43. 雨天
夜中、ケイが目を覚ましたのは、馬車の外が騒がしかったからだ。
ポロポロポロ、と幌を打つ雨音。わいわい、がやがやと男たちの声が聞こえる。が、さして緊張感のあるものではなかった。何か毒づいているようにも聞こえたが、雪原の民の言葉なので詳しい内容は分からない。
「……ん」
ケイの身じろぎに、同じ毛布の中、猫のように丸まっていたアイリーンがうっすらと目を開く。
「……どしたの」
「ああ、すまん起こしたか」
寝ぼけ眼のアイリーンに、囁き返すケイ。
「敵? じゃないよな? ……雨か」
「騒いでるみたいだな、何と言ってるかは分からんが」
「ん……『幌かぶせないと商品が駄目になる~』とか言ってる」
「ああ……」
肩をすくめるケイ。それ見たことか、とせせら笑う意地悪な自分がいることも自覚しつつ、それ以上に明日の旅路が心配になった。
「止むといいんだがな……」
「なー」
半ば諦めが混ざるケイ、それを察しながらも相槌を打つアイリーン。湿気のせいか、今宵は少し冷える。
「おやすみアイリーン」
「おやすみ、ケイ」
ケイたちは毛布の中、身を寄せ合って再び眠りについた。
「…………」
木箱を隔てた荷台の反対側、聞き耳を立てていたランダールもまた、静かに瞳を閉じて寝息を立て始めた。
†††
夜が明けても尚、雨は降り続いている。
降り始めに比べると雨脚は弱くなっているが、一向に止む気配は感じられなかった。馬車の幌から顔を出して辺りの様子を窺うと、隊商の面々は馬車に避難しているか、あるいは村に雨宿りに行ったようで、外に出ている者もほとんどいない。ただ一部、行く宛てが見つからなかったのか、木の下で馬共々濡れ鼠になっている者もいた。
「ケイの言う通りになったなぁ」
口の端を吊り上げて、おどけたような笑みを向けてくるランダール。
「……まあな。しかし、昼過ぎまで降り続けるだろうなこれは」
灰色の空を見上げてケイは溜息をつく。予報を的中させた喜びなど欠片もない。この雨の中を進むのか、と考えると、馬車の外に出るのすら億劫になる。
「……よっ、と」
しかしいつまでも管を巻いているわけにも行かないので、皮のマントを羽織り、ケイは意を決して荷台から飛び降りた。
ばしゃりと足元で跳ねる泥、フードに当たって弾ける雨粒。水はけが悪い土質なのか、野営地の地面はぬかるんでグズグズになっていた。続いて降り立ったアイリーンは、勢いがありすぎたのか泥水が顔にまで跳ねて「うえ~!」と服の袖で頬を拭っている。
馬車横の簡易テントで寛いでいたサスケが、「まさかこの天気で出かけるんすか?」とびっくりしたような顔をしているが、現実は非情だ。「諦めろ」とケイが首を振って見せると、呆然としたサスケの口の端からぽろりと食べかけの草が落ちた。
実は、この世界に降り立っておおよそ八十日が経過しようとしているが、ケイたちが雨の中で行動するのは今日が初めてだ。公国においても雨は幾度となく経験していたが、そういった日は積極的に遠出しようとは思わなかった。せいぜい、レインコート代わりのマントを引っ掛けて、少し外を出歩いたぐらいのもの。
今回の旅路に備えて、一応ブーツもマントも防水性能が高いものに新調してある。それがどこまで通用するかだな、とケイは今一度空を見上げた。
「雨が降っている。ケイの言った通りだった」
と、村の方からピョートルが歩いてきた。彼は知り合いの家に泊まっていたらしい。普段の鎧一式の上にゆったりとした皮の外套を羽織っており、背中に丸盾を背負っているのも相まって、その姿はまるで大きな亀のようだ。
「おはようピョートル。鬱陶しい天気だよ」
「おはよう。雨は本当に珍しい。人々にとっては水のために良いことだが」
困ったように肩をすくめて見せるピョートル。
軽く朝食を摂ってから、四人は出発の準備を始めた。村に泊まり込んでいた面子も続々と集結しつつある。その中に、ケイは例の奴隷の女を見かけた。憔悴して引きずられるように歩いていたが、少なくとも生きてはいる。
「…………」
「ケイー、そっちのロープ引っ張ってくれ」
「ん、ああ」
ランダールの声に呼び戻されたケイは、女から視線を外してロープを手繰る動きに意識を集中させる。二人がかりで木に引っ掛けていた幌を回収し、地面に触れないよう気をつけながら折り畳んでいく。
簡易テントを片付ける際、濡れたくなかったのかサスケが「いやん」と駄々をこねたが、スズカを始めとする他の馬たちが気にせずそそくさと外に出ていったので、渋々といった様子で自分も続いていた。
「……そんな顔するなって、どうせ今日中には止むさ」
濡れそぼって、どこか憮然とした表情のサスケ。ぽんぽんと優しくその首筋を叩いて慰めの言葉をかけたケイは、「よっ」と勢いをつけて鞍によじ登った。
「気をつけてな~」
「ありがとうアイリーン、また後で」
ひらひらとハンカチを振るアイリーンに見送られながら、ケイはピョートルとともに一足先に出発する。
隊商の円陣を抜け出し、村の土壁の横を通り過ぎる際、ドン、ドドン、と響く太鼓の音を耳にした。
「なんだ? これは」
壁の内側、村の方から響いてきている。それにかすかな歌声と、鈴の音。
「雨が降ったから、祝っているのだろう。小さな祭りだ」
右手の槍で空を示して、ピョートルが解説する。
「大地と、空の精霊、そして祖先の霊に感謝している。雪原の民はそうする」
「……成る程」
頷いたケイは、今一度、村と外界を隔てる壁を見やった。
ドドン、ドンドドンと独特なリズムを刻む太鼓。歌声は徐々に大きくなり、人々の踊る足音が聞こえる。楽しげな子供らの笑い声、彼らの姿は見えないが、喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。
彼らも自然に感謝することを知っているのだな、と。
ケイはふと、そんなことを思った。北の大地を訪れて以来、雪原の民に対するイメージは総合的に悪化しつつあったが――初めて、そんな彼らが少しだけ身近に感じられた瞬間であった。
視線を前に向ける。降り続ける雨のせいで、視界は白く霞み索敵もままならない。
ただ、こういう気分になれるなら、悪くはなかったかもしれないな、と。
"
†††
が、十分も過ぎる頃には、そんな気分など吹き飛んでいた。
やはり雨は駄目だ。視界が悪くなるのは当然としても、時折フードから顔に垂れる雨粒が鬱陶しくていけない。水滴が目に入るとそれだけで集中力が削がれるし、かといってフードを深くかぶり過ぎると、ただでさえ悪い視界が更に狭まってしまう。
また、新調したマントは遺憾なくその防水性能を発揮していたが、やはり限度があるのか革鎧の隙間から水が染み込んできていた。特に首元から胸にかけて、じわじわと湿っていくのがたまらなく不快だ。無性に肌着を引っ張り出したくなる。
一方、最初はテンション低めだったサスケは、しばらく走るうちに開き直ったらしく今は足取りも軽やかにぱしゃぱしゃと泥を跳ね上げていた。そう、石畳で舗装された街道の上を行くだけではなく、ケイたちは斥候として不整地を走り回る。お陰で跳ね返りの泥が酷く――ケイは早々にブーツやマントの裾を気にするのをやめた。
「大丈夫か、ケイ」
ケイの不慣れな雰囲気を察したらしく、ピョートルが声をかけてくる。
「ああ、なんとかな」
「そうか。わたしの後についてくるといい。泥に入ると動けなくなることがある」
「分かった、ありがとう」
ピョートルの誘導を受けながら手綱を捌く。この手のぬかるみは危ない、あのような色の水溜りは大丈夫、といった具合に、ノウハウを教わりながら慎重に進んでいく。幸い、ケイも目が良いので、危険なぬかるみとそうでないものの区別くらいはすぐにつくようになった。
「けっこう冷えるな」
誰に言うとでもなく一人ごちる。曇り空と雨のせいか、夏の癖に妙に寒い。夏、といっても秋が近づきつつある晩夏ではあるが、それにしても公国に比べると気温がかなり低いようだ。
(夏でこれなら冬はもっと酷そうだ……)
あと一ヶ月――いや数週間、旅の出発が遅れていたら北の大地に踏み込むことすらできなかったかもしれない。
(風邪でも引いたら大事だな)
『身体強化』の恩恵はあるが、あれは絶対の健康を保証するものではない。振り返れば、遥か後方にゆっくりと進む隊商の馬車の一群が見える。あの中ほどで自分と同じく雨に打たれているであろうアイリーンを思って、ケイは少し心配になった。
――その頃、アイリーンはちゃっかりランダールの馬車に同乗して雨風を避けていたのだが、ケイには知る由もなく。
「ケイ、次はあっちだ」
「了解」
目を凝らす。白く霞がかって見える雨粒のカーテンの先――鬱蒼とした茂みを見透かすように。
木立の中は薄暗い。枝葉を伝って滴り落ちる水滴が、外の雨音とはまた違ったリズムを刻む。しと、しと、と。柔らかな土に水の染み込む音。そよぐ風、弾ける雨粒、無数のさざめきに満ち溢れながら、静かな空間。
まるで、別の世界だ――平和で、ゆったりとした時間の流れ。
ごてごてと弓や鎧で武装して、敵がいないか覗き込んでいる自分自身が、酷く歪な存在に感じられた。
(この先に何があるんだろうか……)
ふと、そんな思いが去来する。あまり、考えたくないことでもあった。この旅路の果てに何が待ち受けているのか。
何もないということはあるまい、とケイは思う。
ウルヴァーンの図書館で調べた限り、ファンタジックな『こちら』の世界においても、"魔の森"は異質な存在であった。また、あの森と併せて語られる伝説――霧から現れる異邦人の話は、あまりにケイたちの境遇に合致しすぎている。行けば何かしら見えてくるものがあるだろう、という確信があった。
だからこそ、怖い。
仮に『何か』が判明した場合、アイリーンはどうするのか。元の世界に『帰れる』と分かった場合、彼女はそれでも尚、『こちら』に留まることを選ぶのか。
選んでくれるのか――。
思い返すのは、これまでのことだ。まず『こちら』に来て早々、彼女は毒矢を受けて死に掛けた。その後も草原の民に襲撃されたり、"
地球も決して楽園と呼べるような世界ではなかったが、それでも彼女が日常生活に戻れば、そこはきっと、平和で、豊かで、便利で――。
――果たして、彼女が『こちら』に留まる理由はあるのか?
そう自問したとき、ケイは言葉に詰まるのだ。
正直な話、ケイはアイリーンとずっと一緒にいたい。彼女の存在は、もはやケイの中で大部分を占めている。元々、仲が良かったこともあるだろう。『こちら』に来てからは唯一の同郷の士であったこともあるだろう。互いに惹かれあい、今では恋人同士だ。彼女がいない生活など想像したくもない。
それでも、もし。
彼女が『帰る』と言ったならば、自分は――
「…………」
ぎり、と手綱を握る手に力がこもる。
「ケイ、どうした?」
「いや、なんでもない」
ピョートルが問いかけてくるが、首を振って答える。
「……いかんな」
こうして冷たい雨に打たれていると、どうにも思考が暗い方へと引きずられてしまう。革兜越しに、こつんとこめかみを叩く。悪い考えを追い出そうとするかのように。
「…………」
そうさ、なんでもないことさ、と呟いた。
ざあぁっ、と横薙ぎの雨がケイを打つ。
元々、思い悩んでも、それほど意味はないのだ。
この世界に残るのか、あるいは帰るのか。それはアイリーン自身が決めることだし、それが幸せかどうかも、アイリーン本人が判断するべきことだ。
確かに、「一緒にいてくれ」と一言告げて、彼女の心に楔を打ち込むのは容易い。あるいは、そうするべきだと言う男も、世の中にはいるかもしれない。
ただ――やっぱりケイは、それは何か違うと思うのだ。
この旅が始まる前から、常日頃考えていたことだった。彼女の自由意志に任せる、とうそぶきながら、一緒にいてくれることを期待するのは傲慢ではないかと。今までは、そう思ってしまうのも仕方のないことだと、考えるのを途中でやめていた。
ただ、今は違う。今回の旅を通して、ケイの心構えも変わった。
なぜ自分はここにいるのか。それを考えると、答えはひとつしか出てこない。
愛ゆえだ。
アイリーンのために、自分にできることをしたかった。そして、その想いをじっくりと見つめなおすと、おのずと見えてくるものがある。
やはりアイリーンには幸せになって欲しい。自分がこの世界にやってきて救われたように、屈託なく笑っていて欲しい。そのためなら、何だってできる。何だってやってやる、と叫ぶ心が。
だから――
もし、旅路の果てに、答えが見つかったならば。
そしてその上で、彼女が本当に元の世界に帰りたいと願うならば。
笑って見送ろう、と。
ケイは静かに覚悟を決めた。
(……まあ、土壇場でどうなるかは分からんが)
思わず苦笑する。泣きながら「行かないでくれ」と縋り付く自分の姿が、容易に想像できてしまったからだ。
ただ、何はともあれ、アイリーンが幸せでいて欲しいと、そう願う気持ちは本物だ。それゆえにこうして北の大地くんだりまで態々やってきた。そのことに、少しくらいは胸を張ってもいいだろうと、ケイは気持ちを切り替える。
心なしか、目の前が明るくなってきた。
いや、目の錯覚や、気持ちの変化によるものではない。前方、遥か彼方に雲の切れ間。わずかに青い空が覗いていた。
"天使のはしご"と呼ぶのだったか――陽光が幾条もの線となって降り注いでいる。そしてケイは、そこにうっすらと浮かび上がる虹色の光に気付いた。
「やあ、これは」
前を進んでいたピョートルが、槍を掲げて子供のような笑みで振り返った。
「ケイ。虹だ」
「……みたいだな」
ぽかんと、間の抜けた顔でケイは答える。肉眼で虹を見るのは、実に十数年ぶりのことだった。最後に見たのは――病院の窓から、外を眺めたときだっただろうか。
いつの間にか、雨もぱらぱらと小降りになっている。そういえば、こんな天気の日は虹が出やすいのだった、とケイはおぼろげに思い出した。鷹のそれより優れた両眼は、七色のグラデーションを克明に映し出す。幼い頃の記憶よりも、ずっと色鮮やかに。
「ケイは、虹を見るのは初めてか?」
あまりにもケイが呆然としているので、面白がるように問うピョートル。
「……いや、初めてじゃないが。随分と久しぶりのことだったから」
我に返ったケイは、少し気恥ずかしげに笑って、再び虹に視線を戻した。
「……綺麗だな」
公国では、雨の日には屋内にこもっていることが多かった。街中で過ごしていたこともあり、虹を見かけるような機会にはとんと恵まれていなかったのだ。
雨の日に出歩くのも悪くないじゃないか、と。そう思えた。
「……ん」
しかし、視界の端に、小さな違和感を覚えてケイは声を上げる。
――黒点。
それは、鳥だった。一羽の黒い鳥が、ゆっくりと上空を旋回している。そのフォルム、濡れたような闇の色――鴉だ。
じりっ、と首筋に焼け付くような、かすかな感覚が走る。
ケイが眺めているうちに、急降下した鴉は、そのまま吸い込まれるようにして前方の木立へと消えていった。
鬱蒼と茂みが生い茂る、まるで小さな森のような暗い木立。
「……ケイ? どうした?」
「…………」
注視する。
彼我の距離は五十メートルほどか。ケイの目を以ってしても、何か不審なものは捉えられない。
ただ、なんだろう。
のっぺりとした、澱んだ空気を感じる。
ケイは無言で、矢筒から一本の矢を抜き取った。"竜鱗通し"につがえ、構える。引き絞って狙うのは、もちろん前方の木立だ。ふるりと、動揺するような気配を感じ取った――気がした。
放つ。快音。銀閃が弧を描き、木立に吸い込まれ――
ぐわん、と音すら錯覚させる勢いで、木立の闇が討ち払われた。
「なっ」
ケイは目を見開く。
数十の瞳。
その視線に曝されて。
偽装、隠蔽、認識阻害。そういった類の術式を自身が『破った』ことに気付き、全身が総毛立つ。
そして次の瞬間、
ヴヴヴヴヴンと、
一斉にウッドベースをかき鳴らすような音が。
木立から銀色の光が飛び出した。その数、少なく見積もっても五十。
ヒゥウウゥゥと背筋が寒くなるような音を立てて、無機質な矢の群れが、まるで横殴りの豪雨のように――
「あ、あああ……!」
咄嗟に盾を構えながらも、ピョートルが絶望したような声を上げる。多すぎる。とてもじゃないが、避けきれない――
「シーヴッ!!」
ケイはそれに構わず叫んだ。
【 Arto, Zetsu!! 】
サスケの額当て。
ズチュッ、ドチュンと音を立てて周囲に矢が突き立つ。しかし一本たりとてケイたちを傷つけることはない。不自然な風に押し流され、悉く逸らされたのだ。
くすくすくす、とかすかに響く、あどけない少女の笑い声――
「ケ、ケイ……」
「戻るぞ!!」
何が起きたのか分からない、といった様子で驚愕に打ち震えるピョートル、叱咤するように叫ぶケイ。いななきを上げて、隊商の方へ向かって猛然と駆け出すサスケ、ハッと我に返ったピョートルも乗騎に鞭を入れてその後を追う。
背後で雄叫びが上がった。振り返れば、木立から続々と姿を現す騎馬の一群。
褐色の毛並みの馬、跨る男たちは革鎧を身につけ、その手には小型の複合弓。
そう、間違いない――
『敵襲、敵襲――ッ!』
あらん限りの声で、ピョートルが叫ぶ。
激しく揺れる馬上、ケイは矢筒から鏑矢を引き抜き、放つ。
ビイイィィィと鋭い音が、灰色の空を引き裂いた。
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