49. 行方


 隊商から離れ、ひたすら北東へ駆け続けること数時間。


 ケイたちの行く手に、小さな川が現れた。


 幅は数メートルもない、ささやかな水の流れ。ここ最近の雨の影響か、川面は土色に濁っていたが、見たところ沸騰させればどうにか飲用に耐えそうな水だ。普通の現代人なら腹を下す可能性もあったが、幸いなことにケイたちの肉体は頑強なので、泥臭い風味にさえ目を瞑れば何とかなる。


 ――これでもう乾きに怯える必要はない。


 旅の序盤、エゴール街道での苦難を思い出しながら、二人は胸を撫で下ろした。


 サスケとスズカに水を飲ませながら、ビスケットやサラミなどで遅めの昼食を摂る。戦闘の直後は食欲など微塵も感じられなかったが、一口噛み締めるごとに滋養が全身に染み渡るようだ。生ける肉体からだのなんと貪欲なことか――と、口に食料を詰め込みながらケイはまるで他人事のように思った。


 その後、休憩もそこそこに、川に沿って東へ進む。この川のお陰で、大まかな現在位置は把握できていた。地図によると、このまま進めばやがて街道に合流するはず。


 それを信じて、駆け続ける。


 隊商から追いかけてくる者はなく、周囲に人影も見えず。代わり映えしない雨上がりの風景、湿り気を失いゆく土の匂い。地平線まで白茶けた平野が延々と広がり、時折、思い出したかのように緑の木立が現れては、視界の果てに流れ去っていく。会話もない、ただ川の流れる音と風のさざめきだけが響く静かな旅路。


 そんなケイたちが足を止めたのは、日が傾き始めた頃だった。川沿いの小高い岩山に、たまたま洞穴ほらあなを見つけたのだ。


 ちっぽけな洞穴だった。崖のような岩山の斜面に、ぽっかりと口を開いている。


 鷹のようなケイの目がなければ、まず見逃していただろう。川にほど近く、鬱蒼とした木々の奥に隠れ、大きさも手頃な洞穴――『巣穴』、という言葉を連想する。あまりにも条件が整いすぎているため、ケイたちは当初、それがまさに野生動物の巣であることを疑った。


 しかし『洞穴』と言っても奥行きはせいぜい数メートルで、人間が雨風を凌ぐ分には充分だが、例えば熊のような大型の獣が住処とするには狭すぎる。そして周辺に獣が棲んでいる気配――足跡や毛、獣臭、皮や骨などの獲物の食べ滓――は全く見当たらず、特に危険はないように思われた。


 相談の結果、二人はそこを今夜の野営地に定めた。この手狭な洞穴は、ケイたちにとって快適な仮宿となるだろう。隊商から離れた今、寝床の確保から周囲の安全確認、夕餉の支度に至るまで、全て自分たちの手で行わなければならない。日が暮れる前に就寝の用意まで終える、くらいの気概でやらねば間に合わないはずだ。


 追い立てられるようにして、二人は慌ただしく野営の準備に取り掛かった。


「よし。んじゃオレは洞穴ん中、片付けとくから」

「頼んだ。俺は川に行ってくる」


 アイリーンが軽く洞穴を掃除する間に、ケイは水を汲みに行く。とは言っても、実際に運搬役を担うのはサスケだ。ケイが防水性の革袋に水を入れ、それをサスケに背負ってもらう。人力でやれば一仕事だが、サスケは日頃から完全武装のケイもっと重いものを乗せているだけに、それほど苦にした様子も見せない。


「いつも世話になりっぱなしだな」


 ありがとう、とケイが首筋を撫でると、得意気になったサスケは「でしょ?」と言わんばかりに鼻を鳴らした。そのドヤ顔に「敵わないな」と笑うケイ、労りの気持ちを込めてわっしゃわっしゃとそのたてがみを手櫛で梳いてやると、サスケは耳をピクピクさせながら心地良さげに目を細める。


 本当に、転移当初から今日に至るまで、サスケはいつでも頼りになる相棒だ。ケイもアイリーンも、何度命を救われたかわからない。その駿足は他の追随を許さず、戦闘時は勇猛果敢な騎獣として振る舞い、人参や肉類を多めに出してやれば日々の雑用も厭わない。まさに愛すべき、大切な存在。


 笑いが収まってから、ふと、ミカヅキのことを思い出した。


 遠い目をしたケイは、懐に手を入れ、なめらかな皮の財布をそっと撫でつける。


 労るように。


 そして、ひとかけの苦い想いを噛み締めるように。


 川から戻ると、アイリーンはひとしきり洞穴の掃除を終え、荷物の片付けを始めていた。ケイはついでに拾い集めていた適当な石で、洞穴の中に簡単なかまどを作り始める。火打ち石での点火も手慣れたもの――のはずだったが、木炭が湿気ていたせいで、火勢を安定させるのに少々手間取った。


 どうにか起こした焚き火でお湯を沸かしながら、今度は洞穴の入り口を覆い隠すようにしてテントの布を張る。日没後、明かりで目立たないようにするための工夫だ。換気を考慮して完全には塞がないが、これでかなり焚き火の光が漏れにくくなるだろう。


 ケイは『こちら』の世界に転移した初日、アイリーンが毒矢で死にかけた経験から、野営の明かりの管理にはかなり神経質になっていた。魔法仕掛けの"警報機アラーム"があるからといって、油断するわけにはいかない。"警報機"に頼らずに済む状況――すなわち、そもそも『敵』に見つからないことこそがより望ましい。


 テントの布を張り終えた後も、念入りに、せっせと周囲の木々の枝を伐採しては入り口に立てかけ更なる偽装を進めるケイ。その執念さえ感じさせる――しかし状況を鑑みればあながち間違ってもいない――行動に、アイリーンは一瞬、申し訳なさとやるせなさの滲む何とも言えない顔をしたが、すぐに表情を明るいものに切り替えて手伝った。


「なかなか悪くないな」


 すっかり枝葉で覆われた洞穴の入り口を前に、腕組みをして満足気なケイ。明るいうちに見れば違和感しかないが、夜の帳が降りれば、洞穴の明かりを程よく隠してくれるはずだ。隣のアイリーンもケイの真似をして腕を組み、「ふむ」としばし考える素振りを見せた。


「……そうだな。シャワー無し、ベッド無し、トイレ無し。コーヒーメーカーも置いてない。ホテルとしちゃ最低レベルだが、簡易かまどミニ・キッチンはついてる。オレ的にはギリ一つ星ってトコかな」

「そいつは良かった」


 わざと偉そうに評するアイリーンに、ケイもおどけてお手上げのポーズを取る。そしてそのまま洞穴のテントの布を持ち上げてドアボーイのように一礼し、


「どうぞ、お嬢様」

「あら、ごめんあそばせ」


 しゃなりと令嬢のように膝を折ったアイリーンは、そそくさとケイの腕の下をくぐり洞穴に入っていく。


 口元に朗らかな笑みを浮かべたまま、今一度周囲に鋭い視線を走らせたケイは、異常がないことを改めて確認し、その後に続いた。



 そうして、とっぷりと日が暮れる。



 "警報機"を設置し、粥やサラミ、干し果物など、これまた代わり映えしないメニューの食事を終え、ケイたちはようやく一息つくことができた。入り口をテントの布と枝木で塞いだことにより、洞穴は一つの独立した空間となり、心細い二人旅の状況では思いのほか居心地が良い。


 ぱちぱち、と火の中で薪が弾ける。


 微かに吹き込む風にあわせて、ゆらゆらと二人の影が揺れる。


「……はい、これ。お茶」

「ありがとう」


 ケイが壁面に背を預けてぼんやりしていると、隣り合って座るアイリーンがカップを手渡してきた。城郭都市サティナで買い、『こちら』で生活する間に、すっかり手に馴染んだ木製のカップ。すぐには口をつけず、ケイは手の中で揺れる薄茶色のハーブティーに視線を落とした。ほのかに香るカモミール――アイリーンも自分のカップに残りを注ぎ、空になった手鍋に水を足してかまどの三脚に戻す。


 沈黙。


 ふぅ、と息を吹きかけ、少し冷ましてからケイはお茶をすすった。


 くつくつ、と手鍋の立てる音に外の静けさを意識する。自身の神経がまだ張り詰めていることを、ケイはおぼろげに自覚した。


「んー。なかなか悪くないな」


 ちゃぷちゃぷとお茶を揺らしながら、やけに暢気な口調でアイリーン。


「ん?」

「いや……二人旅もやっぱ、良いなって」

「ああ――」


 頬を緩めて、肩の力を抜いて――ケイも頷いた。


「――そうだな」


 異論は、なかった。馬賊の脅威がなくなった今、他人に気兼ねせずに二人で過ごせるのは楽だし、アイリーンと一緒に居られる時間が増えたのは純粋に嬉しい。


 唯一、隊商から離れると水が安定供給しにくくなるのが最大の懸念だったが、こうして川に行き当たったのは僥倖であった。最悪、水源が見つからなければ、大きく迂回してブラーチヤ街道に戻り隊商に先行する形で既知の水場を利用していく予定ではあったものの、トラブルの可能性を考えるならば、他者との接触は極力避けた方が望ましい。鳥や野生の獣は道中で何度も見かけたので、水さえ手に入るなら食料に関してはどうにでもなるのだ。


「そろそろ何か別の物も食べたいところだ。このメニューも悪くはないが」


 最早旅のお供となりつつある、食べ終わった粥の皿と、サラミの切れ端を見やりながらケイ。「だなー!」とアイリーンも調子よく相槌を打った。


「オレも飽きてきた。別のもんも食いたいよなー……うん……」


 が、言ってる途中で勢いを失って、言葉は尻すぼみになっていく。両手で包み込むようにしてカップを持ち、底をじっと覗く彼女は、遠い目で。


 ケイの知らない、何か別の物を見出しているようだった。


 しかし、夢を見るようなぼんやりとした顔も束の間。ケイが眺めているうちに、突如として眉をひそめ、表情を険しいものとするアイリーン。動悸を起こしたかのように、呼吸がかすかに荒くなる。体操座りで小さく背中を丸め、その顔は、焚き火の明かりに彩られて尚、青白い。


「……はは。割と冷えるな」


 ケイの視線に気づいたアイリーンは、誤魔化すように笑った。


 その取ってつけたような笑みに、ケイの胸の奥底がざわつく。先ほどからずっと感じていた、不協和音のような違和感を無視できなくなる。


「……アイリーン」


 唇を引き結んだケイは、カップを傍らに置き、アイリーンの肩を抱き寄せた。


 アイリーンは一瞬、びくりと震えた。


 だが――そのまま力を抜いて、身を委ねてくる。


「…………」


 華奢な体だった。軽いし、細いし、柔らかい。それでいて並の男などものともしない膂力を誇り、ケイでは逆立ちしても勝てないような剣撃をこの細腕から繰り出す。事実として知っていながらも、半ば信じがたい気分だ。


 本来なら、この腕の中にある印象こそが正しい姿なのだと思う。


 ゲーム時代の能力をほぼ受け継いでしまったからこそ、良くも悪くも今のアイリーンがある。少女の人格とは乖離した、あまりに洗練された戦闘技術。そしてそれを可能とする身体能力。


 アイリーンの髪の端にこびりつく、黒ずんだ汚れに気づき、ケイは瞑目した。


 この日、彼女はその力を十全に行使したのだ。己を守るため。ケイを助けるため。


 ケイ独りには不可能だったのだ。全てを守り切ることなど。


 どうしようもなかった――


 はぁ……と、抑えきれないケイの微かな嘆息が、アイリーンの金髪をくすぐる。


 アイリーンはちらりと物憂げに視線を動かし、口を開きかけたが、結局は何も言えずに俯いた。


 語るべき言葉が見つからない。


 互いの鼓動を間近に感じながら、じっと焚き火を見つめていた。


 ただ、沈黙に沈み、揺らめく炎を眺めていると、心の内、影絵のように黒々と炙り出されていくものがある。


 さながら走馬灯のように。


 誰かの顔。


 思い出す。死を目前にした人々の表情。


 不思議と、"竜鱗通し"の餌食となる者は、最期に皆似たような顔をすることが多い。何が起きたのか、起きようとしているのか、わからぬまま死んでいく。呆気に取られたような、およそ死の直前には似つかわしくない、きょとんとした顔はユーモラスであるようにさえ感じられて、ケイの記憶にこびりつく。


 そして時折、思い出す。ひどく薄ら寒い感覚と共に――


 アイリーンは、と。


 壁面に虚ろな視線を這わせ、ケイは思う。


 この、腕の中で震える少女は、いったい何を想っているのだろうか。


 アイリーンが? と、未だに信じ切れない思いさえある。ただ、ケイはしかと見たのだ。アイリーンのサーベルが馬賊の首を刎ね飛ばす瞬間を、はっきりと。


 確かに、アイリーンはサティナの誘拐事件で、誘拐犯を傷つけた経験はある。しかし人を殺めたのは、今日が初めてのはずだ。


 ずきりと、ケイの胸がうずく。アイリーンの心にくすぶっているであろう懊悩を想像すると、胸が引き裂かれるような想いだった。としてアドバイスできることなど何もない。死体の山を築いて尚、まだ良くわかっていないのだ。あるのは、底なし沼に徐々に嵌っていくような焦燥感と、後味の悪さだけ――。



 そしてそれは未だに解決していない。



「――ケイ」


 突然。


 アイリーンの呼び声に、はっと顔を上げた。


「……どうした?」


 一拍置き、努めて平静を装って答える。


 しかし、アイリーンはなかなか切り出さなかった。俯いたまま、自分の足のつま先をじっと見つめている。


 夜の空気はいよいよ静かだ。ケイはただアイリーンの言葉を待つ。のっぺりと、時が引き伸ばされていくような感覚。彼女が何を想うのか。少し恐ろしくもあったが、ケイは知りたかった。


 やがて、切り出したときと同じように、唐突に。


「……ごめんね」


 アイリーンはぽつりと呟くようにして、言った。

 

 ゆっくりと、ケイは目を瞬く。純粋に、その意を測りかねた。人を手に掛けたことを思い悩んでいるのだろう、と考えていただけに、何故自分に謝るのかがわからない。


「……なぜ?」


 それを直接、問うことは憚られた。説明を強いれば、それがアイリーンを苦しめるとわかっていたから。だがその真意が読めない以上、尋ねざるを得なかった。


 怖れたとおり、アイリーンは歯を食いしばって、絞り出すように、


「ケイに……また、戦わせてしまった」


 ぽかん、とケイは呆気に取られた。


「アイリーンのせいじゃない……!」


 即答。声を荒げぬよう、自制するのは容易ではなかった。突然、心に湧いて出た怒りの矛先を、どこに向ければよいのか、自分でもわからない。ただその相手がアイリーンでないことだけは確かだった。


 そんなケイの心情を察してか、アイリーンは疲れたように低く笑い、自嘲の気配を漂わせる。


「オレが……」


 言葉は、血が滲むようだった。


「オレが……北の大地ここに来るなんて、言い出さなければ……」


「――――」


 理屈としては確かに、その通りだ。あまりに当然のことに、虚を突かれて一瞬、納得してしまう。

 だから、沈黙は雄弁な肯定となった。そしてそれは、アイリーンの言い分を認めるということでもある。

 ケイはガラス細工を床に取り落としてしまった職人のように、にわかに慌てた。


「……俺は大丈夫だI'm fine問題ないNo problem


 硬い声で、言い切る。気まずい沈黙の気配を振り払うように。


「俺はむしろ、アイリーンが心配なんだ」


 その金髪を、頭を撫でながら、やや強引にそう続けた。子供をあやすように、ぎこちない笑みを浮かべて。


 ぐるりと首を巡らせ、斜めにケイを見やるアイリーン。

 蒼い瞳が、ケイの顔を捉える。

 揺れる、視線。


 ふと――少女の表情に、寂しげな影が落ちる。


「……大丈夫さI'm fine


 返答は言葉少なに、短く。

 それきり、焚き火に向き直って、内側に沈み込んでしまう。


「…………」


 今度こそ、本当の沈黙が訪れる。



 ――大丈夫なはずがないじゃないか。



 咄嗟に出かかった声を、ケイはどうにかして飲み込んだ。明らかに、普通じゃないし、アイリーンが苦しんでいるのは一目瞭然だった。


 大丈夫だと、口では言うが。

 だったらなぜ、こんなにも震えている?

 そして、なぜ――それを言ってくれないのか。


 アイリーンの頭を撫でながら、ケイは深い悲しみに襲われた。


 これ以上の詮索はしないし、できない。

 ここで、「本当に?」と問いかけても、アイリーンは「本当に大丈夫だよ」と答えるだけだろう。それがわかっていたから。


 ――互いの距離は、こんなにも近いのに。


 とくん、とくん、とアイリーンの鼓動が、伝わってくる。


 これ以上、近づけない――


 悲しかった。

 アイリーンに気取られないよう、細く長く息を吐いて、俯いた。

 ケイもまた、内向きの思考の渦に囚われそうになる。


 だが、ふと。

 傍らに置きっ放していたカップに、目を留めた。

 揺れる薄茶色のハーブティー。そこに映り込む、自分の顔。


 沈んだ、顔。


 それを目にした瞬間、ケイは雷に打たれたように固まった。

 衝撃を受けた。

 今の自分もまた――アイリーンには、『そう見えているのかも知れない』、と。

 気付かされたから。


 ああ、と。


 すとん、と心に落ちてくるものがある。


 ケイは、アイリーンを傷つけたくない一心だった。

 そもそもケイ自身、己がどう思っているかなど、いまいち判断がついていない。

 そんなことよりも、ただアイリーンが心配だった。

 だから言ったのだ。「大丈夫だ」と。


 だが――それは、アイリーンからしたらどうなのだろう。

 先に表情を塗り固めていたのは、ケイの方ではなかったか。

 距離を取っていたのは、むしろ――。


 アイリーンは、ケイが苦しんでいると思っている。

 なぜなら、自分のせいでケイが戦う羽目になったからだ。

 命がけで。傷ついて。死にかけながら、殺して。

 そんな過酷な状況に曝され、傷つかないはずがないと。


 ケイは、アイリーンが苦しんでいると思っている。

 なぜなら今日、彼女は初めて人を斬ったからだ。

 血みどろの惨劇と、人間の悪意の暴風に曝されて。

 傷つかないはずがない。彼女は優しすぎるから。


 それでも、アイリーンは「大丈夫だ」と言った。

 でもきっとそれは、ケイに嘘をつきたいからじゃなくて、ケイを心配させたくなかったからだ。

 あるいは、ケイが苦しんでいるのに、自分に苦しむ権利がないと思っている。

 アイリーンは真面目だ。

 苦しんではいけないと思いながらも、苦しんでいる。


 きっと―― 


 本当は、つらくて堪らないはずだ。


 今のケイと同じように。


 互いが互いを心配して

 傷つけたくなくて

 遠ざけようとして 近づこうとして

 でもそれはできなくて


 ――悲しかった。


 ただ、悲しいだけではなく、熱くこみ上げてくるものがあった。


「……ケイ?」


 頭を撫でる手も止めて、黙りこんだままのケイに、アイリーンが振り返る。

 そして青い目を見開いた。

 ケイの瞳からこぼれ落ちる、一筋の涙に気づいた。


「――ケイ!? どうしたんだ!? どこか痛むのか!?」


 動転し、ケイの全身をぺたぺたと触りながら、こちらを覗き込んでくるアイリーン。ただひたすら、心から、ケイのことだけを心配している顔だった。


「……違うんだ」


 ゆっくりとかぶりを振って、思わず手を伸ばしたケイは、アイリーンを抱き締める。


「違うんだ……」


 今一度、呟く。


 どうやら痛みのせいで泣いているわけではないらしい、と理解したアイリーンは、少しばかり落ち着きを取り戻しつつも、心配げな様子を崩さない。


「……ケイ?」


 抱き締められたまま、ちらりと上目でケイの様子を窺うアイリーン。また心配させている、と思いながらも、はらはらと溢れる涙は止まる気配がなかった。


 何かを言おうとはするが、なかなか言葉が出てこない。今度は、ケイがアイリーンを待たせる番だった。


「……わからないんだ」


 ぽつりと。


「さっきは、『大丈夫だ』って言ったが……本当は、自分でもわからないんだ。人を殺したのは、今日が初めてじゃない。それに……先に襲ってきたのは、奴らだ。状況的に他に手はなかった。納得はしている、と思う。でも……だからと言って何も感じないわけじゃない……」


 一度口を開けば、訥々と。


「理屈じゃわかってるんだ。選択肢がなかったって。あそこで誰も殺さずに済む手段があったなら、俺はそれを選んだと思う。だが、そんなものはなかった。これは……辛いのかな。やっぱり良い気持ちはしない。今夜は悪い夢でも見るかもしれない。でもな、アイリーン」


 ぐいと涙を拭って、アイリーンを見据えた。


「でも、それ以上に、お前のことが心配なんだ」


 自分のことは――アイリーンに比べれば、ちっぽけなことだ。


「俺は良いんだ。こうして元気に生きてるし、暗い気持ちも、寝てりゃそのうち忘れるって経験でわかってる。でもアイリーンは……俺とは事情が違う。初めて『こっち』で人を手に掛けたときは、……今となっちゃあんまり憶えてないが、やっぱり数日は引きずった。『あんなこと』のあとじゃ……普通ではいられないよ」


 いられるはずがない。


「だから、辛かったら、苦しかったら、遠慮せずに言って欲しい。泣きたいなら泣いてもいい。……俺に、泣きながら言われるのも、変な話かも知れないけどさ」


 抱きとめた胸元で、アイリーンの頭を撫でながら、ケイはしみじみと言う。


「一人で抱え込むのは……色々と、辛いから」


 アイリーンは、半ば茫然とケイの言葉に聞き入っていたが。


「……ケイ」


 きゅっと表情を歪めて、俯いた。


「……オレも、わかんないんだ」


 ぼんやりと、アイリーンは自分の手に視線を注いでいる。


「ケイの言ってること、よくわかるよ。でも、あんまり、現実味がないっていうかさ」

「……ああ」

「……感触は、割と印象に残ってるっていうか。意外と手応えないんだな、とか、そういうの。はは、変だよな。もっと他に手が、とか、別の方法が、とか、誰でも似たようなこと、きっと考えるんだろな……」


 泣き笑いのような表情をしたアイリーンは、こちらを見つめ――そのままぐりぐりと顔をケイの胸板に押し付けてきた。


「ごめん……! ホントにごめん……!」


 押し殺すような、引き裂かれるような。

 静かだが、悔恨にまみれた、どこまでも悲痛な声だった。

 ケイは目を閉じて、アイリーンの背中をさする。


「いいんだ。本当に。気にするな、って言っても、難しいだろうが……」

「でも……っ、オレが言い出さなきゃ……っ」

「そうやって、自分を責めないでくれ……アイリーンが落ち込んでたら、俺も悲しい」


 そうは言っても、無理があることくらい、ケイにもわかっている。「それじゃあまあいいか」とすぐに開き直れるなら、誰も最初から苦労はしない。アイリーンは自責の念に駆られるだろうし、それまでするな、と言えば心の出口を塞ぎかねない。


 だが、これがケイの素直な気持ちだ。


「来る前から、リスクは重々承知していた。二人で決めたことだ。だから、自分だけを……あまり責めないでくれ」


 しばらく答えはなかった。アイリーンの性格上、到底すぐには納得できないだろう。


 だがやがて、アイリーンは、「……うん」と、消え入りそうな声で答えた。


「それに、考えてもみろ。俺たちが居なければ、多分隊商は全滅してたぞ」

「……そう、だな」

「ピョートルやランダール、まあ、あと……諸々、隊商の皆を助けられたんだ。結果としては、悪いことじゃなかったはずだし、それは誇ってもいいだろう」


 全てを肯定して良いわけではない。だが、肯定的側面というものも確かに存在する。


 アイリーンの反応は芳しいとは言えないが、心の片隅にでも、それを留めておいて欲しいとケイは思う。何よりも、今は時間が必要だ。自分の中で整理をつけるだけの時間が――外からとやかく言うよりも、それが一番の特効薬となる。


 ただ、その一助となれば、と。

 自身の経験を振り返りながら、ケイは切に願った。


 ゆっくりと、腕の中のアイリーンの背をさすりながら、焚き火を眺める。アイリーンは、泣いていなかった。ただ表情を消して、自責と後味の悪さに苦しんでいる。


 なぜ、こんなにも彼女が苦しまねばならないのか。ひとり嘆くケイは、


「……なんで、馬賊の連中は、わざわざ北の大地こんなとこまで来たんだろうな」


 自然、心に浮かんだ疑問をそのまま呟いていた。連中さえいなければ、というそんな単純な思考。


 びくりと体を震わせたのは、アイリーンだ。


 ケイは、雪原の民の言葉ロシア語を解さない。

 だから、これまでの道中で出会った人々や、隊商の皆の会話を、ほとんど把握できていないのだ。

 対するアイリーンは、大体の事情に通じている。

 北の大地。公国との紛争。売り払われた奴隷。草原の民の女子供たち。


 ケイは――言っていた。


 自分たちがいたことで、馬賊を撃退できたと。そして隊商の皆を救えたと。

 それを誇っていいはずだ、と。

 そう語るとき、彼の口調は確かに軽かった。肯定的側面。ケイにとってそれは、今回の殺人を肯定する、よすがであるに違いなかった。


 では――どうだろう。


 もし、ケイが、知ってしまったら。


 ケイが何十人と手をかけた馬賊たちは、実は奴隷として売り飛ばされた同胞の女子供たちを救うため、公国から遠路はるばるやってきたのだ、と知ったのなら――


 ケイは、どう思うだろう――?


「……ッッ!!」


 言えるはずがない。

 そんなこと、今のケイに言えるはずがなかった。

 アイリーンは、ケイの胸に顔を埋めたまま、歯を食いしばる。


「なんで、だろうな」


 答える声は、震えていた。己の罪深さに押し潰されてしまいそうだった。

 こんなことなら、初めから、北の大地になど来るべきではなかったのだ。断固として地球に帰還する、という意志があったならまだしも、ただ迷いがあった程度で、ケイをこんなことに巻き込む権利があるはずもない。


 なのに――自分は――


「わかんないよなぁ……」


 一方で、アイリーンの言葉をそのまま受け取ったケイは、ぼんやりと、そして、どことなくのんびりと首肯する。


 それを聞いて、アイリーンの中で、何かが弾けた。


「くっ、ぅぅぅ……」


 食いしばった歯の隙間から、声が漏れる。胸がきしみ、頭に血が上り、両目に熱い涙が溜まっていくのが抑えられなかった。

 泣きたくない。

 辛いとき、ただ泣いて縋るだけの女になりたくなかった。

 だから、意地でも泣くまいと思っていた。

 でも、もうダメだ。あまりにケイに申し訳なくて、悲しくて、情けなくて。


 それでも、優しく撫でてくれる手が愛おしくて。


 色んな感情がごっちゃになって、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。もう何も考えられなかった。


「アイリーン……」


 ケイは名前を呼ぶだけで、何も言わない。ただそっと抱き締める。


「ごめん……」


 自然と、口に出していた。


「ごめんね……ごめんね、ケイ……!」


 むせび泣くことしか、できなかった。


 ――いいんだ。


 耳元で、ケイのささやきを聞いて。



 アイリーンはどうしようもなくて、泣いた。



          †††



 その夜。


 泣き疲れたアイリーンと一緒に、ケイは眠った。


 洞穴の外にはサスケとスズカがおり、"警報機"もあるので、二人揃って寝ても大丈夫だろうという判断だった。それでも、万が一の際はすぐに行動できるよう、ケイは洞穴の壁に背を預けて眠りについた。疲れのせいもあり、一瞬で意識は途絶える。


 浅いようで、深い眠り。


 そのせいだろうか。妙な夢を見た。


 夢の中で、ケイは地球の実家にいた。なぜか今と同じように、ゲームのアバターそのままの、健康な肉体で日常生活を送っていた。


 早朝、自室で目を覚まし――幼い頃から入院生活を送っていたケイには、実家に自室などなかったのだが――おそらく休日だったのだろう、リビングで両親や弟と一緒に、朝食を食べる。


 本来なら、ケイは弟と絶縁状態にあった。昔、「俺も兄ちゃんみたいな身体だったら、いくらでもゲームできたのに」と言われ、ケイがブチ切れたためだ。しかし夢の中ではそんな過去もなかったことになっていて、普通に仲の良い兄弟として、一緒にテレビを見たり、他愛のないことを話しながら過ごした。最後に直接見た、おそらく十歳ほど若いままの姿の両親も、そんなケイたちを微笑ましげに見ていた。


 ケイの想像する、『普通の家庭』。


 そんな夢だった。


 朝、洞穴で、鳥の鳴き声を聞き、目を覚ましたとき――ケイはまだ、夢の現実感を引きずっていた。自分が地球の、あるはずもない自室で目を覚ましたような、そんな錯覚に囚われた。


 それが夢であった、と気づいた瞬間、ケイの心を満たしたのは、寂しさだ。

 おそらく、久しく感じたことのない、郷愁というものだった。

 実際、ケイには選択肢がない。地球への帰還が可能だったとしても、ゲームの肉体のまま戻れないなら、待っているのは遠くない未来での死だ。


 ケイは死にたくはない。まだまだ生きたいと願っている。

 ならば、『こちら』の世界に留まるしかない。

 そう考えると、心はぴたりと定まり、迷いは一片もない。


 しかし――どうだろう。


 帰ったとき、そこに、それなりに日常生活を送れる肉体があったとしたら。

 そう仮定して考えてみると、一気に決心が揺らぐのを感じた。

 地球の生活は魅力的だ。少なくとも日本ならそれなりに安全だし、物は豊富にあり、インフラも整っている。


 ロシアも、それは大して変わらないはずだ――


 少なくとも、一歩間違ったら馬賊に襲撃されて、血みどろの殺し合いに巻き込まれるような、そんな物騒なことは、概ねない。

 アイリーンは以前、自身の気持ちを『迷いがある』と表現していたが、それも納得だった。ケイでさえ、想像するとこれほどまでに心が揺れるのだ。いわんやアイリーンなら――推して量るべしだ。迷うのも当たり前だろう。


 果たして、この世界に留まることが、普通の人にとって『幸せ』なのか。


 ケイにはわからない。それが、アイリーンにとって、どうなのかは――正直なところ、今はまだ、あまり考えたくない。


 だが、答えは近いうちに出るだろう。


 ケイに続いてアイリーンも目を覚まし、朝食を摂った二人は、すぐに洞穴を発った。

 目指すは、当初の目的地。"魔の森"に最も近いとされる、シャリトの村だ。昨夜はあんな話をしたが、ここまで来て今更引き返すわけにはいかない。行けるところまで行くまでだった。

 

 アイリーンの顔色は依然として冴えない。

 まあ、それはそうだろうな、とケイは思う。一日二日でけろりとしてしまうのは、それはそれで恐ろしいような気もする。

 アイリーンの内なる葛藤など知る由もないケイは、彼女の反応は至極まともである、とそんな風に認識していた。


 ただ、塞ぎこんでいるアイリーンを見ていると、否応なくケイは、彼女にとっての『幸せ』を考えてしまう。


 悩み、考えるケイたちを他所に、それでもサスケとスズカは進む。 



 その後は、特に支障はなく、思いの外順調な旅路となった。



 川を辿って新たな街道に合流し、中間目的地であった都市"ベルヤンスク"をスキップして、直接"シャリトスコエ"に向かう。充分な水源と点在する村々のお陰で物資の補給にも事欠かない。ケイの容姿のせいで現地民との交流が難しくなる恐れもあったが、北の大地の北東部では馬賊の悪評はそれほど広まっておらず、事なきを得る。


 ケイたちがシャリトの村に到着したのは、隊商から別れて四日後のことだった。


 事前の情報で、『小さな辺境の村』というイメージを持っていたが、実際の村の様子は想像とは大分異なっていた。


「まるで小さな要塞だな……」


 森と平野の境目に位置する集落を遠目に見て、ケイは感心したように独り呟く。丸太を地面に直接打ち付けたような、頑丈な木の壁にぐるりと囲まれた村だ。親指を立てて高さを測ると、壁は優に三メートルはありそうだった。大抵の獣や野盗ならば、簡単に跳ね除けられそうな防備だ。


「要塞村、って他の村の住人が言ってたな」


 ここ数日で大分調子を取り戻しつつあるアイリーンが、ケイの独り言を聞きつけて補足する。


「成る程。言葉通りだな」


 シャリトは人口百名ほどの辺境の集落らしいが、建物などはそれぞれ立派な造りであることが看て取れる。何か特産でもあるのだろうか――少なくとも、公国の書物では具体的には触れられていなかったが。


「スムーズに入れると良いんだが」

「見るからに『開放的』じゃなさそうだもんなー」


 二人して顔を見合わせる。



 果たして、その懸念は現実のものとなった。



『止まれ! 何者か!』


 ケイたちが村まで近づいた時点で、入口の門の傍、見張り櫓のような建物の上から、弓を手にした村人が誰何すいかしてきた。

 村人――と、この場合は表現する他ないのだろうが、筋骨隆々の中年の男が、板金仕込みの革鎧で武装している様は、まさに戦士だ。一目で猛者とわかる立ち居振舞い、威容。ようやく『北の大地』らしい雪原の民が出てきたな、と顔布の奥でケイは皮肉に笑う。


『怪しい者じゃないわ! 訳あって"魔の森"に用があるの。貴方のところが、一番近い村でしょう?』


 アイリーンが答えると、門番は「はぁ?」と訝しげな声を上げる。しばし、自分たちの境遇――霧の異邦人エトランジェのことをそれとなく伝えると、門番の男は『ちょっと待て、人を遣る』と言い、櫓を降りていった。


「さて、どうなるか……」

「というか、昼間でも門を閉じてるんだな、この村は」


 気を揉むアイリーンに、村を仔細に観察するケイ。



 待たされること数分。



 ギギギィッ、と重い軋みを上げて、村の門が開かれた。


『貴様らか、旅人というのは』


 そして、その奥から独りの偉丈夫が姿を現す。


 "獅子"。


 ケイたちが、真っ先に連想したのは、その言葉だ。


 壮年の男だった。がっしりとした体格。ぴったりとした革の服の下には筋肉の線が浮かび、白髪交じりの長い金髪と立派に蓄えたあごひげは、まさにたてがみのようだ。見るからに、強い意志の光を湛える双眸は、アイリーンのそれよりも薄い水色。腕を組み、門の真下で仁王立ちにした姿からは覇気が滲み出ており、一目で只者でないことがわかった。


『ええと……貴方は?』


 若干、引き攣った笑顔を浮かべて、アイリーン。


『この村のまとめ役をやっておる者だ。セルゲイという』

『よ、よろしく……わたしはアイリーン』


 馬から降りて会釈するアイリーン。ケイも続いてサスケから降り、フードを跳ね上げて顔布を取り去る。


 ケイのアジア人的な相貌を目にしても、男――セルゲイの厳つい表情は、微塵も動揺を見せない。


「Nice to meet you. My name is Kei」


 ただ、ケイが公国語で話すと、ぴくりと眉を動かした。


「……なんだ、貴様は草原の民か?」


 流暢な公国語。ケイとアイリーンは思わず顔を見合わせた。


「どうした、何がおかしい?」

「ああ、いや……流暢な公国語で、少々驚いた」


 今までの村々でも、ここまでスムーズに英語が話せる雪原の民は、早々お目にかかれなかった。まさかこんな最果ての村に、外国語を使いこなす住民がいるとは思ってもみなかったのだ。


 ケイたちの反応に、セルゲイは少し得意げになって、フンと鼻を鳴らした。


「ワシも若い頃は、武者修行で各地を回っておったからな。公国語なんざお手の物よ。……で、貴様は草原の民か?」


 最初の質問に戻る。ケイはゆっくりと首を横に振った。


「いや。よく間違えられるが、Japaneseという別の民族だ。彼女ツレが話した通り、訳あって遠くからやってきてな……一応、公国、というか要塞都市ウルヴァーンの市民証もあるが、兎に角草原の民ではない」

「……最近では、草原の民が物騒なことをしておると、風の噂に聞いたからな」


 じろりと、ケイの頭からつま先まで、胡乱な目で睨めつけるセルゲイ。


「ウチの村では下手な真似はしないことだ。皆、それなりに腕に覚えはあるからな。ただし行儀よくするならば客としてもてなそう。立ち話も何だ、まあ入れ」


 くるりとケイたちに背を向け、さっさと歩き出すセルゲイ。しかし何かを思い出したかのようにすぐに振り返り、


Welcome toようこそ Сяльтоシャリトへ


 サッ、と手を広げて一言。そしてそのまま再び歩き出す。


「…………」


 ケイたちは、今一度顔を見合わせた。


 まだ油断ならないが、意外と茶目っ気のある人物なのかも知れない。




 サスケとスズカを連れて、ケイたちも村に入る。


 成る程、セルゲイが言っていたのは事実だろう。先ほどの門番とセルゲイ本人を見た時点で薄々察していたが、この村の住人はかなり鍛えられているようだった。


 村のあちこちで見かける男衆は、例外なくがっしりとした体つきで、アイリーン曰く重心の安定度から何らかの武術を修めているのはまず間違いないだろうとのことだった。女衆でさえ、時たまケイより強そうな雰囲気を漂わせている者がいる。例えば今しがた通りがかった軒先の中年女性などは、ケイの太腿ほどの腕の太さを誇り、生半可な木ならば一撃で叩き折れそうな貫禄を備えていた。


 皆、余所者であるケイたちに、物珍しげな視線を向けている。所謂、排他的な刺々しさは感じなかったが、ケイやアイリーンの力量を推し計ろうとするかのような気配があった。只者でない、という点では、ケイたちも大概だ。しかし一目でそれとなく察するとなると、つまり村人たちも尋常ではない、ということなのだろう。


 どんな不届き者も、この村に入れば悪さをする気を失おうというものだ。少なくとも治安は安定しているように見える。逆に、村ぐるみの追い剥ぎに遭おうものなら、魔術でも使わないかぎり勝ち目がなさそうだったが。


 セルゲイに案内されたのは、村の端に位置する大きな屋敷だ。村長の家、ということらしい。


『タチアナ! 茶を淹れてくれ。客人だ』

『あらあら、珍しい。これはまた別嬪さんといい男じゃないかい? とっておきの茶菓子もつけようかね』


 セルゲイの妻だろうか、恰幅の良い肝っ玉母さん風の女性が炊事場へと小走りで飛んで行く。リビングに通されたケイたちは、荷物を置きながら薦められるがままにテーブルについた。


「そういや、公国の市民証があるって話だったか?」

「ああ、一応。名誉市民だがな」

「ほーう、そいつァまた珍しい。かれこれ数十年生きてるが、本物にはお目にかかったことがないんだ、良かったら見せてくれ」

「お安いご用さ」


 言葉が通じるのはなんと素晴らしいことだろう、としみじみ思いながら、ケイは懐から市民証を取り出す。アイリーンのお陰で慣れているので、雪原の訛りも聞き取りには全く問題ない。


 物珍しげにしげしげと紙面に視線を落とすセルゲイ。会話が途切れたケイたちは、さてこれから何をどう話したものか、と思索を巡らし始めた。



 が。



 そのとき、リビングの扉がバタンと開いて、金髪の青年が颯爽と入ってくる。


『親父! 今度の狩りの件なんだが――』


 ハキハキとした声でセルゲイに話しかけようとしていた青年は、ふと、リビングで寛ぐ客人ケイたちに視線を向けて、その水色の目をまん丸に見開いた。


「あぁ!!」

「はっ?!」

「えっ!?」


 青年、ケイ、アイリーンと、三者三様に素っ頓狂な声を上げる。


「…………!!」


 全員、二の句が継げない。


 ケイの市民証から顔を上げたセルゲイは、呆気に取られて硬直する三人を見やって、訝しげに首を傾げた。


「なんだ、知り合いか? アレクセイ」


 父親の声に、はっと我に返った金髪碧眼の青年は――引き攣った笑みを浮かべ、ぎこちなくケイたちに手を振った。




「よ、よお……久しぶり」











 アレクセイだった。




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