47. 反撃


【 ――Siv.】


 一言、その名を喚ぶと、風が応えた。


 大気の鳴動。湿り気を帯びた雨の残り香。


 淀んでいた空気が、動き出す。


 ぬかるんだ大地に膝を突き、泥と血に塗れたケイを慰撫するように、清浄な風が吹き抜けた。


 くすくすくす、と微かに響く笑い声。


 あどけなく、それでいて不釣り合いなまでに妖艶な。


 風が渦を巻く。足元の水たまりがさざなみを立て、映り込んだ空が、何かを待ちわびるようにうち震えた。


 自身の内面、奥深くに、魔力の励起を感じ取る。


 振り仰げば、灰色の雨雲が散り散りに浮かぶ、まだら模様の蒼い空。


 その澄んだ水色の世界に、ひとりの乙女を幻視する。


 羽衣をまとい、艶やかに笑う風の精霊の姿を――


「――――」


 ケイもまた、微かに笑みを浮かべ、前方の木立へと視線を転じた。


 薄闇の奥にちらつく赤い光。


 全身を苛む疼痛――魔術師の邪眼がケイの身を焦がす。


 放置すれば死に至る、邪悪な呪いだ。


 が、現時点ではケイに残された唯一の反撃の導でもある。


(自分はここに居るぞ、と喧伝しているようなものだ)


 視線を媒介し、呪いデバフと死を撒き散らす告死鳥プラーグの邪眼。それは万能のように思えるが、術を受ける者はその瞳の輝きを赤い光として知覚できる――つまり術者の居場所が露見する。


 これがただの戦士であれば、敵の位置がわかったところで、手も足も出ないだろう。普通に弓を射たり石を投げたりして撃退できる距離ではない。


 だが、魔術の使い手であれば話が別だ。


 この光の存在により――敵を定義することができる。


 少しでも呪いを軽減するために、壁のように掲げたマントの裏側で、ケイは胸元から護符タリスマンを引き抜いた。


【 Siv. Mi dedicas al vi tiun katalizilo.】


 魔除けの文言が刻まれた銀の円盤に、そっと口付ける。


【 Vi vidos la ligno. Ruĝa lumo, mi difinis kiel malamikon.】


 パキンッ、と音を立ててタリスマンがひび割れ、砕け、風に散って消えていく。


【 Mia pafaĵo estos gvidita de la vento. Ĝi mortigos la malamiko.】


 矢筒から矢を引き抜き、"竜鱗通し"につがえる。ふわりと、風が首筋を撫でる感触があった。周囲に満ちていた無音のざわめきが収束し、空気がぴんと張り詰める。


 準備は整った。後は――


「――アイリーン」


 視線を横にずらせば、地を這うように低い姿勢で疾駆するアイリーンの姿。


 ケイに負けず劣らず、泥と血で汚れた姿だ。白磁のように滑らかな肌も、輝かんばかりの金髪も、今やくすんでしまっている。そしてその後ろには、ぱっかぱっかと蹄の音を響かせながら、「僕に乗りなよ!」という顔で追随するサスケの姿もあった。邪眼の脅威を知らないサスケは親切心からアイリーンを追いかけているようだ。邪眼を受ければ転倒・落馬の危険性があると承知しているアイリーンは、自力で走り続けているが。


 そう――敵の魔術師の注意を引き付けるための陽動。一瞬、ほんの一瞬でいい、視線が外れて呪いデバフから解放されれば、ケイは本来の筋力で"竜鱗通し"を引ける。


 弱体化した現状の腕力でも引ける、馬賊の複合弓を使うことも考えたが、木立までの距離を考えると今ひとつ威力が足りない。敵の魔術師を確実に仕留めるならば、やはり"竜鱗通し"を頼りたかった。


 また、このままアイリーンが殴り込みをかけ、直接魔術師の息の根を止めるという手もあるが、木立の中にまだ伏兵がいる可能性を考えるとリスクが高く、そんな危険な目には遭って欲しくなかった。


 とりわけ、彼女アイリーンには。


 ――この手で、仕留める。


 ケイは祈るような気持ちで、少女の背中を目で追う。


Урааааааааウラアアアアアアアア!!!!」


 そんなケイをよそに、馬賊と雪原の民の戦いは激化していた。


 隊商からケイの援護にやってきた戦士たち、重装騎兵の三人組が雄叫びを上げ、馬賊と正面から激突する。勢いの乗った重装騎兵の突撃チャージを受け、回避しそこねた馬賊が馬上から吹き飛ばされた。


 ケイの活躍で大きく数を減じたとはいえ、ここに残る馬賊はまだ二十騎近い。多勢に無勢の現状だが、重装騎兵三騎は健闘していた。


 いや、むしろ現時点では圧倒していると言ってもいい。


 軽装弓騎兵の馬賊たちは、重装騎兵の突撃を止める術を持たないのだ。雪原の民、隊商護衛の戦士たち。乗騎の全身を鱗鎧スケイルメイルで守り、自身も鎧と盾で防御している。馬賊たちの複合弓ではなかなか有効打を与えられず、距離を取れば矢は弾かれ、威力を補うため接射を試みれば馬上槍の餌食となって散っていく。


 結果、程よい交戦距離を保とうと走り回る馬賊と、それを追い立てる重装騎兵という構図が出来上がる。


 無論、いつまでもこの状況が続くわけではない。時間は馬賊の味方だった。このまま疾走を続ければ、重装の字の如く、装備に圧迫された騎馬が早々に息切れを起こすだろう。そうなれば数の多い馬賊が有利。突撃チャージの勢いを失ってしまえば、重装騎兵など鈍亀に過ぎないのだから。


 それを、この場の全員がわかっていた。故に、一時的に圧倒している重装騎兵三人組は徐々に焦りの色を濃くし、逆に軽快な機動力を活かしてのらりくらりと突撃を躱す馬賊たちは、どこか余裕のある様子を見せている。


 ただ、その条理から逸脱した存在が――数の差をひっくり返し、この状況を打開できるだけの切り札ジョーカーが、ここにあった。


 ケイだ。


 魔術師の呪いから脱し、本来の異常な攻撃力ドラゴンスティンガー機動力サスケを取り戻せば、残る馬賊など瞬く間に殲滅できる。


 殲滅してしまう。


 しかしそのことを――ケイが魔術師の邪眼により、ダウンしているということを、正確に把握している者は少なかった。隊商護衛の重装騎兵三人組は、ケイが身体的・体力的な問題でこれ以上戦えないと考えており、それは馬賊も同様だった。その判断を咎めることは、誰にもできないだろう。そもそも馬賊側も、『御大将』と呼ばれる告死鳥の契約者からは『邪眼』の存在を知らされておらず、またあれだけ矢を打ち込んだケイが、まさか高等魔法薬ハイポーションでほぼ快復しているなど知りようがないのだから。


 故にケイとアイリーンを放置した上で、重装騎兵を相手にだらだらと――を続けている。



 それは、常識的には最善手だが、この状況ではどうしようもないほどの悪手だった。



「何故あの男に止めを刺さぬ!」


 現状を正確に把握する数少ない人物――木立に潜む魔術師、『御大将』と呼ばれる邪眼の使い手は、視線をケイに固定したまま激昂した。


「まずは、あの重装騎兵を片付けるのが定石かと……」


 今しがた、邪眼については説明を受けたが、ケイの狙いまでは把握できていない馬賊の男――襲撃隊の隊長・ローメッドは、おずおずと自身の考えを口にした。


 反射的にその愚かさを罵りそうになった鴉の魔術師だが、嘴をつぐんだ。邪眼についても、予想されるケイの『奥の手』についても、自身の説明不足の責任はあると考え直したからだ。


「……今一度言う。あの男は只者ではない。尋常ならざる腕前の戦士であると同時に、風の大精霊と契約した魔術師でもあるのじゃ」

「何ですと!?」


 ぎょっとした顔で、ローメッドは思わず遠方のケイを凝視した。ケイの弓の凄まじさは嫌というほど知っていたが、魔術に関しては初耳だ。


「そ、それはまずいのでは……!」

「落ち着け、案ずるでない」


 ローメッドのあまりの狼狽ぶりに、鴉はたしなめるような口調で言う。


「確かに、契約する精霊の『格』はなかなかのものじゃが、一人の術者として見れば並以下よ。分不相応、と言うべきかの。若さ故じゃろうが、流石に魔力が弱すぎる。心配せんでも大した術は行使できんわい」


 ただ、と言葉を続ける。


「先ほど、彼奴の周囲に魔力の動きを感じた。触媒を捧げて、何らかの術を発動しようとしておるようじゃ。木立ごとわしらを吹き飛ばすような大魔術は発動できんじゃろうが、何かを企んでいるのは事実……」


 ケイに邪眼を向けたまま、先ほど走り出した金髪の少女アイリーンの姿を脳裏に思い描く。


「迂回してこちらに向かってくる小娘は、その布石じゃろう。おそらくわしの注意を引き付けるための陽動――つまりわしが邪眼を一瞬でもそちらに逸らすことを期待しておるはずじゃ」


 老獪な魔術師は、ケイたちの意図を看破していた。びっくり箱の中身まではわからないが、その存在を確かに見抜いている。


「ローメッド、わしは目が離せん。あの小娘には対処できるか」


 大した術ではないだろうが、わざわざ発動させる隙を与える必要もない。鴉は、しわがれた声でローメッドに尋ねる。


 対して、馬賊を指揮する男は、一瞬返答に詰まった。先ほどアイリーンが駆けつけてきた際の、馬から馬に飛び移って騎手の首を刎ね飛ばした姿が、ありありと脳裏に浮かんだ。


 あの身体能力は、驚異的であった。対して、木立に残る戦力は怪我人ばかり。


 だが――と周囲を見回して、ローメッドは頷いた。


「大丈夫です。一筋縄ではいかんでしょうが、数で押せば難しくないかと」


 一口に怪我人と言っても、起き上がれない重傷者から腕を痛めた軽傷者まで、怪我の程度は様々だ。ローメッド自身も左手を包帯で吊っているが、利き腕は無事だ。片手で剣を振るうのに支障はない。


 故に、曲芸のような剣の使い手でも、あの程度の少女であれば、大の男で取り囲めば何とかなる、と判断した。


 ――不幸があるとすれば、木立から隊商までかなり離れており、またケイの騎射に気を取られていたせいで、アイリーンの大立ち回りが見えていなかったことか。


「うむ。ならばそちらは任せた」


 いずれにせよ、ローメッドはそう判断し、鴉の魔術師はそれを認めた。


「よし、行くぞ。剣が取れる者は俺についてこい、あの小娘を始末する」


 抜剣しながら木立を飛び出していくローメッドに、数人の軽傷者が続く。


 樹の枝に止まったまま、視界の端にそれを見送った鴉は、顔にこそ出ないものの胸中で意地の悪い笑みを浮かべた。


「何を企んでいるかは知らんが、妙な真似はさせん」


 実際のところ、『邪眼』の魔力の消費は激しい。並の使い手ならば数十秒も使えば枯死してしまうだろう。しかし何事にも例外はある、とりわけこの場に存在する『鴉』の術者にとって、それは大した負担ではなかった。


 また、『普通』を持ち出すならば、これだけの長時間に渡り邪眼を受けても、生命力が尽きないケイも異常と言えば異常だ。抵抗しているのか、魔除けでもあるのか、あるいは単にしぶといだけか――鴉の術者の魔力と、ケイの耐久力の根比べ。これはこれで乙なものだ、と不遜な笑みを濃くする。


「そのまま、そこで息絶えるがよい」


 ぎらりと、その赤い瞳が、妖しい光を強めた。




 圧力をいや増す邪眼にケイが耐える一方で、アイリーンは木立から数人の戦士が飛び出してくるのに気付いた。


 ところどころ包帯を巻いたり、腕を吊ったりしているのを見るに、負傷兵の集まりといったところか。木立の中にはおそらく、程度の差こそあれ同じような怪我人が詰めているのだろう。姿を現した負傷兵の他に、弓の使い手が潜んでいる可能性も踏まえて、アイリーンは今一度木立に注意を向ける。


 こちらに向けて駆けてくる負傷兵たちを前に、焦りもしないが油断もしない。


 ――ましてや、手加減など。


 ふっ、とアイリーンは身体から力を抜き、全力疾走から速度を緩める。それを見て、ローメッドたちは相手が怖気づいたのかと錯覚した。厳しい表情は、あるいは顔が緊張で強張っているためか、と。同時に、血生臭い戦場に似つかわしくない、アイリーンの可憐な美貌に、見惚れる。


 その隙を突いて、アイリーンの動きの『質』が変わった。


 ただ速度を稼ぐための直線的な動きから、なめらかな戦闘用の機動へ。


 右手のサーベルをゆらゆらと揺らしながら、重力を感じさせない軽やかな足取りで距離を詰める。


 右か、左か、あるいはこのまま突っ込んでくるのか、ただ地を駆ける、その一挙手一投足に絶妙なフェイントが織り交ぜられている。アイリーンを取り囲むように散開するローメッドたちは、どう仕掛けたものか迷い、互いに目配せしあう。


 そんな彼らを冷たい視線が撫で――そのうち一人にぴたりと定まった。


 アイリーンの左手から、目にも留まらぬ速さでナイフが投擲される。


 艶消しの黒塗りの刃が、ほんの一瞬だけ、アイリーンから視線を逸らした男の喉に突き立った。


「ごフっ……」


 何が起きた、と驚愕の表情で、血の噴き出す喉を押さえた男が倒れる。アイリーンの右手のサーベルに気を取られ、投げナイフの存在に全く気づけなかったローメッドは、理解が及ぶやいなや心胆を寒からしめられた。


 ――この少女は、危険だ!


 見た目に惑わされれば食い殺される、と本能が警鐘を鳴らす。しかし遅すぎた。


 無言のまま、サーベルを振るうアイリーンが、肉食獣のように男たちへ襲いかかる。華奢な見かけとは裏腹に、全身のバネを活かした、ぐんっと伸びるような斬撃が男の一人を捉える。


 革鎧の隙間、胸部と腰部の継ぎ目が、ばっさりと斬り裂かれる。


「――ああああああアア!」


 剣を放り出し、一拍遅れて飛び出た内臓を両手で抱えるようにして、絶叫した男が泥に沈む。アイリーンは既に新たな標的を見定め、サーベルを振るう。硬直していた若い戦士の首が刎ね飛ばされる。


 もはや、恐怖すらも感じられない。ただ己が生き残るために、ローメッドはアイリーンに打ちかかっていく。


 だがいざ剣を振り下ろそうとしたところで、心が挫けそうになった。サーベルを手に佇むアイリーンに、隙がない。何処にどう打ち込んでも、反撃を受けて斬られる自分しかイメージできなかった。


 対峙して初めて分かる、隔絶した実力。それを相手取らねばならない理不尽に、怒りにも似た感情が湧き上がる。だがそれに駆られて猪突すれば、待ち受けるのは死。


 せめて自分が注意を引いている間に、他の仲間が仕掛ければ――


 僅かな希望。だが数の差はアイリーンも承知していた。相手の出方を待つという選択肢も、必要性も、アイリーンにはなかった。


 仕掛ける。


 踏み込み、滑るようにして接近する。ローメッドは一瞬で消失した間合いに驚愕し、どうにか牽制しようと右手の曲刀を振るった――いや、振るおうとした。


 その瞬間に、アイリーンの姿が消える。


(……左!)


 視界の端。銀色の光。気づいた。そして理解した。ああ、ダメだ。左手は包帯で吊っている、死角、対処できない――


 その喉を、氷のように冷たく、それでいて燃えるような感覚が突き抜け――そこで意識が途切れた。




(……ええい、何をしておる!)


 アイリーンに斬られた男たちの悲鳴は、木立にも聞こえていた。刃と刃を打ち合わせる音は響かず、ただ断末魔が上がり、徐々に聞こえる声が減っていく。一方的な展開ということだった。


「わしは目が離せぬ。どうなっておる!」

「隊長が、やられました!」


 ケイに邪眼を向けたまま尋ねると、側に控えていた重傷者が悲痛な声で答える。


(あの小娘も、それほどまでの使い手か!)


 ローメッドは、襲撃隊の隊長を担うだけあって、剣も弓もかなり腕が立つはずだ。それが、左手を負傷していたとはいえ、仲間を伴ったまま一蹴されたとなると――その事実に驚きつつ、流石に不味いという気持ちを強くする。ただ敵が木立に向かってくる程度ならばどうということはないが、それほどの使い手となると――


「……チッ!」


 ここに来ては致し方なし、鴉の魔術師は決断した。


 ケイから視線を引き剥がし、邪眼の標的を変更する。


「ぐっ――!」


 ちょうど、残る数人に打ち掛かろうとしていたアイリーンは、木立から向けられた赤い光に苦しげな声を漏らした。強烈な、先ほどよりもさらに力を増した邪眼。身体から力が抜ける感覚があり、思わずその場でたたらを踏む。


「今だ、やれッ!」


 それを好機と見た男たちが、剣を振り上げて一斉に襲いかかる。アイリーンも飛び退ろうとするが、全身を焼く疼痛のせいで思うように動けない――


「ブルルォォッ!!」


 そこに、褐色の影が割り込んだ。


 馬賊の一人が、吹き飛ばされる。


「――サスケ!」


 飼い主ごしゅじんの一人を襲われ、怒るサスケが男たちに襲いかかった。暴れ馬を数人の、それも怪我人が御すことなどできようか。


 しかもサスケは、ただの暴れ馬ではない。


「ぐぁ――!!」


 横合いからサスケに剣を突き立てようとした男が、血飛沫を上げて倒れ込む。サスケの前脚、かかとの部分から骨のような刃が飛び出し、すれ違いざまに男の胴体を切り裂いたのだ。


「――バウザーホースじゃと!!」


 さしもの老獪な魔術師も、今度こそ呆気に取られた。猛り狂う、馬の形をした魔物の姿を、本来ならばこの地方にいるはずのない存在を、思わず凝視する。



 その、間隙。



 本来ならば、アイリーンを牽制するため、一瞬だけ視線を逸らすつもりだったのだ。



【 ――Ekzekuciu執行せよ.】



 その呟きが、届いたわけではない。



 だが、蒼空にカァンッと響き渡る快音、そして大気を揺るがす魔力の波動。



「――しまった!」


 慌てて視線を戻せば、矢を放ち終えたケイが、残心の姿勢でこちらを見ている。


 空へ打ち上げられた矢――それを取り囲むように渦を巻く、風の精霊の魔力を感知した鴉の術者は――


「――ハハッ! 何かと思えば、子供騙しか!」


 むしろ、嗤った。


 ケイが放ったのは、風の精霊シーヴが誘導する魔法の矢だ。


 魔法の矢、と言っても、目標を緩やかに追尾するというだけで、この場合は鴉の術者を精確に射抜く以外の意図はない。矢そのものは代わり映えがないので、特に追加効果もない地味なものだ。


 術の発動後の魔力の余韻と、矢を取り囲む精霊の有り様を感知し、術の性質を看破した鴉は、そうであるが故に嗤ったのだ。


(もっと小賢しい術を仕掛けてくるかと思っていたが……他愛もない。ただの誘導術式とはな。期待外れじゃのう)


 邪眼を止め、枝からひらりと飛び降りた鴉は、樹の幹の裏側に身を隠した。


 付与された術は、ただ矢を誘導するだけのもの。


 飛んで逃げれば追尾される。魔術で物理現象を引き起こして防ごうとすれば、魔力の消費が激しい。


 ならば、障害物の裏に隠れて、矢を防ぐのが最も合理的な判断だった。



 そして、その判断は正しかった。



 ――



 ドゴンッ、と轟音が木立を揺らし、鴉の術者の全身を衝撃が襲った。



 熱い。



 灼熱が、胸を突き破った。



 愕然として、視線を下に向ければ――樹の幹を貫通した鏃が、胸から突き出ている。



「――――」


 馬鹿な、という思いがあった。矢に付与された術式は、魔力量から考えても、ただ誘導する役割があるだけのもので、攻撃力や貫通力を上げるものでは――


(――いや、)


 そこで、合点がいった。確かに、樹の幹で防ぐという考えは良かった。だが、それは普通の弓を相手にした場合の話――



 ケイが用いたのは、"竜鱗通し"。



 鴉の術者には知る由もないが、竜の鱗すら貫き通す強弓。



 事前に、あの馬賊に対する蹂躙戦を見て、弓の威力は知っていたはずだった。だが、まさか樹の幹を貫くとは――いや、判断を誤った――そうか、邪眼を逸らそうとしていたのは、この強弓を引くため――


 次々に理解が及ぶ。だが冷静になると同時、魂を焼くような激痛が、術者の視界を白く染めた。



「ギヤああああああアァアアァァァァッッ!!!」



 小さな鴉の身体から、びりびりと大気が震えるような絶叫が響き渡る。



 それは遠く離れた隊商にまで届き、魂も凍るような断末魔に、一瞬、戦場の空気さえ止まる。



「……お、御大将……」



 愕然と、そして絶望したように。腰を抜かして傍にへたり込んでいた怪我人が、怯えたように声をかける。



 だが、矢に串刺しにされ、だらりと力なく垂れ下がる鴉の瞳に、もう赤い光は存在しなかった。



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