51. 下見


 セルゲイの提案には驚かされたが、その真意は「取り敢えず『魔の森』を見に行ってみよう」という軽いものだった。


 屋敷でタチアナから簡単な食事を振る舞われ、セルゲイ・アレクセイの両名と共に村を出る。森は存外近くに位置するらしく、徒歩での移動だ。緑広がる草原をのしのしと縦断していく。


「流石に今から森に入るのは無謀だ」


 ケイたちと隣り合って歩くセルゲイが、空を見上げながら言う。


 八月も末、昼下がりの太陽は徐々に傾きつつある。あと数時間もすれば夜の帳が降りてくるだろう。森を外から眺めるだけならば兎も角、中に入るならそれなりの準備と――相応の『覚悟』が必要になる、とセルゲイは言っていた。


「準備、か?」


 覚悟はわかるが、準備とは。森に踏み込むのに何らかの装備が必要とされるのだろうか。"竜鱗通し"を手に、周囲を警戒しながらケイは問うた。

 森の周辺は狼の群れや得体の知れない獣が出現することがあるらしく、それらは例外なく凶暴なので気が抜けないとのことだった。曰く、双頭の大蛇。曰く、鋭い一本角の猪。「刃で倒せるだけ化け物よりマシ」というのはセルゲイの言だ。


「そう、準備だ。杭、ロープ、鎖……色々とな」

「ロープはわかるけど、杭と鎖ってのは?」


 投げナイフを差したベルトを指先で弄びながら、アイリーンが首を傾げる。


「ロープと似たような使い道になるだろうよ。要は迷わないようにするための道具……だろうなぁ、多分」


 セルゲイの答えは、判然としない。


「多分ってどういうことだよ」

「具体的にどうすりゃいいかなんざ、誰もわからねえんだよ。そもそも、森にわざわざ踏み込むヤツはそういねえ。生きて帰ってくるヤツはもっと少ねえ」


 白銀色の大剣を担いだアレクセイが、アイリーンに肩をすくめてみせた。


「一番最近、森に入って生還できたのは五十年前に挑戦した一人だけさ。あとはみんな行方不明か、昔過ぎて曖昧な言い伝えしか残ってない」

「へえー。でもいることはいるんだな、無謀なヤツってのも」

「ああ」


 アイリーンの言葉に、親子二人は揃って頷いた。


「「ウチの爺様だ」」


 ケイとアイリーンは顔を見合わせる。この親にしてこの子あり、とは言うが――妙な説得力があった。


「あれ? でも、そのお爺さんってのは……」


 頬に指を当てて、アイリーンが再び首を傾げる。先ほど紹介されたのは妻と娘たちだけで、祖父らしき人物は屋敷に見当たらなかったのだ。


「ああ、おれがガキの頃ポックリ逝ったよ」


 アイリーンの疑問をいち早く察したアレクセイが答えた。


「大往生だったなぁ、親父は。そもそもお袋より長生きだったしな。あの日、一緒に酒盛りしてたんだが、ワシが先に寝て、翌日起き出したらリビングで椅子に座ったまま死んでいた。酒が入ったカップを握ったまま、なぁ。最初はただ眠ってるだけかと思ってたんだが……あれには驚いた。だがああいう死に方も悪くはない」


 獅子のたてがみのような髭を撫でつけながら、空を見上げて感慨深げにセルゲイ。

 そういえば、とその顔を見てケイはふと思う。アレクセイが確か二十代頭。セルゲイは見たところ五十代前半といったところだ。この世界の住人にしては、かなり遅めに子供を持ったようだ。


 いや、――とケイは思い出す。ウルヴァーンの図書館で調べた北の大地と公国の歴史を。よくよく考えれば、セルゲイが若かりし頃は公国との間で紛争が起きていたはず。あるいは当時、彼はまだ結婚していなかったのかもしれない。たてがみのような金色の髪と髭の奥、ケイは、セルゲイの顔面に走る細長い傷跡を見て取った。


 この獅子のような男もまた、かつては戦乱に身を投じていたのだろうか――


「――ん?」


 過去に思いを馳せ、ぼんやりとしていたケイは、しかし視界の端に違和感を覚える。


 遠方へ、焦点を結ぶ。


「――何かいる」


 "竜鱗通し"に矢をつがえながらの言葉。唐突だがそこに確かな緊張を感じ取り、全員が自然に身をかがめた。


「どこだ」

 

 護身用の短刀を引き抜きながら、周囲へ鋭い視線を走らせるセルゲイ。


「あの木立の陰だ。今も動いてる」


 ケイの言葉に、そのまま視線を辿ったセルゲイは――ケイの言う『木立』が三百メートル以上離れていることを悟る。


「……遠いな。狼か?」

「わからん。だが人ではない。大きすぎる」


 左手で矢と弓を保持したまま、右手で筒を作り望遠鏡のように覗き込む。周囲の光を遮断し、遠方を見やすくするテクニック。続いて親指を立てて距離を測り、大体の目測が合っていたことを確かめる。


「……二メートルはあるな。姿勢が低い、狼かもしれん……しかし、北の大地の狼って確か灰色で小柄なんじゃなかったか?」

「そうだな、ワシもそこまでデカい狼はここらじゃお目にかかったことがない」

「気味が悪いな。正体がよくわからない」


 しばしの沈黙――


 キンッ、とアレクセイが、大剣を指で弾いて音を立てる。


 ケイたちは風下におり、距離も離れているので、『獣』にはまだ勘付かれてはいないはずだ。ぺろりと唇を舐めたケイは、"竜鱗通し"の弦に指をかける。


「……少し脅かしてみるか」


 構わないか? と視線を向けると、セルゲイは頷いた。


「やってみろ」

「了解」


 膝立ちの姿勢を取るケイ、その黒髪が草原を吹き抜ける風になびく。


 彼我の距離、そしてこの向かい風――狙った方向に矢を飛ばすのは、容易ではない。


 しかし、ケイにとっては不可能でもない。


 目を凝らせば、見える。


 風にそよぐ草原――それはまるで打ち寄せる波のように。


 空気のうねりを、ケイに教えてくれる。


 ざぁっ、と一陣の風がまた、吹き抜けた。


 見えた。


 一息に弦を引き絞る。


 カァン! と快音。


 放たれた矢は風に乗って、ゆるやかな弧を描きながら。


 目標の木立に、吸い込まれるようにしてすとんと落ちた。


「出てきた」


 直ちに、木立から飛び出してくる黒い影。


 目を凝らす。それはしなやかな体つきの、全長は二メートル以上にもなるだろうか、猫に似た黒毛の四足獣だった。


「なんだアレは……虎、か? いや、それにしちゃ細身だ。黒豹か?」

「よくわからんな。小さめの虎か?」

「黒い獣ってのはわかるが……」

「ってかそもそも見えないんだけど。どこ? どこにいんの?」


 取り敢えずとんでもない化け物ではなさそうなので、皆も立ち上がってケイよろしく目を凝らす。セルゲイ・アレクセイはまだ輪郭を捉えられているようだったが、アイリーンはそもそも何処にいるかさえよくわかっていないようだ。目の上に手をかざして、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。


「ほら、あっちだアイリーン」

「……見えねえ」

「俺の指の先を見ろ」


 アイリーンの顔の横に手を添えて、ケイ。その腕を掴み、片目を閉じたアイリーンが頬をグイグイと押し付けどうにか見ようとするが、


「あ、逃げた」

「えーマジかよ、結局見えなかったんだけど」

「まあ仕方ないな」

「どの木立? いくつかあるけど」

「あれだ、右から三番目の……」

「まず一番目ってどれだよ」


 密着したままイチャイチャし始めるケイたちに、地面に大剣を突き立てたアレクセイは、剣により掛かるようにして酷くつまらなさそうな顔をしていた。息子の様子に、くつくつと笑いを堪えるセルゲイ。


「おい、若いの。乳繰り合うのもいいが日が暮れちまうぞ」


 セルゲイが声をかけると、ケイとアイリーンはそそくさと離れた。


「すまん」

「別に、ただどこらへんにいたのか知りたかっただけだし」


 バツの悪そうなケイと、ぷんすか文句を言うアイリーン。ガッハッハ、と一笑いしたセルゲイは、今一度木立の方を見やり、


「矢は回収せんでいいのか? 随分と良いものを使ってるようだが」

「……そうだな」


 問われたケイは、はたと考え込む。

 手持ちの矢筒には、北の大地に持ち込んだ矢の中でも、選りすぐり質の良い矢ばかりを詰めてきていた。サティナの矢職人・モンタン謹製の一矢。確かにそんじょそこらの矢よりは信頼の置ける逸品だが――


「いや、いい。探すのも手間だ。それにあの辺りにまだ獣がいるかもしれん」

「そうか、ならいいだろう」


 セルゲイも軽く頷いて流し、一同は再び歩き出した。


「……それにしても、良い腕をしている」


 しばらくして、ちら、とケイを振り返ったセルゲイが野性味のある笑みを浮かべる。


「そいつはどうも」

「そして素晴らしい眼を持っている。ドルギーフの氏族を思い出すな」


 腰の短刀の柄を撫でながら、セルゲイはどこか懐かしそうだ。


「ドルギーフ?」


 どこかで聞いたような名前だったが、思い出せない。


「北の大地でも、特に有力な氏族の一つだ」


 再び大剣を肩に担いでアレクセイ。


「ウィラーフ、ミャソエードフ、ネステロフ、ジヴァーグ、パステルナーク、ヒトロヴォー、グリボエード、ドルギーフ。それが雪原の民を代表する八氏族だな」


 とくとくと語るアレクセイに、ケイも思い出す。確か公国の図書館で調べ物をしていたときに何度か目にした名前だ。


「ウチの村は、北東部一帯を勢力下とするネステロフの系譜だ」


 アレクセイの言葉を引き継いだセルゲイが、ぐっと腕の力こぶを見せる。


「我々は狼のようにしぶとく、猛牛のように強い。それに対しドルギーフの戦士は皆、鷹のような眼を持っている――ケイのようにな」


 ここに来て、ケイはセルゲイの意図に気付いた。


「――『視力強化』か」

「フフッ。ドルギーフの戦士は誇り高い。奴らに会ったらその眼のことは隠した方がいいかも知れんな。連中は自分たちの眼を自慢に思っている、異民族で同じ眼を持つ者がいるとなれば……目玉をくり抜かれかねんぞ」


 ぐりぐり、と指で抉るような仕草をしてから豪快に笑うセルゲイだったが、冗談なのか本気なのか判断に迷うところだ。


 が、それも大切だが、ケイにはもう一つ気になることがあった。


「ひょっとして、氏族ごとに持つ紋章が決まってるのか?」


 何気ないケイの問いに、「は?」とセルゲイ・アレクセイの両名が固まった。


「……ケイ、それって自分が好きに選べてるって言ってるようなもんだぜ」


 腰に手を当てたアイリーンの言葉には、たしなめるような色があった。

 その声に再起動を果たしたセルゲイたちは、顔を見合わせる。


「まさか……ケイの故郷では、選べたのか?」

「ああ、……うん。まあな」


 確かに軽率な問いであった、というかそもそも訊くまでもなかった、と後悔するも、時既に遅し。ケイは気まずげに首肯した。


「……どうなってるんだお前らの故郷は」 

「まあそれなら、ケイのような異民族でも紋章の恩恵に与れるのは当然か……」


 セルゲイは嘆くように、アレクセイは納得するように。

 いずれにせよ、自分たちが脈々と受け継いできた秘術が、選び放題だったというのは衝撃的であったらしい。二人ともどこか茫然とした顔をしている。


「ケイの故郷では、どんな風に紋章を手に入れるんだ」


 直球。続けて放たれたセルゲイの質問は、おそらくは今まで敢えて避けていたひどく具体的なものだった。

 アレクセイが「親父……」と少し咎めるような声を上げたが、ケイは構わず答える。


「俺の故郷の場合、とある山に『Elders長老たち』と呼ばれる呪術師の集団がいてな。その山に辿り着き、特定の試練を突破した者に限り、試練に対応した紋章が与えられていた」

「……なるほど、その辺はワシらと変わらんな。ちゃんと試練はあるんだな。……ならば、まあ、よし!」


 腕を組んで、うむうむと頷くセルゲイ。


「…………」


 課金アイテムで難易度を落としたとは、口が裂けても言えないケイであった。言ったところでそもそも理解できないであろうが――いや、賄賂を贈ったとでも受け取られかねない。いずれにせよこれ以上ボロを出さないようにと、口をつぐむ。


 アイリーンは、そんなケイを若干呆れたように、それでいてある種、微笑ましげな目で見ていた。


「……まあ、いくら優れた紋章をその身に刻んでいたところで、最後に物を言うのは個人の修練だ」


 真っ直ぐにケイを見て、セルゲイは言う。


「ケイの弓も、修練の賜物なわけだろう」

「……そう、だな」


 仮初の世界VRMMOではあったが――そこでの経験と修練は、確かにケイの中で息づいている。恵まれた環境、恵まれた肉体アバター、そして恵まれた紋章。これらを全て踏まえた上で、自らが積み重ねてきたものを『努力』と呼ぶのは、この世界の人々に対しあまりにおこがましい気もしたが。


 だが――そう言うしかないのだ。


 ケイは儚く微笑んだ。


 が、次の瞬間、セルゲイは予想外のことを言い出した。


「どうだ、ケイ。事が終わったら、ウチの村に住まんか?」

「えっ?」

「はっ?」


 間抜けな声を上げるケイ、そしてアレクセイ。


「ケイは、いずれにせよこちらに残るんだろう? もし行先を決めてないんなら、ウチの村は悪くないぞ。冬は冷えるが、食べ物は豊富だ。森の獣もむしろケイにとっては獲物にしかならんだろう。ワシらは強い戦士を歓迎するぞ」


 セルゲイの言葉に、ケイは答えられなかった。



 これからのこと――



 漠然と、狩人になって日々の糧を得たり、危険な獣から人々を守ったりする生活ができれば、とは考えていたが。


 しかし――どこで、どのように。


 そんな具体的なことは、全く考えていないことに気付かされた。


「…………」


 思わず黙考するケイ。


 そして、その隣で、黙ってケイを見守るアイリーン。


「……すまん、今はちょっとわからない。だが、」


 晴れ渡った空を、青々と広がる草原を、その果ての森を、視界の彼方の山脈を――


 ざっと見渡したケイは、セルゲイに静かな眼差しを向けて、微笑んだ。


「もし、行く宛が見つからなかったら――お願いしてもいいかな」

「構わんとも、こちらからお願いしたいくらいだ」

「……うん、そうだな。ケイならいいな」


 破顔一笑するセルゲイ、開き直ったように腕組みをして笑うアレクセイ。



 ――でも寒いのはちょっと苦手だな。



 笑いながら、ケイはそんなことを考えた。しかし、心のなかにあったのは、ほのかな温かみだ。



 男たち二人に肩を叩かれるケイを、アイリーンは、ただ眩しげに見つめていた。



「おっ、見えてきたぞ」


 と、そのとき、セルゲイが前方を指差す。


 見やる。


 ケイの眼は、遥か彼方、鬱蒼と茂る森の威容を捉えた。


 巨大な、そして黒々とした針葉樹の森。


 太陽はまだ高くあるにもかかわらず、その奥を見通すことはできない――


「あれが、」


 セルゲイの声に、かすかなおそれの色が滲む。



「――あれが、魔の森だ」






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