ケイだけ勝手にズンズン進んでいくんだもん。びっくりした……」


 ケイの瞳に理性の光があることを確認し、ホッと胸を撫で下ろしたアイリーンは、そのままへなへなと座り込んでしまいそうだった。


「いやービビったぜ、あのまま森に入っちまうかと思った。何の準備も無しに突っ込むのはいくらなんでもおっかねえや」


 濃霧とケイとを交互に見やりながら、額の汗を拭うアレクセイ。


「まるで魅入られているようだったな」


 唸るようにして言ったセルゲイは、ぼりぼりと頭を掻いて申し訳なさそうだ。


「すまん。なにぶんあっという間のことで、止めるのが遅れた」

「オレたちもボーッとしてたけどさ……もう、……ホントびっくりした」


 ほう、と溜息をついたアイリーンは、捨てられた子犬のような顔でケイを見やった。そしてケイが再びふらふらと独りで歩いて行ってしまうのを恐れるように、マントの裾をちょこんと指でつまむ。


「いや、俺こそすまん、だがもう大丈夫……だと思う」


 とは言ったものの、よく憶えていない――というより全く自覚のなかったケイは、我ながら半信半疑だ。


 今一度、落ち着いて森を眺める。


 影を落とす巨大な針葉樹のせいで、昼間であるにもかかわらず辺りは薄暗い。木々の合間を漂う濃霧、目の前に灰色の壁が立ち塞がっているかのような圧迫感。霧は森の外には一寸たりともはみ出してこず、実はガラスで隔てられてるんじゃないか――などと考えてしまうほど、異様な光景だった。


 じっと見つめていると、胸の奥がざわついて仕方がない。


 ただ、今も尚、森に何か惹かれるものを感じているのは、確かだった。


「……なかなか素敵な場所じゃないか」


 場を和ませようと冗談交じりに口にしてみたが、笑える気分ではないらしく、皆一様に硬い顔で反応はなかった。


「……ここに、手がかりがあるのかな」


 しばらくして、ケイのマントを掴んだままのアイリーンが、独り言のように呟いた。

 ケイは、それに答えられない。ケイ自身もまさに同じことを考えていたからだ。北の大地、魔の森に来れば転移の謎が解けるはず、と――そう信じてここまでやってきたはいいものの、いざ実物を目の前にしてみると、どうするべきかがわからない。


「……俺たちが、『ここ』に来る直前に見た霧に似ているな」


 ゲーム内、要塞村ウルヴァーンに向かう道中に湧いていた霧を思い出しながら、ケイはアイリーンを見やった。


「そう、だな。ってことは……」


 それに首肯し、アイリーンは緊張の面持ちで口をつぐむ。


 ――あの中に入ったら、元の世界に帰ることに?


 アイリーンの心の呟きが、聞こえた気がした。


「……うぅむ」


 難しい顔で、ケイは唸る。霧の中に入れば元の世界に帰れる――その仮定は、ケイにとってはむしろ都合の悪いものだ。ケイ自身は地球に帰るつもりがない。この肉体アバターを維持できるなら喜び勇んで帰ろうというものだが、実際はゲームの中に戻るか、生命維持槽の中で目を覚ますのが関の山だろう。


 それは、御免だ。


 動かない四肢、骨が筋肉を蝕み侵していく痛み――不意に、幻肢痛のような感覚に襲われたケイは、嫌な記憶を振り払うようにぐっと拳に力を込める。


 もう二度と、あんな思いはしたくなかった。今ある『奇跡』にケイが感謝を欠かしたことはない。仮にこれを失うとなれば、余命云々の前に生きる気力をなくしてしまう。


 だが、だからといってこの霧の中にアイリーンを一人で送り出すわけにもいかない。


 思い悩むケイだったが、そこでふと『森の賢者』の話を思い出した。


「なあ、アレクセイ。『霧の森には賢者が住んでいる』っていうのは、ここのことなんだよな?」

「ん? ああ、そうだな。そんな言い伝えもある。この森の何処かに屋敷があって、奇抜な赤い衣を身にまとった賢者が隠れ住んでいる――って話だろ?」

「それは言い伝えに過ぎないのか? それとも、ある程度信憑性があるんだろうか」

「……さあな」


 腕組みをしたアレクセイは、困り顔で森を見やった。


「『森の中の屋敷があって、そこで賢者と出会った』って言い伝えは古くからあるんだが、……何様ものすっごく昔のことだからな。一番新しい言い伝えで、大体百年前くらいか? 仮に屋敷があったとしても、賢者本人はもう死んでるんじゃねえか」

「……確かにな」


 言われてみればその通りだ。件の『賢者』が不老不死の存在ならば話は別だが――そうでもなければ、今頃骨になって転がっているだろう。【DEMONDAL】の知識と照らし合わせても、ケイの知る限り、ゲーム内に『不老不死』とされるNPCは存在しない。


 ある種の『この世ならざるもの』である精霊たちだけが、その唯一の例外だ。


(精霊か……)


 ひょっとすると、上位精霊が戯れに賢者の真似事をしているだけかも知れない、と。ケイはその可能性に思い至った。そもそも生身の人間であれば、こんな不気味な森に居を構えて生きてはいけないだろう。

 なぜそんなことを? なぜこの森で? 等々、疑問を挙げだせばきりがないが、仮にその賢者が『生物』でないなら、今も尚ここに暮らしていてもおかしくはない。


 おかしくはない――


(とはいえ、肝心なのはこの霧の性質なんだよなぁ)


 ゲーム内には、このような形でマップ広域を埋め尽くす霧が存在しなかったので、予想のつけようがないのがネックだった。『こちら』の世界に転移する際、霧の中で何がどうなったのか、記憶が曖昧ではっきり思い出せないのも痛い。


「……なあ、アイリーン。魔術で森の中を探れないか?」


 この濃霧の向こう側がどうなっているのか。ケルスティンの『影』で内部を探ることができれば、何かわかるかもしれない。ケイが話を振ると、アイリーンは「う~ん」と冴えない顔で頭を掻いた。


「それはオレも考えたんだけど――」

「なんだ、嬢ちゃんは魔法使いなのか?」


 アイリーンの言葉を遮り、目を丸くするセルゲイ。すかさずアレクセイが口を挟む。


「親父、前に話しただろ。こう見えてもアイリーンは魔術師だ。村の呪い師の婆様なんて目じゃないぜ」

「ほう! 若いのに大したもんだ……お前もまたデカイ魚を逃がしたもんだな!」

「だーかーらッその話はもういいって!」


 ぽん、と励ますように肩を叩いてくるセルゲイ、鬱陶しそうにその手を振り払うアレクセイ。


「――それはオレも考えたんだけど、」


 アイリーンは何事もなかったかのように話題を再開。


「ケルスティンに頼むなら、日が暮れるまで待つ必要があるぜ」

「……それは問題だな」


 アイリーンの契約精霊、"黄昏の乙女"ケルスティンは、実質的に太陽が沈んだ後でしか使役できない。しかしこの不気味な森を前にして暗くなるまで過ごすのは、なかなか勇気が必要だ。重要度からすれば、多少の気味の悪さや獣の襲撃を覚悟してでも実行する価値はあるかもしれないが、アレクセイとセルゲイは「夕暮れ後もここに留まる」と聞いただけで顔色を悪くする有様だった。仲間としては頼れそうもない。


「その上、ウルヴァーンの図書館で調べたことが本当なら、森の中は魔術が阻害されるはずだぜ。少なくとも低位精霊のケルスティンじゃ手が出せない……試してみないことには、なんとも言えないけどさ」

「うーむ、そういえばそんなことも書いてあったような」


 確か、数十年前この森に派遣されたという、ウルヴァーンの魔術師団による調査結果だ。"妖精"程度の低位精霊では森の霧に干渉できなかった、という趣旨のレポートを目にした記憶がある。


「……どうする? アイリーン」

「個人的には試してみたいけどなー。でも夕方までここにいるのは正直やだ」


 アイリーンの言葉に、セルゲイ・アレクセイ親子がぶんぶんと頷いている。


 手詰まり――だろうか。結局、霧の中に入ってみなければ、何が起こるかさえわからないのか。


 唸るケイだったが、ふと、怪訝な顔で周囲を見回した。


「? どうした、ケイ?」

「今、何か聞こえなかったか?」


 どこからか、声が聞こえた気がした。


 最初は気のせいかと思ったが、どうも違う。あるいは幻聴か。それはか細く、高く、どちらかと言うと女性の声のようだ。一瞬、アイリーンが独り言でも呟いたのかと思ったが、彼女のハスキーボイスとは異なり、もっと軽やかで、鈴を鳴らすような――


 ――Kei,


 また、聴こえた。


 今度ははっきりと、耳元で。


 微かな風が頬を撫でる。


「……シーヴ、か?」


 ケイの呟きは、どこか疑わしげに。


 "風の乙女"シーヴ。ケイの呼びかけもなしに、彼女が自ら進んで行動を起こすことなど、滅多とないことだった。


 ケイの傍らを駆け抜けていった風は、木立の枝葉を揺らし、霧の壁へと吹き付ける。


「…………」


 シーヴの笑い声に誘われるようにして。


 しっかりとした足取りで、ケイは少しずつ森へ歩み寄っていく。


「ちょっと、ケイ!」

「大丈夫だ、トチ狂ったわけじゃない」


 慌てるアイリーンを宥め、霧の壁に迫る。


 眼前、手を伸ばせば触れられる距離。


 ――Vi povas tuŝi ĝin.


 シーヴが耳元で囁く。


 おもむろに、右手を掲げ――そっと霧に触れた。



 オオ、と渦を巻く風。



 濃霧は、吹き散らされた。それが当然と言わんばかりに。


 灰色の壁に風穴が開き――ケイの前に道が現れる。


「…………」


 アイリーンも、セルゲイとアレクセイも、そしてケイ自身も、呆気に取られてしまい動けない。


 ――Por trovi la veron.


 クスクスクス、と弾むような笑い声を残して、シーヴの気配が消え去った。くらり、と目眩のようなものを感じる。シーヴが魔力を勝手に抜き取っていったらしい。ケイが手を引っ込めるのと同時、霧の壁に空いた穴もゆっくりと閉じていく――その動きは、まるで傷跡が修復されていくかのようで、どこか生物的な印象をケイに投げかけた。


「いやはや……たまげたな」


 ぱん、と額を叩いたセルゲイは、いたく感心したような、面白がるような視線をケイに向けた。


「言い伝えに新たな一ページが加わったな。霧の異邦人が手をかざせば、森に道が開かれるらしい」

「やーっぱりケイも魔術師だったのかよ。ま、精霊語がペラペラっぽかった時点でそうじゃないかとは思ってたけどな……」


 アレクセイは腕組みをして何やら難しい顔をしていた。


「今のは何が起きたんだ? ケイ」


 茫然自失から再起動を果たしたアイリーンが、前のめりになって尋ねてくる。


「……わからん。シーヴは、『行け』と言ってるようだった」


 直接そう言われたわけではないが――と。右手を不思議そうに握ったり開いたりしながら、ケイは心ここにあらずといった様子だ。


 シーヴは腐っても中位精霊。その現世への干渉力はケルスティンのそれとは比べ物にならない。現に、魔の森の霧をものともせずに風穴を開けてみせた。


 魔術の触媒としてエメラルドしか受け取らず、使役する際も枯死する寸前まで魔力を搾り取ってきて、ケイからすれば業突く張りで我儘な精霊という印象のシーヴだが――彼女なりに契約者を思いやって行動している節もある。今も、勝手に力を行使し、その上頼んでもいないのに代償として魔力を抜き去っていったものの、致命的なまでに不都合なことを押し付けたりはしない。


 そのシーヴが、霧の中へ進めと言うのなら。


 おそらく、ケイの求める答えがそこにあるのだろう――


(……霧の中に踏み込んでも、即座に転移は起きない、ということか?)


 今は風の精霊として自由を謳歌(?)しているシーヴだが、元は【DEMONDAL】に実装されていたAIに過ぎない。仮にケイが地球へ帰還することになれば、彼女もただのAIに戻ってしまうだろう。自由意志を獲得した現在のシーヴにとって、おそらくそれは望むところではないはず。


 ゲームの設定を考えれば、精霊とはこの世界に根ざした存在だ。あるいは彼女シーヴは、この森の中に待ち受けているものを既に知っているのかもしれない。


「やはり、行くしかないのか」


 霧の壁を見やり、ケイはぽつりと呟いた。


「い、今? 今なのか? ケイ」

「いや、流石に今じゃないぞ。そろそろ日も傾き始めたし、明日以降だろ」


 何やら肩に力が入りすぎているアイリーンに、ケイは苦笑する。


「ケイの精霊は、森に入るべきだと言っているんだな」

「おそらくな。まあ、ロープだの杭だの準備をある程度整えて、明日もう一度トライしてみたい」

「そうか」


 セルゲイは、年甲斐もなくワクワクとした表情で頷いた。


「なら、話は早いな。村に戻って準備を整えよう」


 今日、これ以上ここでするべきことはない。ケイたちは村に戻ることにした。


 木立を出る前に、ケイは今一度振り返って見やる。


 灰色の霧は何事もなかったかのように、静かに森を覆い隠していた。



          †††



 シャリトに帰還したケイたちは、早速翌日のために準備を開始した。といっても、基本的にはセルゲイから様々な物資を借りるだけなのだが。


 命綱兼帰り道の導となるロープや杭、お互いを繋ぎ止めるための鎖など、アレクセイの祖父が考案した『魔の森突撃用』の装備を借り受けチェックしていく。森の内部では方位磁針が役に立たず、方向感覚も狂ってしまうらしい。シーヴの導きが期待できるとはいえ、帰り道を把握するためにも、これらの装備は必須と言えよう。


 アレクセイの話によると、無謀にも魔の森へ一人で突撃した彼の祖父は、ロープの一端を自分の腰に、もう一端を森の入口の木に括りつけて命綱としたそうだ。が、しっかりとロープを縛っていたにもかかわらず、祖父が森から出たときには『何者か』によって解かれていた、とのことだった。


 その対策として、明日もセルゲイとアレクセイは森の縁まで同行し、ケイたちの命綱を監視することとなった。「新たな伝承の成立に立ち会わんでどうする」とは、セルゲイの言だ。


 準備が粗方終わってからは、リビングで世間話をした。隊商から離れウルヴァーンを発ったアレクセイが、その後どのようにして北の大地へ帰還したのか。一人旅で野宿をした際に狼の群れに襲われた話や、隊商に同行しようとして寝過ごし間に合わなかった話など、冷静に考えれば割と洒落にならない内容だったが、アレクセイはコメディチックに面白おかしく語っていた。


 対するケイたちもその後のことを話す。ウルヴァーンで図書館に行こうとして、一級市街区に入る前に門前払いを食らったこと。武闘大会の射的部門で優勝しウルヴァーンの名誉市民となったこと。図書館で銀色キノコヘアのカツラをかぶった貴人と知り合いになり、北の大地についてあれこれ教えてもらったこと。


 緩衝都市ディランニレンで聞いた馬賊の噂。エゴール街道での渇水の危機。再び戻ったディランニレンでのガブリロフ商会との合流。隊商に同行したブラーチヤ街道の旅。そして馬賊の襲撃から現在に至るまで――


 その夜はちょっとした宴会となった。タチアナ・エリーナお手製の料理とともに、葡萄酒や貴重な蒸留酒なども振る舞われ、雪原の民一同とアイリーンはご満悦の様子だ。ケイは明日に響くとまずいので蒸留酒は舐める程度に留めたが、アイリーンは割とかぱかぱと盃を空けていた。


 いよいよ、明日。


 そう考えると、彼女も酔いに身を任せたい気分だったのかもしれない――


 その後、宴もたけなわになってから、屋敷の片隅の小さな客室をあてがわれ、明日に備えて早めに就寝することにした。実に十数日ぶりのまともな寝台だ。藁を敷き詰めた箱に布や毛皮を重ねがけした原始的なタイプのものだったが、下手な宿屋の寝台よりもよほど寝心地がよく、サイズも大きめだったのでケイとアイリーンが一緒に寝ても全く問題はなかった。


 ――なかったのだが。


 夜、暗い客室で、ケイはまんじりともせずに天井を眺めていた。

 眠れない。

 明日の探索行への不安もあったが――その一番の原因は音だ。


 より正確に言うなら、声だった。


 屋敷内、客室から少し離れた部屋から、年若い少女の嬌声が響いてきている。しばらく前までは押し殺すような抑えたものだったのだが、今は床板が軋む音とともに、色々と激しい感じだ。


 声の主はおそらくエリーナだろう。あの大人しそうな少女も、夜はこんな風になるのだなぁ、とケイは意外な気持ちで考えた。アレクセイは随分と張り切っているらしい。


 ちらりと隣を見れば、肩の触れ合う距離で寝転がったアイリーンも、どうやら眠れずにいるようだ。ケイの瞳は暗闇の中でも、アイリーンの耳が微妙に赤くなっていることを見て取る。


「……お盛んなことで」

「まったくだよ」


 ぼそりとケイが呟くと、話しかけられるのを待っていたかのようにアイリーンも即座に答えた。


「あんまり恥ずかしがらない……お国柄? なのかな」

「わかんない」


 どこかぶっきらぼうな口調で、アイリーンは答えた。そもそもロシア人と雪原の民は違うので、一概には言えないだろう。その上ここは地球とは異なる世界だ。サティナやウルヴァーンで宿屋暮らしをしていたときも、隣室から男女の営みの声が聴こえてくるのは日常茶飯事だったが(むしろケイたちもその音源の一つだった)、今日出会ったばかりとはいえ、知り合いエリーナのそういう声が聴こえてくるのは、なんとも複雑な気分だ。


 ごろりと寝返りを打って、アイリーンの側へ肘をついたケイはおもむろに切り出す。


「俺たちも対抗してみるか?」

「なっ」


 アイリーンは顔を隠すように、掛け布団をずり上げた。


「カンベンしてくれよケイ……」


 耳だけではなく、頬から首までアイリーンは真っ赤になっていた。もう幾度と無く体を重ねており、今更互いに恥じらうような間柄でもないが、やはり他人の家でそういうことに及ぶのには羞恥心的にダメらしい。アイリーンは変に真面目なところがあるのだ。


「…………」


 が、ふと悪戯心のようなものが芽生えたケイは、そのままアイリーンの頬にそっと手を添える。


「アイリーン……」

「えっ、ちょっと、」

「アイリーン、愛してる」

「あっ……って、もう! ケイってば、ちょっと! んむっ」


 アイリーンに口づけると、それは受け入れたまま、ケイの胸板をぽこぽこと抗議の拳が叩いた。


 が、全く力が入っていない。これはイケる方のアイリーンだ、とケイは確信する。


「……。もう。ケイのばか」


 拗ねたような顔で唇を引き結ぶアイリーン。しかし同時にどこまでも無防備だ。白い肌着に手を差し込み、脇腹をくすぐるようにして撫でると、くすくすと笑いながら身をよじったアイリーンは、お返しとばかりに強引にケイの頭を抱き寄せた。



「――ケイ。愛してる」



 情動のままに、二人は互いを貪った。


 必死で声を抑えるアイリーンがあまりに愛らしかったので、思わずケイも羞恥心を忘れ燃えてしまった。アイリーンも何だかんだで盛り上がってしまったらしく、最後の方では色々と自重するのを忘れていたようだ。


 事後、明日皆に合わせる顔がないとアイリーンはいたく恥じらっていたが、旅の疲れや諸々も相まって、ケイの腕を枕にスヤスヤと寝息を立て始める。


「…………」


 気だるげな眠気を感じながら、ケイはアイリーンの寝顔を眺めていた。


 これが、最後になるのかもしれない、などと考えていた。尋常ではない魔の森に、滅多とないシーヴの自発的な行動。明日、森に踏み入れば、何らかのことがあるだろうとケイは予想している。


 ――正直なところ、やっぱりイヤだった。


 アイリーンには帰ってほしくない。まだまだ、アイリーンを愛し足りない。


 ずっと一緒に暮らしたい。どこかで平和な家庭を築いて、共に何気ない日常を過ごしていきたい――


 心の内に、愛しさと、そんな欲求がとめどなく溢れ出てくる。


 だが、同時にわからなくなるのだ。アイリーンの幸せと平穏を願うならば、こちらの世界よりも地球の方が良いのではないかと。常にその思いがついて回る。


『どうしたらいいんだろうな……』


 囁くようにして、ケイはアイリーンにわからぬよう、日本語で呟いた。


『一緒にいてくれ。どこにも行かないで……一人にしないでくれ……』


 くしゃっと顔を歪めたケイは、眠るアイリーンの額にそっと口づける。


「……愛してる、アイリーン」



 皆も寝静まったのか、辺りは物音ひとつしない。



 ケイはそっとまぶたを閉じた。






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