40. 斥候


 北の大地は起伏に乏しい。内陸部では特にそれが顕著だ。


 地平の果ての険しい山脈に突き当たるまで、延々と続くなだらかな平野。生い茂る草は枯れかけているような薄茶のもので、吹き抜ける風にかさかさと音を立てている。夏の降水量が少ないため、空気が非常に乾燥しており、風も心なしか埃っぽい。瑞々しい青色が一面に広がる公国の丘陵地帯とは大違いだ。


 そしてそんな乾いた大地を真っ直ぐに貫く石畳の道――ブラーチヤ街道。


 ディランニレンを発ってから一時間余り。


 隊商から百メートル強の距離を保ち、ケイとピョートルは警戒任務にあたっていた。


 左手に"竜鱗通しドラゴンスティンガー"を、右手には手綱と矢を握るケイは、臨戦態勢にありながらも程よく肩の力を抜き、良い意味で気楽に構えている。ぱかぱかと蹄の音を立てるサスケは、いつもよりキリッと、凛々しく見えた。おそらく隣のピョートルが跨っている黒毛の雌馬に、良いところを見せようと張り切っているのだろう。


 二メートルほどの槍を肩に担いだピョートルは、ケイと同様、泰然としている。背中にはアイリーンのように木の丸盾を背負っており、鞍には矢筒と小型の複合弓も備え付けてあった。槍が得意らしいが、いざとなれば遠近ともに対応可能な装備だ。


「普段なら、この辺りはとても平和だ」


 ピョートルは槍を指揮棒のように動かして、周囲を示してみせた。


「水場がないので、しばらくこんな景色が続く。見ての通り、隠れる場所が少ない」

「そうだな」


 このような開けた場所での遊撃・偵察は、本来ケイの最も得意とするところだ。時折思い出したように木立が点在する他、視界を遮るものは何もなく、また仮に隠れていたところでケイの目から逃れるのは難しい。


 出発して以来ずっと平野が続いており、馬賊はおろか人っ子一人見かけなかった。


「ただし、しばらく進むと川や湖があって、集落も増えてくる。そのお陰で、……何と言うのだろう。木が増えてくる。あのような形で、多めに」


 単語を知らないのか、言葉に詰まったピョートルは近くの木立を指差す。


「森か?」

「森もある。だが、もっと小さい」

「木立か」

「そうだ、木立だ」


 ぱん、と膝を打つピョートル。彼との会話は毎回こんな調子だ。しかしケイも悪い気はしない。いつもは単語を教えてもらう側のケイにとって、自分が誰かに英語を教えるのはなかなか新鮮な体験だった。


「ケイの公国語は分かりやすい。とても簡単に話す」

「それは良かった」


 片や赤毛でゴツい雪原の民、片や草原の民風の重装戦士という組み合わせだが、両者ともにニコニコとしており、とても朗らかな雰囲気だ。


「だから、明日以降は気をつけるべきだ。木立の中に敵が隠れているかもしれない。敵の斥候を先に見つける。そして出来れば殺す。それがわたしたちの仕事だ」

「……ああ、そういうのは得意だよ」


 己の手の得物を揺らして、ケイはシニカルに笑う。


「む。待て、殺すは間違いだ。情報のために、一人は生かしておいた方が良い」

「分かった、気をつけよう」


 "竜鱗通し"の一撃は重い。近距離ならば手足を狙うなどして手加減できるが、距離が離れてくるとどうしても胴体に当たりやすくなる。慎重に狙いをつけるべきだろう、さもなくば肉の塊を量産する羽目になる――


「……ん」


 と、そのようなことをつらつら考えていた折、視界の端に気になるものを捉え、ケイは馬足を止める。


「どうした、ケイ」

「何かが動いた。あの木立だ」


 前方二百メートルほどの街道沿い。ピョートルは手をかざして目を細めた。


「……遠いな。見えない」

「小さく見えた。兎かな、少し脅かしてみよう」


 矢筒から一本、質の良くない矢を選んで抜き取ったケイは、無造作につがえて放つ。


 カァン! と響く快音。


 風に乗った矢が高く天頂まで伸び、ゆるやかに弧を描いてすとんと木立に落ちる。がさがさと茂みを震わせて、一羽の野兎が慌てた様子で飛び出してきた。


「やっぱり兎か」


 ふふ、と微笑みながら構えを解くケイに、隣のピョートルは呆れたような顔をする。


「……ケイはとても良い目を持っている」


 そして、至極当然のようにやってのけたが、二百メートル前方を狙ってさらりと矢を放ち、目標地点に命中させる腕前も尋常ではない。


「"ドルギーフ"の氏族を思い出す。彼の一族の戦士は皆、鷹のような目を持っていた」

「ほう……目が良い血筋なのか」

「いや、目を強くする秘術があるらしい」


 おそらく、『視力強化』の紋章のことだろう。「俺も同じ秘術を使っているんだ」とは口が裂けても言えないが、ピョートル相手だと無性に言いたくなるケイであった。


 その後も、とりとめのない話をしながら、ケイたちはのんびりと斥候を続ける。


「やはり道の状態が段違いに良いな。エゴール街道とは全然違う」


 ブラーチヤ街道の石畳にはひび割れもほとんどなく、また仮に破損した部分があっても、石材や、セメントのようなもので補修されていた。ぼろぼろで目も当てられないエゴール街道とは、馬賊の影響があっても尚、雲泥の差がある。


「エゴールは、今は使われることは稀だ。商売人は誰も行かない」

「だろうな……あれは……」


 酷かった、と言いかけてケイは言葉を飲み込む。エゴール街道周辺では『邪悪な魔法使い』作戦でひと悶着起こしている。アイリーンが"影"を操る魔術師であると公言した手前、ここで色々と線が繋がってしまうとまずい。


「……ところで、この辺りは全然暑くないんだな。夏なのに涼しい」

「ああ、日光があまり強くないからだ」


 ケイとしては露骨な話題転換だったが、ピョートルは気にする風もなかった。


「公国は暑いのか? ケイ」

「そうだな。ここに比べるとやはり暑い。こんな格好で炎天下にいたら汗だくだろう」

「うん? ……最後の方が良く分からなかった」

「ああ……このような服装で太陽の下にいたら、たくさん汗をかく」


 ケイは自身が羽織る厚手のマントをひらひらとさせた。主にフードで顔を隠すためのものだが、この時期に公国でこんなものまで着ていたら、暑くて堪らないはずだ。


「ああ分かった。やはり暑いのだな、公国は。しかしわたしは羨ましい」


 ふすーっ、と鼻でため息をつくピョートル。


「今はいい。……だが、冬は恐ろしいことになる。北部よりはマシだが」

「……ああ」


 ケイも思わず辺りを見回して、一面の雪景色を想像した。


「……冬は、怖いな」


 現地人のピョートルが"恐ろしい"と形容するのが、まず何よりも恐ろしい。インフラの概念もないこの世界だ、寒さはすなわち命の危機に直結するのだろう。


「雪が降るのか?」

「降る。たくさん降る。夏に降れば良いのに、と皆が言う」

「違いない。そのせいで酷い目に……遭うだろう。水がなくて困っていると聞いた」

「その通りだ。夏はあまり雨が降らない。この辺りは川や湖があるが、エゴールの近くは特に悲惨だ」

「……だろうな」


 引き攣った笑みを浮かべるケイ。


「だが北部はもっと酷いんだろう?」

「そうだな。北は雨も降るが、その代わり冬の雪が凄まじい」

「『凄まじい』、か……」

「この辺りは冬でも出歩ける。外に出れば兎を狩ることもできる。だが北部は駄目だ。時期によっては吹雪で家から出られない。家ごと凍り付いて死ぬときもある」

「…………」


 確かにガスや電気による暖房がなければ、そのようなこともあり得る。しかし、あまりの過酷さにケイは閉口してしまった。


「何故そんなところに住み続けるんだ」

「……他に場所がない」


 ピョートルは寂しげに肩をすくめた。


「たとえば引っ越そうとして、良い所を見つける。……だが多くの場合、そこには既に人がいる」


 そして無理やり住もうとすれば、争いが起きるだけだ、と。


「だが……北の大地は広いじゃないか」

「たしかに広い。だが住みやすい土地は限られている。たとえば北、"白色平野ヴィエラブニーネン"は、果てしなく広いと言われているが雪しかない。住めるような場所ではない」

「しかし……ほら、森とかあるじゃないか。東部とか……」

「森を切り開く、ということか?」

「ああ。森を開拓して畑にするんだ。時間はかかるが、土地はあるんじゃないか?」

「……難しい。森には怪物がいる」


 虚空を睨むピョートルは、途端に厳しい表情になった。


怪物モンスター? "大熊グランドゥルス"や"森大蜥蜴グリーンサラマンデル"か?」

「いや。"大熊"や"蜥蜴"も恐ろしいが、所詮は動物だ。狩ることはできる。北の大地の森には、もっと恐ろしいものがいる」

「……"飛竜ワイバーン"とか?」

「"飛竜"! そうだな、南東部では出るらしい。辺境の集落が焼かれたという話も聞いたことがある。……だが森には、実体のない悪霊や、もっと恐ろしい化け物の類もいる。剣や弓が効かないような相手が……」


 呟くように、ピョートル。


「……どんな化け物がいるんだ?」

「黒い悪霊を見た、また、襲われた、という話はよく聞く。深い森はあの世へ繋がっているのだと信じる者も多い。わたしが知っているのは大きな黒い鳥だ。家ほどの大きさがあって、弓で射ようが槍で突こうが死なず、人をさらっていく」


 悪霊は、まだ見間違いで片付けられるかもしれないが、大きな鳥は本当だとするならばどうしようもない話だ。


「……それでも辺境に住み続けられるのは、俺は、凄いことだと思うぞ。普通なら土地を捨てて逃げ出してしまいそうだ」

「……逃げる者ももちろんいる」


 ピョートルはケイを見やって、哀しげに笑う。


「わたしのように」



          †††



 そのまま、何事もなく隊商は進んだが、昼過ぎの休憩で集落に立ち寄った際、やはりひと悶着あった。


 ケイはフードをかぶって顔を隠していたのだが、隙間から子供に覗き見られ、草原の民と誤認されてしまったのだ。お陰で住民たちから石を投げられる羽目になった。ケイは鎧で武装しているので素人の投石程度はどうということもないが、問題はサスケだ。あともう少しで目に直撃するところだったのを、ケイが咄嗟にマントで庇い事なきを得た。


 ポーションを使えば多少の傷は治せるが――サスケにあの治療の苦しみジュワワワを、それも眼球に味わわせるのは気が引ける。


「……まあ、とにかく何事もなくて良かったよ」


 村外れの木陰で隠れるようにして、アイリーンと一緒に昼食を食べながらケイは訥々と投石事件のあらましを語った。


「ケイも大変だな……。サスケ、お前も無事でよかったな」


 固焼きのパンを齧りながら、傍らのサスケの顔を撫でるアイリーン。「ぼく、へいきだよ」と言わんばかりにぶるぶると鼻を鳴らしたサスケは、アイリーンの頬をぺろりと舐めて草を食み始める。


「斥候の仕事はどんな感じ?」

「今のところ、身の危険は感じないな。騎兵が二人だから融通が利くし、定点防御よりはマシかもしれん。俺としてはむしろ、隊商が襲われたときの方が心配だな……そっちはどうだ?」

「んー特に何も。公国の行商人と仲良くなったくらいかな。ケイのことも知ってたぜ、武闘大会の優勝者だって。オレたちの苦労話したら気の毒がって、あんまり居辛いようなら、夜はウチの馬車までおいでって言ってた」

「おお、それはありがたいな」


 その同情心が身に沁みる。敵意がないというだけで有難いものだ。


 干し肉を噛み千切ったケイは、背後の木にもたれかかり空を仰ぐ。


「…………」


 無言で咀嚼しながら、雲ひとつない青空をぼんやりと見つめていた。隣のアイリーンは、そんなケイを心配そうに見守っている。


「……そうだ、なんかこの隊商さ、ヤギを連れてる人が多いんだ」

「ヤギ?」


 努めて明るい声を出すアイリーン、少し興味を引かれるケイ。


「そう、ヤギ。最初はペットかなって思ったんだけど、皆揃って連れてるし、全部雌でさ。聞いてみたら新鮮なミルクを搾るためと、いざというときの非常食なんだって」

「非常食か。それはまた」


 ケイも苦笑する。成る程、なかなか合理的な話だ。


「オレたちもヤギ飼うべきかな。北の大地なら必須かも」

「……厳しいんじゃないか? 連れてるうちに情が移って絞められなくなりそうだ」

「食べる前提じゃなくてもいいじゃん」

「いや逃げるときとか……馬ほど速く走れないし、担いでいくわけにもいかないだろ」

「あー……それはあるなぁ」

「あとアイリーンは名前とかつけて可愛がっちゃいそうだしな」

「うっ、否定できない……」


 そんな下らない話をしているうちに、ケイもだいぶ元気が出てきたので、気合を入れて午後の仕事に挑む。


 集落を出てからは、また代わり映えしない平野が続いた。


 ただ、少しずつではあるが――緑が増えてきているように思われる。そしてそれは村を出てからおよそ二時間がすぎ、小さな川に差し掛かった辺りで顕著になった。


「今から、この橋を渡る」


 前方、十メートルほどの長さの橋を指差して、ピョートル。


 川は北東から南西にかけて流れる大河の支流であるらしく、川幅に比して非常に深いようだ。橋なしでは渡ることはできない。


「ケイ、ここから森や木立が増える。気をつけろ」

「分かった」


 二人がかりで橋に異常がないことを調べてから、後方の隊商に確認の合図を送り、川の向こう側へと先行する。


 これまでの道のりと川向こうとでは、植生の違いは明らかだった。木立や雑木林が至る所にあり、あるいは小規模な森にまで発達しているものも散見される。


 土地としてはディランニレン近郊やエゴール街道の周辺とは比べ物にならないほど豊かだが、それでも瑞々しさや爽やかさとは無縁で、どこか乾いた空気が感じられるのは風土の違いというものだろうか。


「隠れる場所が山ほどあるな」

「ああ。そしてこの辺りは獣も多い。たとえば狼の群れだ」

「"狩猟狼ハウンドウルフ"か?」

「いや、ハウンドウルフはこの辺りにはいない。冬が寒すぎる。毛が灰色で、もう少し小柄な奴らだ」


 ただ、小柄といってもそれは御し易いという意味ではなく、群れで狡猾に立ち回るため、時たま隊商の家畜や馬にも被害が出るらしい。油断はできないということだ。


「まあ、狼が出たら俺が追い払うさ、そういうのは得意なんだ。……ところで、矢で射殺したら呪われる、なんてことはないよな?」


 北の大地は、どうやら公国と気色が違う。怨霊や悪鬼の類も多そうだと思ったケイは、"竜鱗通し"を掲げながら笑って問いかけた。


「……。ないはずだ」

「その間はなんだ」


 軽口を叩く間にも、進行方向の木立や茂みを手当たり次第にチェックしていく。これまでとは違い植生が濃いため、ケイの目をもってしても、ある程度近づかなければ確実には見通せない。


 そして、これが斥候が危険とされる所以でもある。仮に茂みで敵が待ち伏せしていたならば自分から近づいていくことになるし、敵も獲物の『目』を潰すべく、全力で殺しにかかってくるからだ。


「本当は、孤独な者の仕事だ。死んでも誰も悲しまない」


 がさがさと茂みを槍で突きながら、ピョートルは言った。


「だから危なくなったらケイは逃げるといい。死ぬと恋人が悲しむ」

「……言ってくれるじゃないか」


 冗談めかしたようなピョートルの言葉に、一方でケイは複雑な表情だ。


「申し出は有難いが、置いていくような真似はしないさ。ヤバくなったら、そのときは一緒に逃げよう」

「……そうだな、わたしが死ぬ意味はない。はっはっは」


 言われてから気付いた、といった様子で額をぱちんと叩いてピョートルは笑う。それにつられて、困ったように笑うケイはふと、何故この男は斥候などやっているのだろう、と思った。


 思い返せば昨日ガブリロフ商会の前で会った際も、隊長のゲーンリフと対等に話していたし、ある程度の影響力も持っているようだった。昼の休憩で見かけたときも同僚の戦士たちと普通に談笑しており、決して孤独であるようにも、また嫌われているようにも見えなかった。


 この、優しすぎる赤毛の偉丈夫に、ケイはどこか危うさを感じる。


 自分のことを色眼鏡で見ない、対等な付き合いをしてくれる人間というのが、これほどまでに有難い存在だとは知らなかった。彼の物静かで高潔な人間性は、それだけで尊敬に値するとケイは思う。


 思うのだが――。


 ただ、それが彼の生き方であるとするならば、付き合いの短すぎるケイがどうこう言う権利もないのだ。


 結局、今この場において口をつぐむことだけが、ケイにできる全てであった。


(……まあ、大丈夫だろう)


 少なくとも今日のうちは、とケイは心のうちでひとり呟いた。


 隊商はまだ出発したばかり。北の大地でも有数の大規模都市ディランニレンに程近い地域だ。馬賊もそうそう出張ってはこられないだろう。


 問題は、明日以降。


 話によれば、隊商は一日で予定のルートの五分の一を消化するという。


 つまり北部の都市、ベルヤンスクまでの道のりはあと四日。



 その間に、ブラーチヤ街道を無事突破できるか――



「行こう、ケイ。次はあの木立だ」

「……ああ」



 隊商の旅は、今しばらく続く。



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