38. 挫折


 どんよりとした曇り空の下、ケイとアイリーンは黙々と歩みを進めていた。


 どちらも騎乗の人ではない。げっそりと憔悴した表情で、それぞれ手綱を引いて歩いている。二人とも全身から疲れ切った雰囲気を滲ませていたが、連れている二頭――サスケとスズカの様子はもっと酷い。うなだれたままだらりと舌を垂らして、その呼吸は荒く、今にもふらふらと倒れてしまいそうだった。


「頑張れ、もうちょっとで着くからな……」


 苦しげにあえぐサスケに励ましの声をかけたケイは、背中の荷袋の位置を正し、自身にも改めて気合を入れ直した。元々はスズカに載せていた荷物だが、衰弱した彼女の負担を少しでも軽減するため担いでいくことにしたのだ。ケイの背後では死んだ魚のような目をしたアイリーンが、同様に少しばかりの荷袋を背負って歩いている。


 北の大地へ踏み込んだ当初の、楽しげな雰囲気など欠片もない。焦燥感と疲労感に追い立てられるようにして、ただ愚直に足を動かす。忌々しげに額の汗を拭ったケイは、無意識のうちに腰の水筒へと手を伸ばしていた。歩調に合わせてゆらゆらと揺れ動くそれは、しかし全く音を立てず、軽い。


 空っぽだった。中身はとっくに飲み干してしまっている。喉が渇いた――とは今更口には出さず、ケイは意識的に唾を出して渇きを誤魔化そうと試みた。


「…………」


 案の定うまくいかず、厳しい表情のまま、足を動かすことに注力する。


 どれだけ歩いただろうか。木立を抜け、平野を突っ切り、丘を越え――


「――ああ」


 その向こう側に広がった景色に、思わずケイは足を止めた。


「やっと着いた。見えたぞ、アイリーン!」

「……マジで!?」


 道の果てを指差すケイ。わずかに瞳の光を取り戻したアイリーンがバッと顔を上げる。


「マジだとも。ようやくだ」

「……うっ」


 感極まったように、アイリーンはうっすらと涙を浮かべた。


「う、うううっ。良かった……っ!」

「ああ、これでやっと――」


 二人揃って、噛み締めるように、


「水が補給できる……!!」


 ぶるる、と溜息をつくように、サスケとスズカが鼻を鳴らした。


「もう少しだぞ、サスケ」

「スズカ、あとちょっとで水が飲めるからな、頑張ろうな」


 ケイがサスケの首をぽんぽんと叩く傍ら、アイリーンはスズカのたてがみを撫でつけ、再び歩みを再開する。


 道の果てには、山と山の間に張り付くようにして広がる石壁の街――



 ――緩衝都市ディランニレン。



「どうにか戻ってこれた……」


 思わず、ケイの口から感慨深げな言葉が漏れる。



 北の大地に踏み込んでから三日。


 ケイたちは、エゴール街道を引き返し、ディランニレンへと戻っていた。



          †††



 結論から言うと、東回りのエゴール街道ルートは、とてもではないが旅の出来るような環境ではなかった。


 行きずりの村で寝込みを襲われたケイたちであったが、しかしその時点ではまだ、引き返すことまでは考えていなかった。アイリーンの"警報機"もあることだし、野宿しながら住民との接触を最低限に抑えれば大丈夫だろう、ということで治安の悪い東部を突っ切ることにしたのだ。


 が。


 その次の日、ケイたちは早くも深刻な問題に直面した。


 水不足。ケイとアイリーンの分は言うに及ばず、サスケたちの飲み水が、圧倒的に不足していたのだ。


 これまで公国内を旅するとき、ケイたちは常に川沿いを進んでおり『馬に必要な水』をほとんど意識することがなかった。しかし実際のところ、馬は一日に30~40リットルの水を飲み、走って汗をかけばそれ以上の水分を必要とする。単純に大の大人の一抱えもあるような瓶一杯の水を用意しなければならないわけだが、エゴール街道周辺に河川はなく、そして数少ない水源のそばには必ずといっていいほど雪原の民の集落があった。


 住民との接触を控えようにも、水のために集落には立ち寄らざるを得ない。しかしいざ水を分けて貰おうとすると、今度は価値観の差が、『一滴の水の重み』の違いが、分厚い壁となって立ち塞がった。ケイたちが集落に立ち入った時点で良い顔はされなかったが、アイリーンが水の補給を願い出ると、返ってきたのは完全なる拒絶であった。


 聞けば、このところ東部地域では雨が降っていないようで、現地の住民たちでさえ渇水に陥りつつあるらしい。そこに余所者がのこのことやってきて、水を――それも人間だけではなく馬のためにも――分けてくれと言っても、到底受け入れられるはずがなかった。


 ケイたちは悟った。煮沸消毒しなくて飲めるレベルの水源がごろごろしていた公国は、真の意味で『豊か』だったのだと。そして蛇口を捻れば水が出てくるのが当たり前だった現代人のケイたちは、そのありがたみを知識としては知っていても、『理解』はしていなかった。今までの環境が恵まれていたせいで、そんな基本的なことに気付けていなかったのだ。


 結局、「水を分けて欲しい」と聞いた時点で住民たちが「ふざけるな」と激昂しだしたので、ケイたちは逃げるようにしてその集落を後にした。


 次の集落でも交渉を試みたが、返事はなしのつぶて。タダでとは言わない、金は払うと金目のものを取り出せば、目の色を変えた住民たちに総出で襲われる始末だった。咄嗟に反撃して何とか事なきを得たものの、住民側に怪我人を出してしまったので今後その集落の周辺には近寄れないだろう。


 あの困窮ぶりでは、到底まともな治療は望めまい。矢傷が膿んだり感染症にかかったりして、何人かは死ぬかも知れないと考えるとケイは暗澹たる気分になった。


 とはいえ、他人の心配ばかりもしていられない。いずれにせよこの調子では二進にっち三進さっちもいかなくなってしまう。どうやって水を手に入れるのか。そして、このまま進むのか、引き返すのか。ケイたちは決断を迫られていた。


 ――最終的に、現在地や天候その他を鑑みて、ケイたちは引き返すことを選択した。


 水不足に陥った時点ではまだ予定のルートの五分の一も消化できておらず、その後の飲料水の目処も立たないまま突き進むのは自殺行為に等しかった。完全な手詰まりになる前にディランニレンへ引き返し、馬賊のリスクを承知の上でも、水の確保が容易なブラーチヤ街道を北上すべし、という方向で意見がまとまった。


 では、ディランニレンに戻るまで道中の水はどうするのか、という話になるのだが。


 真っ当な手段で水を確保するのは難しい――苦肉の策としてケイたちが考え出したのが『邪悪な魔法使いイヴィルウィザード』作戦。夕暮れ後や夜明け前――アイリーンが魔術を使える時間帯に集落を訪ね、水を工面して貰えるようまず交渉する。成立すればそれでよし、決裂した場合はケルスティンの影で村人をビビらせ、高圧的な態度で改めて脅迫こうしょうに臨む、というシンプルな作戦だ。


 ケイは顔布で顔を隠してフードを目深にかぶり、一言も話さない不気味な護衛戦士の役を演じ、アイリーンは予備の外套を着込んで換金用の装飾品をじゃらじゃらと身につけ、なぜか持ってきていた口紅まで引き、尊大な魔術師として振舞った。


 夕闇に浮かぶ、真っ白な肌と紅い唇のコントラスト。いわゆる一般的な"魔術師"のイメージからかけ離れたアイリーンの若さと美貌は、辺境の民の目には一際異様に映ったに違いない。寝込みを襲われた際の経験を活かしたのだが、この作戦は、思いのほか上手くいった。


 アイリーン曰く、ここら一帯の住民は信心深い――迷信深いというべきか――らしく、詳しい知識がないことも相まって、呪いや魔術を極端に恐れているらしい。直接的な害がなく、それでいて得体の知れないケルスティンの『影』は、そんな彼らを脅かすにはもってこいだった。


 アイリーンが影をけしかければ住民は老若男女を問わず恐れおののき、こちらの要求がすんなりと通るという状況。ケイもアイリーンも、多少悪ノリしていた感は否めないが、やはり脅迫まがいの行為に手を染めるのには罪悪感があった。水の対価は現金で払う、必要以上に脅かさない、などと線引きをして、ケイたちは道中の村々に立ち寄り水を手に入れていった――のだが。


 ディランニレンが目前にまで迫ったところで、とうとう問題が起きた。


 とある村の住民たちが、よほど切羽詰っていたのか、アイリーンの魔術を恐れながらも強固に抵抗してきたのだ。まさか皆殺しにするわけにもいかず、また、あまり騒ぎすぎると街の警備隊が駆けつけてくる可能性があったので、ケイたちはそのまま水を補給せずに村から逃げ出した。



 そして――仕方がなく、ディランニレンまで歩き通したわけだ。



「あああ……生き返るぅ……」


 ピッチャーに直接口をつけて、冷たい水を飲み干したアイリーンが、ぷはっと満足げに息をつく。


 ディランニレン、宿屋の裏手。厩舎で桶の水をがぶがぶと飲むサスケとスズカの横で、ケイたちもまた喉の渇きを癒していた。


「人間、水がないと生きていけない……本当によく分かった……」


 しみじみと呟くケイは、アイリーンとは対照的に水筒の水を一口一口味わうようにして飲んでいる。ただの水をこれほど美味いと思ったことはない。清涼な命の滴が、血流に乗って体の隅々にまで染み渡っていく。


 思う存分に水を飲んでから、二人ともしばらくピッチャーや水筒を片手に放心状態になっていたが、ふと我に返って顔を見合わせる。


「……で、どうする、この後」

「……そうだな」


 謎の達成感があったが、旅はまだ始まったばかりだ。ディランニレンはあくまで出発地点に過ぎず、目的地は北の大地のさらに辺境、魔の森。


「ブラーチヤ街道を北上するのは既定路線としても……どう行くか」

「馬賊がなぁー。この三日間でどうなったんだろ」


 ぼりぼり、と頭をかきながらアイリーン。


 ここ数日でそれほど劇的な変化があるとは思えないが、ケイたちは基本中の基本、まずは聞き込みから始めることにした。


 サスケとスズカを宿屋の厩舎に預け、街に繰り出す。相変わらず、ケイ――草原の民に見える男――に向けられる住民たちの視線は刺々しい。ディランニレンに到着した初日のように、アイリーンが先行して雪原の民に聞き込みを試みていたが、その間ひとりきりのケイに荒っぽい男が絡んできたり、衛兵が怪しんで近寄ってきたりという事態が多発したため結局二人で行動する羽目になった。


「これじゃオチオチ散歩もできないな」

「う~ん……少なくとも状況は、良くはなってねえな」


 開き直った様子でシニカルに笑うケイに、アイリーンは渋い顔だ。


 聞き込みはあまり捗らない。ケイがセットになったことで、アイリーンに対する通行人の態度が目に見えて悪くなった。笑みを浮かべて話しかけても、胡散臭げにじろりと一瞥されるだけで無視されることもしばしばあり、アイリーンは少し凹んでいるようだ。そういえば彼女はハブられたり疎外されたりするのが苦手だったな、と思い出したケイも、やはり良い気持ちはしない。


 しばらく歩いていると小さな広場に行き当たり、そこでは市場が開かれていた。ただの通行人よりは商人の方が愛想も良かろうと、携行食などの小物を買い足しながら、露天商たちに話しかけていく。


「馬賊? ああ、最近は被害が酷いらしいねえ」

「この頃はブラーチヤ街道の近くにも出始めたと聞くが」

「対策に大規模な隊商が組まれるらしいな……」

「その男は草原の民じゃないんだろうな? ん、それは公国の身分証……いや、失礼」


 雪原の民に比べ平原の民――公国出身の商人たちは、まだケイに対する風当たりも強くなかった。疑われるたびに提示したウルヴァーンの身分証も、それなりに効果があったらしい。断片的にではあるが徐々に情報を集めていく。


「なんてこった……馬賊の連中、ブラーチヤ街道沿いにも出始めたのか……!」


 一通り商人たちに話を聞き終えたあと、市場の片隅でアイリーンは頭を抱えた。


「状況はむしろ悪化してるな」

「ガッデム! こんなことなら最初っからブラーチヤ街道進んでおくんだったー!」


 ケイの端的なコメントに、自身のポニーテールをガシガシ引っ張りながらアイリーン。こういうとき、無駄だとは悟りつつも取り敢えず地団駄を踏むのが彼女だ。ケイもいつものように生温かい目で見守る。


「で、どうするアイリーン」

「隊商が云々……ってさっき誰かが言ってたよなぁ。合流するべきか?」

「出来るならそれに越したことはないだろうが」

「……出来るなら、だよな。二人で一気に駆け抜けるって手もあるとは思うんだけど」

「俺もそれは考えた。二人の方が身軽だし、いざ馬賊に遭遇しても魔術を使えば高確率で逃げられると思う……だがリスキーなのは変わらないし荷物を捨てる羽目になるぞ」


 仮に馬賊の襲撃をかわすとなると、現状ではスズカの足が遅すぎる。身軽にするために彼女に積載した荷の大部分は犠牲にする必要があるだろう。


「その場を凌いでも、荷物がなくなったらヤバいよなぁ……」


 アイリーンの目が遠くなった。今回のエゴール街道ぶらり二人旅で、物資の大切さは身に染みて分かっていた。ブラーチヤ街道沿いは水源が豊富なので、地図さえあれば水場は見つけられるだろうが、やはりテントや食糧がなくなるのは辛い。加えて"警報機"を失うことにでもなれば、二人きりでの野営はさらに苦しくなるだろう。


「どうしたものかね……」

「そーだなぁ……」


 広場の端っこで建物の壁にもたれたまま、二人してぼんやりと通行人を見やる。からりと晴れた空で市場を行き交う人々、客引きに声を張り上げる露天商たち。いずれも、ちらちらとケイたちに視線を向けていた。


 主にケイのせいだ。これではどっちがどっちを観察しているのか分からない。


 仮に、二人きりでブラーチヤ街道を北上するならば、こうしてボヤボヤしている一分一秒も無駄なわけだが、どうにも考えが上手くまとまらない。エゴール街道で苦しい思いをしただけに、尚更のこと。


「あ~……アタマ痛くなってきた」


 溜息をついたアイリーンが、ぐりぐりと眉間を揉み解す。


「奇遇だな、俺もだよ」

「ふふっ。ゲームん時は、即断即決がオレたちのモットーだったのにな」


 心底懐かしげなアイリーンの言葉に、ケイは複雑な笑みを浮かべた。


「流石に今は命がかかってるからな、気軽には決められないよ」

「だよなぁ……ゴメンなぁケイ、付き合わせちゃって……」

「いや、そういうワケじゃないんだが」


 アイリーンがしょんぼりと元気をなくしてしまったので、わしゃわしゃと手を蠢かせながらケイは狼狽する。そういうことが言いたかったワケではない。


「なに、アイリーンのためなら、命の一つや二つ張ってみせるとも」


 ドンッと胸を叩いて、歯の浮くような台詞を口にした。気障なことを言った自覚はあるのか、ケイの頬もかすかに赤い。一瞬きょとんとしたアイリーンであったが、すぐにその場の空気に耐え切れなくなってプッと吹き出した。


「あはは、何だよそれ」

「う、うむ……」

「……でも、ありがとう」

「……うむ」


 くすくすと笑ったあと、穏やかな微笑を浮かべたまま、心地のよい沈黙が訪れた。


 すぐ傍の平原の民の露天商が「なに二人の世界作ってんだ」と冷めた目を向けていたが、幸いにして二人とも気が付かなかった。


「ふぅ。まあここでウダウダやってても始まらねえ、取り敢えずケイ」

「なんだ」

「糖分補給しよう。さっき、あっちでウマそうな干し果物売ってたんだ」

「あっ、おい!」


 言うが早いかさっさと歩き出すアイリーンを、ケイは慌てて追いかけた。


 市場のほぼ反対側。木の棒に布を引っ掛けただけの簡素な天幕の下で、中年の男がドライフルーツや砂糖漬けを売っている。現代の地球に比べると砂糖が高価なので砂糖漬けはなかなか良い値段をしていたが、非常食と考えると魅力的だな、とケイは思った。


「おっちゃん、この干しブドウもらえる? この袋に入るだけ」

「あいよ。銅貨十五枚、公国ので」


 アイリーンから巾着袋と小銭を受け取った店主が、壷から大匙で干しブドウを掬い取り始める。が、ふとケイに目を留めてその表情を険しくした。


「おい! なんで汚らしい蛮族風情が、こんなところにいやがる!」


 早速罵声を浴びせかけられたが、ケイも慣れたもので「なんだ、またこの手合いか」と反応する気にもなれなかった。むしろ構うと相手が白熱する傾向があるので、こういった場合の最善手は"完全無視"だ。


「まあまあ、彼はああ見えて草原の民じゃないんだよ」

「……んだぁテメェ、庇い立てする気か!」


 知らん振りをするケイをよそに、アイリーンが宥めようとするも今度は店主の怒りの矛先がそちらに向く。


「おれはなぁ! 姪っ子が馬賊のクソどもに殺されてんだ! 草原の土人どもは許さねえし、その肩を持つヤツもそうだ! 出て行けこの売女が! 雪原の恥晒しめ!」


 口角泡を飛ばす勢いで罵りながら、アイリーンの顔にめがけて小銭と袋を投げつける店主。アイリーンは咄嗟に小銭を回避したが、続いて飛んできた巾着袋が顔面を直撃し「へぶっ!」と声を上げる。


 中に詰められていた干しブドウがぱらぱらと地面にこぼれ落ちた。


「――おい」


 ケイは二人の間に割って入る。


 こういった場合は下手に反応しないのが最善手――だが、向こうが手を出してくるとなれば話は別だ。無言のまま、険しい顔で店主を見下ろす。


「な、なんだ……やろうってんのか……」


 ごそごそと足元を探った店主が、小ぶりな棍棒を取り出した。街中で剣を抜くわけにもいかず、ケイは咄嗟に、近くの柱に立てかけてあった火かき棒を手に取った。


 鉄製の、長さ一メートルほどの火かき棒。がっしりとした造りでかなり頑丈そうだ。軽く振ってみると、ビッ、ビゥと小気味の良い音を立てる。ちょっとやそっとでは折れ曲がりもしないだろう。


 不穏な空気を感じ取り、周囲に野次馬が集まってきた。今のところはまだ衛兵を呼びに行く声は聞こえないが、あまり騒ぎが大きくなる前に決着をつけるべきだな、とケイは改めて店主に向き直る。


 棍棒を手に臨戦態勢の店主だが、火かき棒と棍棒を見比べてリーチの違いに心細そうにしていた。が、ケイとしては本気で殴り合うつもりなど毛頭ない。この手の人間は感情が先走っているだけなので、少しビビらせてやれば大抵は大人しくなる。


 右手で火かき棒の真ん中を掴み、店主の眼前に突き出した。何をするのか、と怪訝な様子の店主をよそに、ぐっと棒を握る手に力を込める。ぎりぎりぎり……と鉄が軋む音。


 おお、と野次馬がどよめく。店主は呆気に取られたまま、片手の握力に屈し、ゆっくりと捻じ曲がっていく火かき棒を見つめていた。


 やがて、完全にくの字に折れ曲がった火かき棒を、ケイは店主の足元に放り投げる。からんからん、と石畳を鉄が転がる音。


「貴様もその火かき棒のようにしてやろうか」


 大げさに指の関節を鳴らしながらケイが凄むと、店主は足元の火かき棒とケイを交互に見やり、すっかり顔を青褪めさせていた。「効いてる効いてる」というアイリーンの呟きが背後から聞こえ、不覚にも吹き出しそうになったケイは必死で怖い顔を保つ。


「――おいコラ」


 と、そのとき、何者かが声をかけてきた。険しい表情をキープしつつぎろりと横を見れば、干し果物屋の隣でクレープを売っていた初老の男が腕を組んで憮然としている。


 クイッ、と折れ曲がった火かき棒を顎で示した初老の男は一言、


火かき棒ソレ、ウチのなんだが」

「えっ」


 確かに、よくよく見れば火かき棒の立てかけられていた支柱は、隣のクレープ屋のものであった。冷静に考えれば、成る程、干し果物屋は火を扱わないので火かき棒を置いておく必要もない。


「す、すまない……! てっきり干し果物屋のものかと」


 慌てて火かき棒を拾い上げたケイは、すっかりくの字に曲がってしまったそれに眉を下げる。


「戻せるかこれ……? いや! 御老体、しばし待って頂きたい。どうにかする」


 捻じ曲がった部分を両手で掴み、反対側に曲げ始める。両手を使う分、よりスムーズに矯正できたが、しかし今度は勢い余って曲げ過ぎてしまう。ケイは四苦八苦しながら、不器用に火かき棒の形を整えた。


「……よし。これでどうだろうか」

「…………」


 くねくねと微妙に蛇行する火かき棒を受け取って、クレープ屋の老人は渋い顔だ。


「……まあ、使えんことはないが」


 ぷすー、と溜息をついて、そのまま傍らに火かき棒を置く老人。ほっと胸を撫で下ろすケイの横で、アイリーンがくすくすと可笑しそうに笑っている。


 いつの間にか、野次馬たちも散っていた。近隣の露天商はなんとも締まらないオチに苦笑しているようだ。件の干し果物屋もそっぽを向いて知らん振りを決め込んでいる。


「で? もちろん何か買っていってくれるんだろ? なあ」


 コンコン、とクレープ用の伸ばし棒で鉄板を叩きながら、老人。「も、勿論」とケイは引き攣った笑顔で頷くほかなかった。


 ケイは軽食としてハムとチーズのクレープを、アイリーンは果物と蜂蜜を使った甘めのものを注文し、老人が作っている間に、自分たちの境遇などを大まかに説明した。


「……成る程なあ、お前たち"シャリトスコエ"に行きたいのか。物好きなことだ」


 "魔の森"に最も近い小さな村――シャリトスコエの名を聞いて、老人はしたり顔で頷いていた。


「ん、知ってんのか爺さん」

「ああ。ワシの生まれはシャリトの近くでな。何だかんだあって、こんなところディランニレンまで流れ着いてしまったがなぁ……」


 昔を思い出したのか、何やら悲しげな顔でズズッと鼻をすすって、ぐりぐりと右手で鼻の下辺りを擦る老人。そのままの手でクレープ作らないで欲しいな、とケイは思ったが、儚い祈りは届かなかった。流れるような所作でチーズとハムを摘み、クレープ生地で包む老人。食欲の減退する光景にケイもまた悲しげな顔をする。


 ――いや、『こちら』ではこの程度のことは日常茶飯事だ。食堂や酒場などの衛生環境はお世辞にも褒められたものではないし、異物混入などもいちいち気にしていたらきりがない。『身体強化』の紋章があるから大丈夫、大丈夫……とケイは自分自身に言い聞かせ、努めて気にしないことにした。


「ほれ、チーズとハムのクレープな」

「ありがとう……」

「でもさー、オレたちもちょっと困ってんだよね」


 ケイが物思いに沈んでいる間も、アイリーンは老人との会話を続けていた。


「ブラーチヤ街道北上したいんだけどさ、最近馬賊出てるらしいじゃん?」

「らしいなぁ」


 老人は一瞬、ケイをちらりと見て悪戯っ子のような笑みを浮かべる。


「……何度も言うが、俺は関係ないぞ」

「なぁに、さぞかし苦労が多かろうと、そう思っただけのことよ。異民族は生きにくい、なあ?」

「でさでさ、オレたちも隊商に合流できたらなーとか考えてるんだけど、コネもツテもないし――」


 話が妙な方向に逸れる前に、アイリーンが強引に言葉をつなぐ。


「爺さん、何か耳寄りな情報ない? 年の功でさー」

「年の功は余計だっ小娘が」


 めっ、と怒ったような顔でアイリーンを睨んでみせた老人は、蜂蜜のクレープを作りながら「そうさな……」と考え込む。


「たしか……『ガブリロフ』商会だったか。明日あたりに隊商を組むらしいと聞いた」

「おっ、マジで! オレたちも飛び入り参加できるかな?」

「どうだか。あそこの商会は閉鎖的だからなぁ……」

「ふーん。でもまぁ、試してみる価値はありそうだ。なあ爺さん、そのガブリロフ商会っての、どこにあるか知ってる? あと口添えとかしてくんない?」


 毎度のことながら、愛想の良さを全開にしてガツガツと攻めていくアイリーンの姿勢には、ケイも感心するやら呆れるやらだ。老人は蜂蜜のクレープをアイリーンに差し出しながら、ガッハッハと大声で笑った。


「たったクレープ一つで、なんと厚かましい娘だお前さんは! ……すまんが、ワシには口添えなんざ大それたことはできんよ。ただ商会の場所は知ってる。あの通りを真っ直ぐ行って、三番目の角を左に進むといい。そうすれば突き当たりの小さな広場に獅子の銅像があって、商会の本部はその目の前だ。大きな看板があるから一目で分かるだろうさ」

「おおー、ありがとう爺さん! あ、オレ、アイリーンっていうんだ。爺さんは?」

「ワシは、スパルタクよ。よろしくな」


 一瞬、会話の流れが止まり、二人の視線がケイに集中する。慌てて口の中のクレープを飲み込んだケイは、革兜を脱ぎ老人――スパルタクに一礼した。


「ケイだ。情報提供ありがとう、スパルタク氏」

「ふん、野郎に礼なんぞ言われても嬉しくないわ」


 カシャカシャッ、と鉄板の上の小麦粉のクズを払い落としながら憎まれ口を叩くスパルタクに、思わず苦笑する。


 クレープを片手に、ケイたちは今一度スパルタクに礼を言ってから、教わった道の方へと歩き出した。


「ここにきてようやく進展があったな、流石だぞアイリーン」

「ふふん、任せろ。……あ、これ美味しい」


 もっぎゅもっぎゅとクレープを頬張りながら、アイリーンが幸せそうに目を細める。微笑ましげにそれを見守るケイであったが、ふとスパルタクについて、気になる点に思い至った。


「なあ、アイリーン」

「ん?」

「さっきのスパルタク氏だが、随分と綺麗な英語を話していたな」


 スパルタクは顔つきから雪原の民のように見えたが、その英語は流暢で一切のロシア語訛りが入っていなかった。


「ああ。なんかポロッと漏らしてたけど、平原の民とのハーフなんだってさ」

「……ほう」


 ケイは、ちらりと振り返る。視界の果て、広場の片隅でクレープを焼く老人。


 ――異民族は生きにくい、なあ?


 そんな声を聞いた気がして。



          †††



「で、だ。……最終的に、どうだろう。ケイは隊商に合流した方がいいと思うか?」

「そうだな、条件にも依るが俺は良いと思うぞ」


 クレープを食べ終わったケイたちは、歩きながら話し合いを続ける。


「ただ、スパルタク氏曰く閉鎖的な商会らしいが……」

「う~ん。やっぱりそれ相応の『価値』を示さないといけないよな。仲間に加えたい、と思われるような……」


 指先で唇をなぞりながら、アイリーンが考え込む。


「……よし。魔術で売り込みをかけよう。オレの魔術と"警報機"があれば、対価なしで隊商に入れてもらえるんじゃないかな」

「ほう、思い切るな」

「他に切れるカードがないんだ。ケイのシーヴも悪くないけど、常用できないし」

「だな……」


 ケイの契約精霊"風の乙女"シーヴは、あくまで奥の手だ。アイリーンとは違って気軽に魔術を運用できるわけでもなし、必要に迫られるまでは伏せておくのが吉だろう。


「魔術を提示するなら、どんな排他的な連中でも諸手を挙げて歓迎するだろうが……問題は俺だな。最悪アイリーンだけ隊商に加わって、俺とサスケが別行動――」

「そりゃあないぜケイ! か弱い乙女を野獣どもの中に放り出そうってのかよ!」


 いやん、と頬に手を当てたアイリーンがしなを作ってみせるが、「よく言う」とケイは苦笑した。素手での近接格闘なら、アイリーンの方がよほど強い。


「まあ実際、ケイだけハブられるくらいなら参加しない方がマシだ。そんときゃ諦めて二人旅と洒落込もうぜ? ……ふふふ」

「なんだ、その笑みは。まあ、それも悪くはないな……俺は弓の腕前で売り込みをかけるしかないか。あとは公国の身分証が上手いこと働いてくれるといいな」


 軽口を叩きながら歩いていくと、やがてケイたちは、獅子の銅像が鎮座する小さな広場に辿り着いた。


「あれがガブリロフ商会とやらか」


 ケイは看板に書かれたキリル文字が読めないが、しかしガブリロフ商会の本部はすぐにそれと分かった。銅像の真正面に佇む、北の大地風な丸屋根の建物。周囲の家屋に比べれば格段に立派な造りだ。本部の前では、数人の雪原の民の男たちが小型の荷馬車を取り囲んで何やら話し合っている。


 アイリーンが空を仰いだ。夕刻、日は既に傾いている――


【―― Kerstin.】


 アイリーンがぱちんと指を鳴らすと、その足元の影が微かにさざめく。


「うん。イケるな」

「よし」


 ケイとアイリーンは、顔を見合わせて、小さく笑った。


「――それじゃあ、交渉と行こうか」


 商会本部に向け、二人は足を踏み出した。



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