48. 別離


 それは、雑然とした空間だった。


 石造りの薄暗い部屋。天窓から差し込む細く弱々しい光が、部屋中に所狭しと並べられた奇怪な品々をぼんやりと照らし出している。奇形の動物の剥製や怪しいアルコール漬けの標本、瓶詰めの毒々しい色の液体に粉末、無数の書物・巻物、恐ろしげな拷問器具、用途が全く予想できない道具、エトセトラ、エトセトラ……。


 そしてその中にうずもれるようにして鎮座する、天蓋付きの寝台。


 大の大人が四人は悠々と寝転がれるような大きさだ。手の込んだ金や銀の装飾が惜しげもなく配されており、天蓋から下げられたレースのカーテンが細やかな模様を描く。手編みであることを考えると、恐ろしく手間がかかっていた。庶民には一生縁がないような贅沢品。


 そこにゆったりと、沈み込むようにして身を横たえているのは、一人の老翁だ。短く伸ばした黒い髭、刈り込んだ黒髪。手や顔の深い皺はその年齢を窺わせるが、大柄でがっしりとした体躯は加齢故の衰えなど全く感じさせず、逆に頑強さと壮健さを無言のうちに主張しているようにも見えた。


 しかし、眠っている――のだろうか、両手を胸の前で交差させ、ぴたりと時間が止まったように身じろぎすらしない姿は、むしろ死人のようだ。全身を包む、喪服じみた黒衣がその印象を強くする。


 部屋の四隅には給仕服に身を包んだ四人のメイドたちが控え、表情もなく、楚々として主人の命を待っていた。上品に、そして全く同じスタイルに髪を切り揃えた彼女らは、全員が息を呑むような美貌と抜群のプロポーションを兼ね揃えている。が、顔色は紙のように白く、その無表情も相まって何処か人形じみた雰囲気を漂わせていた。


 彼女らの暗い瞳は、ただ一点。


 寝台の老翁に固定されたまま、動かない。


「……ぐッ」


 と、その瞬間、老翁がカッと目を見開いた。


「――ッガああああアアァァァッッ!」


 そして思い出したかのように絶叫し、跳ね起きる。


「ぐうぅぅぅヲォ、おおおおぉ……ッ!」


 胸を掻き毟りながら、まるでナイフで臓腑でも抉られているかのような苦痛の声を絞り出す。ごぽっ、と胸の奥から不気味な音を響かせた老翁は、そのまま咳き込むようにして喀血した。どす黒く、粘つく血液が口から溢れ出し、寝台の上で滅茶苦茶にのたうち回る。見開かれた瞳は、真紅の虹彩を囲む白目までもが真っ赤に充血しており、もはや人外の形相を呈していた。


 が、主人がそれほどまでに苦しんでいるにもかかわらず、部屋の隅で待機するメイドたちは微動だにしない。ただガラス球のような瞳で、黒衣の老翁を見つめるのみ。


「ぐぅぅアアアァアッ、何故だッッ……、何故だアッ!」


 血反吐を吐きながら、老翁は叫ぶ。


「たかがッ、憑依した使い魔を殺られた程度で、何故これほどまでに……ッッ!」


 苦しめられるのか。


 告死鳥プラーグの契約――それは鴉などの黒羽の鳥を支配し、使い魔としての使役を可能とする魔術。中でも、感覚を共有することで使い魔を自在に操ることができる『使い魔への憑依』は、非常に自由度の高い術式だ。擬似的な飛行、タイムラグのない情報伝達、使い魔を通しての遠隔的な魔術の行使など、その応用性はあらゆる魔術の中でも随一と言える。


『感覚を共有する』という性質上、憑依した使い魔が傷つけばその痛みも同時に味わう羽目になるのが唯一の欠点だが、精神的な苦痛を除けば術者本人に被害はなく、その苦痛すらも修練を積めばかなり軽減することができる。


 はずだった。


 しかし現実には、強烈な感覚の共有フィードバックにより、老翁は肉体的・精神的に壊滅的なまでの被害を被っている。


(あり得ぬ……あり得ぬッ!!)


 シーツを引き千切らんばかりに握り締め、血走った目で老翁は虚空を睨む。引きつけでも起こしているかのように全身がぶるぶると震え、その額には何本もの血管が青筋となって浮き出ていた。


 あり得ない。


 いや、あってはならないことなのだ、これは。


 老翁の使い魔は、あの忌々しい異邦の弓使いに射殺された。樹の幹をも容易く貫き通す強弓、その威力は凄まじいの一言。それに伴う死亡時の反動も、かつてないほどに強烈だったことは認めざるを得ない。


 だが、だからといって、ここまで精神と肉体を傷めつけられた理由にはならない。


 確かにあの弓使いは魔術も併用していたが、あれは矢に特別な効果を付与するものではなく、ただ風の力で標的へ向けて矢を誘導するだけの術式だった。


 仮に――あの矢に、呪いや特殊な魔力が籠められていたのであれば、術者へ悪影響が出るのも頷ける。


 が、今まで幾度となく、使い魔を潰されたことはあり、それが魔力の籠められた武器や呪いによって為されたことも一度や二度ではないのだ。そしてその度に、老翁は図抜けた魔術耐性をもってして、それらの攻撃を無効化レジストしてきた。


 それが。


 今回に限って。


「何故だ……!」


 老翁の長い生を振り返ってみても、使い魔を殺された程度で、これほど甚大な被害を受けたのは初めてのことだった。


 不甲斐なさ。自分自身への突き抜けるような激しい怒りがあり、苛立ちに混じって喉の奥から血臭がこみ上げる。


 ――久しぶりだ。血反吐を吐くほどの苦痛を味わったのも、制御できないほど感情が荒れ狂うのも。


 どうにかして寝台から起き上がる。天窓から差し込む光を睨むも苛立ちは収まらず、荒ぶる感情はむしろ加熱していく。壁際、無表情でこちらを見やるメイドが目に入り、その醒めた瞳が無性に腹立たしく思えた。


 老翁はつかつかと歩み寄り、その首をぐいと掴む。


「……何故だ」

「……ご質問の意図を、理解致しかねます」

 

 メイドはただ、無表情に答えた。元より返事を期待して問うたわけではない老翁は、厳しい表情のまま思考を巡らせる。


『あり得ない』とは言うが、実際問題として、心身ともに甚大な被害を被った。となれば、そうなった原因は必ず存在する。


 ――使い魔を殺された衝撃、感覚の共有フィードバックが強烈過ぎたのか? いや、あり得ない。以前もっと酷い殺され方をしたことはあるが、大してダメージは受けなかった。


 ――あの矢には何か特別な仕掛けが施してあったのか? いや、それもあり得ない。この世に存在する呪いの類は、自分ならば一目で看破できる。あの矢は間違いなく、何の変哲もない普通の矢だった。


 ――ならば、あの男は、『自分』を傷つけうる存在だったのか?


「……!」


 老翁の表情が険しくなり、手にぎりぎりと力が篭もる。


 そうだ。


 その可能性に至り、思考が加速していく。


 ――そう考えれば・・・・・・説明はつく・・・・・


 老翁が思考に沈む間も、その手の中でメイドの細い首はたわんでいき、紙のように白かった顔が徐々に鬱血していく。しかしメイドは無表情を崩さず、待機の姿勢のまま呻き声一つも漏らさない。


 「そうか……そういうことか…… Li estas la vizitanto ... se li estas ekstere de la regulo, ĝi devus ne esti bizara...!!」


 ある種、獰猛な表情となった老翁は、歯を剥き出しにして虚空を睨む。


「おのれ……大人しくしておればよいものを、Kahmui……!」


 ぐっ、と老翁の全身に覇気が漲り。



 ごきり。



 鈍い音を立てて、メイドの首が砕けた。


 無表情のまま身体から力が抜け、かくかくと細かい痙攣を起こす。


 そこで初めてメイドの存在に気付いたかのように、老翁は手の中に視線を落として鼻を鳴らし、その体を放り捨てた。


 抜け殻のようになって、どしゃり、と力なく床の上に転がるメイド。その口と鼻からつっと赤黒い液体が流れ出し、石畳に染みをつくる。


「ゴミを片付けておけ」


 老翁が命じると、未だ身じろぎすらせずに待機していた残り三人のメイドたちが、恭しく頭を下げて動き出す。粛々と、表情を変えることなく、二人が元同僚の身体を部屋から運び出し、一人が老翁の血で汚れたシーツを取り替え始める。


 それをよそに、先程までの荒れようが嘘だったかのように落ち着き払った老翁は、遠い目をして髭を撫で付けている。


「……あの男、」


 脳裏に思い浮かべるのは、異邦の弓使いの姿。


「……少々、本腰を入れる必要がありそうじゃな」


 ふン、と今一度鼻を鳴らした老翁は、ばさりと黒衣をはためかせ。


 黒い羽根が散る。


 羽音が部屋の空気を揺らし、僅かな天窓の隙間へと影が伸びる。


 まるで、最初からそこに誰も居なかったかのように――僅かに数枚の黒い羽根を残し、老翁の姿は掻き消えていた。




          †††




 ケイが復帰し、本格的な反撃を開始すれば、馬賊の残存部隊も脆いものだった。


 まず、敵味方双方とも、馬賊の魔術師のものと思われる断末魔に浮き足立っていたようで、特に馬賊側からは当初の勢いがなくなっていた。重装騎兵三人組の攻勢をのらりくらりと躱していた別働隊の面々に至っては、ケイが"竜鱗通し"での射撃を再開するや否や算を乱して逃げ始める始末だった。


 馬賊たちの視点からすれば、それも無理のないことだ。散々矢を打ち込んで、(呪いのせいとは知らず)段々と元気を失くしていき半死半生にまで追い込んだと思った男が、いきなり完全復活して殺意全開で逆襲してきたのだ。高等魔法薬ポーションの存在を知らなければ化け物にしか見えないだろう。


 無論、再びサスケに騎乗したケイがそれをみすみす逃すはずもなく、散々嬲られたお返しとばかりに、一人一矢きっちりと"竜鱗通し"をお見舞いした。


 その後、アイリーンから木立に負傷兵その他が潜んでいる可能性を知らされるも、隊商の援護が先決と判断したケイは、重装騎兵三人組を引き連れてもう一隊の馬賊へと強襲を仕掛けた。文字通り、直接矢面に立たされることとなった馬賊たちはケイの騎射の腕前と"竜鱗通し"の威力に度肝を抜かれ、また遠目では見ていたものの改めて間近でそれを見せつけられた隊商の面々も同様に度肝を抜かれた。


 いずれにせよ、その場のほぼ全員の度肝を抜きながら、ケイが馬賊を壊滅させるまでそう長くはかからなかった。途中でとうとう矢が尽きてしまい、死体から矢を回収しながらチマチマと戦う羽目になったが(全力での射撃だったので着弾の衝撃により折れてしまったものが多く、使い物になる矢を探すのに思いの外手間取った)、それでもケイの騎射で大幅に数を減じた馬賊たちは、隊商の面々によって順次制圧されていった。


 最終的に、残り二十騎を切ったあたりで、これは敵わないと判断した馬賊たちが撤退し、ケイを含む騎兵の面々で散々に追撃して追い散らしてから、隊商はようやく一息をつくことができたのだった。


 あとに残されたのは――濃厚な血臭。


 傷ついた者たちの苦痛の声と、死者に対する嘆き。


 そして、『生存者』に対する苛烈な私刑リンチだった。


 ケイが追撃から隊商に戻ったとき、最初に抱いた印象は『酷い』の一言だった。


 至る所に怪我人が寝かされ、あるいは敵味方問わず死体が放置され、ある程度元気があり医療の心得がある者は怪我人の治療に奔走し、元気はあっても戦うことしかできない者は、その鬱憤をぶつけるように生かして捕らえた馬賊を痛めつけていた。


 拷問、というよりは、生死を気にせずひたすら殴る蹴るといった暴行を加えている印象だった。元々、彼らが先に襲ってきたのだ。それこそ生かそうが殺そうが勝手というものだろう。後ろ手に縛られたまま泥に顔を埋め、ぴくりとも動かない男がいる。まだ少年と言ってもいい年頃でありながら、大の男に寄ってたかって蹴りつけられている者もいる。あるいは首をロープで縛られて吊るし上げられ、今まさに絶命しようとしている者もいる。


『酷い』、とケイは思った。しかし、ケイも数十人もの命を奪い去ったばかりだ。理性的に、『酷い』とは思ったが、心は固まったまま動かなかった。ただ淡々とそんな感想を抱いただけで終わった。


「…………」


 しかしふと隣を見ると、アイリーンが悲しそうな顔をしていた。


 これが正常なのだ、という思いが去来し、ケイは強張った顔からどこかぼんやりとしたような表情になった。そのまま地面に視線を這わせたケイは、血塗れの死体に目を留める。


 若い女の死体だった。


 顔に刻まれた黒い刺青、痩せ細った身体、両手首を拘束する鎖――草原の民の、奴隷の女だった。どうやら彼女は、襲撃に巻き込まれたというよりも、戦いの果てに死んだらしい。その瞳は空を睨み、苦しげな表情のまま大の字で地に横たわっていた。死因はおそらく失血死。胴体をばっさりと斬り裂かれ、内臓がソーセージのように溢れ出ている。右手の近くには、血塗れの短剣が転がっていた。そしてその傍には、彼女を手酷く扱っていた小太りの商人も倒れている。


 当然、と言うべきか、彼も息絶えていた。丁寧な造りのクロスボウを抱きかかえ、地面に蹲るようにして、動かない。首の辺りの刺し傷を見るに、背後からの一撃で絶命して馬車から転がり落ちたか。


 馬賊の襲撃。それに乗じ、奴隷の女も隙を見て戦いに加わったのだろう。彼女が誰を相手取って戦ったか――想像するまでもない。復讐すべき相手に手を下した。要約してしまえばそんなところだろうか。


 人の生き死にが、呆気なくまとめられてしまうことに、その状況に、虚しさのようなものを感じずにはいられなかった。


 溜息をついて空を見上げると、雨雲は散り散りになり青空が見えている。少し、視野が広がったような感覚があり、ケイは改めて周囲を見回してみた。怪我人の手当てやリンチは相変わらずだが、疲れ果てたように地面に座り込み、ぼんやりと生の実感を噛み締めている隊商の面々の存在にも気付いた。


 彼らの多くは年若い商人見習いたちで、武器を握り締めたまま地面に視線を落とし、腰を抜かしてしまったかのように座り込んだまま動かない。その他は――隊商の戦士や、商人たちだ。彼らの多くと、妙に目が合う。目が合うとすぐに向こうが視線を逸らしてしまうが。何故か、と考えて、思い当たったのは、『恐れ』、あるいは『畏怖』。そういった感情が、彼らの瞳の中にちらついていることを見て取った。


 あるいは、単騎で馬賊に大打撃を与えた、ケイの馬上弓に怯えているのだろう。味方でいる分には頼もしいが――と。勿論、ケイは無闇に周囲の人々を傷つけるようなことはしない。しかしケイの見かけ――草原の民に比較的近いアジア人の風貌――や、自分たちがこれまで取ってきた、お世辞にも愛想の良いとは言えない態度を鑑みて、彼らが何を思っているのかは想像に任せるほかない。


(……面倒だな)


 恐れられるのも、敬遠されるのも、今のケイにはどうでもよいことだった。ただ、疎んじられるような、それでいて全身に纏わりつく視線は鬱陶しかった。脳の中心が痺れているようで、深く考えを巡らせるのが酷く億劫に感じられる。


「……疲れた」


 ぽつりと、ケイは地平の彼方を見て呟いた。はっ、と顔を上げて、心配げな表情になったのは隣のアイリーンだ。ケイはそんなアイリーンに気付くことなく、気にかける余裕もなく、ただぼんやりと遠くを眺めていた。


「……ん」


 と、ひとりささくれた余韻に浸っていたところで、周囲が騒がしくなってきたことに気付く。


 見れば、木立の方から、槍を構えた騎兵と戦士たちに追い立てられるようにして、とぼとぼと歩いてくる集団がある。


 ぼろぼろの衣服をまとった、吹けば飛んでしまいそうな、頼りない三十人ほどの集団。よく見るまでもなく、その全員が若い女と子供だった。ぎらりと輝く槍の穂先に怯えるように身を寄せあって両手を挙げ、ゆっくりとこちらに近づいてくる。


「あれは……」


 アイリーンが、慄くように呟いた。


『それで、全部か』


 馬車の上で、メモ帳と睨み合いながら被害を確認していた隊商の長ゲーンリフが、集団を統率する護衛戦士の一人に問いかける。


『ああ。あっちの木立にはもう残っちゃいねえよ……生きてるヤツはな』


 ゲーンリフに問われた戦士は、血塗れの槍で木立の方を示し皮肉な笑みを浮かべる。


『そうか。……こいつらは、奴隷か?』


 表情を変えることなく頷いたゲーンリフが、羽根ペンを片手に、女子供の集団へ品定めするような目を向ける。悲しみも憎しみも全て飲み込んだ、合理的な商人の顔。


『うーむ……全員、首輪やら鎖やらを外した痕が残ってる。ま、十中八九奴隷だわな。馬賊の奴らに"解放"されたんだろうよ』

『ふむ……そうか。賊の所有物は、"賊を討伐した者"にその所有権が移るからな。他に何かあったか?』

『いんや、特に何も……食糧と馬の飼料くらいのもんか。あとは馬が何頭か……金目の物はほとんど残っちゃいなかったよ』

『ほう……』


 肩をすくめて答える戦士に、ゲーンリフは目を細めた。『ほとんど残ってなかった』という表現に引っかかるものを覚えたのだが――


『――まあいい、あとで食糧と飼料は回収するとしよう。馬もなるたけ連れて行きたいところだな』

『おう、そうだな』


 少々悪い顔で、調子よく頷く戦士。これだけの戦闘の後なので、多少の目溢しはいいだろう、というゲーンリフの判断だった。彼らは直接木立に乗り込んで、残る戦闘員を制圧し、捕虜を連行してきたのだ。多少の――つまり個人単位の――貴金属を奪い取る程度の役得はあっても罰は当たるまい。


 そう結論を出したところで、さて、とゲーンリフは捕虜の一団に向かい直る。その氷のような無感情な視線に晒されて、女子供たちは一層怯えたように身を寄せ合った。


『……まあ、多少痩せてはいるが、売り払えばそれなりの値はつくだろうな』

『殺さないんだな?』

『馬賊は壊滅。移送のリスクも減ったことだし、売らない手はない』

『一人も殺さない?』


 ニヤリと笑って重ねて問う護衛の戦士に、その意図を察したゲーンリフは、若干渋い顔で小さく溜息をついた。


『……まあ、二人程度ならば見逃そう。ただし歩ける程度の体力は残しておけよ』

『はっはァ! さっすが隊長、話がわかる』


 ゲーンリフの許可を受け――捕虜を取り囲む護衛戦士たちの眼の色が変わる。それを敏感に察した草原の民の若い女たちが、ヒッと息を呑んだ。


『……ああ、そうだ。それと、そいつらの扱いだが』


 捕虜の一団を見回し、年若い男――少年と青年の境目とでも呼ぶべき年代の層もいることを見て取ったゲーンリフは、思い出したように付け足す。


『将来、また再び何かの拍子に反乱でも起こされたら堪らん。二度と弓が引けんよう、全員の人差し指と中指を落としておけ』


 その言葉に――アイリーンは、信じられないようなものを見るような目でゲーンリフを凝視し、ざぁっと顔から血の気を引かせた。その隣で、雪原の民の言語ロスキの応酬をただ傍観することしかできなかったケイは、アイリーンの顔色の変化に只ならぬ雰囲気を察する。


 しかしそんな二人を他所に、ゲーンリフたちの会話は続く。


『ん、女もか?』

『全員、と言ったぞ。……馬賊の中には、女の弓騎兵も居たからな。油断ならん』


 何やら騒がしく男たちの声が聴こえる、後方の馬車の陰を見やってゲーンリフは鼻を鳴らした。生きて捕らえられた馬賊はそれぞれ私刑を受けていたが、捕らえられた馬賊の中には女もいたのだ。


 聞くところによれば、捕らえられるまで、女と舐めてかかった戦士が何人も重軽傷を負う羽目になったらしい。今はその報いとして数人がかりで嬲られているようだ。草原の民は騎射の腕が当たり前のように良いので、たとえ女でも油断できない、とゲーンリフは考えるようになっていた。


『ん、まあ隊長がそう言うならおれは構わんがね。値段が下がるんじゃないか?』

『そう思わんでもないがな、元よりそれほど高値では売れん。売り払った先で、不穏なことを考える奴隷たちへの良い見せしめになるだろうよ』


 答えるゲーンリフはあくまでも冷淡だ。あるいは彼も、殊更表情に出すことはしないが、今回の襲撃は相当腹に据えかねているのかも知れなかった。彼の馬車の周囲にも、見習いの少年たちの死体が転がっているのだから。


『ふーん、ならそういうことで。おーい、誰か手斧持って来い、鋏でもいいぞー』


 男が呼びかけると、すぐさま手頃なサイズの斧が見繕われ、台となる木の箱やまな板のようなものまでもが用意され始める。


 アイリーンはそれを前に――口元に手をやって、目を見開き、ただガタガタと震えることしかできなかった。


「アイリーン? 大丈夫か?」


 不穏な空気は察しつつも、状況を理解できていないケイは、アイリーンの肩を抱いて心配げに声をかける。


 しかし、そうして傍観するうちに、ことが始まり、アイリーンが震えるわけを否が応でも理解する羽目になった。


 まだ年若い、刺青も入れられていないようなあどけない顔立ちの少年が引きずり出され、男たちに手を押さえつけられたかと思うと――


 とんっ、とんっ、と。


 まるで料理でもしているかのような、軽い音。


 それを少年の絶叫が塗り潰し、ぬかるんだ地面にぽろぽろと指が転がった。それを見た子供たちが一斉に泣き出し、かばうようにして彼らを抱き締めようとした女が、護衛の戦士に軽々と担がれて連れて行かれる。


「――ッ! ――ッ!」


 暴れて戦士の腕からどうにか脱そうとする女だったが、容赦なく顔を数発殴られて黙らされる。


『おおっと、暴れるなよ。間違えて別の指まで落としちまう』


 そうしている間にも、少年はもう片方の手を掴まれて、同様に人差し指と中指を斧で切り落とされていた。


「……行こう」


 流石に、ケイも見ていられなかった。マントの裏側で無意識のうちに手を握ったり開いたりしながら、アイリーンの肩を抱きその場を離れる。俯くアイリーンはされるがまま、ふらふらとした足取りで歩き始めた。


 もう、うんざりだった。


 ゲーンリフたちの会話が理解できなかったので、『アレ』がどのような意図に基づくものかは予想するしかないが、ただひとつ、ろくでもないことなのは確かだった。ケイ自身、数十人もの命を奪った手前、今更綺麗事を言うつもりはないが、それでも幼い子供が苦痛と恐怖で泣き叫ぶのを目の当たりにするのは、耐えようもなく不快だった。


 クソ食らえ、と日本語で呟く。鳥でも捌くかの如く無造作にむごい仕打ちを加えたゲーンリフたちに。何もせず、見なかったことにしようとする自分自身に。そしてそれら全てを強いるこの状況そのものに。



 今はただ、アイリーンを苦しめるものから、一刻も早く遠ざかりたい。


 ただそんな気持ちを胸に、足を動かす。


 気がつけばケイは、なんとはなしに、公国の薬商人――ランダールの馬車の前までやってきていた。



「はい、はい、急がなくてもいいぞー。まだあるからなー、色々と」


 奇妙なことに、ランダールの馬車の周囲には人だかりができている。見れば、愛想笑いを浮かべたランダールが、隊商の面々に薬を配っていた。


 隊商の馬車列に対し火矢が使われたのはケイも見ていたが、どうやらランダールの馬車はほとんど無事なようだ。ほとんど、というのは、幌が支柱ごとなくなっているので完全に無傷とは言えないことを指す。荷台が剥き出しになったままでは、次の街に着くまでに雨が降ったとき大変なことになるだろうな、とケイは他人事のように思った。


「……随分と人気だな」

「おおっ、ケイ! 大活躍だったな、遠目からだが見てたぞ!」


 ケイが声をかけると、ランダールは疲れたような笑みを浮かべて答える。押し合いへし合いする隊商の面々をなだめ、額の汗を拭って一息ついたランダールは、傍らの水筒から喉を鳴らして水を飲んでいた。


 それを見て、ケイも突然、猛烈な喉の渇きを自覚する。考えてみれば当然のことだ、朝に村を出てからずっと斥候の任についており、それから今に至るまで全力で戦っていたのだから。


「俺も水をもらっていいか。喉がからからだ」

「おう、好きなだけ飲め英雄! こっちに上がってこいよ、それとついでと言っちゃなんだが、薬を配るのを手伝ってくれないか。おれ一人じゃなかなか手が回らなくてな」


 ランダールの馬車には金属製の瓶が備え付けられており、数人分の飲料水でたっぷりと満たされている。未だ呆然としたままのアイリーンを伴い馬車へと上がったケイは、再び薬を配り始めるランダールを尻目に、瓶の水をカップにすくって思う存分に喉の渇きを癒やした。


「それにしても、大盤振る舞いだな。非常時とはいえ薬を配るなんて……」


 際限なく、怪我薬や消毒剤、解熱剤などを求めてくる隊商の面々と、それに応えるランダールを見ながら、ケイは思わず呟く。


「いや、だってよ……」


 それを耳にして、ランダールは渋い顔だ。ケイの耳元に口を寄せ、他には聞こえないような小さな声で、


「この状況で出し渋ってみろ。……殺されて奪い取られるよりはマシだろ、おれなんてしがない公国出の商人で、ただでさえ後ろ盾がないんだからよ……」

「……成る程」


 馬車の周囲で必死に薬を求める面々を見やり、ケイは納得して頷いた。確かに、ここで薬を出し渋ればタダでは済まされないだろう。命があればまだ良い方で、最悪、罪を全て馬賊にかぶせた上で身包みを剥がされ、闇に葬り去られる可能性すらある。


「一応、保険はかけてあるんだけどな。流石に全部は補填できないだろうし、何より目的地のベルヤンスクについても売る品物がねえ……おれは一文無しになっちまう……」


 トホホ、といった様子で肩を落とすランダール。「まあ、まあ」とケイは慰めるようにその背中を叩いたが、何となく、ランダールから切羽詰まった雰囲気が感じられなかったので、それほど熱のこもった励ましの言葉は出てこなかった。


 それにしても、と水で喉を潤しながら、ケイは改めて周囲の面々を観察する。仲間のために、あるいは友人のために、皆が血走った目で薬を求めている――その鬼気迫る雰囲気は、確かに尋常ではない。おそらく予断を許さない状況下にある怪我人も多いのだろう。


 いつまでものんびりはしていられない、と思ったケイは、ランダールの指示の下、薬を手渡す作業を手伝い始めた。少し遅れて復帰したアイリーンも、のろのろとした動きではあるが、それに加勢する。


 しばらく、無料での大盤振る舞いが続いた。しかしどれほど手伝っただろうか、薬が残り少なくなってきたところで、見知った顔が現れる。


 周囲を取り囲む人々を押し退けるようにして、強引に馬車に近づいてくる男。順番は守れ、とケイは口を開きかけたが、やめた。


 男は、先ほど共に戦った重装騎兵三人組の一人だった。相変わらず板金仕込みの鎧を身につけたままで、武装は解除していない。付着した返り血すら拭き取らず――その表情は、ケイが初めて見るような厳しいものだった。いつも仲良し三人組でつるんでいる彼は、戦闘時においてすら、何処か余裕のある笑みを崩していなかったと記憶しているのだが――


 少なくとも、彼の目的は薬ではないようだった


 真っ直ぐに、真摯な瞳がケイを見据える。


「ケイ。……ピョートルが、呼んでル」


 短い、片言の公国語。



 たったそれだけの、言葉が。



 ケイにはどうしようもなく、不吉な響きを孕んでいるように聞こえたのだった。




          †††




「やあ、ケイ」


 まるで散歩の途中、道端でたまたま出くわしたかのような気軽さで、ピョートルは声をかけてきた。


「……、……」


 ケイは、口を開いたが、言葉が出てこない。ただ、立ち尽くした。


 ピョートルの顔は真っ青だ。


 そしてそれに反比例するように、腹に巻かれた包帯が、鮮烈な赤に染まっている。


 隊商の後列、大型テントの布を用いて負傷者がひとまとめに寝かされた場所。そこは今、まさに野戦病院のような様相を呈していた。ランダールから提供された質の良い医薬品を手に、医療知識のある戦士や商人が怪我人たちの間を飛び回っている。皆に手足を押さえつけられ、傷口を縫合されている男がこの世の終わりが訪れたような顔で泣き叫び、逆にある程度の治療を施された者は疲れ果てたのか、死んだようにこんこんと眠り込んでいる。


 それ以外にも、――手遅れだったのだろう、顔に布を被せられ、安置されている者もいた。そんな彼らの中で、ピョートルは、比較的静かに過ごしているようだ。


 ――つまり。


 助かる見込みはない、と。


 もう治療は意味がない、と、見放されているのだ。


 その証拠に、ピョートルに施された手当ては、どうやら簡単な消毒と、包帯をキツく巻きつけるだけの止血のみのようだった。実際、人体解剖学について造詣の深いケイから見ても、ピョートルは生きているのが不思議なほどの傷を負っていた。脇腹を深く抉るような一撃。おそらくは槍やそれに類する刺突武器によって、鎧の隙間を突かれたのだろう。


 どう見ても、致命傷だった。


「少し……無茶をした。最善を尽くそうと、した。しすぎた」


 ところどころ、言葉に詰まりながらも、しかしピョートルは場違いなほどに穏やかな表情を浮かべていた。それ以上、立っていられなかったケイは、かくんと膝を折って、ピョートルの傍らに力なく座り込む。


 呆然とするケイに、寝転がるピョートルは儚く笑いかけた。


「……そんな顔をするな。ケイ」

「いや、だが、ピョートル……」


 どうして、こんな、と。ピョートルは、直接手合わせして力量を確かめたわけではないが、それでもかなりの使い手だと、ケイは勝手に思っていた。確かに馬賊の数は脅威的だったが、完全武装のピョートルが、そう易々と遅れを取るとも思えない――


「ピョートルは、」


 アイリーンが、震える声で口を開いた。


「オレが、ケイを助けに行ったとき……一人で、追手を……」


 その言葉は尻すぼみになってしまったが、それだけでケイは全てを理解した。


「……すまない。すまない、ピョートル」

「……いいんだ。……謝るな、わたしが……やりたい、ことだった」


 声を絞り出すようなケイに、微かに首を振ってピョートルは答える。


 満足気だった。どこまでも、自分勝手に。清々しいまでに。


「…………」


 ピョートルの手を握り締めたケイは、その腹部の傷口に視線を落とし、下唇を血が滲み出るほど強く噛み締めた。


 致命傷、ではある。それは確かだ。


 しかしケイには――何とかする手段が、残されている。



 ――高等魔法薬ハイポーション



 命に関わるような怪我でもたちどころに回復させてしまう、文字通り魔法の薬があるのだ。残り数少ないとはいえ、ケイのポーチやアイリーンの懐に、しっかりと収まっている。


 それを使えば、助けられる。


 しかし――


(ポーションは……生命線だ)


 今回の戦いもそうだが、『こちら』の世界に来て以来、何度その奇跡に命を救われたかわからない。


 アイリーンが毒矢を受けたときも、盗賊との戦いでケイが負傷したときも。


 ポーションがなければ、確実に死んでいた。


 故に、ケイは自分たちの所有物の中で、ポーションの優先順位を『最高位』に設定している。"竜鱗通し"と手持ちのポーション、どちらかを選べと言われれば、迷いなくポーションを選び取るほどに。


 "竜鱗通し"は、なくなっても普通の弓である程度代用できる。しかし、ポーションに代わるものはない。それがわかっているだけに、どうしても必要に迫られなければ使うことさえなかった。そうであるが故に、たとえタアフ村の呪い師の老婆アンカに、赤子を救うためと理由をつけて懇願されても、譲渡することはなかったのだ。


 冷静になれ、と。


 自分の中で、声がする。聞き慣れた声だ。


 それは、『乃川のがわ圭一けいいち』の声。ケイの中で、生きることに執着し続け、これまで共に半生を歩んできた、ケイ自身の声。


 その声が告げている。たかだか出会って数日程度の男に、貴重な霊薬を使ってしまうのはあまりに勿体ない、と。それよりも万が一のときのために、温存しておくべきだ、と。


 合理的に考えれば、その通りであるに違いない。かつて、タアフ村でアンカを見放したときのように、今このときもまた、見て見ぬふりをすればいい。


 また、それ以外にも一つ、大きな問題がある。仮にここでポーションを使い、ピョートルを回復させたとしよう。そうすれば、周りの皆はどのように反応するだろうか。


 ケイは、おもむろに周囲を見回した。既に事切れている者たちを除いて、ピョートルは最も重篤な怪我人だったが、他にも危険な状態の者は沢山いる。


 そんな彼らに。あるいは、彼らの友人に。


 ――ポーションの存在が知られれば、どうなるか。


 思い出すのは、先ほどのランダールの言葉だ。


『この状況で出し渋ってみろ――』


 命があれば、運の良い方だ。普通の医薬品ですら、皆が血相を変えて殺到する有様だった。ましてやそれが、どんな怪我でも一瞬で治してしまう霊薬ともなれば。


 何が起きるかなど――想像に難くない。


 もし、隊商の皆にポーションを明け渡すのを拒否するならば、必然的にここにはもう居られなくなるだろう。戦うか、逃げるか――ここで殺し合いに発展するのは流石に本末転倒なので、ケイとしては逃げの一手を打ちたいところだが、そこにも問題がある。


 今ここで隊商から離脱して、無事に目的地のシャリトの村に辿り着けるのか。


 ブラーチヤ街道周辺の地図は持っているが、土地勘はなく、地図の情報も古いため現在でも使える水場があるか不明瞭だ。仮に隊商から離脱するならば、見知らぬ土地で水不足や物資不足に怯えながら、独力で北の大地を横断する羽目になる。


 果たして、――それは可能なのか。


 そのリスクの大きさに、慄く。今回の隊商護衛の旅の直前に、エゴール街道で辛酸を嘗めさせられているだけに、尚更のこと。


 ポーションも大切だが、道に迷えば、あるいは野営の設営場所の選定に失敗すれば、命の危険も出てくる。それこそ、本末転倒ではないのか。ポーションを奪われないために集団を離れ、逆に窮地に陥るようでは――


「……ケイ」


 そっと。


 アイリーンが、ケイの肩に手を載せた。


「…………」


 片手をアイリーンの手に重ねて、ケイは考える。


 アイリーンは、どう思うのかを。


(……いや)


 思わず、ほろ苦い笑みが口の端にこぼれた。


 考えるまでもないことだ。


 仮にここでポーションが一つ減り、将来窮地に陥ることがあったとしても。


 アイリーンはむしろ、この選択を誇るだろう。


 仮にここで隊商を離脱することになり、苦難の旅が始まることになったとしても。


 アイリーンは、この選択を後悔しないだろう。


 それが、考えるまでもなくわかる。


 そして――それは、ケイのくすんだ心に澄んだ風を吹き込み、ケイには眩しすぎるほどの、あたたかな希望の光を灯した。


 合理的ではない。惜しい。取り返しがつかない。


 考えれば、その通りだ。きっとそうなのだろう。


 だが――


 思い出す。脳裏をよぎる。ここ数日の短い旅路が。ピョートルとともに過ごした思い出が、目まぐるしく移り変わっては、消えていく。


 儚くも切ない。そんな想いとともに。



 ケイは、決断した。



「……アイリーン、」



 顔を上げる。透き通るような、蒼い瞳と正面から視線がぶつかった。


 悲しむような、ケイを案じるような。それでいて何かを、期待するような。


 アイリーンのまっすぐな瞳を見つめ返しながら、ケイは口を開く。



「……荷物の用意を、頼めるか」



 真剣な表情のケイの問いに。



 ――アイリーンは、花開くような、心底嬉しそうな微笑みを浮かべた。



「うん。……任せろ、すぐに用意してくる」


 力強く頷き、するりと人ごみをすり抜けて、ランダールの馬車の方へと駆けていく。


 ――たったこれだけで、全てが通じた。


 アイリーンもやはり、同じことを考えていたのだ。


 そのことが無性に嬉しく――ケイは、アイリーンと同じ考えに至った自分が少しだけ誇らしくも感じた。


「ピョートル」

「……なんだ?」

「ありがとう。ピョートルのお陰で、色々と助けられた」


 両手をピョートルの手にしっかりと重ね合わせ、目を見て言葉を紡ぐ。


「――良くしてくれて、ありがとう。色々と教えてくれて、ありがとう。本当に楽しかった。短い間だったが、ピョートルと出会えて本当に良かった」


 ゆっくりと、噛み締めるように。そして公国語が不自由なピョートルにも、自身の気持ちが十全に伝わるように。ケイは平易な言葉で、しかし万感の想いを込めて、言う。


 一瞬、きょとんとしたピョートルは、それでも、ケイの手を握り返しながら朗らかに笑った。


「わたしもだ。ケイと会えて良かった。そして、楽しかった。一緒にいられて、斥候の仕事をできて、良かった……ありがとう、ケイ。ありがとう……わたしも、きみと出会えて、本当に良かった……」


 そこまで告げてから、ピョートルは眠たげに、目を瞬いた。


「少し……疲れた。眠くなってきた……」


 青褪めていながらも、穏やかだった表情に、陰りが差す。


 今まで数十人となく命を奪い去ってきたケイは、本能的に、ピョートルに忍び寄りつつある濃厚な死の気配を、確かに感じ取った。


(……あまり時間に余裕がない)


 ――明らかに、死に喚ばれている。治療は一刻を争うだろう。ポーチの中のポーションを強く意識しつつ、ケイはぺろりと唇を舐めた。



 どうするべきか。



『ピョートル……』

『嘘だ、こんなこと……』

『また一緒に、美味い酒を飲もうって……約束したじゃねえかよぉ』


 あるいは、そろそろ危ないと聞きつけたのか、周囲にはピョートルとの別れを惜しむ人が続々と集まりつつあった。皆、涙を堪えながらも寄ってきては、口々に何事かを話しかけている。ピョートルは段々と意識が薄れてきているのか、寝ぼけたような口調で彼らに答えていた。隊商内におけるピョートルの人望が窺い知れる一幕だが、しかし、今のケイには少々都合が悪い。


(どうにかして、ポーションを飲ませたいんだが……)


 傷口に直接かける手は、使わない。経口摂取とは比べ物にならない即効性があるが、やはり治癒の苦痛が尋常ではないし、何よりピョートルは傷口を包帯でギリギリ巻きにすることで辛うじて止血している状態だ。下手に包帯を外すと再び血が噴き出して、失血死してしまう可能性もある。自分で試してみてわかったが、経口摂取でも充分に傷を癒やし、体力を回復させることは可能だ。一瓶分のポーションを飲ませられれば問題なく快癒するだろう、というのがケイの見立てだった。


 だが現状、ピョートルは十数名を超える仲間に取り囲まれており、密かにポーションを飲ませることなどできそうになかった。終いには、話を聞きつけてゲーンリフまでもが様子を見に来る始末だ。


(……どうする)


 この場にいる全員にバレずに、ピョートルにポーションを飲ませる方法。


 あるいは――この場にいる全員に、ポーションの存在を悟らせない方法。


 考えを巡らせ、一つの手を思いつく。


 あれやこれやと勘案した結果、最終的にそれしかないという結論に至った。


「……今、助ける」


 小さな声で呟き。今一度ピョートルの手をギュッと握ったケイは、おもむろに立ち上がって周りを取り囲む人の輪を抜けた。


 そして、近くの馬車の陰。皆がピョートルに注目しており、誰にも見られていないことをよく確認してから、ポーチからポーションの瓶を取り出し中身をあおる。


 口の中、しゅわしゅわとしたポーション独特の微炭酸のような刺激を感じながら、覚悟を決めたケイは再び人混みに割って入った。


 ピョートルの傍で跪いたケイは、覆いかぶさるようにして――



「「「えっ」」」



 その場の全員が、困惑の声を上げた。


 突然、それも無言のまま、ケイが自らの口でピョートルの唇を塞いだからだ。


 凍りついたような空気を感じながらも、ケイは口移しでピョートルにポーションを飲ませていった。半ば意識を失いつつあったピョートルは、ほぼ無意識で、コクコクと命の雫を飲み干していく。


「……ぷはっ」


 時間にして数十秒は経っただろうか。ポーション一瓶分を、ケイは周囲の誰にも悟らせることなく、ピョートルに飲ませることに成功した。見れば青褪めていたピョートルの頬にうっすらと赤みが差し、少し苦しげだった呼吸も安定しているようだ。おそらく、腹の傷も修復が進んでいることだろう、とケイは満足気に笑う。完治するのにポーションが足りているかは分からないが、少なくともこれで死の危険はなくなったはずだ。痛みがなくなり、体力の消耗と疲労がピークに達したためか、ピョートルは微睡みに誘われるようにして規則正しい寝息を立て始めた。


「……今、何をした?」


 公国語で、困惑したままのゲーンリフが尋ねてくる。それは、この場にいる全員の総意だったことだろう。傍から見れば、ケイが突然濃厚な口づけをお見舞いし、それでピョートルが劇的な回復を遂げたようにしか見えなかったのだ。


「…………」


 ケイは何も答えずに立ち上がり、ピゥッと指笛を吹き鳴らした。


 ブルルッ、と楽しげにいななきながら、サスケが駆けてくる。再び強引に人の輪を抜けたケイは、"竜鱗通し"を片手にサスケへ飛び乗った。


 アイリーンは、この短時間でしっかりと出立の用意をしてくれていたらしい。ランダールの馬車に積ませてもらっていた予備の矢がしっかりと補充されており、サスケの負担にならない程度に夜営の道具などが鞍に括りつけられている。


 サスケから少し遅れて、荷物を背負ったスズカに跨がりアイリーンも駆けてくる。スズカもまたフル装備だ。準備万端、いつでも出発できる。


 ケイとアイリーン、そしてその乗騎の姿に、只事ではないと察した隊商の面々がざわついた。


「……ゲーンリフ殿。悪いが、俺たちはここで離脱させてもらう」

「何ッ!?」


 ケイの思いもよらぬ言葉に、ゲーンリフは驚いた。と、同時に焦った。たった今、ピョートルを一瞬で回復させた奇跡の業について、聞きたいことが山ほどあったからだ。


「まっ、待って欲しい! 今のは、ケイ、いやケイ殿が今なされたのは、一体……!」

「元々、隊商に加えてもらうのは、馬賊から身を守るためだった。しかしこうして馬賊は壊滅させたし、もう同行する必要を感じないんだ。俺たちは、先を急ぐんでな」

『……まあ、そういうことね。悪いけど、先に行かせてもらうわよ』


 慌てるゲーンリフをよそにケイは淡々と告げ、アイリーンが肩をすくめながら母国語で今一度告げる。


 きょろきょろと忙しなく視線を彷徨わせたゲーンリフは、必死に次の言葉を考えているようだった。


「今、ピョートルに使った御業は、まだ使えるのだろうか!?」

「いや、もう使えない。一度きりだ」


 前のめりになったゲーンリフの問いに、ケイは素っ気なく、そして淡々と答えた。元より隠すつもりもそれほどなかったため、ゲーンリフはそれが嘘だと一瞬で見抜く。どの辺が嘘かは分からないが、少なくとも本当のことは言っていないと、看破した。


「……恥を忍んでお願い申し上げる! 隊商には、まだ重傷者が沢山いるのだ! どうか彼らの怪我も見てやっては頂けないものか!」

「だから、無理だ。すまないな。失礼させてもらう」

『馬賊の報奨金は、そっちで好きにしておいて。私たちは途中で抜けさせて貰うけど、迷惑料はその分でチャラってことで』 


 あくまで素っ気ないケイ、畳み掛けるように話をまとめようとするアイリーン。それぞれの乗騎の腹をぽんと足で蹴り、ゆっくりと駆け始める。


「まっ、待って……待ってくれ!」


 ゲーンリフは一瞬躊躇ってから、


『行かせるな! どうにかして止めるんだ!』


 護衛戦士の騎兵に命じようとしたが、その足元にビシュッと鋭い音を立てて、白羽の矢が突き立った。


 ケイだ。


「言ったはずだ。今のが最初で最後。俺はもう『あれ』は使えない……これ以上追ってくるのならば、それ相応の・・・・・対応をさせてもらう!」


 矢をつがえた"竜鱗通し"をこれ見よがしに見せつけながら、ケイは叫んだ。それをすかさずアイリーンが雪原の民の言葉に翻訳して叫び、ケイの正確無比な騎射の腕と、"竜鱗通し"の化け物じみた威力を思い出した騎兵たちは、ゲーンリフの命令に従う気を一瞬で喪失した。


 もはや誰にも邪魔されずに、平野を駆け始める。


 揺れる馬上で、ケイは振り返った。呆気に取られたように立ち尽くす隊商の面々、そして彼らに囲まれた中心で、穏やかに寝息を立てるピョートル。



 このような別れ方になってしまったからには、もう会えるかどうかはわからない。



「……さようなら」



 一抹の寂しさを感じながら。



 別れの言葉を風に乗せたケイは、ピョートルの姿を目に焼き付けながら、微笑んだ。



 前方に向き直る。



 そして、二人は北東へと突き進み、



 やがてその姿は、隊商からは見えない、地平の果てへと消えていった。




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