44. 馬賊


 雨上がり。


 灰色の雲が浮かぶ、まだら模様の青空。


 ざあっ、と平原を吹き抜ける風が、草葉の露を散らす。


 きらきらと舞い散る水滴のヴェール――


 そしてそれを勢い良く突き破る影。


 サスケだ。


 ぬかるんだ地面を物ともせず。


 泥を跳ね上げながら、稲妻のように疾駆する。


 ケイは目を細め、遠方の隊商を睨んだ。揺れに揺れる騎乗、鞍越しにサスケの筋肉の躍動が伝わってくる。響き渡る蹄の音、ごうごうと耳元で唸る風、未だ疎らにぱらぱらと降る雨が皮のマントにぶつかっては弾けていく。顔面に水滴が散り鈍い痛みすら走るが、今はそんなことを気にする余裕もない。


 ただ、すがるように、左手の"竜鱗通しドラゴンスティンガー"を強く握り締めた。


『敵襲、敵襲――ッ!』


 栗毛の馬を駆り並走するピョートルがあらん限りの声で叫ぶ。"雪原の民ロスキ"の言葉なので意味は分からなかったが、最大限の警戒を呼びかけるものであることくらいは流石のケイにもわかる。びりびりと伝わってくる逼迫した空気、焦りの色。


「おオオオオォォォッッ!!!」


 ときの声。


 振り返った。


 遥か後方、迫り来る馬賊の一群。控えめに見積もってもその数は優に五十騎を超える。ケイの乗騎サスケに似た褐色の毛並みの馬に跨がり、取り回しの良い小型の複合弓を携えた草原の民。


 ケイの卓越した視力は、彼らの顔を捉えた。


 草原の生まれを示す、顔面の黒い刺青。満足な食も得られていないのか、病的なまでに痩せこけた頬。しかし弱々しい雰囲気など微塵も感じられない。凶悪な笑みに彩られた口元、並々ならぬ憎悪と殺意を湛え、幽鬼のように爛々と輝く瞳。


 それが、一丸となって追いかけてくる。


 地鳴りのような蹄の音、男たちの雄叫び、それらが暴力的な現実感を伴ってケイの耳朶に叩きつけられる。


 ぞくりと背筋が震えた。現実リアルにおいても【DEMONDAL】の仮想ゲームの世界においても、一度にこれほどの数の『敵』と相対するのは初めてのことだ。少なくともこの規模の、組織だった戦闘を可能とする集団とは。


 カシュ、カヒュンと掠れた音を立てて、散発的に飛来する幾本もの矢。その多くはケイたちを捉えることなく、周囲の大地に虚しく突き立つのみ。しかし時折こちらの背を射抜かんとする精確な射撃もあり、ケイはそのたびに"竜鱗通し"を振るって空中の矢を払い落とした。彼我の距離はおおよそ百メートル、吹き荒れる風を鑑みれば、馬賊の射手の腕前はそれなりと言えるだろう。


 問題は、その腕前の射手が何十人といることだ。


 ごうっと風が渦を巻く。


 ハッ、ハッ、と荒いサスケの呼吸が、やけに生々しく聴こえる。


 前方に視線を戻す。隊商が徐々に近づきつつあった。護衛の戦士や商人たちが慌ただしく迎撃準備を進めているのが見える。馬車の周りに木の盾や衝立を配置し馬を守ろうとしているようだが、正直なところどれほど効果があるかは疑問だ。


 話に聞く限り、馬賊は人質や物品の強奪ではなく、隊商それそのものの『殲滅』を目的としている。ならば、まず馬を殺して移動力を削ぎにくるはずだ。衝立や盾は馬たちを隠しきれておらず、ある程度の弓の腕前があれば馬を狙うのは難しくない。加えて円形の防御陣を組んでいた夜営時と違い、隊商の車列は道なりに長く伸びている。機動力の高い弓騎兵を相手取れば、されるがまま四方八方から射られ放題だろう。


 嬲り殺し――そんな言葉が脳裏をよぎる。


(このままぶつかるのは不味い!)


 隊商と馬賊の間で、刻々と狭まりつつある両者の距離を測りながら、ケイの胸に焦燥感が募る。隊商の護衛たち――雪原の民の戦士を軽んじるわけではないが、この数と機動力の差はあまりにも分が悪い。


 速いのだ。


 馬賊の馬の『性能』が、想像以上のものだった。


 些か不健康でやつれた感のある馬賊たちだったが、彼らの馬のコンディションは非常に良い。あるいは己の食料より馬の飼料を優先しているのか――褐色の毛並みは艷やかで、足取りも軽快に生き生きとしている。


 現に、全力疾走するピョートルの馬に対し、馬賊たちはじりじりと距離を詰めつつあった。ピョートルの駆る馬は隊商内でも指折りの駿馬らしいが、それでも速度が劣っている。つまり隊商内には、馬賊に対抗できる馬がいないということ。


 護衛の戦士が総出で打って出たところで、追いつけないし振り切れない。馬賊は遠距離戦を得意とし、数の面でも劣勢、かと言って防御に回ってもジリ貧にしかならない。


 ――どうするか。


 いや、考えるまでもない。


(俺が何とかするしかない、か……!)


 ぎり、と"竜鱗通し"を握る手に、力がこもる。


 相手の数が多すぎる。ならば、削ればいい。酷く単純なロジック。そしてそれを現実的に遂行できるのは、隊商内でもおそらくケイのみ。


 わかっている。


 わかってはいるが。


 撤退のため全力で駆ける今、サスケの手綱を引き反転するのには、思ったよりも勇気が必要なことがわかった。


 何しろ、敵の数が多い。相手が五人ならば、躊躇わなかっただろう。十人でも余裕だったはずだ。二十人でも、少々手間が掛かるが、それだけだ。


 しかし、五十騎。


 流石に、多い。


 それは確率の問題だった。一斉に矢を射かけられた場合、そのうちの何本が精確な狙いでこちらに飛んで来るか。回避するにしろ叩き落とすにしろ、限度というものがある。運良く矢の大多数が風に流されてしまえばこちらのものだが、現状の距離である程度の精度で矢を放つ腕前の持ち主たちだ。『甘え』はおそらく許されない。


 魔術――ケイが契約する"風の乙女"『シーヴ』の力で、矢を弾き飛ばすことも可能ではある。しかし、ケイがそれを行使できるのは、おそらくあと二回が限度だ。


 先ほど魔術で矢を防いだときは、サスケの額当てにつけていた護符タリスマンを代償とした。タリスマンは魔力を練り込んで作られる、非常に強力な魔除けだ。故に有用な触媒となりうる――裏を返せば、ケイが行使した術式はそれほどまでに高燃費なものであるということ。残すタリスマンは、ケイが胸に下げるものがあと一つあるのみ。それを使い切った場合、手持ちの宝石エメラルドを全てと、ケイ自身の魔力も捧げれば、辛うじて風の結界を発動させられるだろう。


 だが、それで打ち止め。


 魔力の反動――凄まじい吐き気や倦怠感――を考慮すれば、二度目の行使のあと戦闘が継続可能かどうかも定かでない。


 常人ならどうしようもない命の危機を、二回も凌げると考えれば大したものではある。それをたった二回だけ、と捉えるかどうかは考え方の違いというやつだ。


 二回、あるいは一回のみの『切り札』があるうちに、敵をする。


 すなわち、殺す。


 馬上、ケイの息がにわかに荒くなる。それは、これから己が為さんとすることへの慄きか。人を手に掛けるのは、久しぶりのことになるだろう。ケイがわかりやすい形で葬り去ったのは、『こちら』の世界に転移してから数日後、タアフ村からサティナの街に移動する道中で、草原の民の強盗とやりあったのが最後だ。その後、諸々のトラブルでも弓を使ったので、ケイの矢が原因で死んだ者も他にいるかも知れないが。


 いずれにせよ、事実は変わらない。ケイは人を手に掛けたことがあるし、それがまた再び、今日という日に訪れようとしている。



 ――陰鬱なものが、どす黒いものが胸中に満ちていく。



 だが、やるからには。



 ケイが手綱を放し、右手を矢筒に伸ばそうとした、そのとき。



 わぁっ、という声がさらに右手側から響いてくる。



 弾かれたように見やれば、遠く、隊商の向かって右手に位置する木立から、数十騎の騎馬が飛び出していた。


 ケイの顔から血の気が引く。褐色の騎馬を駆る彼らは、間違いなく草原の民だ。


 別働隊。


 それも、ほぼ同数の。


 後方に五十騎、右手側にもさらに五十騎以上。


 合計、百騎。


『嘘だろ……クソッタレ!』


 ケイの傍ら、ピョートルが呻くようにして毒づく。隊商の構成員もまた、合わせて百名を下らない。しかしその半数以上が商人とその見習いたちだ。辛うじて装備は馬賊たちのそれよりも優れているかも知れないが、人一人が身につけられる武具が、矢の雨の前でどれほど頼りになるだろう。


 隊商は、もう目前にまで迫っている。まだ距離はあるが、襲歩ギャロップの馬ならば瞬く間に駆け抜けられる程度の間隙。


 半ば無意識のうちに。


 追い求めるように、彷徨ったケイの視線は、ひとりの少女を捉えた。


 隊商の中ほどで、幌を張った馬車の荷台からこちらの様子を窺い、顔を青褪めさせた金髪の少女。



 ――アイリーン。



 ケイの愛してやまない、この世界でたった一人の大切なひと。



 二人の視線が交差する。



 彼女から、こちらがよく見えたかはわからない。


 しかし、それでも。


 視界の果て。


 唇を引き結んだ少女は、小さく頷き。


 背中の鞘から、しゃらりとサーベルを抜き放った。


 銀色の刃が陽光を受けて、きらりと輝く。



 それを見た瞬間。


 アイリーンの、凛々しいとさえ言える悲痛な表情を瞳に映した瞬間――ケイの胸の内に、かっと熱いものが溢れた。


 そしてそれは、すぐに氷のような冷たいものに取って代わる。



 ――俺は、何のためにここにいる?


 

「……そうだ」



 ――彼女のためでは、なかったか。



 揺れていた心が、恐ろしいまでに定まった。


 引きつったような、乾いた笑みを浮かべたケイは、突如としてそれを獰猛なものとし、首元の顔布に手をかける。


「ピョートル! 先に行け!」


 サスケの手綱を引き、急激に旋回する。ケイの声に振り返ったピョートルは、あっという間に距離を離していくケイに目を剥いた。


「ケイ! 何をやっている!」

「俺が時間を稼ぐッ!」

「ばっ……馬鹿な! やめろ! 無茶だ、ケイ!」


 後方の馬賊とケイを見比べ、ピョートルは悲鳴のように叫ぶ。しかし、流石に自分まで反転して、ケイを連れ戻そうという気にはなれないようだ。


「ケイ! 戻れッ! ケ――イッ!」


 それでもこちらに手を伸ばして叫ぶピョートルに。



 ケイは、にやりと笑ってみせた。



 そして顔布を引き上げる。前へ向き直る。"森大蜥蜴グリーンサラマンデル"の革兜で守られた頭部、顔の下半分は白い布で覆い隠され、露出するのは目元のみ。


 顔布の端で、手縫いの赤い花の模様が踊る。


 さらに旋回する。


 前方を睨む。


 やがて、夜のような真っ黒な瞳は――行く手に五十騎の騎馬を捉えた。



 まるでピョートルに向けた笑顔とともに、全てを置き去りにしてしまったかのように。


 乾いた心からはごっそりと、温かなものが抜け落ちていた。


 代わりに、共にあるのは、身を切るような高揚と、冷え切った思考のみ。



 ここに来てさらに勢いづいたサスケが、猛烈なまでに駆ける。


 その軸が、ぴたりと馬賊の一群へ定められた。



 逆に意表を突かれたのは、馬賊の方だ。


「……一騎駆けかッ!」


 嘲笑うように、それでいて感心したように、先頭を駆ける男は笑った。突然の反転には面食らったが、所詮は捨て身の時間稼ぎと判断して鼻で笑い、あるいはその身を顧みない、ひとりの戦士の蛮勇を称えたのだ。


「――その意気や良しッ!」


 高らかな男の声に、周囲の襲撃者たちも忍び笑いを漏らす。周囲の者たちが続々と弓に矢をつがえるのをよそに、先頭を駆ける男だけは、腰の曲刀をしゃらりと抜き放っていた。


 多勢に無勢でありながら、それでも僅かばかりの時間稼ぎのために、真正面から突っ込んでくる一騎。


 無謀ではあるが、一人の戦士として、その勇気に敬意を表するべきだと感じたのだ。


 相手が、自分と同じように剣で応戦することは期待していない。弓を使ってきたところで所詮は一人、この距離でも矢を捌き切る自信があった。


「さあ、来い――ッッ!」


 馬賊の先頭、曲刀を掲げて雄叫びを上げる男。


 それに対し、ケイは静かだ。冷淡とさえ言っていい。


 ただ――まるで次の選曲を迷う即興のピアニストのように、しばしその右手が、鞍に備え付けられた矢筒の上を彷徨う。


 ほんの一瞬のことだ。やがて、ケイは一本の矢を抜き出した。


 長く、やじりは太く鋭く、青い矢羽を持つ――それを。



 ケイを無謀と嗤いながら、戦士として評した男であったが。


 ひとつ、決定的な思い違いをしていた。


 今、少なくともこの場において。




 ――ケイは、狩人だ。




 矢を、つがえる。


 引き絞る。


 朱色の弓が、ぎりぎりとしなる。


 陽光を受けて妖しくきらめき――


 カァン! と唐竹を割るような、甲高い音が。





 銀色の、光。




 風が、唸る。





 先頭の一騎が、




「ごぼァッ!」


 曲刀を構えていた男、その胸部に、突き刺さる銀光。反応など許しもしない、音が響いたあとにはただ結果がついてきた。"大熊グランドゥルス"さえも一撃で屠った矢を、その直撃を、人の身でありながら真正面に受けたのだ。革鎧など濡れた紙ほどの役にも立たなかった。


 胸骨は一撃で砕け散り、えぐり込む矢に巻き込まれるようにして胸部が内側に破裂する。あまりの威力に身体は仰け反りもしない、胸部を完全に陥没させた男は、背中から臓物と脊髄を撒き散らし、壮絶な死を遂げた。


 しかし、それでも無慈悲な矢は止まらない。


 たった人一人の命を捧げたところで、"竜鱗通し"が満足できようか。背後の馬の頭部を撃ち抜き、さらにその乗り手をも食い破る。


 血飛沫に矢羽を紅く染め上げながら、それでも尚、矢はまっすぐ突き進む。三人目の首を千切り飛ばし、四人目の胴に風穴を開け、最後に五人目の胸に突き立って馬上から吹き飛ばし――ようやくそこで



「――――?」



 絶句。


 たった、一矢。


 それのもたらした結末に。


 騎馬の陣形に、ぽっかりと穴が空いていた。


 まるで見えない竜の爪にでも薙ぎ払われたかのように。


 あるいは雄叫びの形に口を開けたまま、あるいは弓に矢をつがえ、引き絞ろうとする直前で呆けたまま。


 誰もが振り返り、吹き荒れた血風を見送るようにして、ただ硬直していた。



 その、一瞬。



 致命的な一瞬。



 ケイは新たに、次なる矢をつがえていた。



 カァン! と小気味良い音が響き渡るのと、ハッと我に返った馬賊たちが、再び銀の光と相見えるのとが同時。


 血の色をした暴風が吹き抜ける。


 人馬合わせて七つの命が、たちどころに吹き飛んだ。


「散開ッ!」

「射掛けろ!」


 慌てて指示が飛び、魚の群れのように密集していた馬賊たちは、ぐんと騎馬同士の間隔を開く。ケイが真正面から突撃した理由がこれだった。細長い魚鱗隊形で密集していたため、貫通力のある『長矢』を使うならば正面から撃ち込むのが一番効果的だったのだ。


 散開した馬賊たちから、ぱらぱらと射掛けられる迎撃の矢。それらは射手の心境を反映したかのように、ふらふらと狙いが定まらず、力のないものだった。それでも比較的狙いの精確だった矢を難なくいなし、ケイは再び前方の標的を見据える。



 その、黒い瞳は、『標的』に対し、さぞかし冷徹に映ったことだろう――



 全力で駆ける双方の相対距離は、まもなく零になろうとしていた。


 互いの眉間の皺すらも数えられそうな近距離。顔を引きつらせた馬賊の面々にざっと視線を走らせ、素早く矢筒から矢を抜き取ったケイは、コンパクトな射撃を続けざまに放つ。


 コンパクトな、というのは、先ほどに比べての話だ。人の命を奪い去るには十分すぎる威力。それでいて狙いは針の穴を通すように精確で、放たれた矢の数だけ馬上からぽろぽろと肉塊が転がり落ちた。


 そしてそれには一瞥もくれず、ケイは一気に左へ馬首を巡らせる。


 同時に、"竜鱗通し"を右手に持ち替えるのも忘れない。


 至近距離を、馬賊の右手側を、ケイを乗せたサスケが勢い良く駆け抜ける。


「やれッ!」

「射殺せ!」


 怒号が上がるが、即応の矢は放たれない。ケイが見たところ、馬賊の多くは右利きで、右手に矢を、左手に弓を握る者が大半だった。故に馬上弓において、右手側は射角が制限され死角となる。そして数少ない左利きの射手は、先ほどのケイの『コンパクト』な射撃で、そのほとんどが絶命していた。


 左利きの射手がやられていることに気付いた者たちが、慌てて右手に弓を持ち替え矢を放つ。が、吹き荒れる風、慣れない右手側への射撃、そして未だ冷めやらぬ動揺、万が一にも標的に命中させられる要素がなかった。


 まるで見当違いの方向へ飛んで行く矢をよそに、悠々と駆けるケイはむしろすれ違いざまに馬賊を射殺していく。弓に関して言えば、ケイは両利きだった。利き手での射撃に比べれば若干精度は落ちるものの、この距離ではあってないような誤差にすぎない。


 気がつけば、馬賊は三十騎弱にまで数を減らしている。ケイはサスケを減速させることなく、真っ直ぐにそのまま駆け続けた。


「逃がすか!」

「追えーッ!」


 想定外の大被害を受け、怒りに呑まれた男たちは乗騎を反転させその後を追う。一部冷静に、隊商への攻撃と天秤にかけた者もいたが、結局そのまま周りに合わせて追跡を開始した。


 馬には、自信があったのだ。厄介な騎兵を処理してから、じっくり鈍亀を始末すればいい。そんな考えもあった。


 しかし――


「バカなッ、速い!」

「離されてるぞ!」


 ぐんぐんと彼我の距離が開いていく。一目散に逃げるサスケは、速い。先ほどまでとは比べ物にならないほど速い。


 ピョートルと並走していたときと違い、今はサスケ一騎だ。もはや『普通の馬』にペースをあわせる必要がない。そしてサスケは、本来は凶悪なポテンシャルを秘める『バウザーホース』という名の魔物。むせるような血臭に、彼もまた昂ぶっていた。


 その背に揺られるケイはというと、勿論ぼんやりしているわけではない。サスケの背に仰向けに倒れこむようにして、反転した視界の中、次々に矢を射かけていた。無理な体勢のせいで狙いは甘くなっているが、一騎、また一騎と人馬がぬかるんだ大地に倒れていく。


「クソッ、追いつけん!」

「また一人やられたぞ!」

「そっちは後回しだ! 先に隊商をやる!」


 とうとう半数にまで数を減らされてしまった馬賊たちは、歯ぎしりしながらケイの追跡を取りやめ反転、隊商の方へと戻っていく。


「……意外と何とかなるもんだな」


 遠く、一人と一頭で残されたケイは、手綱を引いてサスケを休ませながら他人事のように呟いた。久々の全力疾走に、ゼエ、ゼエと荒い息をつくサスケの首筋を優しく撫でて、その労をねぎらう。


 人馬ともに傷一つないどころか、シーヴの魔術に頼る必要さえなかったのにはケイも驚いた。やはり最初に一当てした際、先頭の一騎が抜刀したお陰で一斉射撃を喰らわずに済んだのが大きい。酔狂な真似に助けられた、と考えるべきだろうか。その助けとなった人物が真っ先に死亡する結果となったのには、皮肉な笑みを禁じ得ないが。


 顔布の下で、ケイは乾いた笑みを浮かべた。見れば、そこら中にごろごろと人馬の死体が転がっている。食物のための狩りとは全く違う、格段に濃い血の匂いに頭がくらくらしていた。


「……すまん、サスケ、もう一頑張りしてもらうぞ」


 ケイがそう言ってぽんと首筋を叩くと、「しかたないな」と言わんばかりにサスケは鼻を鳴らした。チラッ、と首を巡らせて意味ありげにケイを見やったのは、終わったあとでのご褒美の催促だろうか。体力を消耗したことだし、何かの肉とたっぷりの水を上げよう、とケイは思った。忘れがちだが、サスケは雑食性の魔物だ。


「よし、行けッ」


 ケイがぽんと足で合図すると、サスケは再び滑るようにして走り出す。


 前方、隊商目掛けて駆けながらもちらちらと背後を窺っていた馬賊たちが、迫り来るケイの姿に血相を変えて馬を加速させる。


 ――逃がすものか。


 そんな想いを獣のような笑みに変えて、血臭に酔うケイもまた弓を構える。


 果たして、死神の追撃が始まった。


 バウザーホースの性能に物を言わせてあっという間に距離を詰め、馬賊たちの背中に容赦なく致死の矢を見舞う。


「散開し――ぎゃぁァッ!」

「慌てるな、落ち着いて――ぐえッ!」

「旋回して反げ――あガぁッ!」


 馬賊たちもどうにか組織だって抵抗しようとするが、無慈悲な矢がその生命を刈り取っていく。


 聡い者は、すぐに気付いた。皆をまとめようと声を張り上げる者から先に、死神に目をつけられていることに。


 気付かずに声を張り上げる者は、当然のように死んでいった。気付いても尚、現状を打開しようと試みた者は、続いて葬り去られていく。それを目の当たりにした、目端の利く臆病な者は口をつぐんだ。そもそも気付かず、リーダーシップも取れない者は、端から脅威足り得ない。


 結果的に、烏合の衆だけがその場に残される。


 まとまりもなくただ逃げることしかできず、それでいて各自自由に散開することもできない。何故ならば、群れから離れようとした者から真っ先に死んでいくからだ。己の命惜しさに、小魚のように群れることしかできない。


 そしてそれは、――ケイからすれば、もはやただの鴨打ちダックハントだった。


 当初、五十騎以上もいた馬賊の一群は呆気ないほど簡単に壊滅し、今やケイただ一騎に追い回されるだけの、惨めな存在に成り果てたのだった。




 そして、それを遠巻きに、驚愕をもって見守る者たちが居る。




「奴は鬼神か……!?」


 その中の一人は、隊商の責任者の中年親父、ゲーンリフだ。思わず迎撃の準備の手も止めて、愕然とケイの猛攻を眺めている。だがそれを咎める者は、その場に一人もいなかった。ゲーンリフが最高責任者ということもあるが、何より周囲の者たちもケイの凄まじい馬上弓に度肝を抜かれていた。


 元々、ゲーンリフはケイを信用していなかった。経歴も、敵ではないという意志表明も、その弓の腕前さえも。ケイの何から何までもだ。


 最初にケイがピョートルを残して反転したときは、「裏切り者が尻尾を出した」と激怒していた。敵の部隊に合流する動きと見たからだ。


 だが、蓋を開けてみればどうだ。


 死屍累々。まさにその一言に尽きる。あまりに現実離れした光景に、この短い間に何度目を擦ったかわからない。


 ――そう、短い間に。


 ケイの弓で死体の山が築かれるまで、本当にあっという間だった。ケイが戦闘状態に移行した直後は敵の演技や自作自演さえも疑ったゲーンリフだが、あまりの死体の多さにその考えを改めざるを得なかった。いくらなんでも、胴体と首を切り離すができる人間はいないし、こちらを油断させる罠にしては死人が出すぎているし、そもそもそんな罠を張る必要性もないと理性で判断できる。


 だからこそ、恐ろしかった。


 目の前で起きていることが――全て現実であると、認めざるをえなかったから。


 そしてそれは、おそらく周囲の面々も同じであった。これまでケイに敵対的であった者たちも、ピョートルを含む極少数の友好的・中立的であった者さえも。


 あの弓が自身に向けられていたら――そう考えてしまうのは、ある種の生物としての本能だろう。それと同時に、馬賊の一群が壊滅しつつある現状に安堵も覚えつつある。その相反する感情は、思考停止という形で表れた。



 しかし、それも長くは続かない。



 ゲーンリフたちと同様に、あるいはそれ以上に衝撃を覚えていた馬賊の別働隊がすぐそばまで迫ってきたからだ。自身を鼓舞するような雄叫びが、地鳴りにも似た蹄の音に混じって聴こえてくる。


「ゲーンリフ隊長、連中が来ます!」

「……迎撃態勢に入れ! 弓が使える者は構えろ、射程に入ったら順次放て! 馬を狙えよ! 手が空いてる奴は一枚でも多く盾と板を並べろ!」


 自身も弓を構えながら、ゲーンリフは指示を飛ばす。護衛の戦士や商人たちが弓と弩を構え、見習いたちが板や盾を手に走り回っている。


 そして、ゲーンリフのだみ声は、隊商の真ん中までハッキリと届いていた。


「……嬢ちゃん、隠れてた方がいいんじゃないか? 荷箱の間に隙間を作っといたから、ここに潜り込んでりゃ流れ矢くらいなら防げるぜ」


 公国の薬商人ランダールが、緊張した面持ちで円盾を構えながら荷台のアイリーンに声をかける。


「気持ちはありがたいけど、オレも戦うぜ」


 サーベルを片手に、しかしアイリーンは毅然と答えた。


「……つってもよ、嬢ちゃん」


 勇ましいのはいいが、と何とも言えない顔をするランダール。彼からすれば、可憐な少女が無理して粋がっているようにしか見えないのだろう。


 女だということもあるが、それ以上に見かけのせいで過小評価されるのはいつものことだ。アイリーンも慣れたもので、溜息をつくことすらせずに、ただ右手のサーベルを軽く振るって見せる。


 ピッ、ビシュッと腕の先がブレて見えるような、鋭い剣閃。決して力任せに振り回しているわけではない、無駄を削ぎ落とし、洗練された斬撃だった。


「……なるほどな。お飾りじゃなかったのか」


 ランダールも、力量を推し量れるだけの目は持っているらしい。気負う風もなく斬撃を披露したアイリーンに、神妙な顔で頷き、それ以上はとやかく言わなくなった。


「嬢ちゃんはなかなかできそうだな。期待してるぜ」

「護身程度さ。自分の身は自分で守ってくれよな」


 軽口を叩きながら、アイリーンは空いた左手で腰のベルトから投げナイフを取り出し――自分の手が震えていることに気付いた。ランダールから見えないよう、背後に手を隠しながら、苦笑する。


 ランダールの言うことも、あながち間違っていなかったかも知れない、と思ったのだ。


 だが。


 ここで、自分だけ隠れるわけにはいかなかった。


 遠く前方を見やれば、馬賊を追い回す騎兵――ケイの姿が見える。


(……ケイが、あれだけやってるんだ)


 周囲の人間はケイの武威に恐れ慄いているようだが、それ以上にアイリーンからすれば、その姿は痛々しかった。


 好きで、やっているわけではない。


 顔布の下がどのような表情であれ、今この瞬間に何を考えていようとも、それはケイが自分自身に冷徹な殺人機械であることを強いているだけなのだ。


 わかるだけに、痛々しい。


 だからこの痛みを、ケイにだけ押し付けるわけにはいかない。


 サーベルを握る手が震えて、カタカタと音が立っている。


 馬賊の雄叫びと蹄の音に、かき消されて聞こえないのは幸か、不幸か。


「……やってやるさ」


 深呼吸し、誰にも聞こえないよう小さく呟く。



 いよいよ迫りつつある馬賊を、アイリーンはただ、キッと睨みつけた。


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