45. 迎撃


 隊商の面々にすら畏怖の念をもたらしたケイだが、『当事者』たる馬賊たちの受けた衝撃はその比ではなかった。


「いっ……いったい何なんだアイツはッ!」


 木立の中、一人の男は絶叫する。


 羽飾りを多用した革鎧をまとい、複合弓と長剣を装備した男。顔には複雑な紋様の刺青が刻まれており、ひと目で草原の生まれと見て取れる。年の頃は三十代前半といったところか、太い眉にきつい三白眼、苛烈な人格を窺わせるような顔立ちだ。しかしその相貌は紙のように白く、今にでも卒倒してしまいそうな雰囲気を漂わせていた。左腕を黒ずんだ包帯で吊っているせいで、尚のこと頼りなげに見える。


「ああ、あああ……!」


 口から漏れるのは、もはや意味を成さない呻き声のみ。


 仲間が死んでいく。


 次々に討ち取られていく。


 ――いや、むしろ狩られていく。 


 たった一人の、化け物じみた弓騎兵によって。


 つい先ほどまで五十騎を数えた襲撃隊は、今や半数以下になってしまった。馬鹿な、あり得ない、信じられない――愕然とした男の表情はそんな心の内をありありと語る。


 わなわなと震える男の周囲には、同様に包帯で手当てが施された草原の民の姿があった。湿った地面に身を横たえ死んだように動かない者や、木にもたれかかって上体を起こすのもやっとという者もおり、木立の中はまさに野戦病院といった様相だ。


 が、今は病院というより墓地のように静まり返っていた。意識がある者は等しく顔の色を失い、茫然自失している。


 悪夢にでもうなされているように、釘付けになったまま視線を外せない。


 二十騎あまりの襲撃隊を、たった一騎で追い回す悪魔のような弓騎兵。


 朱色の弓が乾いた音を奏でるたびに、馬上から誰かが叩き落とされる。もはや組織だった反抗さえできず、怯え、ただひたすらに逃げ惑う仲間たち。


 それは、まるで牧羊犬に追い回される羊の群れのようで――


 かぁん、と。


 甲高い音が響き渡り、またひとり、仲間の命が赤い血飛沫に消えた。


「ローメッド隊長……」


 顔の右半分を包帯で覆った若者が、傍らの男に縋るような目を向ける。


「俺たちは、どうすれば……」

「……くっ、」


 左腕を吊った男は、何も答えられずに歯噛みするほかなかった。


 男の名を『ローメッド』という。本来ならば襲撃隊のまとめ役を担う戦士だ。しかし今は腕を負傷して戦力にならないため、木立に身を潜めている。そしてそれは周りの男たちも同様だった。


 つまり、この場には足手まといしか残っていない。


 騎馬をまるで己の分身のように扱う、熟練した草原の民の弓騎兵が五十騎がかりでも歯が立たない相手だ。たかが十数名程度の怪我人が徒歩で打って出たところで、何ができるだろう。


「…………」


 沈黙するローメッドに、聞くまでもなく答えはわかっていたのだろう、若者は諦めたように肩を落とす。それが自身に向けられた失望であるように感じられて、ローメッドはますますその表情を険しくした。


 実際のところ、相手は単騎。大型の矢筒を鞍に括りつけているようだが、持ち運べる矢の本数には限界がある。せめて自分たちが囮となって矢を無駄遣いさせるという手も考えたが、今までの戦いぶりを見るに、脅威度が低い自分たちを無視して騎兵を攻撃し続ける可能性が高い、とローメッドは睨んでいた。


 騎兵を全滅させてから改めて自分たちを『狩り』に来るか、あるいはそのまま無視して隊商に戻り補給を優先するか。いずれにせよ、ローメッドたちが犠牲になろうとしても、現時点では向こうは構ってくれないだろう。


(クソッ! 何か、何かできることはないか……!)


 死にゆく仲間たちを血走った目で見ながら、ローメッドは必死に考えを巡らせようとする。しかし空回りする思考は、一向に手立てを見つけられずにいた。どうしてこんなことに――などと、現実逃避じみた想いだけが浮かんでくる。奴隷として売り飛ばされた同胞たちを救うため北の大地までやって来たというのに、目の前で仲間が蹂躙されるのを、ただ指をくわえて見ているしかないというのは何たる皮肉か。


 怒りと情けなさで、先ほどとは一転、顔を紅潮させるローメッド。視界が真っ赤に染まっていくのを感じたが、バサバサッという羽音に思考を中断させられる。


 見れば、傍らの止まり木で翼を休めていた伝書鴉ホーミングクロウが、細かく体を震わせていた。ぶわりと、その小さな身体が膨れ上がるかのような錯覚、鴉の薄い赤色の瞳が血のような真紅に染まり、存在感がと重くなるのを肌で感じる。


「……カッ、カッカ。うぅむ、久しいな。ローメッド、その後はどうじゃ」


 まるでそれが当たり前であるかのように――首を巡らせてローメッドを見据えた鴉が、しわがれた声で話し出す。


「御大将!!」


 思わず叫んだ声には、僅かな安堵の色が滲んでいた。咄嗟に止まり木の前で跪くローメッド、周囲の怪我人たちも「おお」とざわついている。


 御大将――少なくともローメッドたちはそう呼んでいる――は、告死鳥プラーグと契約した強大な魔術師だ。ローメッドたちが怪物モンスターの闊歩する【深部アビス】を横断して北の大地に侵入できたのも、時折必要な武具や糧食などを補給できているのも、雪原の民の討伐隊を察知し撃退できているのも、全て彼のお陰だった。


 奴隷にされた同胞たちを救いたい、という自分たちの心意気を買って支援してくれている――というのは御大将の言だが、ローメッドはあまり信用していない。これほどの力を持つ魔導の探求者が、そんな甘い理由で力を貸すはずがないからだ。おそらく彼にとっても何らかの利益メリットがあり、独自の思惑に基いて行動しているのだろうが――ローメッドたちもそんなことは承知の上だった。仮に、手駒として利用されているだけだとしても構わない。現に少なくない数の同胞を救い、うち何人かは別働隊の手より【深部アビス】経由で故郷に帰すことにも成功しているのだから。


 いずせにれよローメッドは、少なくとも彼の能力には全幅の信頼を置いており、それを自在に操る彼自身にも畏敬の念を抱いている。そして、最近は忙しいらしく、滅多と『憑依』していなかった彼が、このタイミングで様子を見に来たことには運命を感じずにいられなかった。


御大おんたい、状況は芳しくありません。あちらを」


 切羽詰まった表情で、ローメッドは『戦場』を示す。つられてそちらを見やった黒羽の魔術師は――そのまま硬直した。


「……御大将?」


 剥製のように動かない鴉に、怪訝な顔で声をかけるローメッド。


「……かっ」


 それに対し、赤い眼を見開いた鴉は壊れた玩具のように、


「――かっ、かかかっ、くはははハハハッ!! カッハッハッハッ!!」


 哄笑。


 おおよそ状況には似つかわしくない、そして何より仲間たちが死していく現場を前にしての奇妙な反応に、ローメッドは眉をひそめる。


「カッハハハ、これは傑作! 彼奴め、よりにもよって何故このような場所におる!」

「あの者をご存知なのですか!?」


 が、続く魔術師の言葉に、思わず前のめりになって尋ねざるを得なかった。


「ふっ、くくく。そうじゃ、そうじゃな。知っていると言ってもいいじゃろう、わしにとっても『かたき』に相当する男じゃ」


 肩を、というよりも翼を震わせて、面白可笑しそうに魔術師は答える。しかしその瞳はぎらぎらと、おぞましいばかりの輝きを放っていた。


「ふむ、ふむ。押されておるな。単騎でよくもあそこまでやるものじゃ……Se vizitanto, tio ne nepre bizara……よい。いずれにせよ、お主の言わんとすることはわかるぞローメッド」


 ぎょろりと蠢いた赤い双眸が、ローメッドを捉える。見かけはただの鴉に過ぎないにもかかわらず、にやりと口の端が釣り上がっている――そんな邪悪な表情を連想させる怪鳥の顔。


 畏怖とも、本能的な嫌悪感とも知れぬ感情を抱きながら、それでも敬意をもってローメッドは頭を垂れた。


「はっ。……あの者を倒すため、御大のお力をお借りしたく」

「よかろう。無駄な力は使いたくはなかったがの、これは仕方があるまいて」


 ばさばさと翼を羽ばたかせながら、止まり木の上で鴉は体勢を整えた。


 見据える。


 遥か彼方、襲撃隊を追撃する異邦の狩人を。


 その真っ赤な瞳が、微かな燐光を放ち始める。それは美しく、それでいて何処か退廃的な、そして不吉な色だった。


「ローメッドよ。あの男を生かすも殺すもお主次第じゃが、殺す場合は少なくとも遺体は五体満足で確保せよ」

「五体満足、……ですか」

「彼奴めの肉体は使い道があるのでな」


 カッカッカ、と乾いた笑い声を漏らす鴉。この強大な魔術師に肉体を必要とされるとは、一体何者なのだろうかと思いつつ、ローメッドは首肯する。あの凄まじい馬上弓を見るに、只者ではないことだけは確かだったが。


「わかりました。必ずや」

「任せた。では彼奴めを弱らせるぞ。これでお主の仲間もやりやすくなるじゃろうて」


 ばさりと。


 鴉は、翼を打ち広げる。


 ただそれだけの行為が、何処までもおぞましい。


【 Rigardo de detruo.】


 しわがれた声が呪文を紡ぎ。



 ぎらりとその瞳が一際強く、そして不吉に輝いた。



          †††



 大地を叩く無数の蹄の音が、びりびりと空を震わせる。


 次第に大きくなる鬨の声――遠景に望む馬賊はじわじわと接近しているように見えて、その実襲歩ギャロップによる突撃は風のように疾い。


 ランダールの馬車で、アイリーンは荷物の陰から敵の様子を観察していた。


 散開しながら先を争うようにして距離を詰める、五十騎近い褐色の騎馬の群れ。


 複合弓に矢をつがえ、いつでも放てるように身構えている馬賊たち。ちらほらと二人乗りしている騎馬も見かけられ、さらには火の点いた松明をその手に携えた者もいるようだった。


「……準備のいいこった」


 こんな真っ昼間に、松明の使い道など限られている。ずらりと並ぶ隊商の馬車を見やりながら、思わずアイリーンはハッと乾いた笑みを浮かべていた。


 のっぺりと時間が引き伸ばされていくような感覚。誰かがごくりと生唾を飲み込む音。隊商の面々は馬車を盾として、それぞれ弓やクロスボウを手に待ち構える。


 殺伐とした緊張感がきりきりと神経を蝕む。『戦場』において有効な飛び道具を持たないアイリーンは、ただただそれに耐えるほかない。


 そして。


 時は来た。


 複合弓の射程にまで接近した馬賊が、一斉に矢を放つ。


 空中にきらきらと輝くやじりは、さながら白昼の流星群。


 美しく暴力的な豪雨が、隊商の車列に降り注いだ。


 アイリーンは荷物の裏で身を縮める。木箱越しに感じる軽い衝撃、無数の釘を打ち付けるような音、荷台の幌を矢が勢い良く突き破っていく。それに一瞬遅れて、馬の鋭いいななきや、男たちの怒号が上がる。しかし大混乱に陥る馬に対し、人の悲鳴は驚くほどに少ない。みな馬車を盾として事なきを得たのだ。


「放てェ!」


 代わりに、ゲーンリフのだみ声が響く。


 お返しだと言わんばかりに隊商側から飛び道具が放たれた。商人がクロスボウで狙撃し、護衛の戦士が助走をつけて投槍を投擲、商人見習いの少年たちも投石器スリングや弓矢で各個に反撃している。


 中でも目覚ましい戦果を上げたのはクロスボウだ。他の投射武器とは弾速が段違いで、回避が間に合わずボルトを受けた馬賊や馬が断末魔の叫びを上げて倒れ込む。草原の民の女奴隷を連れていた裕福そうな商人などは、クロスボウをいくつも準備していたらしく、使った端から見習いに渡して次弾を装填させていた。


「――ッ!!」

「――、――ッ!」


 苛烈な隊商側の反撃に、何事かを叫んだ馬賊たちが少しばかり距離を取る。緩やかに隊商を包囲しながら、再び弓での一斉射撃を仕掛けてきた。だが隊商の面々も即座に馬車や大盾の裏に隠れ、矢の雨をほぼ無傷でやり過ごす。


 これが仮に、現状に倍する数で隊商の両側面から攻撃されていれば、こうも簡単には防御できなかっただろう。本来ならば馬賊も、二つに分けた襲撃隊による挟撃を想定していたはずだ。


 しかしその思惑は土壇場で打ち砕かれた。


 ひとりの、化け物じみた異邦の狩人によって。


 再び荷台の幌から顔を出し、アイリーンは見やる。隊商から遥か遠く、二十騎以下にまで数を減らした草原の民たちが、たった一騎の弓騎兵に追い回されているのがはっきりと見えた。


 ケイだ。


【DEMONDAL】において『死神日本人ジャップ・ザ・リーパー』とまで呼ばれ恐れられた馬上弓は、この世界においても健在らしい――いやむしろ、より一層磨きがかかっている。


 流石はケイだ、――と不安な気持ちを信頼で塗り固め、アイリーンは頷いた。


 ケイもしっかりしているのだ、自分も最善を尽くさねば、と。


 そう言い聞かせて、無理やり視線を外す。


 ケイが別働隊を引きつけ壊滅させたお陰で、奇襲であったにもかかわらず、隊商はある程度の余裕をもって対処できていた。しかし馬賊は馬賊で、これまで孤立無援でありながら北の大地を荒らし回ってきた強者つわものたちだ。ただの一斉射撃では効果が薄いと見るや、すぐさま次の手を打ってきた。


 松明を手にした複数の騎馬が、動きを止めた馬賊たちの間を駆け回る。ぽつぽつと、火の数が増えていく。


 矢の先端部に、油を染み込ませたボロ布を巻きつけたもの――


「火矢だァ!」


 誰かの、悲鳴のような叫び声。


「おいおい……こいつぁヤバイぞ」


 荷台から空を見上げてランダールが呟いた。アイリーンも天を振り仰ぐ。先ほどまで雨がぱらついていた空は、今は憎々しいまでに晴れ渡りつつあった。


 バババヒュンッ、と鈍い音を立てて、一斉に火矢が放たれる。それらは大盾に突き立ち、人馬を傷つけ、馬車の幌に火を放った。防水のために脂を塗りこんだ幌は、乾いた干し草よりもよく燃える。


 そしてそれはランダールの馬車も例外ではない。


「旦那ッ!」

「外してくれ! 支柱ごとやっても構わねえ!」


 めらめらと火の手を上げる幌に、アイリーンが切迫した声で指示を仰ぐと、手近にあった斧で幌の支柱を叩き切りながらランダールが返す。右手に握りっぱなしだったサーベルを閃かせ、アイリーンも細い木の支柱を全て切断した。


「ッ、!」


 その瞬間、ピリッとした殺気を感じ取りサーベルを振るう。燃える幌を突き破って、真っ直ぐに飛んできた矢をすんでのところで切り払い、事なきを得る。


 それを目にしたランダールがピゥッと口笛を鳴らしたが、それ以上はお互いに軽口を叩く余裕もなく、燃える幌を車外に投げ捨て火の粉を払う作業に集中した。


 アイリーンたちは幸いなことに迅速に対応することができていたが、既に隊商内には取り返しがつかないほど火が回ってしまった馬車も見かけられた。燃え上がる馬車を前に商人が頭を抱え、護衛の戦士たちが弓を引きどうにか馬賊を牽制しようと試みる。しかし、そこに浴びせかけられる矢の集中砲火、馬車という盾を失った見習いの少年がハリネズミのようになって倒れ伏す。人馬の悲鳴が入り乱れる様はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。


 焦げ付く煙の匂い、泥水の跳ねる音、馬のいななき、男の悲鳴、戦士の雄叫び、矢の風切り音、そして濃厚な血臭。


 五感を圧倒する暴虐。木箱にぴったりと背をつけて死角を殺したアイリーンの顔は、すっかり血の気を失っていた。


 だが、このような状況で、ただ呆然としているだけの『贅沢』は許されない。


 バオン、ウォンという野太い吠え声。アイリーンはハッとした、どこか聞き覚えのあるタイプの吠え声だ。


「なんだあれはッ!」

「狼だ! 馬鹿みたいデカいぞ!」


 護衛の戦士たちの困惑の声が聴こえる。黒い毛並みの巨大な狼が数頭、隊商に向かって真っ直ぐ突っ込んできている。


「「狩猟狼ハウンドウルフ!!」」


 アイリーンとランダールの声が重なった。ぬかるんだ地面を物ともせず、風のように駆け抜けたハウンドウルフたちは、そのままの勢いで獲物に食らいつく。荷台に飛び乗ってきた一頭に喉元を噛み千切られた商人が血溜まりに沈み、至近距離にまで迫られた馬たちが恐慌状態に陥り暴れ始める。馬を宥めようと試みた見習いの少年が、後ろ足に蹴り飛ばされて大盾の向こうへ吹き飛んでいった。護衛の戦士たちもこの凶悪な獣に対処しようとしていたが、馬車が燃え上がり四方八方から矢が飛んで来る状況では万全の戦いなど望むべくもない。かなりの苦戦を強いられていた。


 さらに、その隙を突いて、二人乗りをしていた騎馬のうち、片方の草原の民が下馬し混乱が大きい箇所に斬り込みを開始している。円盾と曲刀を装備した草原の民の戦士と、重装の雪原の民の戦士がそこかしこで打ち合っていた。


 そして一頭のハウンドウルフが、ランダールの馬車にも接近しつつある。どうやら大盾の内側、幸いなことにまだ一矢も受けていない元気な馬を狙っているようだ。


「スズカ!!」


 怯える黒毛の乗騎の名を呼びながら、アイリーンは荷台から飛び降りる。背後で「嬢ちゃん!」とランダールが呼ぶ声がするが、顧みない。ハウンドウルフ一頭など、アイリーン単独で対処可能な相手だ。


 地を這うように、そしてフェイントをかけるようにジグザグに走るハウンドウルフ。その黄色い瞳が狡猾に、獰猛に、アイリーンの隙を窺っていた。


「来いよ」


 対するアイリーンは、ゆらゆらと身体を揺らしながら、右手のサーベルをだらりと下げて不自然なまでに脱力して見せる。


 と、真横から飛来する矢。


 上体を逸らして回避。それを隙と見たか、グルルと唸ったハウンドウルフが一気に加速して飛びかかってくる。


 しかしアイリーンからすればあまりにお粗末な突撃だった。まるでそれそのものが一つの生命体であるかのように、くんっと跳ね上がるサーベル、空中のハウンドウルフの胴体を銀閃が薙いだ。


「ギャインッ!」


 臓物をぶちまけながら泥水に突っ込む黒い獣。アイリーンは返り血どころか、跳ねた泥すら浴びていなかった。ジタバタと暴れるハウンドウルフに止めを刺そうとしたところで、その頭部にビスッと矢が突き立つ。


「嬢ちゃん、あんまり無茶はすんなよ」


 ランダールだ。緊張感で彩られた顔、荷台で構えていた複合弓を下ろす。


「無茶じゃねえよ、このくらい」


 思わず苦笑して答えるアイリーンだったが、その顔がハッと強張る。


「旦那! 後ろ!!」


 いつの間にか、ランダールの背後、荷台に馬賊の戦士が二人も乗り込んできていた。一人は曲刀を掲げ、もう一人は短槍を手に、無言でランダールに襲いかかる。


「うおォッ!?」


 アイリーンの視線と表情の変化でそれを察し、咄嗟に振り返ったランダールが槍の刺突を回避する。ぐらりと姿勢を崩して倒れ込みそうになるランダール、苦し紛れに左手の複合弓を投げつけて時間を稼ごうとするが、曲刀であえなく叩き落とした戦士が踊るように斬りかかる――


「旦那ァ!!」


 時間がゆっくり流れていく。咄嗟に左手を腰の投げナイフに伸ばすアイリーンだが、相手は二人、どうしても間に合わない――と思ったその瞬間。


 ランダールの動きが、


 疾い。目にも留まらぬ抜刀、斬りかかってきた戦士の首を長剣で刎ね飛ばす。


 さらに、荷台の縁に体当たりして、その反動で無理やり体勢を立て直し、短槍持ちの戦士目掛けて稲妻のような突きを放った。


 突然の相方の死、そして予想外の反撃に硬直していた短槍使いの喉を長剣の刃が無慈悲に抉る。信じられない、という顔でぱくぱくと口を動かした戦士は、そのまま喉を押さえて倒れ伏した。


「なっ……」


 ランダールの豪剣に、アイリーンは思わず絶句する。ゆっくりと振り返った、一介の公国の薬商人――であるはずの男は、鮮血を滴らせる長剣を手に、どこかバツの悪そうな顔をした。


「いや……まあ、その、なんだ。昔とったなんちゃらってヤツよ」


 何かを尋ねたわけでもないのに、ひとり言い訳がましいことを口にするランダール。が、アイリーンが口を開くよりも前に、「うおおお!」という雄叫びが聴こえてくる。


 馬車の横をすり抜けるようにして、一人の草原の民の戦士が襲いかかってきた。得物は奪い取ったものだろうか、草原の民よりもむしろ平原の民が好んで使う長剣。痩せこけて無精髭を生やした中年の男だが、アイリーンの美貌を見るや、その瞳にぎらりと欲望の炎をたぎらせる。


 そのことに何の感慨も抱かず、おそらく致命傷を避けるために肩を狙った突きを難なく回避し、アイリーンもサーベルを閃かせた。半ば反射的に、最適解をもって男の首筋へと伸びた刃は――アイリーンが表情を曇らせると同時にぶれ、頬を切り裂いて怯ませてから、手足の腱を軽くなぞった。


 そして悲鳴を上げて倒れ込む男を、間髪入れずに回し蹴りで吹き飛ばす。男は泥まみれになってゴロゴロと転がっていき、そのまま馬車の車輪に頭をぶつけて気絶した。


「嬢ちゃん……」


 事の顛末を見届けたランダールが、呆れたような声を出す。アイリーンの手加減――手抜きと言い換えてもいい――を見逃さなかったのだ。先ほど豪剣を繰り出し一瞬で二人を屠ったランダールから見ても、今のアイリーンの剣閃は知覚するのがやっとな速さだった。しかしそれほどの一撃を放っておきながら、直前で迷い、無理やり殺人剣を活人剣にしてしまったアイリーンの思考プロセスに、呆れる。この隊商の戦士の中でも指折りであろう、抜きん出た高次元の剣術を実現しておきながら、そこにいまさら躊躇う余地があること自体が、ランダールとっては不可解でしかなかった。


「まあ、その、アレだよ」


 アイリーンは先ほどのランダールよろしく、口の中でもごもごと言いながら、小さく肩をすくめてみせた。実は、アイリーンも自分自身に呆れていたのだった。あれほど前もって覚悟を決めておきながら、土壇場になって迷ってしまった自分に。


(全然ダメじゃん)


 はは、と力のない笑みがこぼれた。タン、タンッと軽く地面を蹴って荷台に戻る。


 ランダールが斬った二人の死体が転がっていた。


「…………」


 グロテスクな生の死体を見るのは、これが初めてではない。そう、あれは『こちら』の世界に来て数日後のことだった、タアフ村からサティナの街に向かう途中で、草原の民に襲われたときのこと。ケイが撃退した連中から、色々と物品を剥ぎ取ったのだ――



 ――ケイ。



 死体から視線を外して、アイリーンは無意識のうちに彼の存在を求めていた。



 荷台の外、遥か遠くを見やって。



「――え?」



 しかし、その青い目が見開かれる。



「――ケイ?」



 先ほどまで、あれほど苛烈に馬賊の別働隊を攻め立てていたケイが。



「――なんで」



 今は力なく、サスケの背に縋り付くようにして。



 逆に、十数騎の馬賊に追い立てられている。



 何が起きたのか、わからない。



 だが――普通ではない。目を離した隙に、何かが。



「そんな、」



 魔法もある。"竜鱗通し"もある。サスケの速力もある。負ける要素はないはずだ。



 ――だから『絶対に大丈夫だ』と信じていたのに。



 混乱するアイリーンを嘲笑うように、ケイは力なく。



 そのままサスケの背中からずり落ちて、泥の中に倒れた。



 そこに、ハゲタカのように群がろうとする馬賊たち――



「――――」



 アイリーンの頭の中が、真っ白になった。



「ケイッッ!!!」



 気がついたときには、アイリーンは馬車を飛び出して走りだしていた。



 ランダールの制止の声にも耳を貸さずに。



 ケイの名を叫びながら。 



 ――が、単身で隊商を飛び出したアイリーンを、馬賊が放っておくはずもない。四方八方から矢が飛んでくる。


「この――ッ!」


 体を捻って極力回避し、避けられないものはサーベルで払い落とす。しかし矢の雨を突破したあとに待ち構えていたのは、弓や槍を構えた馬賊たちだった。


 ぎり、とサーベルを握る手に力が篭もる。


 ――邪魔をするな。


 アイリーンの瞳に、剣呑な光が宿る。


「どけえええェェェェッッ!」


 余裕というものが全て吹き飛んだ表情で、少女は、吠える。



 だが馬賊は止まらない。全力の突撃。



 激突。



 ――サーベルは、一切の躊躇なく振り抜かれた。




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