37. 迂回


 ディランニレンの城門には、他の街と同様に、武装した門番たちが控えていた。


 頑強さを重視した無骨な短槍に、動きを阻害しない板金仕込みの革鎧。篭手や脛当て、兜などはデザインが統一されておらず、各々が使いやすいように細かく調整されている。


 見栄えや統一感を前面に押し出していた、ウルヴァーンやサティナの衛兵と対照的に、華やかさの欠片もない集団だ。また、門番自身も、いかにも傭兵上がりな柄の悪い男たちばかりで、頬に傷があったり片目が潰れていたりと、強面な者が勢ぞろいしている。その勤務態度はお世辞にも良いとは言えず、やる気なく壁に寄りかかる者、詰め所で酒を呷る者、パイプをふかしている者など、まるでごろつきのような有り様だった。


 お揃いで身につけている赤白のたすきと、城門の上にはためく赤と白の旗がなければ、そもそも彼らが門番だと認識すら出来なかったかも知れない。


 サティナの麻薬取締りのような厳しい手荷物検査はなかったが、時折『怪しい』――と門番たちが考える――通行人が止められ、やれ荷物を見せろだの身分証を出せだの、あれこれ難癖をつけられていた。


 そして当然のように、ケイも止められた。


 アイリーンはスルーで何故自分だけ、と考えるとケイも憮然とせざるを得なかったが、ウルヴァーンの名誉市民の身分証を提示すると、難癖をつけてきた門番は塩を撒いたナメクジのように大人しくなった。お陰で何事もなく解放されたが、身分証がなければ城門を通過できなかった可能性もある。


「大会に出た甲斐もあるってもんだ」

「ホントだよ。何だかんだで、市民権取れてよかったぜ! 身分証見せたときの門番の顔ったらなぁ!」


 バシバシとケイの背中を叩きながら、快活に笑い飛ばすアイリーン。ケイを励ますような、気遣うような明るさの裏に、隠しきれない門番への憤りが滲む。それをおどけた風に誤魔化そうとするあたり、アイリーンらしいとケイは思う。


「まったくだよ、権力様様さ」


 苦笑しながら、ケイもまた小さく肩をすくめてみせた。街中は乗馬が禁じられているので、サスケの手綱を引きながらてくてくと歩いていく。



 雑多な街。



 ディランニレンの、端的な印象はそれだ。


 石造りの公国風の家と、曲線を多用した北の大地特有の木造建築とが、無秩序に入り乱れている。直方体の石造りの建物をベースに、強引に木材で雪原の民風に改装したものも散見された。


 看板の多くにはアルファベットとキリル文字が併記されており、大通りを歩くだけで、其処彼処からロシア語の会話が聞こえてくる。平原の民と雪原の民がロシア語で親しげに談笑する姿などは、公国広しといえどもこの街でしかお目にかかれないだろう。


(……しかし、妙な感じだな)


 固い面持ちで、右へ左へとケイは視線を彷徨わせる。


 ――落ち着かない。


 ぴりぴりと、背筋が痺れるような。


 あまりにも刺々しい、そして露骨な敵意があった。


 ただ道を歩いているだけで、通行人が自然とケイを避ける。大通りには人が溢れているにもかかわらず、ケイの周囲だけぽっかりと穴が空いていた。商品を陳列する店主はケイの姿を認めて顔をしかめ、井戸端会議をしていた女たちも、示し合わせたかのようにぴたりと話を止める。


 雪原の民も平原の民も、関係なく。


 誰も彼もが、じっとりとした目を向けてきていた。


「…………」


 ウルヴァーンに住み始めた頃も最初はアウェー感があったが――流石にこれは異常だ。ここまで来ると、不快を通り越していっそ不可解ですらあった。


「なんか、ヘンな感じだな」


 いつの間にか隣に来ていたアイリーンが、ボソリと呟く。「ああ」と曖昧に、どうしたものか測りかねたように、ケイは頷いた。


 戦時下の街、と言われても納得してしまいそうな空気だ。しかし、特筆するような騒ぎも起こしていないというのに、ここまで敵視される理由が分からない。


「……取り敢えず宿を探そうか」

「ここに泊まんのか?」


 いまだ天頂でさんさんと輝く太陽を見上げ、嫌そうな声を上げるアイリーン。言わんとするところを察したケイは、しかし渋い顔で顎を撫でた。


「そりゃあ俺だって、この街が大好きってワケじゃないが。現地調査も無しに噂に名高い『北の大地』に踏み込むのは、性急すぎるんじゃないか?」

「……うーん」


 さもありなん、とばかりにアイリーンも難しい顔になった。しばし、二人して往来のど真ん中で顔を見合わせていたが、「邪魔なんだよ!」という通行人の悪態に我に返り、再び歩み始める。


「……オチオチ考え事も出来ないな」

「やっぱり宿探す? ……が」

「頼めるか?」

「任せろ」


 ニッと笑ったアイリーンが、ケイにスズカの手綱を預け、するりと人ごみへ踏み込んでいく。揺れる金髪のポニーテール――歩調を僅かに緩めたケイは、泳ぐようにして人の波をかき分けて行く少女を静かに見守った。


 人懐っこい笑みを浮かべたアイリーンは、住民たちへ積極的に声をかけていく。ロシア語を生かして、主に雪原の民に道を尋ねて回っているようだ。話しかけられた者の中でも特に若い男などは、にへらとだらしなく相好を崩し、アイリーンの質問に前のめりになって答えていた。


 何人かはそのままナンパモードへと突入していたが、アイリーンが何か言いながら後方のケイを示すと、途端に表情を変えるのが見ていて面白い。愕然とする者、ふてくされたようにそっぽを向く者、ため息をついて興味を失くす者、その反応は様々だ。相手を刺激しないよう、ケイはそれとなく視線を外していたが。


 それから十分ほどゆっくりと歩き、市の中心部に辿り着いた辺りで、アイリーンが情報収集から戻ってきた。


「……どうかしたのか?」

「うーん……まあな。色々わかったぜ」


 が、その顔色は冴えない。力なく答えたアイリーンは、周囲の人の目を気にしながら、


「……ここだとちょっと話しにくい。街の外に出よう」

「外に?」


 ぴくりとケイの眉が跳ねる。しかしそれ以上の説明は求めなった。アイリーンがそう言うからにはそれ相応の理由があるのだろう。黙ってスズカの手綱を返す。


 そのまま来た道を引き返し、南門から街の外へ出る。


 身分証の件で顔を憶えていたのか、とんぼ返りしてきたケイたちを怪訝そうに見る門番をよそに、そそくさと城門から離れていく。


 初め、余所者を拒絶するかのように見えた石壁は、振り返ってみても相変わらず無表情のままだった。口をつぐんで物思いに沈むアイリーンに、一体何が起こったのか、と胸中の不安を渦巻かせながら黙々と歩く。


 やがて、道を下り、人気のない木立まで辿り着いたところで、アイリーンは肩の力を抜き溜息をついた。


「はぁ~……。まったく、聞いてた話と違うぜ」

「いったい何がどうしたってんだ」


 どすんと原っぱに座り込み、ケイは問う。「どうもこうもねーよ」とボヤきながら、対面の木の切り株にアイリーンが腰を下ろした。膝に頬杖をついた姿からは、どこか不貞腐れたような空気が漂っている。


 一呼吸置いて、アイリーンは切り出した。


「――結論から言うと、街道の西側で草原の民が暴れてるらしい」

「は? 草原の民?」


 予想だにしていなかった情報に、目を瞬くケイ。


「……なんで北の大地に、草原の民が?」

「さあ。理由は分からねーけど。一ヶ月くらい前から出没するようになった馬賊が、街道より西側で暴れまわってるんだと。旅人やら行商人やらが襲われて、周辺の物流が滞ってるとか何とか……集落がいくつも焼かれて女子供も容赦なく殺されてるって話だ。こりゃ相当恨み買ってるぜ」

「……なんてこった」


 頭痛を堪えるように、ケイは額を押さえた。


「皆がやたらと殺気立ってたのは、そういうワケか」


『こちら』においては、ケイの容姿は限りなく草原の民のそれに近い。ケイからすれば、自身の日本人風な顔立ちと、草原の民の大陸系の濃い目鼻立ちは全く異なるものなのだが、雪原の民や平原の民にその見分けはつかないだろう。


 ひょっこりと街に入ってきたケイに、住民たちが何を思ったか――想像に難くない。


 そうしてみるとあの門番たちも、あくまで彼らの職務に忠実だっただけかもしれない。街からそう遠くない場所で草原の民が暴れている中、草原の民の格好をした男が街に入ろうとすれば誰だって止める。ケイも立場が立場なら止めていたかも知れない。


「……どのくらいの規模の賊なんだ? その馬賊とやらは」

「十人やそこらじゃないのは確かみたいだ。話によると百人単位だとか」


 百人、とその数を口の中で反芻しながら、ケイは胸元から地図を取り出しばさりと打ち広げた。羊皮紙の上、公国と北の大地を隔てる、険しい山脈をそっと指でなぞる。


「……話半分に聞いたとしても五十人か。そんな大人数でどうやって北の大地まで……。まさか堂々とディランニレンを通ったってワケじゃないだろうが、海から山脈を迂回したのか、それともグループに分かれて山を越えたのか」

「ディランニレンは通ってないっぽいな。いきなり街道周辺に出没して暴れ始めたらしいし……"大森林"を横断してきた、ってのが専らな噂だ」


 地図を覗き込んだアイリーンの、白魚のような指先がくるくると西部の山岳地帯を指し示す。


「地図には描かれてないけど、ここらへんの山は標高がかなり低くて、歩いて越えられるんだとさ。ちょうどディランニレンみたいな感じで」

「しかし、この森はたしか【深部アビス】だろう?」


【深部】――森林地帯の中でも、特に"森大蜥蜴グリーンサラマンデル"や"大熊グランドゥルス"など化け物が闊歩する領域のことだ。【DEMONDAL】のゲーム内では、入念な準備と優れた装備抜きでは、上級プレイヤーでさえ生きて帰れないような魔境であった。


 少なくとも、紋章による身体強化の恩恵にあずかれないこの世界の住人が、おいそれと踏み込める場所ではない。ましてや、それが大人数ともなれば。


 あるいは、強力な魔術師の庇護下にでもあれば話は別かもしれないが、草原の民は魔術的な技能に乏しい。精霊信仰シャーマニズムの文化はあるが、精霊と対話し使役する術を持たないのだ。


「まあ、だからあくまで"噂"だな。実際に森を踏破してきたのかは分からない」


 そう言って、アイリーンは小さくお手上げのポーズを取った。


「――でも、他にルートがないのも確かなんだよな。海から上陸しようにも、沿岸部では目撃されてないらしいし、東の山越えするルート周辺でも馬賊の被害は出てないそうだ。本当にぽっと湧いて出たみたいに、いきなり街道周辺が被害にあってるんだって」

「う~む……謎だな」


 地べたに広げた地図に目を落とし、顎を撫でるケイ。


 北の大地は広い。街道より西、と一口にいっても、ケイたちが旅してきたよりも遥かに広大な土地が広がっているのだ。そこには森があり、川が流れ、丘陵が続き、荒地が乾いた土を晒している。さぞかし暴れ甲斐があるのだろう、とケイは皮肉な気持ちで笑った。


「だいたい孤立無援で補給はどうしてるんだ。一ヶ月前からなんだろ?」

「集落を焼き討ちしたときにでも、物資とか奪ってるんじゃねーの? 西部には湖も川もあるし」

「……血気盛んな雪原の民が、よく野放しにしてるもんだ」

「いや、当然、周辺の街と集落が、山ほど戦士を送り出したらしいぜ。でも規模の大きな討伐隊とは絶対に鉢合わせしないんだってさ。包囲して炙り出そうとしても、事前に察知して逃げるらしいし――逆に規模が小さかったり、合流前だったりする隊が奇襲されて大損害を受ける始末なんだと」

「……大した奴らだ」


 口の端を歪めるケイであったが、その表情は依然として固い。


 孤立無援、多勢に無勢、地の利がない状況で一ヶ月間も追撃をかわし暴れ続けているとは、尋常なことではない。よくやるもんだ、と感心する一方で、なんと迷惑なことをしてくれるのだ、という憤りにも似た想いがある。


 馬賊の勇猛さを称えるべきか、討伐隊の不甲斐なさを嘆くべきか――そう考えたところでケイは、ふと雪原の民の戦士・アレクセイのことを思い出した。


 忘れもしない、サティナからウルヴァーンへの旅路。アイリーンとの距離感が変わり、隊商護衛の経験を積み、初めて現実リアルでの決闘を吹っかけられた珍道中。


 ――ディランニレンを訪ね、ひとつ分かったことがある。


 それは、たとえ北の大地であったとしても、アレクセイのような優れた戦士がありふれているわけではないということだ。大都市なだけに母数が大きく、精悍な戦士もちらほら見かけられたが、アレクセイほどの覇気を漂わせる者はそれほど多くなかった。


 裏を返せば、一定数、居ることには居る。しかし、あの猪突猛進な青年が強烈に印象に残っていただけに、北の大地といえば「石を投げれば化け物じみた戦士に当たる」そんな土地をイメージしていたのだが――


「――あんまりにも要領がいいから、実は内通者がいて情報が漏れてるんじゃないか、と雪原の民同士でも疑心暗鬼になってるっぽいぜ」


 したり顔で説明するアイリーンに、我に返る。


「……どうした? ケイ」

「……いや、」


 透き通るような両の瞳が、じっとケイを見つめていた。空よりも涼やかな青色を見つめ返す、すっと胸の内が穏やかになるような、そんな感覚があった。不思議そうに小首を傾げるアイリーンに、頭を振ったケイは、


「雪原の民のことを考えていた。この状況で内輪揉めとは、相手の思う壺だな」

「だなー。街の住民も、なかなか成果を出せない討伐隊にイラついてる感じだった。特にここんところ、部族間での連携もガタガタになってるみたいだからな」

「成る程……」


 短時間ではあったが、アイリーンは必要な情報を全て集めてきたようだ。さすが母国語は自由度が違う、などと感心しながら、ケイは腕組みして考え込む。


 大体の事情は把握できた。ではこれからどうするか、という話になるのだが。


「……うーん」


 アイリーンもケイの真似をして腕を組み、唸り声を上げた。


「……これ、どうするよケイ」

「ヴァルグレン=プランが使えなくなったな」


 ウルヴァーンの知識人、"銀髪キノコヘア"ことヴァルグレン=クレムラート氏のアドバイスに基づいて、ケイたちは大まかな旅のルートを決めていた。


 再び地図に目を落とす。紙面の真ん中、南北に伸びるブラーチヤ街道。


 当初の予定では身の安全を最優先とし、治安の悪い地域には近寄らず、極力二人旅は避ける方針であった。まずは、何とか隊商を見つけ出し、同行してブラーチヤ街道を北上。ディランニレンに匹敵する巨大都市"ベルヤンスク"を目指す。次に馬の足を活かして二人で東進、平野部を一気に駆け抜け辺境の都市"ナフェア"へ。そこからは最終的な目的地である"魔の森"――に最も近い集落、"シャリト"へ向かうつもりだったのだが。


「"ブラーチヤ街道周辺は安全"――まず、その前提が崩れた」

「キノコ親父め……全然話が違うじゃねえか」

「馬賊が出たのは最近なんだろう? あの御仁を責めるのは気の毒だ、彼は魔法使いだが預言者ではない……それに今はキノコ親父でもないな」

「あのまんまウルヴァーン飛び出してきたけど、カツラどうしたんだろうな」

「さあ……」


 結局、シーヴに吹き飛ばされたカツラは見つかっていないそうだ。予備があればいいのだが、それがなければありのままの姿での生活を強いられることになる。


「望遠鏡もブッ壊れちまったし……」

「正直ウルヴァーンに戻るのが怖いな。弁償させられたらどうしようか」

「カツラはともかくとして、あの望遠鏡は高そうだよなー……」

「そんな時間をおいて請求されるとは思わない……思いたくないが……」


 二人で顔を見合わせ、どちらからともなく溜息をついた。


「ま、そんなことは、」

「今はどーでもいっか」


 若干、現実逃避の方向に思考が流れていたのを修正する。


「どうする? 今回は取りやめて引き返すか?」

「そーだなぁ」


 慎重論のケイに、アイリーンは溜息をついて空を見上げた。


 遠い目だ。考え事をしているというよりも、昼間の見えない星を数えようとしているかのような、ぼんやりとした表情。


「……ケイはさ、今引き返したら、どうなると思う?」

「どうなる、とは?」

「あと二週間もすれば秋になる。ほとぼりが冷めるのを待ってたら、あっという間に冬になっちまう。そうしたら来年の春まで、旅を延期しなきゃならない」


 切り株の上で体操座りをして、両膝を抱えるアイリーン。真摯な瞳がケイを真正面から見据えた。


「オレは、出直したところで、必ずしも状況が良くなるとは限らないと思うんだ」

「……ふむ」

「馬賊は、今は西側の地域で暴れてるだけだ。ここらでも『草原の民』の悪名は轟いてるけど……逆に言えばそれだけだ。ここより東には、まだそれほど話が広がってないはず」


 話しているうちに、徐々にアイリーンの声が熱を帯びていく。


「だから、今のうちに東へ向かえば、謂れのない差別やら迫害やらを避けられると思う。逆に時間が経てば経つほど、東側にも馬賊の話は伝わっていくだろう……来年出直したらケイにとって、……その、さらに状況が悪化してた……なんてこともあり得るかも」

「……成る程」

「だから……行くなら、今のうちじゃないか、って……」


 つっ、とアイリーンが目を逸らした。


「今のうちじゃないかって……、思うんだ」


 アイリーンにしては珍しく、歯切れの悪い調子だったが。


「一理ある、な」


 ケイは真顔で頷いた。


 街道周辺の治安悪化、あるいはケイ自身が敵と誤認されるトラブル。リスク回避のために、ケイは一時的に様子を見るべきだと考えていたが、アイリーンの主張も尤もだ。時間の経過とともに状況が改善される保証など、何処にもない。


 そして何より――少しでも早く"魔の森"に行きたい、行ってこの転移現象の原因を探りたい、というアイリーンの強い意志を感じる。勿論、多少のリスクは承知の上で。


(アイリーンは、帰りたいんだろうか)


 ――分からない。だが、少なくとも帰れるかどうかを知りたがってるのは確かだ。


 ケイは原因の究明を急いでいないし、特に急ぐ必要もない。


 しかし、アイリーンは違う――まるで抱え込んだ何かが風化してしまうのを恐れるかのように、傍目にも焦燥感が彼女の中でくすぶっているのが見える。今、このときを逃してしまうと、二度と再びチャンスがないのではないかというような危機感も。


(ならば、俺がどうこう言う筋合いはない)


 言うことなど――できない。


「よし、」


 地図を手に取り、ケイは微笑んだ。


「ルートを考え直そう。あんまり危なくないヤツを」

「……うん」


 それに応えるようにして、アイリーンもまた、微笑を浮かべて頷いた。


 今にも消えてしまいそうな、儚い笑みを。




          †††




 地図を挟んで協議すること数十分、ケイたちは次のルートを策定した。


 現時点で、ケイたちが取れる選択肢は三つ。


 一つはこのまま公国内を東に進み、"オゼロ"という辺境の都市を経由して、山越えするルート。紙面上の距離は最短だが、険しい山々を越えなければならず、また登山用の装備もないため今回は断念する。


 もう一つは、ディランニレンを通過した後に、街道を外れ広大な平野を北東に横断するルートだ。言葉にするとシンプルだが、平野部とはいえ道なき道をひたすら進まなければならない。また、水源の少ない痩せた土地であるためかほとんど集落が存在せず、途中で物資を補給することが困難であった。ケイたちの水や食料はまだ何とかなるが、サスケとスズカの飲み水が確保できないのは致命的だ。


 よってこのルートもボツ。残された最後の一つを取ることになる。


 ブラーチヤ街道よりも小規模な、"エゴール"街道。山脈に沿って東に進み、南へ流れる川に突き当たってから一気に北上するルートだ。大回りである代わりに森や木立が多く、街道沿いに小さな村や集落がいくつもあるため、物資の補給が比較的容易と考えられた。


 ヴァルグレン氏の情報によると、"あまり治安のよろしくない"地域らしいが――多少のリスクは仕方がない。馬賊に襲われるのに比べればマシ、と考えるほかないだろう。



 ディランニレンで食料を少しばかり補給し、一路東へと向かう。



 ケイとアイリーン、馬上の気楽な二人旅だ。


 公国に比べて植生はがらりと変わり、潅木や針葉樹が目立つようになった。公国側の山のふもとは森に覆われていたが、北の大地側は少し土が痩せているらしく、木々が疎らな木立が目立つ。


 それでも鳥や山羊のような生物がちらほらと見かけられたので、飲料水は兎も角、いざとなれば食い物は調達できるなとケイは笑った。アイリーン曰く、常人の視力ではとても見つけられないそうだが。


 サスケの手綱を握り、公国とは違う風景を楽しみながら、駆け足の速度で進んでいく。


 が、しばらくするうちにヴァルグレンの「治安がよろしくない」という言葉の意味が、じわじわと分かってきた。


 まず、街道の状態が非常に悪い。敷設されている石畳はひび割れが目立ち、所々が馬車での通行に支障が出そうなほど欠損している。寂れている――というべきか、途中で見かける村々もじっとりとした雰囲気で、貧相な格好をした村人たちは、睨み付けるような、粘着質な視線を向けてきていた。


「やっぱり、もう馬賊の話は伝わってんのかな?」


 不安げに、後方のアイリーンが問いかける。


「分からん……どちらにせよ、歓迎ムードではないな」


 硬い声で答えたケイは、左手の"竜鱗通しドラゴンスティンガー"の感触を強く確かめながら、油断は出来ないと改めて気を引き締めた。


(……しかし、やはり隊商護衛は良い経験になっている)


 視界全体に注意を払いながら、ふとそんなことを思う。


 今、ケイは周囲を警戒しているが、決して気を張りすぎているわけではなく、適度に肩の力を抜き視野を広く持つことができていた。さほど意識していないが、視界内に動くものがあればすぐにそれとなく察知できる。


 この適度な力の抜き方を、短い間ではあったが、あの隊商護衛の仲間たちから学べたのだとケイは思う。


 例えば今も、道の果ての茂みに何か違和感があったかと思えば、ひょっこりと鹿の親子が飛び出してきた。頭上から視線を感じたと思えば、枝に止まってじっと見下ろしてくる白い鳥。ふと右を見れば、木陰からこちらを伺う山猫と目が合う。


 一々細かいことが分かるようになったものだ、と自分のことながら感心する。


 突然矢が飛んでくるかも知れず、道に罠が張ってあるかも知れず、物陰から強盗が飛び出してくるかも知れず――油断すれば命も危うい世界で、しかしそんな乾いた空気が実によく身体に馴染んでいる。


 ある程度気楽に構えていられるのは、慣れているからか、それともこれも油断なのか。


 客観的には判断しかねるが、少なくともそれを負担と感じないのは、悪いことではないはずだと自分に言い聞かせる。溜息をついたケイは無意識のうちに、鞍に括り付けてある矢筒を撫でていた。




 それから、二時間ほど駆けていたであろうか。日が傾き始め、夜をどう過ごすか相談し始めていた頃、ケイたちは小さな集落に辿り着いた。


 道の両側に住居が立ち並ぶ、路村と呼ばれる形態の田舎村だ。エゴール街道沿いの集落は、どれもこれもしみったれていたが、この村は――比較的マシであった。


 少なくとも家の戸が傾いたりしていないし、蜘蛛の巣と煤に塗れている風もない。住民たちも他の集落に比べれば、いくらか好意的だった。村人はロシア語しか喋れないようだったが、アイリーン曰く、村長が善意で一晩の宿を提供してくれるらしい。


 見知らぬ土地で野宿するのも不安であったので、ケイたちは有難くその申し出を受けることにした。



 サスケとスズカを預け、村長宅の物置のような質素な部屋に荷物を置き、夕餉の席に招かれる。



 恰幅のよい白髪の村長に、その妻の老婆、息子夫婦と思しき男女に、幼い子供が三人。ランプの暖色の明かりに照らされた居間に、家族全員が勢ぞろいしていた。さっき倉庫から引っ張り出してきた、と言わんばかりのオンボロな椅子を借りケイたちも席に着く。


『――? ――!』

『――。――、――』


 村長とアイリーンがロシア語で雑談する中、手持ち無沙汰となったケイはきょろきょろと家の中を見回していた。


「ここらの家は、こういう造りになってるんだなぁ……」


 公国では見ない茅葺屋根に、子供に家を描かせたらこうなるであろう、というような、シンプルな構造。興味深げなケイに、何やら子供たちが笑っている。


 最初は、異人種の自分が珍しいのか、などと思いケイも愛想笑いを浮かべていたのだが――何か心に引っかかるものを感じるようになるまで、そう時間はかからなかった。


(なんだ……? あの目は……)


 年の頃は、一番上が十歳ほどで、一番下はおそらく四歳ほどだろうか。兄、妹、末っ子の弟、といった組み合わせだったが――その目に、ケイは違和感を覚える。


 何か――小狡い、としか表現のしようのない、不快な光がそこにはあったのだ。


(馬鹿にされている……?)


 まず、幼いが故の差別意識を疑ったが、異人種だから舐められているというのとは少し違う感触だった。


 不審がるケイに気付いたのか、隣に座っていた母親が、ケイを指差す長男の手をぱしんと叩いてたしなめている。


 しばらくして、食事が運ばれてきた。


 そのときに気付いた。この家では、"家人"は誰も料理をしていなかったことに。


 料理を運んできたのは、質素な貫頭衣に身を包んだ――


「――草原の民?」


 呆気に取られたのは、ケイだけではないだろう。隣で雑談に興じていたアイリーンも、一瞬会話が止まっていた。


 料理の皿を捧げ持ってきたのは、二人の草原の民だった。二人とも女で、顔には独特な刺青があるが、鉄製の首輪を嵌められており心なしか痩せている。二人とも、ケイを見て少し驚いた風だったが、そのまま黙々と料理をテーブルに並べ、しずしずと部屋を辞去していった。


「なんだ今の……」


 ケイの呟きを聞いたアイリーンが村長に一言二言質問すると、彼はにこやかな顔で、


「Ведомого.」


 と答えた。


「……奴隷だってさ」


 困ったような顔で、アイリーンが囁く。


「そうか……」


 ケイも困ったような顔しか出来なかった。しかし同時に、すとんと胸に落ちるような、そんな感覚もあった。


 気を取り直して、いよいよ晩餐となる。アイリーンがテーブルに並べられたスープ皿のひとつに手を伸ばしたが、村長がやんわりとそれを止め、他のスープよりも少し具が豪華な料理をケイとアイリーンに供した。


「……なんか、この村の、客をもてなす伝統料理なんだってさ」

「……ほう」


 少なくとも、匂いは美味しそうだった。何やら独特な香辛料の香りがある。村長たちはケイたちの機嫌を窺うような愛想笑いを浮かべていた。


「まあ、ありがたく頂こう」

「そうだな」


 ケイたちが食べ始めたのを見て、村長たちも自身の皿に手を付ける。客人が食べ始めるのを待つのが、この村の礼儀なのだろうか。


 村の伝統料理とやらは、豚肉と根菜と葉野菜をこれでもかとぶち込んだクリームスープだ。ザワークラウトのような酸味があり、スープには出汁の味がよく出ていて大変美味であった。が、コリアンダーにも似たハーブの香りが、どことなく浮いているように感じられる。


 その他にも、黒パンや干し果物、焼いたソーセージなども追加で供され、少量ではあったが蒸留酒まで振舞われた。田舎の村とは思えないような豪華な食事。しかしケイにとっては、言葉が通じないこともあったが、様子を窺うような――まるで観察するような――家人の視線がどうにも気になり、あまり楽しめない夕餉だった。


 食後は、アイリーンも雑談を早々に切り上げ、二人して提供された部屋に引っ込む。


「ふぅ。何だかんだで腹いっぱいになったなー」

「ああ……」


 明るい調子で、ぽんぽんと腹を叩くアイリーン。ぽすん、と一つしかない寝台に、二人で並んで座る。


「……奴隷にはびっくりしたが」

「なー。聞いてみたら"戦役"のときに、奴隷落ちした草原の民が大量に北の大地に売り払われたんだってさ。それ以来、その……なんていうか、時々『入荷』するんだって、同じような奴隷が」

「なるほどな……」


 子供たちは正直だったわけだ、とケイは納得しようとしたが――それでも、何か引っかかるものがある。なぜか落ち着かない気分だった。


「……なあ、アイリーン。この村の住人、どう思った?」

「……うーん」


 問いかけてみると、アイリーンもまた思うところがあったのだろう。


「…………胡散臭いよな?」

「アイリーンもそう思うか」

「うん。なんか、ちょっとな……」


 自然と、二人の声のトーンが下がる。


「ただの行きずりの旅人に、もてなしが手厚すぎると思うんだが」

「それはオレも思った。あとなんか、探るような目で見てくるよなアイツら」

「実は腹いっぱい食わせて酒を呑ませて、寝込みを襲おうとでもしてるんじゃ……」

「……だったら、どうする?」

「今更動きづらいが……まあ適当に謝礼を払って、今から村を出るのもアリか」

「うーん、そうだな……」


 しばらくうんうんと唸って考え込んでいたアイリーンだが、やがてぽんと手を打ち、


「そうだ、警戒魔術でも仕掛けておこう。何かあったときはビビらせればいいだけだし、人間相手ならハッタリも有効だしな」

「それがいい」

 

 果たして、アイリーンはケルスティンを顕現させ、部屋の扉に対人用の警戒魔術を仕掛けた。


 元々寝台が小さく、二人では満足に寝転がれなかったことから、ケイが壁にもたれかかるようにして座り、アイリーンに膝枕をした。ケイもアイリーンも武装は解除せず、万が一に備えていつでも動けるよう体勢を整えて眠る。


「おやすみ、ケイ」

「おやすみアイリーン」


 布を重ねたケイの膝を枕に、すやすやと寝息を立て始めるアイリーン。ケイは体勢的にあまりリラックスできないので、(俺はそれほど深く眠れないだろうな……)などと思いつつも、睡魔に襲われずぶずぶと眠りに誘われていった。



 そして深夜。



 ことは起きた。



『――!! ――!?』


 野太いロシア語の悲鳴。ケイがカッと目を見開いて覚醒すると同時、アイリーンが毛布を跳ね除けて飛び上がる。


 見れば、部屋の扉が開いており、黒い影に飲み込まれた男が床の上で転げ回っていた。


「村長だぜコイツ!」

「やはりか!」


 村長の後ろには、ランプを片手に腰を抜かしたように座り込む息子夫婦の姿もあった。


【――Liberigxu解放せよ.】


 アイリーンの一言で、まとわりついていた影が霧散する。中からは、真っ青な顔で床に這い蹲り、怯える村長が現れた。


『――!? ――、――!』


 アイリーンが厳しい口調で何事かを問うと、しどろもどろになりながら村長が弁明を始める。ケイは"竜鱗通し"を片手に、左手を腰の剣の柄に置いて背後の息子夫婦を監視するように睨み付けた。


『――ッ!』


 村長がある程度弁明を終えた辺りで、アイリーンが一喝。


『――、――……』


 低い声で、かつおどろおどろしい口調でアイリーンが話し始めると、冷や汗を垂らした村長と息子夫婦が震えながらその場で平伏した。状況は良く分からないが、アイリーンが高圧的な態度を崩さないので、ケイも取り敢えず隣でふんぞり返っておく。


 その後、何かを命じられた息子夫婦が家を飛び出していき、アイリーンに目線で促されたケイもまた、荷物を持って外に出た。


 驚いたことに、家の外には松明や鎌、棍棒などを手にした数人の村人が待機していた。皆、ケイたちの姿を認めるや否や殺気立っていたが、アイリーンが威嚇でケルスティンの影を放つと蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。


 それと入れ替わるようにして、息子夫婦がサスケとスズカの手綱を引いて戻ってきた。


『――――』


 アイリーンが尊大な顔で言い放つと、平身低頭しながら息子夫婦は家の中へと引っ込んでいった。


「よし、行こうぜケイ」

「お、おう」


 荷物をサスケの鞍に括り付け、そそくさと村から離れていく。サスケもスズカも夜目がそれほど利かないので、ケイが手綱を引いて先導する形だ。


「……ぶふっ」


 しばらく沈黙を守っていたものの、村から充分離れたあたりで堪えきれなくなり、どちらからともなく吹き出した。


 気が抜けたように、しばし二人でからからと笑い合う。


「ああ。傑作だったな、あの村長たちの怯えっぷりといったら」


 笑いすぎで出てきた涙を拭いながら、ケイ。スズカに跨ったアイリーンはわざとらしくえっへんと胸を張り、


「――なかなかの名演技だったろ?」

「ああ。レイフ=ファインズもびっくりな悪役っぷりだったさ――それで、村長たちには何て言ってやったんだ? 随分と怯えてる様子だったが」

「なぁに、大したことは言ってねーよ。『我は偉大なる闇の魔術師! 大人しくしていれば見逃してやったものを、一家揃って呪いをかけてやろうかー!』ってな具合さ」

「それだけか?」

「あとはまあ、脅しで色々。『孫三人を狂わせて、互いに共食いさせてやろうかー』とか『死して尚、屍人形として永遠にこき使ってやろうかー』とか」

「けっこうえげつないこと言うじゃないか」


 そこで、「あ、そうそう」とアイリーンが思い出したように手を打った。


「そういえば、あの『伝統料理』ってヤツさ。村長が勝手に白状したんだけど、アレ毒を盛ってたらしいぜ」

「何だと!?」


 思わず自分の身体を見下ろすが、――何の問題もない。


「毒、っつーても眠り薬的なヤツらしいけど。でもオレらってホラ、『身体強化』があるからさ……」

「ああ……生半可な毒じゃ効かないか。ありがたいこった……」


 そんなことを話しながら、しかし一晩中歩くわけにもいかないので、街道から少し外れた木立で野宿することにした。


 焚き木を拾い集め、石を組み、木炭に火をつける。


 炎の暖色の明かりが、月夜の闇を吹き散らした。周囲の茂みの角度を考え、予備の毛布で即席の壁を作るなどして、明かりが極力木立から漏れないよう工夫する。


「警戒魔術、ここでも使う?」

「頼む」

「OK、じゃあ"警報機"を試してみよう」


 荷物を漁ったアイリーンが、呼び鈴と天秤、そしてテコが一体化したような小さな機械を取り出した。



 ウルヴァーンに滞在した一ヶ月間。


 ケイたちは何も、調べ物だけに全ての時間を費やしていたわけではない。



 この世界に転移し、精霊の思考がより柔軟になったことを踏まえ、魔術を新たな方法で応用できないかあれこれ試行錯誤を繰り返していたのだ。


 その中でも、アイリーンが作り出したこの"警報機アラーム"は非常に画期的なものといえる。


【 Kerstin, kage-jitsu, naru-ko.】


 アイリーンが水晶を捧げると、足元の影が揺らめき四方八方へ散っていく。周囲に索敵の結界を張ったのだ。


 ここまでは、隊商護衛でも使っていた警戒魔術と全く変わらない。


「よし、あとはコレで……」


 地面に置いた"警報機"の受け皿に、アイリーンが水晶の塊を載せた。錘と化した水晶により、テコの機構で呼び鈴の上の小さなハンマーが音もなく持ち上がる。



 この"警報機"の仕組みは、至ってシンプルだ。



 半径五十メートル以内に"敵"が侵入した場合、ケルスティンはその侵入者へ影による威嚇動作を行う。


 そしてその代償としてアイリーンは受け皿の上の水晶を、追加でケルスティンに捧げる――という契約を結ぶのだ。『捧げられた』ことになる水晶は、契約に従い自動的に魔力に還元され消滅、錘をなくしたハンマーが落ちて、呼び鈴を叩き鳴らす。


 この装置、そして呪文の革新性は、限定的ながらもケルスティンに物理的な干渉を可能とした点にある。


 本来、薄明かりの化身であり下位精霊にすぎないケルスティンは、低燃費な代わりに物理的干渉能力が非常に低い。故に、隊商護衛で使っていた警戒魔術では、影絵による注意喚起がせいぜいのもので、見張りが眠り込んでしまうと目を覚まさせてまで警告することができなかった。


 しかし、アイリーンは下位精霊のケルスティンであっても、術式に用いる触媒に限り、魔力への還元――つまり物体の消滅が可能という点に着目した。そして、その触媒を錘に使うという発想により、『敵への威嚇』と『呼び鈴を鳴らす』という二つの目的の同時達成を可能としたのだ。


 これにより交代で夜番をせずとも、片方が呼び鈴に反応できる程度の居眠りにさえ抑えておけば、外敵の侵入にスムーズに対処できるようになる。二人旅において革命的なまでに、夜番の労苦を軽減することができるのだ。


 少なくともウルヴァーンで調べた限りでは、触媒をこういった形で利用する道具は存在しなかった。現時点では、術式の大本がアイリーンの魔力依存で、"警報機"そのものも魔道具とは呼べないようなただの機械だが、ゆくゆくは水晶さえ用意すれば一般人でも使える魔道具型警報機が作れるのではないか、とケイたちは踏んでいる。


 コーンウェル商会と組めば、なかなか面白い商売ができるだろう。この世界に特許の概念はなく、仕組みも単純であるため他の魔術師でも再現は可能だろうが、それでも圧倒的なニーズによりアイリーンの仕事がなくなることはあるまい。


「ああ、そういう意味じゃ、なんか帰るのが楽しみになってきたな」


 そう言ってからケイは、自分自身の『帰る』という言葉にどきりとした。


「そーだな、ああ、さっき叩き起こされたからやっぱ眠いや」


 アイリーンは気にする風もなく、小さく欠伸をしている。


「……アイリーンは先に寝るといい。俺が『夜番』をしよう」


 座ったまま木の幹にもたれかかり、ケイは薄く笑ってみせた。「お、そーお?」と荷物から毛布を引っ張り出したアイリーンが、地面に革のマットを敷いてコテンと寝転がった。


 ケイの膝を、枕にして。


「……寝にくくないか?」

「これがいい。……おやすみ」


 ケイの懸念をよそに、すりすりと身を寄せたアイリーンは、そのまま静かに寝息を立て始める。


「…………」


 暖かな炎の明かり。揺れる光と影。冷たい夜の風。知らない土地の空気。



 いつか見たような半月だけが、優しくケイたちを見守っている。



 ぱちぱちと音を立てる焚き火に、ケイは枯れ枝を放り込んだ。火の粉が散り、ふわりと灰が舞い上がる。


「帰る、か……」


 思わず、ぽつりと呟いた。衝動的に、手元の金髪を、アイリーンの頭を撫でていた。その眠りを妨げないように、まるで壊れ物でも扱うかのように。


 ――何だかんだでこうして無事でいるが、毒を盛られた上に寝込みを襲われたわけだ。


 そんな実感が、しみじみと湧いてくる。


(――アイリーンは、帰りたいんだろうか)


 そしてやはり、そこに帰結する。自分が独りだと認識してしまうと、つきまとって離れない考えだった。当然のように、答えは出ない。



 答えは出ない――



 ふと、すぐ傍においてある、アイリーンの警報機に目を留めた。


 ゆくゆくは、水晶さえあれば、誰でも使えるモデルを作るという。


 それはつまり――ケイでも使えるということだ。



 たとえアイリーンが、いなくなっても。



「…………」



 頭を振ったケイは、目を閉じて、こつんと後頭部を木の幹にぶつけた。



 取り敢えずは、この警報機の恩恵に与り、存分に居眠りをしようと思った。



 膝の上の心地よい、アイリーンの体温を感じながら――




 ――今は何も、考えずに。


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