41. 夜営
その日、ゆっくりと、しかし着実に歩みを進めた隊商は、日が傾き始める前に夜営の準備に取り掛かった。
街道沿い、小さな木立の中。
綺麗な水の湧き出る泉を取り囲むようにして、隊商の馬車で円陣を組む。馬車と馬車の隙間には地面に杭を打ち込み、木の板を立てかけ即席の大盾とした。壊れやすい車輪には厚手の布を何度も巻きつけて衝撃を吸収できるようにし、円陣の外側にも杭を乱雑に打ち込んで反対側を尖らせる。極めつけに、ちょうど足の高さのところにロープを張り巡らせて、ついでに鳴子まで設置した。
徹底した馬賊対策。まるで小さな要塞だ。
木立の枝葉は頭上から降ってくる矢の威力を殺し、杭やロープ、木立の木々、そして馬車そのものが騎兵突撃を妨害する。
面白いのが、円陣の一箇所にのみ、わざと穴が開けられていることだ。
その『穴』の外側にはロープなども敢えて取り付けられておらず、追撃の際には隊商の騎兵が速やかに打って出られるようになっている。守りを固めるときでさえ攻めの姿勢を忘れない、雪原の民の気質がよく現れていた。
そして、それらの防御策を講じた上で、鳴り物入りで執り行われたのが――
『やあやあ、漸く私の出番か。こんばんはお嬢さん』
『こんばんは、ヴァシリーさん。ではよく見ていて頂戴ね』
円陣の真ん中の焚き火のそば、鴉に憑依したヴァシリーに見守られながら"
【 Kerstin, mi dedicas al vi tiun katalizilo ――】
触媒を捧げるアイリーンの周囲には、隊商の面々が興味津々な様子で集まっていた。
『なんでぇこりゃ?』
『敵が近づいたら知らせる魔法だとよ』
『へー。本当なら便利だな』
『俺は敵を呪い殺す術だって聞いたぞ』
憶測混じりのひそひそ話を交わしながら、野次馬の輪が、徐々に徐々に警報機の方へと近づいてくる。下手に弄られて壊されたら堪らない、と思ったアイリーンは、
『……迂闊に触ると呪われるわよ。気をつけてね』
その言葉と同時、警報機から影の触手がウネウネウネッと爆発的に飛び出した。人の波がさぁっと引いていく。
『んふっ』
すぐそばで見守っていたヴァシリーが、翼を震わせて笑いを噛み殺す。最初から術式の発動を見守っており、かつ呪いのスペシャリストでもあるヴァシリーは、アイリーンの言っていることが丸きりデタラメだと分かっているのだ。
『ほ、本当なのかヴァシリー殿?』
『うーん、否定はしない』
ただ、警報機が壊されたら困る、というアイリーンの思惑も理解していたので、余計なことは言わない。
そして、無事魔術の発動を見届け、その内容が正しく敵警戒の術式であることを確認したヴァシリーは憑依を解いて戻っていった。
結界を張っている間に日はとっぷりと暮れ、隊商の面々は夕餉の用意を始めている。全体の人数が多いので、数人ごとのグループに分かれて各自で食事を摂るのが基本だ。
昼間のうちにアイリーンが話していた通り、ケイたちは公国の商人の馬車を訪ねることにした。折角なのでケイは途中で見かけたピョートルを誘い、一緒に連れていく。
「こんばんはー」
「お、来たか嬢ちゃん!」
周りのものに比べると小型だが、造りのしっかりした荷馬車の傍ら。焚き火にかけた鍋をかき混ぜながら、ケイたちを出迎えたのは三十代前半の男だ。
印象としては顔が四角い。茶色の髪を短く刈り上げて角刈りにしているせいで、尚更そう見える。ケイの姿を認めた男は黒っぽい瞳をくりくりとさせながら、人好きのする笑みを浮べて手を差し出してきた。
「おおーこれはこれは! 武闘大会の優勝者の、ケイチ殿でいいのかな!」
「ああ、そうだ。ケイチじゃなくてケイイチだが……みな俺のことはケイと呼ぶ」
その手を握り返しながら、ケイ。
「ん? ちょっと発音の違いが良く分からないが……まあいい。おれは『ランダール』っていうんだ、見ての通り行商人だ。よろしくな!」
「こちらこそよろしく」
随分と威勢の良い行商人だ。何というべきか、
一方でランダールは、ピョートルに注目している。
『……えーと……こんばんは?』
『おや、君は雪原の言葉を話すのか』
『少しだけ、学びました。商売のために』
『それはいいね』
気さくに笑ったピョートルは、ランダールに手を差し出す。
「……わたしも、公国語を話す。少しだけ」
「ああ、そりゃあ助かる」
お互い何か感ずるところがあったのか、笑顔で握手する二人。
「さあて、スープを作っといたんだ。じゃんじゃん食べてくれ!」
ランダールが馬車から引っ張り出してきた小さな椅子に腰掛け、四人で鍋を囲む。
「ありがたいな。わたしは乾パンとハチミツを持ってきた」
「オレはドライフルーツ持ってきたぜ!」
「……俺は特に何も用意してなかった」
「ケイは嬢ちゃんとまとめてカウントしていいんじゃないか?」
各自持ち寄った器にスープを注いでもらう。何やら香ばしくて良い匂いだ。木のさじで軽くかき混ぜてみると、ソーセージや刻まれた野菜がごろごろしており、多種多様な乾燥ハーブが入っているのが分かった。口に含んでみればよく利いた塩味、濃厚な肉の旨みが疲れた体に染み渡る。ケイは思わず唸った。
「うぅむ……美味い」
「そいつぁ良かった」
晩夏、北の大地の夜は冷え込む。革鎧一式に加え、皮の外套を羽織っていても肌寒いほどだ。暖かいスープは有難かった。
「これは美味しい。
ピョートルも大満足の様子。アイリーンに至っては無言で食べるのに集中している。
「馬車があると、やっぱり色々と材料を持ってこれるんだなぁ。馬だけの旅だとこんな美味しいスープは作れないよ」
「だろうな!」
しみじみとしたケイのコメントに、うんうん、と腕を組んで頷くランダール。
「美味い飯は人生の楽しみ。たとえ旅でも蔑ろにはしたくないもんさ。ただし、馬車がイカれたら荷物も全部パーだ! それも怖いぞ!」
「……たしかにな。そういえばランダールは何の商人なんだ?」
ケイが尋ねると、ランダールはひょうきんな笑みを途端に穏やかなものに変える。
「主に医薬品だ。あとは香水を商っている」
コトコトと音を立てる鍋を見つめながら、流れるように、歌うように答えた。驚くほどテンションに落差がある。ケイは目をぱちぱちと瞬かせた。
「香水に薬か、それは――」
意外だな、と言おうとして、失言であることに気付き慌てて口をつぐむ。毛皮や干し肉など、もっと大雑把なものを売っているイメージがあったが、よくよく考えれば公国からわざわざ出向いてきているのだ、『普通』な品物を扱っているわけがない。
「香水?」
「医薬品か」
アイリーン、ピョートルともに興味を示す。
「ああ。嵩張らなくて、良い値で売れる品物っていったら限られてるからな」
コンコン、と自身の馬車の車輪を叩きながら、ランダールはニカッと笑った。
「医薬品は助かる。公国の薬はとても良く効く」
馬車を見上げるピョートルの目には、どこか憧れるような光がある。しかし、ふと視線を下げてランダールを見据えたピョートルは、
「ランダールは、一人か?」
「……ん? っていうと?」
「いや。普通の商人は……なんと言うべきか。手伝う人を連れていることが多い。だがランダールは独りに見える」
ピョートルの指摘に、ケイとアイリーンも「確かに」と頷いた。周囲の年かさの商人は大抵若い見習いを連れているし、あるいは手伝いとして家族を同伴させていることもある。だがランダールは馬車を持つ商人であるにもかかわらず、独りきりだ。
「ああー……まあ、おれはなぁ」
しばし目を泳がせたランダールは、クヒヒと悪ぶるような笑みを浮かべた。
「弟子を取る余裕がないってトコだな!」
「そうなのかー? でも余裕はありそうじゃん、馬車も良いの使ってるし」
「ん、まあ嬢ちゃんの言う通り馬車は結構イイヤツだけどさ。仕入れと馬車の維持で金がかかるんだコレが……。見習いやら手伝いやらを連れて行くとそいつらの面倒も見ないといけないし、今のおれには荷が重いや」
「ふーん、そんなもんか」
「自分ひとりなら儲けは全部おれのもの! この身体一つで頑張ろう! ってな」
ふんっ、と力こぶアピールするランダール。
「で、薬はベルヤンスクで売るのか?」
スープをもぐもぐと食べながら、ピョートルはマイペースだ。
「お、おう。そのつもりだぞ」
「可能なら、東部でも売って欲しい。辺境では薬が不足している」
食べる手を止めて、静かに、そして真っ直ぐに見つめるピョートルに、ランダールは調子が悪そうに目を逸らす。
「辺境の話は聞いたことあるさ。でももう納品先が決まってるんだ」
「そうか……」
少しだけ残念そうに頷いたピョートルは、乾パンをスープに浸してふやかし始めた。
「……そういや、薬とか売ったあとはどうすんの? 何か別のもの仕入れたり?」
代わって、今度はアイリーンが質問し始める。
「まあ、そうなるなぁ。船と一緒で、荷馬車を空っぽのまま動かすのは、やっぱり馬鹿らしいや」
「北の大地の特産品とかあったっけ。何を買うつもり?」
「商人にズカズカ聞いてくるなぁ嬢ちゃん! まあいい。おれぁ取り敢えず武具だな」
「武具でいいのか?」
アイリーンとランダールの会話に、黙って聞いていたケイも思わず口を挟む。
「サティナでは最近、武器やら防具やらが売れなくて困ってるようだが……」
心配げな口調だ。戦役による特需がなくなり、多くの職人があぶれているサティナの街の現状を思い出す。
「ああ。公国産のは、そうだな。ただ北の大地の武具はとにかく質がいい! 銀よりも更に輝くような金属――"
熱の篭ったランダールの説明に、ケイは瞬間的に、とある青年を思い出した。まるで嵐のように青い風をケイとアイリーンに吹きかけてきた、あの雪原の民の若き戦士を。
アイリーンを見れば、彼女も同時に思い出したのか、苦笑している。
「ん、どうした、二人とも?」
「いや、ある雪原の民の戦士を思い出してな。そいつもその白銀の武具を使っていたよ、確かに驚くほど頑丈だった」
"
「"真なる銀"の武具はとても珍しい。入手できるのか?」
興味深げなピョートル。ランダールは悪戯っ子のような笑みでウィンクした。
「まあ、アテはある、とだけ言っておこう!」
「ほう。凄いな」
感心した様子で何度も頷くピョートルに、ランダールも心なしか自慢げだ。
(俺も欲しいな……)
ケイは、どちらかというと物欲がないタイプの人間だが、それでも"真なる銀"の武具は非常に魅力的だった。実際、ケイの"
「なあ、相談なんだが……」
もしその武具が手に入ったら、予算はあるので売ってもらえないか、とケイが言おうとした、その瞬間。
野営地に悲鳴が響き渡る。
か細い女のそれだ。ケイは思わず傍らの"竜鱗通し"に手を伸ばしたが、立ち上がる前に様子がおかしいことに気付く。
周りの者たちが――特に雪原の民の商人や護衛たちが、にやにやと笑っていたのだ。皆の目はケイたちの居場所の対面、円陣の反対側に向けられていた。
その視線を辿っていくと、――ひとりの女。
この肌寒い中、ボロ布のような服しか着ておらず、何人かの男たちに手足を押さえつけられて、いやいやと首を振って必死に抵抗していた。
髪は、黒色。そしてその顔には、複雑な模様の刺青が刻まれている。
――草原の民だ。
『なんでぇ、女がいやがるのか!』
『おう、今回に備えて一人買っておいたわけよ』
冷やかすような声に、恰幅の良い中年の商人が上機嫌で答えた。そして未だ抵抗を続ける草原の民の女に視線を移し、見下すように顔をしかめたかと思えば、その手の鞭を無造作に振り下ろす。
バシンッ、バシィッという激しい音、再び絹を裂くような悲鳴が上がった。
『大人しくしねえかッ! くびり殺すぞ!!』
乱暴に髪を掴んだ男の罵声に、怯えた女は身体を縮こまらせて動かなくなる。
ただ、それでは終わらなかった。
むしろ、始まりであった。
彼女の手を押さえつけていた男の一人が、そのボロ布のような服を無理やり剥ぎ取ったのだ。焚き火の明かりに、褐色の裸身が曝される。
当然のように身体をくねらせて抵抗しようとする女だが、そこに更に鞭が叩きつけられ、ビシィッと先ほどよりも鋭い音が鳴り響く。
もはや悲鳴すら上げず、大人しくなった彼女に、周りの男たちが群がっていった。
『おい! それ終わったら、あとで使わせてくれよ』
『構わんが、金は取るぞ』
『幾らだ!』
『んん、まあ小銀1といったところか』
『高い! 銅5で上等だろう』
『アホか、流石に安すぎるわ』
やいのやいのと、周囲の傭兵たちもまた騒ぎ始める。
「…………」
ケイは、彼らが何を言っているのかはさっぱり分からなかったが、しかし何が起きているのかはハッキリと分かった。
対して、彼らの言葉が全て分かるアイリーンは、顔面を蒼白にしていた。目の前で、あまりにも普通に行われている『それ』のおぞましさに、ただただ悪夢を見ているような、冷たい震えが、走る。
ランダールは目を背けていた。ただ瞳に鋭利な光を湛え、どこまでも無表情に。
そして全く見向きもしないピョートルは、スープの残りをかき込んで、ふぅと小さく溜息をついた。
「……普通、この大きさの隊商には、娼婦がいる」
木の器を足元に置いて、ピョートルは訥々と語る。
「だが、最近は馬賊のせいで、娼婦が隊商についてこない。だから――」
無感動な目が。
「――奴隷を買った。彼らはそういうことをしている」
沈黙。
ただ向こう側から聞こえてくる男たちの声と、ひとり、押し殺すような泣き声と。
「…………」
ケイは動かないし、動けない。
庇い立てするようなことをしたり、あるいはひどく同情するような言動を取れば、隊商内での立ち位置が更に危うくなると容易に想像できたからだ。
それでも、胸糞は悪い。
愛の介在しない一方的な行為がここまでおぞましいものであったとは、考えれば想像の届く範囲、しかし理解の範疇を超えていた。顔から血の気の引くような感覚はある。だが心はまるで凍りついたように動かない。
隣を見ればアイリーンが、無意識の所作なのか、己の身体を抱いて震えていた。その顔は気の毒なまでに蒼い。
そしてケイは気付く。
周囲の、享楽の宴に参加していない、できていない男たちが、アイリーンに酷く粘着質な視線を向けていることに――
要塞のように頼もしかった隊商の円陣が、一転、今は蟻地獄のように感じられた。
「……スープが冷めちまう」
沈黙を打ち破ろうとするかのように、呟いたランダールが、器にスープを注ぎ足して黙々と食べ始める。ケイもそれに倣い、冷えかけのスープをひとさじ、口に運んだ。
「…………」
相変わらず、濃い味付けと肉の旨みが感じられた。
ケイは何ともいえない遣る瀬無さを、スープの具とともに噛み締め、飲み下した。
†††
結局、男たちの唾棄すべき行為はなかなか終わる気配を見せなかったが、明日に備えてケイたちは寝てしまうことにした。
ランダールの馬車のそばにテントを張る。はからずも、それはこの限られた円陣内の領域において、暴虐の現場から最も遠い場所でもあった。
ひとつだけ、この隊商に参加して、良いと思えることがある。
それはケイもアイリーンも、夜の見張りをする必要がないということだ。アイリーンは警戒魔術の対価として。ケイは翌日の斥候の任務に支障が出ないようにするため。
ちなみにケイと同様、ピョートルも夜番を免除されているらしい。
会話もないままテントに潜り込んだケイたちは、しかし、寝転がると同時に、やはり互いの存在を意識した。せざるを得なかった。
テントの布越しに、外からは男たちの声と、くぐもった呻き声のようなものがかすかに聞こえてきている。泣き声だと萎える、という意見を受けて、女の口に詰め物がされたからだ。それを『幸いにして』とは、とてもではないが言える気分ではない。
「……ケイ」
暗闇の中、アイリーンがそっと手を握ってきた。
こうして、彼女と肩の触れ合う距離にいても、性欲は欠片もわかなかった。どちらかと言えば「吐き気を催す」という表現に一番近いものがある。
ケイも、ぎゅっとアイリーンの手を握り返した。互いに何も言わないが、少なくとも同じ気持ちを共有できている、という確信はあった。
ある種の諦めにも似た気持ちで、ケイは密かに嘆息する。この調子ではぐっすりとは眠れまい。
明日の斥候に響かねばよいが、と思いながら、ケイは静かに瞼を閉じた。
――しかし、その浅い眠りが、この日に限っては良い方向へ働いた。
真夜中のことだ。唐突に、キーンッという澄んだ金属音が響く。眠り込んでいたケイもアイリーンも、カッと目を見開いて跳ね起きた。
"警報機"が鳴ったのだ。
アイリーンは枕元のサーベルを手に、ケイは弦を外した状態の"竜鱗通し"と矢筒を引っつかんでテントから飛び出した。
『何が起きたの!』
『わ、わからねえ! これが急に……!』
アイリーンが見張り担当の男に尋ねるが、彼は"警報機"のそばでうろたえているだけだった。何か目に見えて異変が起きているわけではないらしい――少なくとも、まだ。
騒動を聞きつけたか、隊商の面々も続々と目を覚ましつつあった。取り敢えず、ケイは急いで"竜鱗通し"に弦を張る。そしてそれ終えるとほぼ同時、"警報機"から影の手が伸びて西を指差した。
西へ駆ける。
「おい、どうしたんだ?」
騒ぎに目を覚ましたらしいランダールが――叩き起こされた割には全く眠気を感じさせない様子だ――尋ねかけてくる。ケイはそれに答えずに、幌を外された彼の馬車の荷台に飛び乗り、暗闇の向こうへと目を凝らした。
僅かな月明かりの下で、木立の向こう側、短い草が風に揺れている。
――いや、それだけではない。
ケイの瞳孔が拡大する。
見透かされる闇。
そう、それは視線だ。
ケイは見つけ出した。遥か前方、草むらの影に潜み、こちらを窺う一対の瞳を――
咄嗟に矢筒から矢を引き抜き、つがえ、放つ。
快音。
白羽が夜の闇をつんざいて引き裂いていく。
鋭い音が鳴り響くと同時、反射的に身を起こした『それ』の肩に矢が突き立った。風にまぎれて、かすかに「ギャンッ」という鳴き声。
「狼……!」
顔を険しくするケイの隣、同じく荷台に上がってきていたランダールが、闇の向こうから聞こえてきた悲鳴にピゥッと口笛を吹く。
「凄いじゃないか、
「いや、仕留め損なった。……サスケ!」
ケイが指笛を吹き鳴らすと、馬車の近くで待機していたサスケがトットットッと駆け寄ってくる。その背中に飛び乗り、ケイは追撃を仕掛けるべく円陣の外へ出ようとした、が――
「待て! 何処へ行くつもりだ!」
隊商の長、ゲーンリフが厳しい表情で眼前に立ち塞がった。
「追撃だ。仕留め損なった」
「敵が何人いるかもわからん。状況がはっきりするまで防御するべきだ、留まれ」
「いや、俺が見たところ敵はいなかったが、ただ――」
「留まれと言っている!」
ケイが事情を説明しようとするも、でっぷりとした腹の肉を揺らしたゲーンリフが不機嫌な顔でその言葉を遮った。
「勘違いするな。ヴァシリー殿はああ言われたが、私はそもそもお前のことを信用していない。……お前が馬賊の一員である可能性を忘れたわけではないのだ」
ふん、と鼻を鳴らしてゲーンリフ。
「兎に角、状況がはっきりしない以上、無闇に動くことはならん」
「しかし――」
「何度も言わせるつもりか? ……今、そこまでして外に出たいのか?」
ゲーンリフは、すっと目を細める。あまりに恣意的な解釈に流石のケイも閉口したが、ここは事情を説明するべきだと再び口を開こうとして――やめた。
周りを取り囲む、隊商の面々を見たからだ。
皆、無言のうちに、ケイに疑うような目を向けていた。何人かは、剣の柄に手をかけている。
この状況で抗弁するのは、あまりに雰囲気がまずい。そして時間が経つうちに、自分の『見たもの』への確信が揺らいでくるのを感じたケイは、小さく溜息をついてサスケから降りた。
「……明るくなったら、何人かつけて現場の確認に行かせてくれ」
「うむ、それなら許可しよう」
鷹揚に頷いたゲーンリフは、周囲の面々に何か一言二言声をかけて手を振った。男たちが四方へと散っていく。大方「警戒に戻れ」とでも言ったのか。
サスケの手綱を引きながら、歩いてアイリーンの元へ戻るケイは、それでも背中にチクチクと刺さる猜疑の眼差しを感じていた。
「……あれは」
不安げな顔で、ケイは西を見やる。
先ほどの狼。
やはり考えれば考えるほど、妙な点が多すぎる。
ピョートルが言っていたではないか。北の大地の狼は、銀色の毛で比較的小柄、かつ群れで行動すると。だが先ほどの『あれ』は一頭だけだった。
しかも、闇に溶け込む毛の色は、黒。限りなく夜に近い色。
そして、その体格――ケイの目に狂いがなければあれは間違いなく、大の大人と同等か、あるいはそれ以上のものがあった。
黒毛で、かつ巨大な狼など、ケイは一種しか知らない。
「――ハウンドウルフ」
ぽつりと。
ケイの呟きは、冷たい夜風に流され、そのまま消えていった。
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